終のむじなが見た夢に   作:夜琥

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4. 癒えぬ傷痕

風魔龍の脅威は、去った。

空を覆っていた暴風は、まるで嘘だったかのように止み、モンドの空には、久しぶりに太陽が顔を出した。

だが、その光は、勝利を祝福する輝かしいものではなく、街に残された深い傷跡を、無慈悲に照らし出すだけだった。

 

決戦の熱が冷めていくにつれて、誰もが、失われたものの大きさを、改めて実感し始めていた。

あちこちで、家の修復のために、槌音が響いている。

 

しかし、その音はどこか力なく、人々の会話も、以前のような快活さを失っていた。

誰もが口には出さないが、分かっていた。モンドは勝ったのではない。ただ、滅びるのを、かろうじて免れただけなのだ、と。

 

蛍とパイモンは、そんな重苦しい空気が支配するモンドの街を、静かに歩いていた。

そして、その数歩後ろを、早柚が、まるで魂の抜け殻のように、とぼとぼとついてきていた。

 

あの日以来、彼女は、ほとんど言葉を発さなくなっていた。

その小さな身体から、かつての、のんびりとした雰囲気は消え失せ、ただ、ひどく怯えた、迷子の子供のような気配だけが漂っていた。

 

「よぉ、旅人! 無事だったか!」

 

声をかけてきたのは、鹿狩りの店主、サラだった。彼女は、店の前に積まれた瓦礫を片付けながら、疲れた顔で、それでも無理に笑顔を作って見せた。

 

「サラさん……」

「へへっ、見ての通りさ。店は、少しやられちまったけどね。でも、生きてるだけで、丸儲けってもんだ。あんたたちが頑張ってくれたおかげだよ。これ、持っていきな。サービスさ」

 

そう言って、彼女は、焼きたての鳥肉のハニーソテーを、紙に包んで差し出した。甘く、香ばしい匂いが、鼻腔をくすぐる。

 

「わーい! ありがとう、サラ!」

 

パイモンが、それを受け取って、早速かじりつこうとする。だが、蛍は、その笑顔の裏にある、深い疲労の色を見逃さなかった。

 

「ありがとう、サラさん。でも、今は、食料は足りてるから」

「……そうかい。まあ、遠慮するなよ。いつでも、腹が減ったら来な」

 

サラは、そう言って、また、黙々と瓦礫の片付けに戻っていった。その背中が、ひどく小さく見えた。

 

蛍は、パイモンからハニーソテーを受け取ると、無言で歩く早柚の前に、そっと差し出した。

「早柚、食べる?」

「……」

 

早柚は、力なく首を振った。食べ物の匂いも、味も、今の彼女には、感じることができなかった。

その様子を見て、蛍は、悲しそうに、目を伏せた。

 

一行が向かったのは、西風大聖堂だった。

 

モンドで最も神聖なその場所は、臨時の救護所と化していた。祈りの声に混じって、負傷者の苦しそうな呻き声が、高い天井に、重く響いている。

神に仕えるシスターたちが、普段の穏やかな表情をかなぐり捨て、必死の形相で、負傷者の手当てに追われていた。

その中には、祈りの歌で人々を癒そうと、必死に声を振り絞る、バーバラの姿もあった。彼女の歌声は、いつもより、少しだけ、震えているように聞こえた。

 

聖堂の隅、一本の柱に、力なくもたれかかるようにして、緑の服の吟遊詩人が座っていた。ウェンティだ。

その顔色は、紙のように白く、いつも手にしているライアーを、どこか億劫そうに爪弾いている。ポロン、と鳴る音は、いつもより、ずっと、か細い。

 

「やあ、旅人。それに、ちびすけも」

 

彼は、蛍たちに気づくと、いつものように、軽い笑みを浮かべてみせた。だが、その声には、張りがなかった。

 

「ウェンティ! お前、大丈夫なのか!? 顔色がすっごく悪いぞ!」

 

パイモンが、彼の顔を覗き込むようにして飛ぶ。

 

