風鳴が代々守り継いできた霊峰。普段であれば青々とした木々が生い茂り、静謐な美しさを湛えていたはずの山林は今、相見えた二人の両雄によって見るも無残な荒野へと変貌を果てしていた。
「ぬんッ!!」
若返った全盛期の筋骨を獰猛に軋ませ、訃堂が神速の太刀筋を振るう。
手挟むは名刀「叢雲」。抜き放たれた刃筋から放たれた無数の不可視の斬撃が、真空の刃となって大気を裂き、巨木を、山肌を乱雑に薙ぎ払いながら標的へと殺到する。
「おおおおッ!!」
咆哮と共に踏み込んだ弦十郎は、全身から吹き上がる濃密な闘気によって両腕を鋼鉄の如く硬質化させた。迫り来る斬撃の群れを、流れるような掌底の軌道で次々と弾き飛ばす。弾かれた真空刃は周囲の杉林へと逸れ、幾本もの大木が狂いなき美しい断面を晒して地響きと共に薙ぎ倒されていった。
「隙ありッ!」
斬撃を受け流す刹那、僅かに生じた弦十郎の静止。その一瞬の居付きを、百戦錬磨の怪物が逃すはずもなかった。
訃堂は正中線をミリ単位の狂いもなく保ち、地を滑るような絶技のすり足で間合いを一気に詰める。霞の構えから淀みなく変形させ、放たれたのは山すら両断せんと欲する渾身の袈裟斬り。
「一刀両断ッ!!」
「なんのッ!」
だが、弦十郎の体は死んでいなかった。
両の掌を挟撃するように合わせ、頭上から振り下ろされた叢雲の刃を、凄まじい火花と共に真剣白刃取りで寸分違わず挟み止める。
訃堂の振り下ろしによって、弦十郎の背後の大地が衝撃波で大きく抉れ、土煙が吹き上がる。しかし弦十郎は眉一つ動かさず、捕らえた刀を支点に、躊躇なく左足の鋭利な前蹴りを訃堂の鳩尾へ向けて撃ち放った。
(――万力! 抜けぬかッ!)
弦十郎の万力のごとき握力と闘気の前では、力づくで刀を奪い返すのは不可能。そう瞬時に悟った訃堂は、即座に愛刀の柄から両手を離す冷徹な決断を下した。
腹の皮一枚を掠めるように弦十郎の蹴りを躱すと、その勢いを逆手に取って懐深くへと踏み込み、巨躯を預けるように大外刈りを仕掛ける。古流柔術の粋を極めた、淀みない崩しの連撃。
足首を刈り取られれば、次の一撃を完全に防ぎ切ることは不可能。
それを悟った弦十郎は、無理に抵抗することなく全身の力を完全に脱力した。訃堂が叩き込んできた遠心力と推進力を己の体重に素直に乗せ、地面へと叩きつけられる本来の放物線を自らの腕力の跳ね上げによって強引に修正する。
叩きつけられるはずだった大地を掠め、弦十郎の巨躯は高く虚空へと舞い上がった。訃堂の必殺の間合いを空中で鮮やかに外しながら、風を切って後方へと退避していく。
宙に跳ね上がった愛刀「叢雲」の柄を、訃堂の剛腕が寸分の狂いもなく掴み取る。落下する弦十郎の無防備な胴を狙い澄まし、飛び上がったた訃堂が下段から鋭利な刺突を放つ。
――平突きの一撃が虚空を穿ち、空気を引き裂き弦十郎に迫る。
だが、弦十郎は空中にありながら、異次元の体幹で身を捻る。刃先が防弾スーツの胸元を僅かに裂いて空を切り、訃堂体が弦十郎に近づいたその刹那、空中で身体を鋭角に旋回させた弦十郎の右拳が、訃堂目掛けて猛烈な反撃を叩き込んだ。
ゴォッ! と重い肉弾音が響き、訃堂の身体が後方へと大きく吹き飛ぶ。
(……浅い!)
