終のむじなが見た夢に   作:夜琥

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9. 奈落の底で

洞穴の中、燃えさしになった焚火が、時折、パチリ、と、か細い音を立てていた。

 

それ以外には、何の音も聞こえない。

外の世界を覆う、不気味な静寂と、隣で眠る友人の、苦しそうな寝息だけが、早柚の意識を、この現実に繋ぎ止めていた。

 

彼女は、もう、何日も、まともに眠れていなかった。

 

あの日、神里屋敷の悲劇を目撃し、蛍たちに保護されてから、早柚の心は、完全に砕け散っていた。

蛍は、献身的に、彼女を看病してくれた。パイモンは、不器用ながらも、必死に、彼女を元気づけようとしてくれた。

 

だが、その優しさすら、今の早柚には、ただ、自らの罪の重さを、再確認させるだけの、苦痛でしかなかった。

 

(拙(せつ)は……ここに、いてはいけない人間なんだ)

 

彼女たちの優しさに触れるたび、心が、そう叫んでいた。

 

「……早柚、起きてる?」

 

隣で眠っていたはずの、蛍の声だった。

彼女もまた、この息の詰まるような状況で、安らかな眠りを得られずにいたのだろう。

 

「……」

 

早柚は、返事をしなかった。いや、できなかった。

 

「怖いんだ」

 

蛍は、天井の暗闇を見つめながら、ぽつり、と呟いた。

 

「外の空気が、どんどん、重くなっていくのが、分かる。何かが、来る。すごく、大きくて、悪いものが……。私、戦えるかな。みんなを、守れるかな」

 

その、弱音ともとれる言葉に、早柚の心が、チクリと、痛んだ。

 

いつも、気丈で、決して、諦めなかった、旅人が。

今、こんなにも、不安に駆られている。

 

それもまた、拙が、モンドの英雄の力を奪い、璃月の結束を砕き、稲妻の心を折ってしまったせいなのだ。

 

彼女一人に、あまりにも、多くのものを、背負わせてしまった。

 

「……大丈夫だ」

 

早柚は、ほとんど、一年ぶりに、自らの意志で、言葉を発した。

「……蛍は、強いから」

「……うん」

 

蛍は、少しだけ、驚いたように、こちらを見た。そして、ふわりと、優しく、微笑んだ。

 

「ありがとう、早柚」

 

その笑顔が、なぜか、拙の頭の中にある「知識」が示す、あの、最期の瞬間の、彼女の顔と、重なって見えた。

その時、洞穴の外で、空気を引き裂くような、凄まじい咆哮が、轟いた。

 

ついに、最後の災厄が、姿を現したのだ。

 

洞穴を飛び出した三人が見たのは、もはや、この世のものとは思えない、冒涜的な光景だった。

 

ファデュイか、アビスか、もはやその元凶が何なのかも定かではない。

ただ、圧倒的なまでの「破壊の意志」が、稲妻の、戦火で荒れ果てた平原に、顕現していた。

 

それは、巨大な人型の機械のようでもあり、いくつもの魔物が、無理やり、融合させられた、醜悪な獣のようでもあった。

 

その身体からは、紫色の、不吉な瘴気が、絶えず、溢れ出している。

その存在が、ただそこにいるだけで、空間が歪み、空が泣いているかのように、紫電の涙を流していた。

 

最後の戦いだった。

 

もはや、そこに、幕府軍も、抵抗軍も、なかった。ただ、為す術もなく、滅びゆく人々がいるだけだった。

 

「行くよ、早柚、パイモン!」

 

蛍の声が、戦場に響く。

 

彼女だけが、最後まで、希望を捨てていなかった。

その金色の瞳は、目の前の絶望ではなく、その先にあるはずの未来を、確かに見据えていた。

 

「蛍! あいつ、なんか、ヤバいものを溜めてるぞ!」

 

パイモンが、叫ぶ。

 

敵の中心部で、巨大なエネルギーが、渦を巻き始めていた。

 

「私が、止める!」

 

蛍は、剣を構え、一人、その巨大な獣へと、向かっていく。

早柚は、その姿を、どこか遠い世界の出来事のように見ていた。

 

(……どうして、そんな風に戦えるんだ?)

 

もう、守るべきものなど、どこにもないというのに。

 

戦闘が始まった。爆音、閃光、悲鳴。

すべてが、分厚い膜を一枚隔てたかのように、現実感を失っていく。

早柚は、ただ、身体に染み付いた忍びの術で、機械的に、攻撃の余波を、避けていた。

その一撃一撃に、重さも、意味もなかった。

 

戦況は、言うまでもなく、最悪だった。

 

蛍は、満身創痍になりながらも、決してその剣を降ろさなかった。

彼女の放つ光が、この地獄における、唯一の灯火だった。風をまとい、岩を砕き、雷を走らせる。

彼女は、旅の中で得た、すべての力を、出し惜しみなく、解放していた。

 

だが、敵は、あまりにも、強大だった。

 

「―――っ!」

 

敵の、巨大な腕が薙ぎ払われる。その一撃が、仲間の一人を庇った蛍の、小さな身体を捉えた。

 