「えへへ、ちょっと、歌いすぎちゃったみたいでね。喉が、少し枯れちゃったんだ。ほら、モンドの勝利を祝って、三日三晩、歌い続けたから」

 

そう言って、彼は、わざとらしく咳き込んでみせる。だが、蛍には分かった。

これは、ただの喉の枯れではない。あの熾烈な戦いの中で、彼が、その小さな身体には不釣り合いなほどの、巨大な力を振るったことの代償なのだ。

モンドを守るため、その力の源泉を、大きく削ってしまったに違いなかった。

 

「……無理、しないで」

 

蛍が、そう言うのが精一杯だった。ウェンティは、ただ、困ったように笑うだけだった。

「大丈夫だよ。風はいつだって、また、吹いてくるものだからね」と。その言葉が、ひどく、虚しく響いた。

 

ジンの案内で、一行は、奥の一室へと向かった。そこは、普段は来賓をもてなすための、静かな部屋だった。

そこに、彼はいた。

 

ベッドに、その身を起こし、窓の外を、鋭い視線で眺めている。

ディルック・ラグヴィンド。

 

彼の右腕は、おびただしい量の包帯で固められ、動かないように吊るされていた。

しかし、その瞳には、絶望の色はない。そこにあるのは、内に秘められた、静かで、しかし、消えることのない意志の炎だった。

 

「ディルック……。身体の具合は……」

 

蛍が、心配そうに声をかける。

 

ディルックは、ゆっくりとこちらに視線を向けた。

その赤い瞳が、蛍、パイモン、そして、部屋の入り口の影に隠れるように立つ早柚を、一瞥した。

 

「……その顔をやめてくれ、旅人。同情は、何の役にも立たない」

 

その声は、低く、静かだった。だが、冷たい拒絶はなかった。ただ、事実を、述べているだけだった。

 

「でも……」

「僕のことは気にするな。この腕が、ただの飾りになったわけじゃない。それに、たとえ片腕が使えずとも、剣を振るうことはできる」

 

それは、強がりというより、彼が彼自身に言い聞かせている、事実の確認のようだった。

彼は、おもむろに、左手で、そばにあったティーカップを持ち上げようとした。

 

だが、慣れない片手での動きに、カップは、カチャリ、と音を立てて、受け皿の上で揺れた。

その瞬間、彼の眉間に、深い、深い皺が刻まれたのを、早柚は見逃さなかった。

 

「すまない、私がもっとうまくやれていたなら、こんなことには……」

 

ジンは自分の不甲斐なさと怒りを覚えていた。

 

「後悔は、我々が持ち合わせていい感情ではないはずだ、代理団長。君が気に病むことはない。それよりも、考えるべきは、次の一手だ。敵は、まだモンドのどこかで、息をしている」

 

ジンの謝罪を、彼は、静かに、しかし、きっぱりと、そう言って、遮った。

 

その不屈の姿は、あまりにも気高く、そして、それ故に、あまりにも痛々しかった。

早柚は、その光景を、影の中から、ただ、見ていることしかできなかった。

 

(……違う)

 

心が、悲鳴を上げる。

もし、彼が、ただ絶望してくれていたなら。拙を、この状況を、恨んでくれていたなら。まだ、救いがあったかもしれない。

だが、彼は、折れない。屈しない。

 

拙が奪ったのは、彼の腕だけではなかった。彼が、その誇りを保ったまま、これから、永遠に続くであろう、もどかしい戦いを強いられる、その未来そのものなのだ。

 

拙は、英雄を殺したのではない。英雄を、永遠の地獄に突き落としたのだ。

その罪の重さに、早柚は、呼吸すらできなくなった。彼女は、誰にも気づかれないように、そっと踵を返し、その場から逃げ出した。

 

聖堂の外の、冷たい石段に、うずくまる。

 

「――早柚!」

 

パイモンの、怒りと、悲しみが混じった声がして、顔を上げた。蛍とパイモンが、仁王立ちになって、こちらを見下ろしている。

 