着地した弦十郎の表情は険しかった。直撃のコンマ数秒前、驚異的な身体操作で訃堂は僅かに身を引き、衝撃を背後へ逃がしていたのだ。吹き飛びこそすれ、発勁の破壊エネルギーはほぼ無力化されている。老獪極まる怪物の技量に、弦十郎の腹の底が冷たく引き締まる。
弦十郎は着地すると、大地に吹き飛ばされた訃堂に向かい叫んだ。
「フロンティアは俺たちとパヴァリアが確保した!協力者のニンフルサグは奏達が止めてくれる!そして、優斗くんを利用しようとした企みもシェム·ハが復活した今、あんたの言うことは効かないだろう。親父!お前の野望は潰えたッ!!」
弦十郎の悲痛な叫びを、着地した訃堂は冷酷な眼差しで切り捨てた。
「否! 儂が日の本を手に入れ、世界の頂に立つ! これ以上の守護があろうかッ!」
その瞳に宿るのは、護国の憂いなどではない。長年培った他国への憎悪と猜疑心が醜く肥大化し、かつて自然と民を愛したはずの志を喰らい尽くした、純粋な支配欲の狂気だった。
「あの新城の小僧の心など、脆い硝子細工よ! 再びあの老いぼれを、あるいはあの小娘どもを盾に揺さぶり続ければ、神の力とて儂の掌の上で都合よく踊るのみ! シェム・ハの神威を以て世界中の有象無象の精神を支配し、この日の本を何人たりとも侵せぬ絶対の聖域へと仕立て上げてくれる! ……もはや、器として誂えた翼などという出来損ないの道具すら要らぬ! 若さを取り戻した儂自らが、永遠に風鳴の血を統べ、この国を導き続けるのだッ!!」
吐き散らされる傲慢な妄執。そこにいるのは、もはやかつて仰ぎ見た父親ではなく、ただ己の欲望に身を委ねた一匹の悪鬼だった。
弦十郎の瞳に、一瞬だけ深い哀愁の影が落ちる。
だが、次の瞬間に彼が浮かべたのは、一切の情念をそぎ落とした冷徹な武神の相だった。
「……もう、いい」
親子の絆を、先達としての過去の敬意を、残されていた情の最後の一片までもを、弦十郎は自らの手で完全に断ち切った。ただ一人の凶悪なる悪鬼を討滅するため、彼は完全にリミッターを解き放つ。
大地が爆砕した。弦十郎の巨躯が不可視の速度で消え去り、訃堂の鼻先へと先手を取って肉薄する。
「おおおおおおッ!!」
捨て身に等しい超重量の連撃が、暴風雨となって訃堂を襲う。
若返り、肉体の全盛期を超越した訃堂の動体視力をもってしても、息子が弟子と戦友達とで磨き上げ、生物の限界を超越した理外の格闘術を完全に見切ることができない。
「小癪なぁあああっ!!」
訃堂は血を吐きながら叢雲を狂乱の速度で旋回させ、刀身で強引に拳を弾いて応戦する。肉が裂け、骨が軋む。互いの血飛沫が火花と共に夜の森を赤く染め上げていく。
死線の果て、弦十郎が血塗れの右足を、最後の一歩として深く踏み込んだ。
その瞬間、訃堂の視界が冴え渡る。それは、訃堂にしても叢雲の間合い。
――弦十郎の首を両断できる、絶対の必殺領域。
(勝った――ッ!)
確信が、訃堂の心にほんの刹那の「緩み」を生んだ。
受け流しの機先を奪われたその僅かな硬直を、弦十郎の拳は見逃さない。本来であれば流せるはずだった渾身の一撃が、神速の螺旋を描いて訃堂に放たれる。
「おおぉぉおおあああぁっっ!!!」
烈火の様な弦十郎の一声。そして、拳と刀が当たる。
パキ。
訃堂は感じた。怯えるかのように悲鳴のような金属音が手の中で木霊したことを。
「な、にぃっ!?」
訃堂の命に等しき名刀「叢雲」が、弦十郎の硬質化した拳で削るように激突し、根本まで粉々に砕け散る。
砕かれた無数の鋼の破片が夜空に舞い散る中、勢いを一切殺さぬ弦十郎の鉄拳が、訃堂の胸板深くへとめり込んだ。
「が、はぁ!!」
骨を軋ませる重い余韻を残し、訃堂が倒れる音を最後に、荒れ果てた山林に静寂が戻る。
「はあ、はあ」
撃ち抜いた姿勢のまま荒い息をする弦十郎。
訃堂の胸板を撃ち抜いたかのように見えた弦十郎の拳。だが、訃堂の心臓は止まっていなかった。
