終のむじなが見た夢に 作:夜琥
モンドから璃月へ向かう道中は、ひどく静かだった。
石門を越え、荻花洲(てきかしゅう)の浅瀬を渡る頃には、モンドの緑豊かな風景は、岩と古木が織りなす、荘厳で、どこか物寂しい景色へと姿を変えていた。
早柚は、ほとんどの時間を荷馬車の隅で、身体を丸めて過ごしていた。眠っているように見えたかもしれないが、本当の意味での眠りは、もうずっと訪れていなかった。
瞼を閉じれば、脳裏に焼き付いているのだ。
ベッドの上で、それでもなお、折れぬ意志の炎を瞳に宿していたディルックの姿が。
そして、何も言わずに、ただ悲しそうな顔でこちらを見ていた、蛍の顔が。
彼女は、もう、以前のようには話しかけてこなくなった。
ただ時折、眠っている(ふりをしている)拙の身体に、そっと、自分のマントをかけてくれるだけだ。
その無言の優しさが、まるで、罪の重さを教えるかのように、ずしりと、のしかかってくる。
「なあなあ、蛍、あれ見てみろよ! すごく大きなトカゲだぞ!」
パイモンだけが、変わらずに、元気な声を上げていた。彼女は、心配と、どう接していいか分からない戸惑いを、必死に、いつもの明るさで覆い隠そうとしているようだった。
「早柚! お前、あれ、食べられるか知ってるか? 稲妻の忍びなら、何でも知ってるんだろ?」
「……知らない」
早柚は、顔を上げずに、ただ、それだけを呟いた。
「むっ…。なんだよ、最近のお前、全然しゃべんないじゃないか。オイラ、心配してるんだぞ!」
「……ごめん」
それ以上、言葉が続かなかった。謝るべき相手は、パイモンだけではない。
この世界の、すべてに対して、謝らなければならないのに、その言葉すら、喉の奥で、鉛のように固まっていた。
そうして、一行は、璃月港へとたどり着いた。
その光景を前にした時、早柚は、思わず、息を呑んだ。
山と海に抱かれるようにして、壮麗な建物が、天へと向かって、ひしめき合っている。
港には、見たこともないような巨大な船が停泊し、活気のある掛け声と共に、荷物の積み下ろしが行われていた。
人々は、モンドのそれとは違う、自信と、誇りに満ちた足取りで、忙しそうに行き交っている。
辛料の匂い、潮の香り、そして、様々な鉱石が放つ、独特の匂い。
そのすべてが混じり合って、この港が、テイワット大陸の経済の中心地であることを、雄弁に物語っていた。
(……すごい)
一瞬だけ、自分の犯した罪を、忘れてしまいそうになるほどの、圧倒的な生命力。
だが、すぐに、現実に引き戻される。
(……この港も、やがて、危機に晒される)
頭の中の「知識」が、冷たく、そう告げている。
(今度こそ、間違えない……)
心の中で、何度も繰り返す。モンドでの失敗は、拙が傲慢だったからだ。真正面から介入し、歴史を力ずくで変えようとしたからだ。
今度は違う。もっと、忍びらしく。
誰にも気づかれず、影に徹して、悲劇の芽だけを的確に摘み取るのだ。そうすれば、きっと。
その決意を試すかのように、事件は起こった。
年に一度の「迎仙儀式」。契約の神、岩王帝君が、人々の前に姿を現し、神託を下す、その荘厳な儀式の最中で。天から、巨大な龍の亡骸が、墜ちてきたのだ。
「岩王帝君が、殺された―――!!」
誰かの叫び声を皮切りに、広場は、大混乱に陥った。千岩軍が、即座に現場を封鎖し、人々を避難させる。その場にいた旅人一行もまた、「最も疑わしい部外者」として、半ば拘束される形となった。
その混乱の中、早柚だけが、冷静に、しかし、冷たい汗を背中に感じながら、状況を見つめていた。
(始まった……)
「知識」の通りだ。だが、これは、ファデュイの執行官「公子」タルタリヤが、渦の魔神オセルを復活させるために仕組んだ、壮大な茶番劇の、ほんの序幕に過ぎない。
(今度こそ、彼の筋書き通りには、させない)
蛍は、「知識」の通り、仙人を探し、自らの潔白を証明するために動き出した。
早柚も、表向きは、それに同行しながら、水面下で、単独の調査を開始していた。
標的は、タルタリヤただ一人。
夜の璃月港は、昼間とは違う顔を見せる。早柚は、忍びの技を最大限に活用し、彼の動向を追い続けた。
屋根を渡り、影から影へと飛び移り、彼の会話を盗み聞きし、接触する人物を記録する。
