終のむじなが見た夢に 作:夜琥
稲妻は、その心を失った。
社奉行神里家が、反逆の汚名を着せられ、粛清された。
その報は、雷鳴のように、瞬く間に国中を駆け巡った。
天領奉行の兵士たちが、神里屋敷を封鎖し、当主である神里綾人は、裁きを受けるため、天守閣の奥深くへと連行されたという。
当主代行であった綾華は、屋敷に幽閉され、家司のトーマは、抵抗した末に、命を落とした、と。
民衆は、困惑した。
あの、誰からも慕われていた白鷺の姫君の、あの、民のために尽力してきた神里家が、なぜ?
だが、幕府の公式発表は、揺るがない。抵抗軍への内通、国家転覆の企て。その「証拠」も、次々と、提示された。
国を支える三本の柱の一つが、乱暴に、引き抜かれたのだ。その衝撃は、稲妻全土を、不信と、恐怖の底へと叩き落した。
早柚は、あの、すべての始まりとなった緋櫻の木の上で、どれくらいの時間、そうしていただろうか。
木の枝に、ただ、うずくまるようにして、封鎖された神里屋敷を、見つめていた。何日も、何日も。
空腹も、喉の渇きも、感じなかった。
ただ、心臓だけが、まるで、自分の身体のものではないかのように、鈍い痛みを、延々と、訴え続けている。
幻覚を見た。
庭先で、血に濡れて倒れるトーマの姿。彼の、驚きと、悲しみに満ちた、最後の表情。
幻聴が聞こえた。
綾華様の、悲痛な叫び声。綾人様の、静かな、しかし、燃えるような怒りの声。
そのすべてが、拙(せつ)のせいなのだと、脳が、理解することを、拒絶していた。
(違う、違う、違う、違う……)
ただ、それだけを、心の中で、繰り返す。
(拙は、ただ、みんなに、平和に暮らしてほしかっただけなのに……)
だが、その願いこそが、この地獄を招いた、元凶だった。
やがて、彼女は、飢えと渇きに、その意識を、手放した。
その瞬間、脳裏に、見も知らぬ鬱蒼とした森で、同じように、力なく倒れる、自分の姿が、一瞬だけ、幻のように、よぎった。
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「―――ゆ!……さゆ! しっかりしろ、早柚!」
誰かが、必死に、拙の名前を呼んでいる。
重い、重い瞼を、こじ開ける。
ぼやけた視界に、金色の髪と、心配そうに、涙を浮かべた、小さな妖精の顔が、映った。
「……ほた、る……? ぱいもん……?」
「よかった……! 目を覚ましたんだな!」
パイモンが、わっと、泣き出した。
そこは、見覚えのない、小さな洞穴だった。焚火が、パチパチと、音を立てて燃えている。
「……どうして、ここに……」
「私たちが、見つけたんだよ」
蛍が、水の入った竹筒を、そっと、早柚の口元に、差し出しながら、言った。
「あなたが、いなくなってから、ずっと、探してた。木漏茶屋にも、紺田村にも、どこにもいなくて……。まさか、神里屋敷の近くの森で、倒れてるなんて……」
その言葉に、早柚の身体が、びくりと、震えた。
神里屋敷。その名前は、もはや、呪いの言葉だった。
「さ、早柚! お前、一体、何があったんだよ!? 神里家が、裏切り者だったなんて、本当なのか!? トーマも、死んじまったって……嘘だよな!?」
パイモンが、涙声で、問い詰める。
その、あまりにも、無垢な質問に、早柚は、何も、答えられなかった。
嘘だ、と言ってあげたかった。あれは、間違いなのだと。本当は、みんな、無事なのだと。
だが、その嘘を、つけるほどの、力は、もう、残っていなかった。
「……」
早柚は、ただ、黙って、首を振ることしかできなかった。
その、絶望的な沈黙が、パイモンに、すべての真実を、伝えてしまった。
「そん……な……」
パイモンは、それ以上、言葉を続けることができず、ただ、ぽろぽろと、大粒の涙を、こぼした。
蛍は、黙って、早柚の隣に座った。そして、何も聞かず、ただ、その小さな背中を、優しく、さすってくれた。
「……辛かったね」
その、たった一言が、早柚の中で、固く、凍りついていた何かを、ほんの少しだけ、溶かした。
「……ちがう」
早柚は、か細い声で、呟いた。
「……拙が、わるいんだ……」
「え……?」
「拙の、せいだ……。全部……、拙のせいで……」
それ以上は、言葉にならなかった。ただ、嗚咽だけが、洞穴の中に、虚しく響いた。
蛍は、驚いた顔をしたが、すぐに、その表情を、深い、悲しみの色に変えた。
彼女には、早柚が、なぜ、そう言うのか、理解できなかっただろう。
だが、目の前で、心が砕け散ってしまった、友人の苦しみだけは、痛いほど、伝わってきた。
「分からない……。私には、何があったのか、分からないけど……」
蛍は、壊れ物を扱うように、そっと、早柚の身体を、抱きしめた。
「でも、あなたは、一人じゃない。私が、いる。パイモンも、いる。だから、今は、何も考えなくていい。ただ、ここにいて」
その温もりが、あまりにも、暖かくて。
早柚は、生まれて初めて、誰かの腕の中で、声を上げて、泣いた。
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数日が、過ぎた。
早柚の心は、砕けたままだ。だが、蛍とパイモンが、片時も、そばを離れなかった。
蛍は、黙って、食事を作り、傷の手当てをしてくれた。パイモンは、拙を笑わせようと、必死に、面白い話や、変な顔をしてみせた。
その、献身的な優しさが、かろうじて、早柚の意識を、この世界に、繋ぎ止めていた。
だが、世界は、彼女たちの傷が癒えるのを、待ってはくれなかった。
稲妻の情勢は、日に日に、悪化していった。
社奉行という、最大の調停者を失ったことで、天領奉行の圧政は、歯止めが利かなくなった。
目狩り令は、より、厳しく、そして、残忍なものとなった。
街では、無実の人々が、抵抗軍のシンパとして、次々と、捕らえられていく。
そして、抵抗軍もまた、「木霊」という、神秘の助言者を失い、その勢いを、完全に、失っていた。
連戦連敗を重ね、海祇島へと、追い詰められていく。
稲妻全土が、絶望と、不信の、暗い霧に、覆われていた。
遠くで、時折、地鳴りのようなものが聞こえる。
空の色も、どこか、不吉な紫色を帯びている。
まるで、この国そのものが、最後の時を迎えようと、呻いているかのようだった。
蛍は、洞穴の入り口から、その、不穏な空を見上げていた。
隣では、ようやく、泣き疲れて眠った早柚が、苦しそうな寝息を立てている。
その顔には、乾いた涙の跡が、何本も、筋になって残っていた。
「……行かなくちゃ、いけないんだろうな」
蛍は、誰に言うでもなく、呟いた。
このまま、ここにいても、何も解決しない。外の世界では、事態は、刻一刻と、最悪の方向へと、進んでいる。
だが、この、心が壊れてしまった友人を、一人、ここに、置いていくことなど、できるはずもなかった。
彼女は、眠る早柚の、汗で濡れた前髪を、そっと、指で払ってやった。
そして、決意を固める。
(……何があっても、私が、この子を守る)
だが、彼女はまだ知らなかった。
この、束の間の安らぎこそが、彼女たちの世界に残された、最後の温もりであることを。
そして、その決意が、やがて、最も残酷な形で、試されることになるということを。