偉大な先人方に感謝を
ともあれ双子姉妹は姉も大概天才であるべきである
「おねーちゃん! どこいくの?」
「どこにも行かないし、行けないよ」
「ほんとにほんと? おとーさんもおかーさんもどっかいっちゃったじゃん!」
「本当に本当。大丈夫、ずっとこうやって手を繋いでいるから。
「まいごじゃないもん! ・・・・・・でも、やくそくする」
スーパーで戸棚に囲まれて、そのとき
わたしは
四歳のわたしは満足してしまえば不足を失ってしまうことを知らなかったから。
そして当然、その日その時間その瞬間の
「良い夢だった?」
「うん! 起きてお姉ちゃんと一緒だったから!」
瞼を持ち上げればそこにはお姉ちゃんの微笑みがあった。
鎧戸とカーテン達が為す三重の障壁、それが防ぎ損じた微かな光は壁紙へ滲んでいる。照らされたとは言えない暗中で、お姉ちゃんならきっと輪郭だけの影法師だと喩える相互の認識。そんなことないと思うんだけどなあ。
脳の補完はげに恐ろしきと思う。同時に、わたしの網膜に投影された安らかな目元が現実だと教えてくれる。だってわたしはこんなにも優しいものは思い描けないから。
十年経っても飽きないその柔らかいカタチの眼は、暗闇の最中で何も映せない程に濃い冥色を湛え、私だけを見ていた。
間近で見るとやっぱり素敵な造形の顔。これが自画自賛にならない程度にはわたしとお姉ちゃんは似ていないのだから嬉しいような悲しいような。双子なのに。それとも双子だからこそかも。
「お姉ちゃんみたいになりたいなー」
「私と月海は十分似ていると思う」
「それは相対的にじゃん! 絶対的には全然だよ! お姉ちゃんみたいにカッコよくって話」
「その言葉を着こなせるのは私よりもあなただから。それに、私に似ても改善する事柄なんてない。似ないでいてくれた方が断然嬉しい」
お姉ちゃんが身動ぎする。波打つ髪が常態より空気を含んでいた。わたしがいくら讃えても太陽に手を伸ばすに等しく言葉は届いた気がしない。
少しぐらい照れてくれた方が嬉しいんだけど。慣れかな。
「そういうことじゃないんだけどなー。お姉ちゃんわたしが面食いなの知ってるでしょ」
「知ってる。そもそも月海がこの質と長さの髪までは真似したくないことも」
「まあねー。好きだけど見るだけで満足」
櫛の通りとドライヤーの時間で横から日々痛感しております。
お姉ちゃんが布団から伸ばした手でデジタル時計のボタンを押す。画面が光った。角度の都合で数字が見えないのを傾ける。中途半端だー。二度寝は厳しいけど布団から出るには違和感の残る時間。
他人を鑑みないならともかく、当たり前ながらわたしは三文よりもお姉ちゃんの方が恋しいお年頃。滅多に生活の定型を崩さないお姉ちゃんに合わせ、一緒に布団の中だ。
鎧戸のお陰で自由意志を無視して日の目を浴びる事態には発展しない。二人揃って寝坊は未経験だから経験則に依れば無問題。そもそも寝坊しかけるのはわたしばっかりだ。
会話の中でわたしを犬猫にしてくれるお姉ちゃんだけど、わたしが家畜化された肉食獣ならそっちは野生の草食動物だよ。
お姉ちゃんは家中の窓の鍵からカーテン、玄関扉の上下の鍵にガードも使った上で部屋を暗闇に落とさないと眠れないのだ。識者のわたしに曰く、言葉にはしないけどリビングから扉二つを通して入ってくる光も好まない。
我が家がマンションだから良かったものの、一軒家ならずーっとストレスを抱えて暮らしていたんじゃないかと心配になる。
「今日午後どこか行こうよ」
「どこへ? 私はこの町の土地鑑が無いけど」
「出不精めー。でも、うーん、どこにしよっか」
「考えてなかったの? あなたが?」
「だってお姉ちゃんに考えて欲しいんだもん。たまにはお姉ちゃんの考えた場所に行きたいじゃん!」
「そういうこと・・・・・・」
お姉ちゃんが柳眉を困らせ悩み込む。向き合って真正面からまっすぐな視線をぶつけられる。こっちまでその真面目がにじり込んできた。お姉ちゃんの神経はわたしを瞳の奥に届けてはくれないのに。
「わたしはお姉ちゃんが選んだならどんなところでも良いよ」
「一任されるのが一番困るのは知ってるでしょ」
「だいじょーぶ! 楽しくないなら楽しくするから」
手を掴んで顔を接近させる。睫毛の本数まで観察出来る。暗いのに慣れた眼は瞳に住んだわたしを見つけた。多分、お姉ちゃんも。