「うわあああっ! 蛍っ!」

 

パイモンの絶叫が響く。

蛍は、血を吐きながらも、それでも立ち上がった。だが、その足は、もう限界だと告げるように、がくがくと震えていた。

 

そして、敵の、次の一撃が放たれる。

今度の標的は、戦いの輪から外れ、ただ呆然と立ち尽くしていた、早柚だった。

 

死。

 

巨大な破壊の奔流が、スローモーションのように迫ってくる。

早柚は、それを見ながら、ようやく、すべてが終わるのだと、安堵にも似た感情を覚えていた。

これで、楽になれる。もう、何も考えなくていい。自分のせいで、誰も傷つかなくて済む。

 

彼女は、避けようともせず、ただ、静かにその瞬間を待った。

 

だが。

 

「――させないっ!」

 

視界の端を、金色の光が駆け抜けた。

ドン、という衝撃と共に、早柚の身体が突き飛ばされる。

尻餅をついた彼女が見たのは、自分の立っていた場所に、仁王立ちになる蛍の姿だった。

 

彼女の小さな背中が、早柚を庇うようにして、全ての破壊を、一身に受け止めた。

 

一瞬の閃光と、轟音。

 

それが過ぎ去った後。

蛍の身体は、糸が切れた人形のように、ゆっくりと、こちらへ倒れてきた。

 

早柚は、反射的にその身体を受け止めた。腕の中に収まった彼女は、信じられないほど軽く、そして、か弱かった。

 

「……ほた、る……?」

 

呼びかける声が、震えた。

彼女の胸からは、おびただしい血が流れていた。白いドレスを、みるみるうちに赤黒く染めていく。

 

「……さ……ゆ……」

 

蛍の、薄れゆく瞳が、拙の顔を映した。

 

「……よかった……無事、で……」

「な……なんで……」

 

なんで、拙なんかを。拙が、全部、壊したのに。モンドも、璃月も、稲妻も、あなたの仲間も、全部、全部……!

「……あなたは……」

 

蛍は、最後の力を振り絞るように、血に濡れた手で、そっと拙の頬に触れた。その手は、もう、ほとんど力が入っていなかった。

 

「……わるく、ない……」

 

その言葉を最後に、彼女の瞳から、光が消えた。

腕の中から、ふっと、力が抜けていく。

 

―――違う。

 

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!

 

拙が、悪いんだ。

拙が、全部、殺したんだ。

その、あまりにも優しく、そして残酷な赦しの言葉が、早柚の中で、最後の理性の糸を、無残に断ち切った。

 

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 

生まれて初めて上げた、意味のある絶叫だった。

それは、世界に対する呪いであり、自分自身への断罪だった。

 

どれくらい、そうしていただろうか。

 

敵は、もういなかった。蛍の最後の一撃が、相打ちのような形で、敵を打ち破っていたのかもしれない。

あるいは、もうこの世界に用はないと、去っていったのかもしれない。

どうでもよかった。

 

早柚は、もう動かなくなった蛍の亡骸を、ただ、抱きしめていた。

パイモンが、隣で泣きじゃくっている。その声すら、もう、早柚の耳には届かなかった。

 

世界は終わった。

拙の、長くて、愚かで、最悪の物語は、ここで終わったのだ。

そう思った、その時。

 

絶望の、その、奈落の底で。

彼女の頭の中に、かつて流れ込んできた「知識」の、最後の欠片が、不意に、閃光のように煌めいた。

 

『――世界は、すべて記録されている』

 

スメールという、遥か彼方の国。そこに存在する、巨大な樹。

 

『世界樹』

 

テイワットのすべての事象、過去、現在、そのすべてを記録し続ける、世界の記憶装置。

知識は、時に、書き換えることができる。

 

その、ありえないはずの可能性が、死んだはずの早柚の心に、一つの、狂気に満ちた考えを植え付けた。

 

(……書き換えられる……? 記録を……過去を……?)

 

無理だ。できるはずがない。神ですら容易くはできぬ、世界の理を覆すような真似だ。

 

だが。

 

(もし……もし、できるなら……)

 

腕の中で、蛍は、冷たくなっていくばかりだ。

 

(もう一度……もう一度、蛍に会えるなら。もう一度、みんなが、笑っている、あの、当たり前の日常を、取り戻せるなら……)

 

もはや、世界の平和などどうでもよかった。自分の安眠など、知ったことではなかった。

 

ただ、この温もりを、この笑顔を、この、当たり前だったはずの世界を、取り戻したい。

その、たった一つの身勝手な願いが、彼女の砕け散った心に、新たな、そして禍々しい光を灯した。

 

早柚は、ゆっくりと立ち上がった。

その瞳には、もう、悲しみも、絶望もなかった。

 

ただ、すべてを焼き尽くすほどの、冷たい、冷たい執念の色だけが、宿っていた。

目的地は、スメール。

 

世界の記憶が眠る、禁断の聖域へ。

 

たとえ、この身がどうなろうとも。

 

この結末だけは、絶対に、認めない。

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