一度、彼が往生堂の客卿である、鍾離という男と、茶を飲みながら談笑しているのを見かけた。その光景に、早柚は、言いようのない皮肉を感じた。
神を殺した(ことにした)張本人が、神の仮の姿と、穏やかに談笑しているのだから。
そして、ついに突き止めた。彼が「禁忌滅却の札」――オセルを復活させるための鍵――を、北国銀行の地下深く、厳重な警備のもとに隠していることを。
(これだ……。これを無力化すれば、すべては終わる)
今度こそ、完璧な計画のはずだった。
決行は、月も隠れた闇夜。
早柚は、終末番の秘術を尽くして北国銀行へと侵入した。
警備の隙を縫い、罠を避け、目的の地下金庫へとたどり着く。
そこには、禍々しい気を放つ札が、静かに鎮座していた。
心臓が、早鐘のように鳴る。汗が、こめかみを伝った。
(これを、燃やすだけだ)
そう思い、懐から起爆札を取り出した、その瞬間だった。
「――面白いネズミが紛れ込んだものだね」
背後からかけられた、楽しげな、しかし、一切の温度を感じさせない声。
振り返ることもできなかった。全身の血が、一瞬で凍りつく。
公子、タルタリヤ。
彼が、そこに立っていた。いつから? どうして? 完璧だったはずなのに。
「君、そのお札が何なのか、分かってて取りに来たんだろう? ただの空き巣じゃあない。その身のこなし、稲妻の忍びかな? 君のような小さな子が、こんな場所で、一体何をしているのかな?」
彼の瞳は、笑っていなかった。獲物を見つけた捕食者の、冷たい光を宿していた。
「……」
早柚は、答えない。ただ、いつでも動けるように、重心を低く保った。
「ふぅん、黙秘か。まあ、いいや。君が誰の手先だろうと、僕には関係ない。でも、一つだけ、教えてあげるよ。君のおかげで、面白いことを思いついた」
彼は、早柚が札を破壊するのを、止める素振りも見せなかった。ただ、面白そうに、何かを納得したように頷いている。
「手間が省けたよ、ありがとう。わざわざオセルなんて面倒なものを引っ張り出すより、もっと確実で、もっと面白い方法がありそうだ。じゃあ、こっちのプランに切り替えよう」
その言葉の意味を、拙が理解したのは翌日のことだった。
岩王帝君の「送仙儀式」の準備が進む、穏やかな午後。
それは、何の前触れもなく、訪れた。
海からではない。空からでもない。足元――大地そのものからだった。
ゴゴゴゴゴゴ……という、地獄の底から響いてくるような、不気味な地響き。璃月港の頑強な石畳に、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、人々が悲鳴を上げる。
仙人たちも、七星も、そして蛍たちも、孤雲閣の方角――オセルの封印地――を警戒していた。誰も、予想だにしていなかった。本当の災厄が、自分たちの足元から這い出してくるなど。
「な、なんだ!?」
地面から、黒い結晶のようなものが、巨大な木の根のように突き出してきた。
それは、触れるものすべてを内側から蝕み、灰色の石へと変えていく、呪いの塊だった。
美しい建物が、基礎から崩れ落ち、悲鳴を上げていた人々が、声もなく石の彫像へと変わっていく。
公子タルタリヤ。彼は、オセル復活計画が漏れたと知った瞬間、それを陽動として捨てたのだ。
そして、本来の歴史には存在しない、全く別のプランを実行した。
璃月港の地下深くに眠る、古代の魔神『螭(ち)』の怨念の残滓。それを、彼は解放したのだ。
津波のような分かりやすい災厄ではない。防ぎようのない、静かで、しかし抗いようのない、大地の呪い。
凝光は、決死の覚悟で天に浮かぶ群玉閣を投下した。
だが、その一撃も、広範囲に広がる汚染の源流を完全に断つには至らず、美しい空中宮殿は、ただ無残に砕け散っただけだった。
モンドでの失敗が「英雄の喪失」だとしたら、これは「都市の死」だった。
早柚は、崩れ落ちていく璃月港を、高台から見下ろしていた。
自分の足元も、もう安全ではない。だが、逃げる気力もなかった。
(また……拙が……)
モンドでの過ちを正そうとした、その行いが、もっと凄惨な、もっと救いのない地獄を生み出してしまった。
(……なんで…? なんで、こうなった…?)
