終のむじなが見た夢に 作:夜琥
璃月は、死ななかった。
だが、生きているとは、到底言えない有様だった。
未知なる魔神『螭』の災厄は、岩王帝君自身の、人知れぬ介入によって、なんとか鎮められた。
しかし、一度砕かれた宝石が、二度と元の輝きを取り戻せないように、璃月港は、その心臓部に、決して癒えることのない、巨大な傷を負っていた。
街の中心部は、今なお、巨大な遺跡のように、禍々しい石化の名残と、瓦礫の山が広がっている。
復興作業の槌音は響いているが、それは活気の音ではなく、ただ、黙々と、義務を果たすためだけの、無機質な音だった。
経済は麻痺し、民の顔から、かつての自信と誇りは消え、ただ、やり場のない怒りと、先の見えない不安の色が浮かんでいた。
蛍とパイモン、そして、その影のようについてくる早柚は、そんな璃月港の、仮設の通路を歩いていた。
「うぅ……ひどい有様だな…。オイラの知ってる璃月港と、全然違うぞ…」
パイモンが、悲痛な声を上げる。
道端では、千岩軍の兵士が、疲労困憊の様子で、瓦礫の撤去作業を指揮していた。彼は、蛍の姿を認めると、敬礼もそこそこに、力なく言った。
「旅人殿……。先日は、感謝する。あなたがいなければ、被害は、さらに広がっていただろう」
「ううん、私も、何も……」
「だが、見ての通りだ。我々は、多くの同胞を失った。この街の復興が、いつになるのかも、見当がつかん」
その言葉に、蛍は、何も返すことができなかった。
一行は、璃月七星が臨時の執務室を構えている、「玉京台」の一角へと向かっていた。
光からの、召集だった。
その執務室の前で、彼らは、言い争う声を耳にした。
「―――だから、言ったのだ! 人間などに、この璃月を任せておくこと自体が、間違いであったと!」
それは、三眼五顕仙人の一人、削月築陽真君の声だった。
彼の声には、隠しようのない、激しい怒りが込められている。
「我らが目を離した隙に、この様な災厄を招き入れ、あまつさえ、帝君の定めた『契約』の真意すら、理解しようとしない! これ以上、お主たちに、璃月を任せるわけにはいかん!」
「お待ちください、仙君!」
それに応えるのは、七星の「玉衡」、刻晴の、鋭く、しかし、疲労を滲ませた声だった。
「起きてしまったことを、今更、誰かの責任にしても、何も解決はしません。我々は、現実を見て、前に進まねばならないのです。今の璃月に必要なのは、仙人の皆様の、高みからのご高説ではなく、具体的な復興計画です!」
「口の減らぬ小娘めが……!」
仙人と、人間。かつて、共にこの国を守ったはずの両者の間には、修復不可能なほどの、深い溝が生まれていた。
早柚は、その光景を、柱の影から、ただ、見つめていた。
(これも……拙のせいだ)
本来の歴史ならば、彼らは、オセルとの戦いを通じて、互いの力を認め合い、手を取り合ったはずだった。神のいない、新たな時代を、共に歩むために。
だが、拙の介入が、その、最も重要なプロセスを、破壊した。
彼らの間に残ったのは、勝利の絆ではなく、敗北と、責任のなすりつけ合いだけだ。
拙は、この国の、魂の契約をも、砕いてしまったのだ。
その時、ふと、静かな声が、その場の空気を支配した。
「―――二人とも、そこまでだ。今は、いがみ合っている場合ではないだろう」
声の主は、往生堂の客卿、鍾離だった。彼は、いつの間にいたのか、静かに、そこに立っていた。
「これは、天災。誰の責任でもない。そして、璃月が、数千年にわたり繁栄を続けたのは、仙と人が、それぞれの責務を果たし、互いを尊重してきたからこそ。その『契約』の精神を、今、この時にこそ、思い出すべきではないだろうか」
その言葉には、不思議な重みがあった。仙人も、七星も、ぐっと、言葉に詰まる。
鍾離は、ゆっくりと、蛍たちの元へと歩み寄ってきた。そして、彼の、あの、すべてを見通すかのような、深淵の如き瞳が、早柚の姿を、真っ直ぐに、捉えた。
心臓が、鷲掴みにされたかのように、跳ねた。
「……稲妻からの、小さな客人よ」
彼は、静かに、語りかけた。
「貴殿は、その小さな身体に、あまりにも、大きな荷を背負っているようだ。それは、貴殿が、背負うには重すぎるだろう」
「……!」
早柚は、息を呑んだ。バレている?
このお方には、拙が何者で、何をしたのか、すべて、お見通しだというのか。
「覚えておくといい。この世のすべての行いには、結果が伴う。善意であれ、悪意であれ、起こした行動の『波紋』からは、逃れることはできない。そして、すべての『負債』は、契約に従い、いつか、必ず、支払わねばならない。……後悔なきよう選択すると良い」
その言葉は、静かで、穏やかだった。だが、早柚には、それが、神による、最終宣告のように、聞こえた。
彼は、何もかも、知っている。
そして、その上で、拙を、断罪も、救済もせず、ただ、その結末を見守っているのだ。
その、あまりにも巨大な存在を前に、早柚は、身動き一つ、取れなかった。
その夜。
早柚は、宿屋の自室の隅で、膝を抱えていた。
「なあ、早柚……」
パイモンが、おずおずと、話しかけてくる。
「あの、鍾離ってやつ、お前のこと、何か知ってるみたいだったな…。お前、あいつと、何かあったのか?」
「……別に」
「別に、って……。お前、モンドからずっと、そうだぞ! 何かあったんなら、オイラたちに話せよ! 一人で抱え込んでたって、背、伸びないぞ!」
パイモンの、不器用な、しかし、心のこもった言葉。
蛍も、隣で、心配そうに頷いている。
「早柚。私たちは、仲間だよ。あなたの苦しみを、少しでも、分けてもらうことは、できないかな」
その二人の優しさが、今は、何よりも、辛かった。
話せるものか。拙の、愚かな過ちのせいで、あなたたちの仲間を、街を、こんな目にあわせた張本人が、どの口で、助けを求められるというのか。
「……すまない。一人にしておいてくれ」
早柚は、そう言って、布団を頭から被った。
布団の中で、彼女は、声を殺して、泣いた。もう、涙は、涸れ果てたと思っていたのに。
数日後、一行は、稲妻へ向かう船に乗っていた。
璃月の復興は、まだ始まったばかり。
七星も、仙人も、外部の厄介事に、これ以上関わっている余裕はなかった。
旅人である蛍もまた、次の神を求め、旅を続けなければならない。
そして、早柚にとって、この旅立ちは、ただ一つの「逃げ道」だった。
船の甲板から、遠ざかっていく璃月港を見る。
その、痛々しい傷跡を見るたび、自分の罪の重さを、再確認させられる。
(……稲妻へ)
(故郷へ、帰れば……)
そこだけが、拙に残された、最後の聖域だった。
モンドも、璃月も、拙にとっては、未知の場所だった。だから、失敗したのだ。
だが、稲妻は違う。あそこは、拙の庭だ。今度こそ、完璧に、立ち回ってみせる。
モンドの、璃月の、この二つの失敗を、取り返すほどの、完璧な「修正」を。
彼女は、砕け散った心の、最後の欠片を、すべて、その、あまりにも、儚い希望に、賭けていた。
船は、雷雲渦巻く、閉ざされた故郷へと、進んでいく。
彼女を待つのが、さらなる、そして、決定的な絶望であることなど、知る由もなく。