雨の日は独特な香りがするというが、それは季節や場所によっても大きく変わる。今まさにシブヤで降る雨は都会の混沌さを抱えた独特な気配を漂わせながらぬるさを抱えたそれだったが、そのような違いを感じる間もなく星乃一歌は走っていた。
雨を避け人のまばらになった坂の多い道を駆ける彼女は、こんな時に傘を忘れる自分の迂闊さとせっかく手に入れた新作のCDが濡れないかを心配しながら転ばないよう慎重に行く。雨宿りしにくい下り坂を通り過ぎ赤信号の前で止まると、湿った空気を肺に入れ一呼吸つく。
信号が青に変わるのを待ちながら地面に、壁に、窓に、雨粒が打ちつける音を聞く一歌は、何の気なしに周囲を見渡す。坂の下へ水が流れ落ちる様子をぼんやりと見つめ、不運を嘆きながら何の気なしに道路際の電話ボックスを見つめるとそこに見知った姿があった。
「奏さん?」
思わず出た声は雨音にかき消される。だが幸い奏もこちらの姿には気づいており、ジャージの袖から僅かに出した手でこちらへと手招きをし、雨音にかき消されながらも何かを口にする。一瞬の逡巡ののちその誘いに従うと慎重に扉を開け、電話ボックスへ入った。
「星乃さん大丈夫?雨、大変だったね?」
「はい、急に降ってきてびっくりしました。急に入ってきちゃってすいません。狭いですよね...」
一歌の言う通り、電話ボックスは二人が入るにはやや狭く、一応身動きができるが...という程度だ。心配する一歌を落ち着かせるように手を伸ばした奏は雨に濡れた一歌の髪へ優しく触れる。
「わたしが来てって言ったんだし気にしないで。それに髪が濡れたままなのはよくないよ。ちょっと待っててね、ここにタオルがあるから...」
「あ...ありがとうございます。お借りしますね。」
そう言って遠慮がちにタオルを受け取ると、急に来た褒め言葉を頭の中で反響させつつ手早く髪を拭く。
一通り拭き終わり、手元の濡れたタオルをこのまま返すべきか逡巡していると奏の髪からも水が滴り落ちていることに気づいた。
「ひょっとして奏さんも傘、忘れちゃったんですか?」
「うん。星乃さんとおそろいだね。」
「よく見たら髪も服も濡れちゃってて、大丈夫ですか?寒くないですか?」
「わたしは平気。星乃さんの方は大丈夫?まだタオルはあるし他に使いたかったら...」
「それは奏さんが使ってください。髪、拭くので後ろ向いてくれませんか?」
まさか自分が拭かれる側になると思わなかった奏はやや驚きつつも後ろへ向く。狭いスペースで体勢を保ちながら拭くのは容易ではなく、通りががる人が傘の隙間から一瞬見つめ通り過ぎる気配を感じながら少しづつ拭いていく。
母に咥えられている仔猫のような無抵抗さで一歌に身を委ねる奏は、電話ボックスの下から聞こえる雨音の反響を元に頭の中でリズムを鳴らす。いつの間にか髪を揺らす動きが止まっており、そろそろ終わっただろうかと思いながら首を後ろに向けると、ぼんやりと立ったまま髪の端を見つめる一歌がいた。
「一歌ちゃん...?」
おずおずと声をかけるも返事がない。心配になり手に触れる。急に気づいた一歌が驚き後ろに引くと、危うく電話ボックスの扉が開きそうになった。
「ごめんね、びっくりさせちゃって。」
「いえ、私が気づかなかっただけなので。髪は拭き終わりました!」
「ありがとう。でもどうしてぼんやりしてたの?もしかして気になったこととかある?」
「その...」
口ごもる一歌を怪訝そうに見つめる。
「髪が...綺麗だったので、つい見ちゃいました。...何言ってるんですかね、私。このタオル、お返ししますね。」
一歌から誤魔化すように差し出されたタオルを受け取ると、他に何枚か布の入ったビニール袋へ入れ込み、電話機横の棚へ置いた。
「いいんだよ、一歌ちゃん。私も一歌ちゃんの髪、触ってみたいな。」
それが気遣い故の言葉か、本心からのものかは判断しきれなかったが、少なくとも気まずさを解消するには十分であった。互いが互いの髪を触る、傍から見れば不思議なその時間は雨音が消えるまで続き、日が差し込んだことで終わった。
電話ボックスの扉を開き、陽に照らされ再び人の増えたシブヤの街を少し歩くと交差点に着く。
「晴れましたね。さっきはありがとうございました。」
「大丈夫。おうちでCD、楽しんでね。」
「気づいてたんですか?」
「うん。さっきちょっとだけ見えたから。それにあのアーティストさん、星乃さんが好きって言ってたから。」
「なんでもお見通しですね。奏さんも濡れたままだとよくないですから、気をつけて帰ってくださいね。」
そう言って信号を渡る一歌に奏はゆっくりと手を振る。その姿が雑踏に吸い込まれると、止んだ雨が蒸発する香りを感じながらゆっくりと家の方へ向かっていった。