混乱する頭で、必死に考える。
(拙は、オセルの復活を、止めたはずだった…。『禁忌滅却の札』…その原因さえ取り除けば、すべて、うまくいくはずだったのに…)
その考えが、いかに愚かで、浅はかだったかに、彼女は、今、この瞬間に、気づいてしまった。
(……違う。拙は、何も、分かっていなかったんだ)
早柚の心に、冷たい、絶望的な光が差し込む。
(拙が見ていたのは、『公子がオセルを復活させる』という、ただの『出来事』だけだった。その裏にいる、公子タルタリヤという人間のことを、何も考えていなかった。彼が、どれだけ狡猾で、どれだけ混沌を楽しみ、そして、計画が崩された時に、どれだけ、予測不能な動きをするのか、なんて…)
そして、それだけではない。
(鍾離様のことも……。あの人は、ただの客卿じゃない。岩王帝君、その人だ。この一連の騒動は、あの方が、璃月が神なしでやっていけるかを見るための、壮大な『試験』だったはずなんだ…)
「知識」として知っていたはずの、神の、あまりにも深く、遠大な思惑。
その本当の重みを、拙は、全く理解していなかった。
(拙は、それすらも、台無しにした。勝手に介入して、試験を滅茶苦茶にして、あの方の、何千年にもわたる璃月への想いを、踏みにじったんだ…)
都市を破壊した罪の上に、神の意志を冒涜したという、許されざる大罪が、重く、重く、のしかかる。
彼女は、頭の中の「知識」を、ただのゲームの攻略本か何かのように考えていた。
イベントをこなし、フラグを管理すれば、望む結末が得られる、と。
そこに生きる人間たちの、そして、神々の、複雑で、予測不能な心を、完全に、見落としていた。
(あまりにも……短絡的だった……)
その自覚は、もはや後悔ではなかった。
自分の愚かさに対する、絶対的な、そして、どうしようもない、確認作業だった。
ふと、早柚の脳裏に、もしも、という、ありえない仮定が浮かんだ。
(もし、拙が、何もしなかったら…?)
いつものように、面倒なことは人任せにして、故郷の木の上で、ただ、眠っていたら…?
そうすれば、歴史は、本来の流れを辿ったはずだ。
タルタリヤはオセルを復活させ、璃月は危機に陥っただろう。凝光様は、群玉閣を犠牲にしたかもしれない。
でも、こんな、一方的な、救いのない破壊は、起こらなかった。
鍾離様の試験も、きっと、意味のある結末を迎えていたはずだ。
人々は、神の庇護を離れ、自らの足で立つことの尊さと、困難さを、学ぶことができたはずだった。
(何もしないこと。それが、拙の一番の取り柄だったはずなのに……)
(どうして、拙は、動いてしまったんだろう……?)
崩壊する街並みと、絶望に満ちた人々の叫びが、脳に焼き付いて離れない。
違う、こんなはずじゃなかった。
頭の中で、またあの迷子の子供の声がした。
だが、今度はもう、震えてすらいなかった。ただ、力なく、消え入りそうに呟くだけだった。
自分の過ちの大きさを、その根本的な原因を、本当の意味で、理解してしまったから。