彼が打ち込んだのは、命を刈り取る殺人拳ではない。相手の闘気と身体機能を完全に掌握し、内臓への致命傷を逃がしながら、二度と戦えぬよう神経の伝達のみを寸断する。
――武の極致、活人拳の誇りそのものだった。
「……が……っ……」
砕け散った叢雲の破片が夜露に濡れて散らばる中、訃堂は力なく仰向けに地面へと倒れ伏した。全身の筋肉が弛緩し、もはや指先一つ動かすことすら叶わない。荒い息を吐きながら、怪物は血の滲む目で自らを討った息子を見上げ、掠れた声で問うた。
「なぜ……殺さなんだ……。そのような生温い甘さで……日の本が守れるとでも思うてか。歌で人が、世界が繋がるなどという戯言……脆弱な夢物語に過ぎぬわ……!」
足元に横たわるかつての巨頭を、弦十郎は静かに、けれど一片の曇りもない瞳で見下ろした。
「だとしてもだ。あいつらは傷つき、迷いながらも……それでも前を、未来を見て生きている。かつての悲しみに囚われ、後ろを向いたまま足を止めてしまったあんたとは違うんだよ、親父」
弦十郎は躊躇うことなく膝をつくと、泥と血に汚れた訃堂の身体を抱き起こした。その腕を己の首筋へと回し、ずっしりとした重みを受け止めながら、ゆっくりと肩を貸して立ち上がらせる。
「……それに。どれほど道を違えようが、あんたは俺たちの親父だからな」
弦十郎の頑強な肩から伝わってくる、熱く、力強い命の鼓動。
武芸を遥かな高みへと昇華させ、護国の鬼となった自分すらも抱きとめてみせた息子の器の前に、訃堂の内に渦巻いていた執念の炎が、すうっと静かに鎮火していく。
「……風鳴の祈り、護国の願いは……ここに潰えて果てたと見える……」
自嘲気味に呟いた訃堂の双眸から、悪鬼の如き険呑な光はすでに消え去っていた。己を超えてみせた息子の背中に支えられながら、老怪物はもはや抗う術のない現実を悟り、素直に己の敗北を受け入れた。
弦十郎が訃堂の開けた大穴から飛び出し、山林へと追撃に向かった直後のこと――。
半壊した風鳴邸の大広間には、息が詰まるほどの濃密な威が澱のように立ち込めていた。
キャロルは、美しく流れる金髪を揺らし、展開した竪琴、ファウストローブ『ダウルダヴラ』の弦に鋭い魔力を滾らせながら、シェム·ハの器となった優斗の姿を冷たく見据えていた。
その背後で、八紘が耳元の通信機を押さえ、フロンティアの司令部と連絡を取り合っている。
「……そうか。響くんが前線へ到達し、全装者、パヴァリアも含めて合流を完了したのだな。……了解した。状況を注視し、支援を継続をしてくれ」
通信を切った八紘は、キャロルの背中に向けて手短に戦況を告げた。
「キャロルくん、フロンティアの装者たちは全員無事だ。今、響くんがニンフルサグとの対話を試みているらしい」
「……あのバカめ。悠長に対話などと……だが、下手にぶつかって全滅するよりはマシか」
キャロルは視線をシェム·ハから一切外さぬまま、吐き捨てるように返す。
八紘は深く眠る光一郎を丁寧に抱き起こすと、鋭い視線で周囲の監査部隊に合図を送った。
「すまないが、父の身柄確保は弦に任せ、私は光一郎殿を直ちに安全な後方へ移送する。……ここを頼めるか」
「ふん、言われずとも。さっさと連れていけ。足手まといがいると、オレが十全に振るえなくなる」
冷淡な物言いで送り出すキャロル。八紘は小さく頷き、部隊と共に足早に屋敷から撤退していった。
その間、優斗の肉体を宿したシェム・ハは、手出しをするどころか、ピクリとも動かなかった。ただ紫の怪異な同心円が灯る双眸で、去りゆく人間たちの背中を、無関心そうに見送っていただけだった。
八紘たちの気配が完全に遠ざかったのを見届け、キャロルは険しい眼差しで神を射抜く。
「……なぜ見逃す」
静寂を切り裂く、氷のような問い。
「今の貴様の力なら、有象無象を塵一つ残さず消滅させることなど造作もなかったはずだ。何を企んでいる?」
その問いに対し、シェム・ハは優斗の顔立ちのまま、どこか儚げで、そして底知れぬほど傲慢な薄笑みを浮かべた。
