まだ残暑の残る九月初め。
そろそろ進路先の高校を決めなければいけない橋本翔太は、那須川中学校二年四組担任教師の吉井先生に呼び出された。
「放課後にすまん。明日から『イシザキくん』へご飯届ける係はお前になった」
腕を組みながら、まるで威圧するような声色で命じてくる。吉井先生は怒る怖いタイプだが、理由なく怒るような性格ではない。
それなのに大人という暴力性をこれほどまで見せつけてくる事から、決して首を横に振らせないという意思を感じる。
「前までは三組の係だったけどな、担当してた子が引っ越したんだよ。それで次に『イシザキくん』の家に一番近いのがお前だったわけ」
橋本はイシザキくんの事をあまり知らない。
確かに入学したばかりの頃、先生から同学年にイシザキくんが居るというのは聞いている。ただ逆に言えばその程度しか知らなくて、どんな顔をしているのか、どこのクラスに所属してるのか、どうして登校できないのか、どうしてご飯を持って行かなければならないのか。そういう節々の細かいところまでは、今まで気にしたことが無かった。
だから橋本が気になってた事を訊ねると、吉井先生は少し考えるような仕草をしてから答える。
「……イシザキくんはな、身体がとても、とーっても弱いんだ。昔から重い病気を患っててな、常に布団で寝てるような状態だよ。だから学校に来れないしお前らと遊ぶこともできない。まあでもそれは入学する前から分かってて、先生達もあまり無理しないようにと言ったんだけど、それでも勉強していつか登校するのが夢って言うから受け入れたんだ。それで今は学校側でサポートすることにしてる」
なるほど、と取り敢えずは理解した。イシザキくんが来れない理由も、自分がご飯を届けなきゃいけない役目なのも。
「まあご飯届けると言っても、別に毎日じゃなくて良い。毎週水曜日だけで、しかも祝日とかで学校休みだったら無しで構わない。ただ平日何もなければ、お前に渡すからちゃんと届けてくれよ」
スケジュール的にも煩わしくなかった。どうせ直ぐに帰ってもやることはないし、週一で少し寄り道するようなものだ。遊ぶ時間もそこまで削られないだろう。
それにそもそも今の先生には逆らう気になれないなと思って、橋本翔太は承諾する。
イシザキくんの家は学校から二十分、自宅からは十分ほど離れた立地にあった。
アパートではなく一軒家だが、年季のあるボロ小屋だと、率直に思う。
赤ペンキの屋根は少しばかり剥げており、表札の木版は腐っているのか読みにくい。庭地の草は荒れ果てており、蜘蛛の巣の張られた三輪車と、穴のあいたポリバケツが捨てられたように置かれている。その近くではナメクジや百足も這いまわっている。部屋のカーテンは閉めきられて中は見えず、明るい談笑どころか、人が住んでる気配さえ感じられなかった。
どこか空気が澱んでいる。
重苦しい何かが漂っている。
橋本はごくりと唾を飲み込んで、先生から渡されたメモ書きの通りに動いた。
これに関しては質問するなと、強く念押しされたメモ書きであった。
【①絶対にチャイムを鳴らさないで、扉を開けること。鍵は空いてるから、扉を開けたら必ず閉めるように】
まるで廃材のように寂れた扉を開けると、甲高くて軋んだ音が耳奥へと穿いた。
室内は埃が滞留しており、外で感じたよりも澱んだ空気に満たされている。
今まで眩しすぎるとさえ感じていた夕焼けも殆んど遮られていて、奥のほうには奈落のような闇が広がっていた。
扉を閉めれば、室内は完全な夜闇に近くなる。
【②渡された物を、ゆっくり廊下に置くこと】
先生から渡されたのは漆塗りの弁当箱。運動部の男子が食べてるような大きめのサイズで、白ネームペンで『イシザキくん』と書かれていた。また絶対に途中で開けられないようにと何重にもセロハンテープが巻かれており、それが余計におどろおどろしい印象を与えてくる。
【※⑴室内では絶対に物を落としてはいけない】
家に着いてから止まらない身体の震えをなんとか抑えながら、メモ書き通りにゆっくりと廊下に置いた。