「もう少しだけ考えさせて。あんまりにも月海に頼りきりだと私が妹になってしまうから」
「そんなことないけど。お姉ちゃんのお気に召すままどうぞどうぞ」
普遍的な双子の上下関係とはどこまで自明なのだろう。わたしとお姉ちゃんの関係はともすれば幾重にも歳の差を感じるものだ。双子と姉妹の側面の内、姉妹の面ばかり取り沙汰している。双子の面は探査機でも飛ばさないと閲覧に適わないだろう。
わたしがお姉ちゃんを上位者に据えてお姉ちゃんが応えたのか、お姉ちゃんが姉として振る舞いそれをわたしが受容したのか。順番があったのか同時に行動したのかは憶えていない。
ただ、わたしたち二人共にこの間柄へ過ぎたるも及ばざるも感じることがなかったのは確かだった。
「ところで、布団の共同所有は今週二回目だけど。姉離れどころか低学年の頃よりも近づいていない?」
「妹でいるためにお姉ちゃんの姉力を更に高めようと思って」
「まあ良いか。夏になったら密着するのは止めて頂戴」
「うん! ベッドから落ちない程度に離れるから安心して」
「頻度を減らすとは言わない?」
「それはわたしが決定出来る事柄ではありませんので、ご理解ご協力のほどくださーい」
「上から降りてくるのを止めろとは言わないけどね」
もう時間だ。二段ベッドの梯子に手を添えてすっくり立ち上がると、壁の側に居たお姉ちゃんもそれに倣う。そして直立が揺らいだ。
「倒れたらどうするの。低血圧なのはわかってるでしょ」
「しばらく起きてたし大丈夫だと思ったんだけどなあ。でもお姉ちゃん、手、取ってくれたじゃん」
「今回は、だけど。私はあなたの全てを知ってはいないし知ることも出来ないのだから、気をつけて」
「はーい」
わたしはお姉ちゃんの全部を詳らかにして理解したいしされたいんだけどな。
お姉ちゃんが開けた窓からは箒で掃かれたみたいに浮かぶ雲々と目の痛くなる青空が部屋に差し込んできた。あまりにも青すぎて未来なんて描けそうにない。
「楽しみにしとくね!」
「期待は裏切らないようにする」
窓外に立ち込める雲がわたしを春の陽光から隠してしまった。意識をここではないどこかに飛ばすには些か肌寒い閉塞感に包まれている。普段通りなら壊滅的な退屈で意識が教室中に散逸してしまう場面だ。
でも今日は違う。期待が加速度的に膨張していくのが自分ながらに理解出来る。前へ前へと引っ張るのには慣れていても逆の立場は本当に久々だから。
現実を一瞥する。担任は陳腐化した言葉を絞り出し、生徒は言葉を弾くビニールを纏う。三年続いた関係としては酷く乾燥していた。片手で足りる日数を経たら生徒の幾人かは涙でも流すのだろう。湿度の操作ってそこまで簡便だったのかな。
わたしにとって殆どの他人は大嫌いな存在でしかなかった。生きている間中ずっと。
わたしはお姉ちゃんが大好きだ。わたしは大好きを蔑ろにされたくはない。そんなこと、到底容認に能わない。わたしは生憎容認出来ない行為を働く人間を快く感じる人非人じゃない。そして他人は大抵お姉ちゃんを不当に曖昧に蔑ろにしてきた。
だってお姉ちゃんが優でわたしが劣なのに、わたしの方が多大な賛美を押し付けられた。そんなのはおかしい。
“わたしがしたいこと”と、“わたしがお姉ちゃんとしたいこと”は等号で接続している。したいことの所在地までお姉ちゃんの手を引くと、お姉ちゃんが一歩前に出て手を引きながら一緒に進んでくれる。勉強も運動も芸術も遍く行為の先を駆けていた。
お姉ちゃんは何を質問しても回答を授けてくれた。大人よりも大人らしく、人生を繰り返したように軽やか且つ真剣で、誤謬も誤解も断って納得だけを招いた。
それがこの上なく嬉しくて楽しかった。
なのに、繋いだ手を離すだけ、それだけで二人の世界に他人が割り込む。わたしだけを取り囲む。靉靆になるわたしを無視して自己満足のためだけに空虚な称賛を放つ。
他人はわたしの手を引かず、質問は表層だけではぐらかし続け、前を見る助力なんて一欠片もしない。でも勝手に希望を背に投げ前進のためある足を掴む。他人でしかないから。
お姉ちゃんは微かな言葉を受け取るだけ。遍く分野でわたしに勝って秀でているのに。
不可能が可能になると最初から能力が有るより偉くなるの?
無知が碩学になれば最初に博識でいるより前へ出るの?