「企む、か。買い被るなよ、錬金術師。……我はただ、優斗との『契約』を果たしているだけに過ぎぬ」
「契約だと……?」
「そうだ。愛する者たちの日常を守れ、誰も傷つけるな、とあの魂が願ったのだ。ならば、我に仇なすことなく立ち去る無害な者を、わざわざ屠る理由がどこにある? 我にとって、この星の人間とはすべて愛しき我が僕――等しく庇護下にある存在なのだからな」
まるで慈悲深い飼い主が、庭先を這う虫をあえて踏み潰さなかったとでも言わんばかりの声音。
そこに宿る絶対的な見下しを敏感に感じ取ったキャロルは、ギリッと奥歯を鳴らし、金髪を逆立てて眉間を激しく顰めた。
「……庇護下、だと?ふざけるなよ。知った風な口を利いて、このオレまで十把一絡げの弱者扱いか……!」
プライドを土足で踏みにじられた苛立ちが、ダウルダヴラの魔弦を激しく共鳴させ、極光の魔力となって爆発しかけた、その時だった。
カシャン、と小気味よい金属の駆動音と共に、四つの影が広間へと滑り込んできた。
「風鳴邸の制圧支援、地味に完了いたしました。お待たせいたしました、マスター」
冷徹にコインを弄びながら、レイアが恭しく一礼する。
「あらあら〜?ずいぶんと舐められたものねぇ。あたしたちのマスターを虫けら扱いだなんて、いい度胸じゃない?」
ガリィが意地悪な小悪魔の笑みを浮かべ、指先から水滴を弄びながら嘲笑混じりに敵を見据える。
「マスター!待たせたか?あんなヤツ、あたしがドカンと粉砕してやるゾ!」
ミカが無邪気に戦闘用に切り替えた腕を唸らせ、好戦的な光を宿した瞳を爛々と輝かせる。
「ふふ、だめですよミカ。少なくとも優斗さんを救い出してからですわ。それにしても、我が主を前にして、ずいぶんと不敬な神様ですこと。いつでも八つ裂きにする準備はできておりますわ、マスター」
ファラが優雅にスカートの裾をつまみ、嫋やかな会釈と共に両手の剣刃を静かに展開させた。
かつて世界を解剖するために創られ、今はただ主の誇りと記憶のために戦う四体の錬金人形――オートスコアラーの全機が、主の傍らへと勢揃いした。
ダウルダヴラの黄金のフレームが微かに震え、インカムから電子音が鳴り響いた。通信の主は、S.O.N.G.潜水艦本部に詰めているエルフナインだ。
「……エルフナインか」
『キャロル! 風鳴邸の状況はどうなっているのですか!?』
焦燥の滲む声に、キャロルはダウルダヴラの弦を指先で弾きながら、極めて淡々と現状を告げる。
「風鳴訃堂は風鳴弦十郎が追っていった。優斗の祖父は風鳴八紘の手で後方へ移送中だ。……問題は、目の前だな。新城優斗の精神は完全に沈み、肉体は――シェム・ハに乗っ取られた」
『そんな……優斗さん……!』
通信越しに息を呑むエルフナイン。だが、彼女はすぐに思考を巡らせ、切迫した調子で言葉を継いだ。
『シェム·ハの最低限のデータは、了子さんからの月に登録されていた情報と、エンキさんの生体データと記憶から照合しました。ですが……相手は惑星環境すら書き換える原初の神です。いくらみんなが揃っているとはいえ、正面から救出試みるのはあまりに勝算が……!』
「はん、くだらない心配をするな」
キャロルは嘲笑混じりに鼻を鳴らし、エルフナインの危惧を一蹴した。
「このオレを誰だと思っている。世界相手に解剖し尽くそうとした錬金術師。神の一柱や二柱、オレとパパ、そして……お前と創り出した術理で切り刻んでやれない道理はない」
「キャロル……」
不敵極まる傲慢さに加え、エルフナインを家族と認めたキャロルの物言いに、通信の向こうでエルフナインは微かに息を詰まらせたが、すぐに意を決したように声を張り上げた。
『……なら、一つだけ優斗さんを助け出すプランがあります!』
「言ってみろ」
『エンキさんの神性構造データをベースに、優斗さんの身体へ干渉します。肉体と魂を傷つけず、内側に寄生しているシェム・ハの神格因子――そのエネルギーだけをピンポイントで標的に定め、錬金術で分解・強制剥離するのです!』