このボロ小屋の雰囲気なのか、それとも澱んだ空気なのか。橋本は安請け合いしたのを後悔したくなるほどに、湧き出てくる不安を制するので必死になる。
【③部屋の奥へと向かって「イシザキくん、イシザキくん、ご飯を持ってきましたよ」と二回復唱すること。返事がなくても気にしないで良い】
【※⑵大きすぎず、小さすぎない声で】
震えて上手く回らない口をなんとか動かした。
途中で何度か舌を噛んでしまったが、どうにか二回復唱する。
返事はなかった。
【※⑶返事が来た場合、絶対に無視すること】
橋本は横目でメモ書きを見て、返事がないことに安堵する。
【④振り返らずに、急いで家を帰ること】
弁当箱へと背を向けて、先程まで閉めていた扉に手をかけた。すると。
背後から何かの近づく気配がした。
【※⑷何があっても振り返るな】
メモに記された注意書きを必死に思い浮かべる。心臓は全速力で走ったあとよりも激しく動いており、恐怖からの涙と、全身から流れる冷や汗のせいで、頭がどうにかなりそうだった。
【※⑷何があっても振り返るな】
ドンドンドンと足音が大きくなる。
くちゃくちゃと口を窄ませるような声がする。
ぴちゃ、ぴちゃ、と水が滴るような音がする。
【※⑷何があっても振り返るな】
異音に交じりながら、男女の雑談みたいなものが聞こえてきた。ボソボソと何か話しているようだが、その内容までは分からない。
【※⑷何があっても振り返るな】
最初の物音は大きくなってきている。
【※⑷何があっても振り返るな】
直ぐ近くまで迫っているのはわかる。
【※⑷何があっても振り返るな】
何者かの熱を背中で感じる。
【※⑷何があっても振り返るな】
獣のような臭いと、生暖かい吐息がした。
音を立てないようにと動きは静かであったが、泣きそうな表情で、半狂乱になりながらも扉を開けた。
「……う、あっ」
夕焼けが目を焦がすように射してくる。
時間はそんなに経ってないのだろう。
橋本は脚をもつれさせながら、それでも決して後ろを見ないようにと、背で押しながら扉を閉めた。それからは転げ回るように慌てた様子で、一刻も早くイシザキくんから逃げようと駆け足で帰ることにした。
遠く離れた家を見る。
窓は全て閉め切られているのに、人じゃない視線で見定められてる気分になった。
家に帰ってから落ち着くと、橋本はメモの続きを読む。
【⑤ここで起きたことは絶対に他人へ話してはいけない】
当たり前だ。こんな事を話しても信じてもらえないだろう。両親にも妹にも、学校の友人にだって弄られるに違いない。
【⑥絶対に届けるのを忘れてはいけない】
本当ならもうこれっきりにしたかった。正直に言えば明日から辞めようと先生に伝えるかと悩んだ。しかしあの異様な光景がフラッシュバックしており、それを脅しにするような警告文に橋本は逆らえる気がしない。
【⑦『イシザキくん』について調べてはいけない】
つまりこれからも卒業するまであの家に行って、何が住んでいるのかも分からないまま弁当を届けなければならないのだろう。
橋本は気が重かった。
【※⑸イシザキくんは注意書きを破らなければ何もしてこない】
メモ書きの最後にはそう書かれて終わる。慣れてしまえばラクな仕事なのだろうけど、それでも慣れていく自分をまだ想像出来ない。
橋本は思い出す。
三組のほうで急に引っ越したと噂になる子がいた筈だ。恐らくそれが前任者なのだろう。つまり不幸のバトンは自分へと渡されたのだ。
メモ書きをじっと見つめる。
先生は病気だと言っていたが、今ではイシザキくんを同じ生徒と思えることがなかった。そもそも家で起きたことを伝えてはならないルールであるなら、先生が知っているのかどうかも怪しいところだ。
それとも全てを理解した上で頼んでいるのだろうか。
【※イシザキくんは】
メモ書きの、端の方に薄っすらと文章が書かれていた。
恐らくは古い注意書き。
渡されたときには気付かなかったが、落ち着いた今では読める。
先生が消したのか、前の担当者が消したのかは分からない。
だがその部分だけは、意図的に薄められた痕跡が見えた。
その一文が、ずっとずっと。
橋本の頭から離れない。
【※イシザキくんはまだ生きている】