終のむじなが見た夢に 作:夜琥
船が、ゆっくりと岸を離れる。
遠ざかっていく璃月の、痛々しい姿から、早柚は、目を逸らすことができなかった。
それは、自らに課した、罰だった。
仮設の桟橋から乗り込む人々は誰もが無口で、その目は、再建の槌音が響く、傷だらけの街並みを、不安げに見つめている。あの活気と自信に満ち溢れていた港の姿は、もうどこにもない。
(拙が……この街の魂を、砕いたんだ)
その罪の意識が、冷たい潮風と共に、心を苛む。
稲妻へと向かう航海は、荒れていた。
まるで、この国の今の情勢を、そのまま映し出したかのような、分厚い雷雲が、常に、船の上を覆っている。
「うわーっ! また揺れたぞ!」
パイモンが、船室の柱にしがみつきながら、悲鳴を上げる。
早柚は、船室の隅で、膝を抱えていた。船の揺れよりも、心の揺れの方が、よほど、彼女を苦しめていた。
眠れば、悪夢が襲ってくる。炎を失ったモンドの英雄。石と化した璃月の民。
そして、静かに、すべてを見通していた、岩神の瞳。
ふと、隣に、誰かが座る気配がした。蛍だった。
彼女は、何も言わなかった。ただ、早柚の隣に、静かに座っているだけだった。
嵐の夜、寄り添うように身を寄せ合う、小動物のように。
「……」
「……」
言葉はなかった。だが、その沈黙が、今の早柚には、何よりも、ありがたかった。
そして、同時に、何よりも、辛かった。
この優しさに、自分は、応える資格がないのだと、思い知らされるからだ。
不意に、蛍が、窓の外を指さした。
「……鳥」
嵐の中を、数羽の海鳥が、必死に、翼を動かしている。
目指す先は、雷雲の向こうにあるであろう、故郷の島。
「……家に、帰るんだね」
蛍の、その、何気ない一言が、早柚の胸に、深く、突き刺さった。
(帰る……家……)
拙に残された、最後の場所。最後の、希望。
(稲妻なら……故郷なら、今度こそ……)
彼女は、ただ、それだけを、心の中で、呪文のように、唱え続けていた。
稲妻の玄関口である離島は、かつての活気を失い、幕府の役人たちの、鋭い視線が支配する、息の詰まるような場所になっていた。
勘定奉行の厳しい審査を、早柚は、終末番の身分を隠した、ただの帰郷者として、なんとか、通り抜けた。
蛍たちとは、ここで、別れた。
「拙には、拙だけの、調査ルートがある。これ以上は、一緒に行動しない方が、お互いのためだ」
早柚は、そう、一方的に告げた。
「えっ!? なんでだよ! ここまで一緒に来たじゃないか!」
食い下がるパイモンに、蛍は、静かに、首を振った。
彼女は、もう、早柚が、何か、自分たちには決して話すことのできない、重い秘密を抱えていることに、気づいていた。
「……分かった。でも、無茶はしないで。何かあったら、必ず、連絡して。私たちは、ずっと、あなたの友達だから」
蛍の、その、あまりにも、優しい言葉に、早柚は、顔を見ることができず、ただ、小さく頷くと、人混みの中へと、その姿を消した。
友達、という言葉が、これほど、重く、痛いものだとは、知らなかった。
早柚は、自分の存在をできるだけ消し「木霊(こだま)」と名乗り活動した。
寝床は、見知った森の奥にある洞穴。食事は、野で採れる木の実やキノコ。
かつて安らぎの象徴だったはずの自然の中での生活が、今はただ、自らの罪を洗い流すための苦行のように感じられた。
そして、最後の希望にすべてを賭けた。
「目狩り令」と、それに抵抗する「抵抗軍」との戦い。
この内乱を、最小限の犠牲で、最短で終わらせる。そのために、拙の持つすべての知識と技術を注ぎ込むのだ。
早柚は、その正体を決して明かすことなく、抵抗軍への接触に成功した。海祇島の、ある寂れた祠。そこに、彼女は情報を残した。
『――明日未明、九条陣屋より、たたら砂へ兵糧輸送部隊が出立。警備は手薄』
『――八酝島、”蛇骨鉱洞”南方に、幕府軍の伏兵あり。進軍ルートを変更せよ』
『――天領奉行筆頭同心、”斎藤”は、勘定奉行と通じている。注意されよ』
簡潔な、しかし核心を突く情報。それが、海祇島の戦略を根底から覆していった。
連敗続きだった抵抗軍は、嘘のように勝ち続けた。海祇島の兵士たちは士気を取り戻し、ゴローは「木霊は我らが勝利の女神だ!」と吠え、珊瑚宮心海は、その謎の協力者に全幅の信頼を寄せた。
ほんの少しだけ、希望が見えた気がした。今度こそ、正しくできている。このまま、内乱を終結させれば……。
だが、彼女のその「完璧すぎる」成功が、最も恐れていた事態を引き起こした。
幕府軍本陣。
九条裟羅は、地図上に置かれた駒を、冷たい指先で弾いた。