「……なるほどな」
キャロルの黄金の瞳が、僅かに細められた。
肉体ごと消し去るのではなく、神の力だけを解剖して引き剥がす。机上の空論に近い離れ業だが、優斗の命を拾い上げる道はそれ以外に存在しない。
「……言われずとも、最初からそのつもりだったさ」
キャロルはそっぽを向くように僅かに顎を逸らすと、どこか気恥ずかしさを押し殺した、早口な声音で呟いた。
「……エルフナイン」
『はいっ?』
「……お前の演算サポートを寄越せ。因子の特定と術式の構築、オレだけでは僅かにリソースが足りん。……背中を預けてやるから、遅れを取るなよ」
ツンと突き放すような口調の底に滲む、紛れもない信頼の響き。
通信の向こうで、エルフナインの表情がパッと花が咲いたように明るくなるのが、声の調子だけでありありと伝わってきた。
『……! はいっ!任せてください、キャロル!全力でバックアップします!』
回線の向こうで力強く気合を入れるエルフナインの声を背中で受け止め、キャロルは通信を待機状態へと切り替えた。
その一連のやり取りの間、シェム・ハは優斗の肉体を宿したまま、一切邪魔をすることなく静観していた。ただ退屈そうに首を傾げる。
「……相談は終わったか? 小さき錬金術師よ」
傲慢な神の問いかけに、キャロルはダウルダヴラを構え直し、これ以上ないほど挑発的な笑みを唇に刻んだ。
「ああ。少なくとも、他人の器に居座る図々しい不法滞在者を、力づくで叩き出す相談は終わったところだ」
「くつくつ……不法滞在、か。口の減らぬ娘だ」
シェム・ハの喉から、低く冷たい嗤い声が漏れた。
次の瞬間、優斗の細い肉体の内側から、常世の理を軽々と歪める超絶的な紫のエネルギーが奔流となって全身を巡り始める。
「面白い。ならばやってみるがいい、人の子の浅知恵を――」
神威に満ちた不敵な笑みを浮かべ、シェム・ハが冷然と手をかざした。
「振るうだけの力があればの話だがな」
「ほざけッ!」
シェム・ハが冷笑と共に掲げた手の背後に、空間を歪めて無数の紫の光弾が瞬時に励起した。優に百を超える神威の砲列。シェム・ハが人差し指をわずかに傾けた、ただそれだけで、大気を灼き焦がす光弾の豪雨が一斉にキャロル目掛けて射出された。
だが、キャロルは眉一つ動かさない。
ダウルダヴラの装甲各部から、超振動する極細の魔弦が八方へとしなやかに展開される。目にも留まらぬ超高速で宙を刻むその弦は、迫り来る神の弾幕を寸分の狂いもなく迎撃し、瞬く間にことごとく両断、空中で爆砕させてみせた。
「ガリィ!」
「おまかせあれ〜♪」
キャロルの鋭い呼応に、ガリィが愉快な声で跳ね上がる。広げた掌から吹き上がった奔流が、一瞬にして視界を遮る巨大な水のカーテンを形成。神の眼を眩ませた刹那、吹き荒れる絶対零度の冷気が水を瞬時に凍結・硬化させ、白銀の簡易防壁へと変貌させた。
しかし、シェム・ハは氷壁を一瞥しただけで、即座に次の手を看破する。
「小細工を」
死角となった背後、風による屈折で自身を透明化させ、虚空を割って肉薄したファラが大剣を両手で振り抜く。だが、シェム・ハは振り返りもせず、片手間に展開した力場によってその必殺の一閃を容易く防ぎ止めた。
「あら」
金属が軋む火花の中、剣の腹で気絶を狙っていたファラは軽く驚いたように目を丸くする。しかし慌てる素振りすら見せず、ふわりと優雅にバックステップで間合いを外した。
そのすれ違いざま、入れ替わるようにして無数の閃光がシェム・ハの足元へ殺到する。
「派手に穿ち、地味に退路を断つ――!」
レイアの指先から弾き出された無数の硬貨が、超音速の散弾となってバリアの足元を激しく叩き、大地を蜂の巣にして爆発的な土煙を巻き上げた。
致命傷には至らずとも、寸分の淀みもない人形たちの波状攻撃に、シェム・ハは鬱陶しそうにわずかに眉をひそめた。
舞い上がった土煙を猛然と突き破り、あえて真正面から突貫したのはミカだった。