「お前、また一人でどっか行って! ディルックがあんなことになっちまったのに、ちゃんと顔も見せないのか!? いったい、何があったんだよ! あの時、一人で偵察に行ってから、お前、ずっとおかしいぞ!」

 

パイモンの言葉は、正論だった。そして、それ故に、残酷だった。

 

蛍が、静かにパイモンを制した。

そして、彼女は、早柚の前に、そっとしゃがみこんだ。その金色の瞳が、まっすぐに、拙の心を見透かそうとしてくる。

 

「早柚……。教えて。あなたが一人で風龍廃墟に行って、何があったのか。何を見たのか。あなたが、そんなに苦しんでいる理由を、私たちにも、教えてくれないかな。私たちは、仲間でしょ?」

仲間。その言葉が、鋭いガラスの破片のように、心を切り刻んだ。

 

言いたい。すべてを、話してしまいたい。拙が、未来の知識を持っていて、それを、最悪の形で使ってしまったのだと。

ディルック様が傷ついたのも、街がこんなになったのも、全部、全部、拙のせいなのだと。そう言って、泣いて、謝って、楽になってしまいたい。

 

だが、言えるはずがない。

その「知識」が、この地獄を招いた元凶なのだから。今更、それを打ち明けるのは、ただの自己満足だ。この優しい友人たちに、これ以上、重荷を背負わせるわけにはいかない。

 

「……別に。何も、なかったぞ…」

声が、掠れた。

 

「拙が、未熟だったから、龍の気配に、怖気づいただけだ。だから……一人にしておいてくれ」

早柚は、膝に顔を埋めたまま、そう言うのが、精一杯だった。

 

蛍は、それ以上、何も聞かなかった。ただ、悲しそうなため息だけが、聞こえた。

その沈黙が、早柚に、はっきりと告げていた。彼女との間に、決して埋めることのできない、深い、深い溝ができてしまったのだ、と。

 

後日、騎士団本部で、ジンは、改めて蛍に感謝を述べ、そして、「西風騎士団栄誉騎士」の称号を、正式に授与した。

だが、その式典に、祝祭の雰囲気はなかった。ただ、厳粛で、どこか葬儀のようにも感じられる、重い空気が流れているだけだった。

 

「ファデュイとアビスの動きが、活発になっている。ディルックという、最大の抑止力を失った今、彼らは、もう何も恐れてはいない。旅人、これからの旅は過酷なものになるかもしれない。身体には気を付けて」

 

ジンの言葉に、蛍は、静かに頷いた。彼女の旅は、続くのだ。

その会話を、早柚は、部屋の隅で、ただ、聞いていた。

 

(璃月へ……)

 

その言葉に、拙の心は、藁にもすがるような思いで、飛びついた。

ここにいては、駄目だ。毎日、壊してしまったモンドの姿を、炎を失った英雄の姿を、見続けなければならない。そんな地獄には、もう耐えられない。

 

璃月へ行けば、まだ、やり直せるかもしれない。モンドでの失敗を、取り返せるかもしれない。今度こそ、「知識」を正しく使って、完璧に立ち回れば……。

それは、あまりにも愚かで、浅はかな希望だった。だが、今の彼女には、それしか、考えることができなかった。

 

モンドを発つ日。

城門の前で、蛍とパイモンは、見送りに来たアンバーやリサ、ガイアたちと、別れを惜しんでいた。

 

早柚は、その輪から少しだけ離れた場所で、一人、街を振り返っていた。

どんよりと曇った空。行き交う人々の、不安げな表情。活気を失った市場。そして、遠くに見える、アカツキワイナリー。

 

(今度こそ……)

 

彼女は、誰にも聞こえない声で、唇を動かした。

 

(璃月では、絶対に、間違えない)

(もう、誰も、拙のせいで、不幸になんてさせない)

 

それは、贖罪の誓いであると同時に、自らを、さらなる絶望へと追い込む、呪いの言葉でもあった。

モンドでの癒えぬ傷痕を、その小さな背中に、すべて背負い込んで。

 

早柚は、次の過ちの舞台となる、璃月の地へと、逃げるように、足を向けたのだった。

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