また一つ、こちらの部隊が奇襲を受け、敗走したとの報告が入ったばかりだった。
「……ありえない」
彼女は、静かに呟いた。
偶然ではない。幸運でもない。これは、完璧な「情報戦」における、完全な敗北だ。
「申し上げます! 先日の、たたら砂への輸送部隊の件、ルートを知っていたのは、我々天領奉行と、物資を管理する勘定奉行の、ごく一部のはず!」
部下の報告に、彼女は、冷たく、言い放った。
「だとしたら、その両方に、内通者がいるということか? それも、互いに連携して、これほど、的確な情報を、同時に漏洩させると? そのような偶然が、何度も重なると思うか?」
「そ、それは……」
「敵は、こちらの動きを、まるで天から見下ろしているかのように把握している。これは、一人の人間や、一つの組織の仕業ではない。あるいは、その逆か。三奉行すべての機密情報にアクセスできる、ただ一つの、組織……」
彼女は、思考を巡らせる。そして、一つの、結論にたどり着いた。
「……社奉行……神里、家……」
九条裟羅の瞳に、冷たい決意の光が宿った。
たとえそれが、稲妻の勢力図を根底から揺るがす選択だとしても、国を揺るがす裏切り者を、放置することはできない。
その結論を知る由もなく、早柚は、ある任務を終えて、懐かしい神里屋敷の裏手の森に、身を潜めていた。
久しぶりに、あの緋櫻の木の上で少しだけ休もうと思ったのだ。
抵抗軍の優勢は、もはや揺るがない。
目狩り令の廃止も、時間の問題だろう。そうすれば、拙の役目も終わる。やっと、すべてが終わるのだ。
彼女は、木の上から、屋敷の庭を、そっと、覗き見た。
そこには、綾華様が、真剣な表情で、剣の稽古をしている姿があった。その動きは、しなやかで、美しい。稽古が終わった彼女の元へ、トーマが、冷たい飲み物を差し出しながら、駆け寄る。二人が、楽しそうに、何かを話している。
(……ああ)
心が、温かいもので、満たされる。
あれが、拙の、守りたかったものだ。
その、穏やかな光景に、安堵の息をついた、その時だった。
屋敷の正門が、乱暴に、開け放たれた。そして、武装した天領奉行の兵士たちが、雪崩れ込むように、屋敷へと侵入してきた。
「―――っ!?」
早柚は、息を呑んだ。
庭先で、異変に気づいたトーマが、綾華を庇うようにして、前に出る。
「何事だ! ここが、どなたの屋敷か、分かっているのか!」
兵士たちをかき分け、姿を現したのは、幕府軍大将、九条裟羅だった。彼女は、冷徹な声で言い放つ。
「社奉行、神里綾人に、抵抗軍への内通、及び国家転覆を企てた反逆の嫌疑あり! 将軍の御名において、捕縛いたす!」
「なっ……! 馬鹿な! 若様が、そのようなことをするはずがない!」
トーマが、激昂し、槍を構える。
「抵抗するというのなら、容赦はしない!」
裟羅の号令と共に、兵士たちが、一斉にトーマへと襲いかかった。
「炎よ!」
トーマは、神の目を解放し、炎の壁で、綾華を守る。
彼は、ただの家司ではなかった。槍を振るい、次々と兵士を薙ぎ払っていく。その姿は、まるで、炎の獅子のようだった。
だが、あまりにも、数が多すぎた。彼の肩が、腕が、足が、次々と、刃に切り裂かれていく。
「トーマッ!!」
綾華の悲痛な叫びが響く。
「若様を…売るようなことだけは…しない…ッ!」
トーマが叫び、最期の一撃を繰り出すおうとした瞬間、数本の刃が、彼の身体を容赦なく貫いた。
彼は、綾華の名前を呼びながら、ゆっくりと崩れ落ちていった。
屋敷の奥から、静かに、しかし燃えるような怒りをたたえた神里綾人が、姿を現した。
「……これは、一体どういう茶番ですか、九条裟羅殿」
「とぼけるな、神里綾人! すべて、お前たちの仕業であろう!」
拙のせいだ。
拙が、良かれと思って渡した情報が、巡り巡って、拙が何よりも守りたかったはずのこの場所を、この人たちを、地獄の業火で焼き尽くした。
モンドでは英雄を、璃月では都市を、そしてこの稲妻で、拙は、自分の「帰る場所」と「家族」を、この手で破壊した。
もう、何も残っていない。守るべきものも、帰る場所も。
早柚は、木の枝の上で、声もなく、ただ震えていた。動くことも、叫ぶこともできない。まるで、自分自身が石になってしまったかのように。
違う、こんなはずじゃなかった。
頭の中で、あの迷子の子供の声がした。だが、今度はもう、呟きすらしない。ただ、静かに、事切れていた。
世界から、色が、音が、消えていく。残ったのは、目の前で繰り広げられる、自らが作り出した、あまりにも残酷な現実だけだった。