両腕の五本爪を獰猛に限界まで広げ、推進器の爆炎を背負って突進してくるその姿は、人間――いや、まさに弾丸そのものとなった「人形大砲」だった。
「優斗、ゲットだゾ〜!!」
無邪気な雄叫びと共に肉薄するミカに対し、シェム・ハは避ける素振りすら見せず、あえて正面からその剛腕を迎え撃った。
「面白い!」
ミカの鋭利な五爪と、神気を纏ったシェム・ハの五指が、寸分の狂いもなく鏡合わせのように激突する。
発生した凄まじい衝撃波が瓦礫を粉微塵に吹き飛ばし、大気が悲鳴を上げる。シェム·ハとミカの膂力――数秒に及ぶ凄まじい力比べの拮抗の末、ミカの踏み込みが僅かに神の重心を押し切った。
「ふっと、べっっ!!」
ズドォォッ! と重い風切り音を立て、シェム・ハの身体が後方へと豪快に吹き飛ばされる。
「くっ……やるではないかッ!」
吹き飛びながらも体勢を立て直し、シェム・ハの瞳が戦意の高まりと共にギラギラと鋭く輝いた。
だが――その昂揚の表情は、次の瞬間に意外なものを見たかのように、興味深げな色へと変わる。
「……む?」
空中で静止しようとしたシェム・ハの肉体を、目に見えぬ強烈な張力が絡め取っていた。
視線を落とせば、優斗の細い手足、胴体、そして首筋に至るまで、極細の白銀に輝くダウルダヴラの魔弦が幾重にも複雑に巻きついていたのだ。
先ほどレイアが無数に放ち、大地に突き刺さっていたコイン――その一枚一枚に、あらかじめキャロルの弦が結びつけられていた。
ミカの一撃でどの方向へ吹き飛ばされようとも、逃げ場を完全に塞いで絡め取る、計算し尽くされた不可視の「蜘蛛の巣結界」
シェム・ハが視線を走らせると、瓦礫の上に仁王立ちし、束ねた弦を両手でグッと力任せに引き絞っているレイアの姿が視界に飛び込んできた。
「派手な一撃の裏で、地味に網を張るのが私の役目ですので」
淡々と告げるレイアの腕に、拘束の反動を逃がさぬようギリギリと負荷がかかる。神の自由を完全に封じる、オートスコアラーたちの連携が完璧に決まっていた。
『キャロル! 今ですッ!!』
通信機から弾けたエルフナインの鋭い叫びと同時に、キャロルの身体が閃光となって宙を駆けた。
狙うは、空中で四肢を完全に封じられ、身動きの取れないシェム・ハ。
「お前たちアヌンナキの特性は厄介だが――拘束ならば、その身に確かに届くだろうッ!」
受けたダメージを別次元の並行世界へと逃がし、物理的破壊を完全に無効化するアヌンナキの絶対防御。
だが、その特性も「傷つけず、ただその場に縫い止める」拘束ならば機能しない。相手の理を逆手に取ったキャロルの緻密な戦術は、見事に神の自由を奪い去っていた。
しかし――拘束されたシェム・ハの唇には、焦りの色など微塵もなかった。
むしろ、優斗の顔立ちのまま、子供の浅知恵を憐れむかのような薄ら笑いすら浮かべている。
(……何がおかしい?なぜ少しも動じない!?)
脳裏を掠めた微かな違和感を力づくで振り払い、キャロルは当初の目的を果たすべく両手を掲げた。
四方を囲むオートスコアラーたちが放つ四大元素の魔力と共鳴させ増幅。シェム・ハの周囲に幾重もの巨大な錬成陣が立体的に展開される。
エンキから提供された神性構造の解析データは、すでにエルフナインの手でキャロルへと同期されていた。
優斗の肉体と魂を傷つけることなく、内側に寄生するシェム・ハの神格のみを標的に定め、分子レベルで切り離して虚無へと分解する――キャロルの神域の錬金術をもってすれば、容易く完遂できるはずの術式だった。
だが、錬成陣が極光を放ち、まさに術理が発動せんとしたその刹那。
「……油断であるな、小さき者よ。四肢を縛れば、我が動けぬとでも思ったか?」
冷徹な声が響いた瞬間、シェム・ハの肉体に巻きついていたダウルダヴラの魔弦に、おぞましい異変が走った。
金属質の冷たい硬化音と共に、白銀の魔導弦が急速にその輝きを失い、冷たく澱んだ「銀」の質感へと上書きされていく。
(……なっ、これはッ!?)
シェム・ハが振るう絶対の権能、あらゆる物質を純銀へと上書きする『埒外物理』
その情報は、すでにエンキの証言としてS.O.N.G.全体に共有されていた。そしてエンキの記憶によれば、その侵食現象は「手のひら」を介して放たれるはずだった。だからこそ、両腕を完全に外側へと縛り上げ、掌の自由を奪ったこの拘束陣なら安全に術式を完遂できると確信していたのだ。
だが、現実は違った。
手のひらなど介さず、優斗の全身の皮膚、触れているその接触面すべてから、直接銀化の呪詛が奔流となって弦を伝い、逆流していたのだ。
侵食の速度は凄まじく、張り巡らされた糸の結界を呑み込みながら、拘束の起点――レイアの両手目掛けて一瞬で駆け上がっていく。
「チィッ……! レイア、今すぐ手を離せッ!!」
キャロルの鋭い怒声が広間に木霊する。
銀化の津波が指先に到達するコンマ数秒前、レイアの冷徹な思考が瞬時に状況を演算した。
(このまま引き絞り続ければ、マスターの分解より先に私が銀へと呑まれ、地味に無駄死にする――!)
そうなれば錬成陣を張ったキャロルに即座に襲いかかり、戦力の減った状態では完全にキャロルを守りきれないだろう。躊躇は皆無だった。
レイアは即座に両手の弦を放り捨て、脚力を一気に全開にして後方へと跳躍。間一髪、自らの身体が銀の彫像へと変貌する破滅の濁流から離脱を果たした。
チッ、とキャロルの舌打ちが全壊した広間に苦々しく響いた。
銀化の侵食によってボロボロと崩れ落ちる魔導弦の破片を睨みつける。傷つけずに優斗を救い出すその最善手は、今の一瞬で完全に潰えた。
だが、キャロル・マールス・ディーンハイムという錬金術師は、この程度で膝を屈するほど軟弱ではない。
傷つけずに救えないというのなら、たとえその肉体を傷つけようが、自らの身がどれほど傷つこうが、力づくで引きずり戻すまで。
ただ、平和に生きていてほしい。
その未来のためならば、どれほど憎まれようが、嫌われようが、あるいはその記憶から自分の存在が綺麗さっぱり忘れ去られようが構わない。
自らの復讐心に奪われた記憶をすべて思い出させてくれた。諦めていた生きる意味と、可能性を信じて未来を見ることを教えてくれた。
これから先、同じ時間を歩み続けたいと願った、愛する男への献身。
(……ああ。パパもきっと、あの時――オレと同じ覚悟を『私』に遺したんだな)
脳裏を掠めた幼き日の記憶。かつて「私」と呼んでいた無力な少女の胸に遺された、父の命がけの想いと、今の自らの覚悟が寸分の狂いもなく重なり合う。
だが――拘束から解き放たれたシェム・ハは、反撃に出る素振りすら見せなかった。
天井の吹き飛んだ屋敷の頭上、青空の片隅に白く薄っすらと浮かぶ昼の月を、ただ静かに見上げていた。
「……そろそろ、か」
ぽつりと落ちた神の呟き。
手出しをしてこない不気味なほどの静けさに、キャロルは全身の毛穴が逆立つような強烈な悪寒を覚えた。
次の瞬間――大地が激しく悲鳴を上げた。風鳴邸はおろか、霊峰の全域を揺るがす未曾有の地響き。通信機の向こうから、エルフナインの狼狽した悲鳴が飛び込んでくる。
「何だッ!?」
キャロルが身構えたその時、シェム・ハの背後の大地が爆砕した。
割れた地底からせり上がってきたのは、木のような形相をした巨大な異形。円筒形の幹には脊椎動物の背骨のように無数の無機質な節が連なり、その表皮にはおぞましい紅い筋が、まるで生き物の血管のようにドクドクと脈打っていた。
『ま、まさか……ユグドラシルシステム!?どうして……どうしてなのですかッ!?』
通信越しに、エルフナインの絶望的な声が響く。
『エンキさんの証言では、人類の脳をネットワークジャマーである「バラル」から解放し、生体端末として同期させない限り、ユグドラシルは絶対に起動できないはずなのに……ッ!』
「友里あおい、答えろ!」
混乱する通信へ、キャロルは氷のように冷徹な声を叩き込んだ。
「この風鳴邸の地下には何がある!? 隠し施設か何かが存在するはずだ!」
『えっ……!? は、はい! 直ちにスキャンします……!』
通信の奥で凄まじいキーボードの打鍵音が鳴り、数秒と経たずに友里あおいの切迫した声が返ってきた。
『ありました!風鳴邸の最深地下フロア――ここには国内屈指の規模を誇る超大型電算室が設置されていて!……あっ』
告げた瞬間、あおい自身がその意味の恐ろしさに息を呑んだ。引き継ぐように、エルフナインが戦慄に声を震わせる。
『まさか……!バラルによる人間の脳の並列同期の代わりに、その電算室を中継基地にしてハッキングを仕掛け、世界中のネットワークや演算端末を強制接続してユグドラシルを……!?』
「これだけではない! 見よ!これより始まるは、世界の新しい在り方だ!!」
シェム・ハは歓喜に満ちた声を張り上げ、両腕を天へと高々と広げた。
その瞬間、潜水艦本部のモニターを監視していた藤尭朔也が、血の気の引いた顔で叫び声を上げた。
『日本だけじゃない……ッ!ユーラシア、北米、大西洋……世界各地の重要電算施設のある地点から、ユグドラシルシステムが次々と地表へ林立していきますッ!!』
キャロルの瞳の奥で、魔力が苛烈に燃え盛った。
これ以上の猶予はない。世界中にユグドラシルが芽吹き始めた今、これ以上シェム・ハの暴走を許せば、器である優斗の魂と肉体には取り返しのつかない致命的な傷が刻まれる。
(……オレの全てを賭ける!!)
痛覚も、後悔も、積み重ねてきた想い出の燃焼すらも厭わない。
キャロルはダウルダヴラの全弦を極限まで励起させ、自身の全霊、オートスコアラーたちが抱える四大元素の全リソースすらも束ね上げ、力づくで神を抉り出す分解の術式へと手を伸ばした。
まさにその刹那――。
「ふっ……準備が整った以上、もはやここに用はない」
シェム・ハは広間に吹き荒れる破壊の魔力など意にも介さず、優斗の口元を嘲笑に歪めた。
「愉快であった。小さき錬金術師よ。貴様とのじゃれ合いは、退屈しのぎには中々楽しめたぞ」
「貴様ッ――!」
キャロルの絶叫が虚空を裂く。
だが、その切っ先が届くよりも早く、シェム・ハの肉体は紫の幾何学的な光の粒子へと解かれ、空間の狭間へと一瞬で溶け落ちるように消滅した。
分解の準備虚しく魔力は虚空を揺らすだけ。静寂だけが半壊した風鳴邸に残される。
キャロルは数秒の間、シェム·ハが消え去った空を見つめて呆然と息を呑んだ。だが、その硬直を強靭な精神力で即座に叩き割る。
「……くそッ!おい、エルフナイン!エルフナイン、フロンティアはどうなっている!あいつはどこへ跳んだッ!?」
通信機へ怒声を叩きつける。
だが、返ってきたのは即答ではなく、息を呑む微かな気配だけだった。
『……あ……そん、な……』
「エルフナイン!?何があったッ!?」
『……ぁ……』
通信の向こうで、エルフナインは完全に言葉を失っていた。
ただ荒い呼吸と、カチャカチャと震える指先が計器を叩く音だけが漏れ聞こえてくる。
潜水艦本部のメインモニター。
そしてキャロルのファウストローブへと転送されてきた映像が網膜に焼き付いた瞬間、キャロルの息の根すらも凍りついた。
荒れ狂うフロンティアの大地。
装者たちが言葉を紡ぎ、ようやくその頑なな心を揺るがし始めていたはずのニンフルサグ。
その無防備な背後――空間を裂いて現れた
戦闘描写があっさりしすぎじゃないかと悩む、本話にぶち込む技量がない作者のQ&A
Q、若返った訃堂と強化された弦十郎の戦力差は?
A、戦闘力は、身体能力、経験、技量、気合で考えた場合。経験、技量は訃堂が上で、身体能力、気合が弦十郎が上を取っています。しかし技量においてはエンキとの手合わせや弟子の奏達との模擬戦などで成長しているので対した差はないです。
しかし原作の訃堂は翼に、護国の鬼として後を継がせれば死んでもいい、と捨て身なので弦十郎の最後の緩みで逆転できました。ここの訃堂は若返ったせいか捨て身の考えは持てず、むしろ原作とは逆になっていました。
Q、キャロルあんまり活躍していないね。
A、今ここで世紀の超絶バトルすると、キャロルが廃人になるかわりにこの小説が終わってしまいます。なので無理やりユグドラシルを起動させる必要があったのですね。
Q、シェム·ハの行動早くない?
A、原作違う点は、早くに目覚めたこと。ニンフルサグから優斗に分けられたリソースをゲットできたこと。優斗の精神世界から今の世界情勢と戦力を知ってしまった事。運よく風鳴邸にユグドラシルと代わりになる電算室あったこと等。
つまりRTA始める土台が完璧に整っていました。我大歓喜、イェーイ。