そんな訳ない。至極当然だ。
そんなことさえ認知しないのか、出来ないのか。わたしはそんな他人が嫌いだ。
窓外を覗く。雲は厚さを増していた。
担任の話が明け教室を速足で抜け出す。廊下は混雑していたけれど、その背は瞬く間に発見出来る。
「おねーちゃん! かえろー!」
「あまり勢いをつけ過ぎない」
手を繋いで速足を継続する。こんな人混みからは疾く脱出したいから。
昇降口も抜けて天下に出れば、爽快で明朗な心持ちを抱く。我が事ながら単純さに呆れそうになった。ただ、お姉ちゃんの横でさえ幸福を感じられないよりかは随分良いやと思い直す。
お姉ちゃんの視線が凝固したままだ。目が口と同じくもごもごと何事か言いた気。
「手」
「手がどうしたの?」
「繋いだままで良いの?」
「えっ、もちろん! ああ、他の人の目線も込みでね」
「そう。月海が構わないのなら私から何か言うことも無いけれど」
わたしもお姉ちゃんも表立って揶揄されない立場を労せず確立出来たのは幸運だった。中学生程度所作で操作も制御も可能にしても、面倒ごとに手を染めたくはなかったから。
「さ、これからの予定は?」
「まずは・・・・・・」
「あっストップ! お楽しみにしたい!」
「月海にとっての斬新や革新はないと思うけど」
「それでも!」
「そう」
「笑ってる! 小さいときの恥ずかしいこと浮かんだんでしょ!」
微笑みは恐ろしい程に儚くて、指先が触れただけで風の様に崩れてしまいそうだった。
お姉ちゃんと話していれば目眩いてしまう時間の経過で玄関までが過ぎ去る。部屋に戻れば差し込むのは影ばかりだ。
網戸にすればしとどになった駐輪場の屋根と自動車が。
「丁度だったねー」
「運が良かった。それじゃあ明日にする?」
「とんでもない! 折角の木曜日じゃん! それにお姉ちゃん雨が一番好きでしょ」
「ええ。まあ良いか。行き先もこの天気で困る場所でなし。それに予定通りでしょう?」
「ばれたかー」
結局のところわたしも雨が好きなのだ。お姉ちゃんが最高にステキになるから。
一通り準備を整えるとお姉ちゃんも同程度の進捗だったらしい。
「わたしが髪結んでいいー?」
「おねがい」
時計を流し見れば一時を越していなかった。余裕があるし少し凝ってみようか。
お姉ちゃんの髪を弄るのは趣味と言っても過言ではない。学校もあるし頻繁に触れているわけではない。けれど毛量の多い髪は扱っていて楽しい。分けて欲しくはならないけれど。
遠い雨滴と一緒にお姉ちゃんに流れる静脈血まで感じ取れそうな時間。静寂にあっても寂寞は離れたまま。以心伝心でもしてしまいそうな空気が漂っている。
ふとお姉ちゃんを見下ろすと、思っていたより細いと気付いた。頼り甲斐があるより手折れそうな不安感が先にくる。
それでも身体能力に優れているのだから、そこは肉食動物らしいんだなあ。
「これでどう?」
「大丈夫。ありがとう」
「どういたしまして」
スニーカーを履いて収納から傘を取り出し、弾んで繰り出す。廊下からは灰色ばかりが積もった景色。何処かで何某かが争い合ったのだろうか。
後ろを向けば施錠するお姉ちゃん。纏めた髪型の具合が完璧だと自尊心を満たしてみる。お姉ちゃんが日頃お手入れをしてるからこそだけど。
お姉ちゃんが提げた傘は、無色透明な工業製品の自分を惜しげなく露出したビニール傘だ。
以前、見兼ねて好みに合致しそうな意匠のものを誕生日プレゼントにしようと思い立つこともあった。砕けそうな白い持ち手と草臥れてハリを亡くした小間が好みそのものと知って、思い立つに留めたけれど。
安価な存在が役目を果たせなくなるまで使い回しては新規に移るのを繰り返すのが簡易な愛着の持ち方らしい。装飾品としてより文房具を使い詰めるに近しい情感だと思う。
エントランスの二重自動ドアを潜ると傘の出番だ。持ち方の癖含めて高さが近しい所為で身を寄せ合えず、腕を伸ばさないと手を繋げなかった。野に放たれた兎にでも化けてしまいそうな気分で追従して進む。
暫く歩けば新しい駅前らしいマンション、アパートも減って平らかな街並みに入る。一階を改装したインドカレー店に唐揚げを押し出すお弁当屋さんの幟。そして緑豊かなカフェ。
「ここのカフェ入ったことないや。あの猫の看板可愛いけど」
「冒険してみる? お昼もまだだし」
「そうしよっか。おっ、あのケーキおいしそー!」
鈴を鳴らして入店し窓際の席に着くと、暖色の店内から寒色の世界を眺める気温差にちょっと落ち着かない。窓硝子の内側が曇ってしまいそうだ。
「どれも美味しそうだけど、わたしはカフェオレとレアチーズケーキで!」
「私はブラックコーヒーとオレンジタルトでお願いします」
予報通り、降雨は街灯が目立つ時間帯まで止む気配がない。深夜は雲も栓を閉めて、明日の登校中に開けるかもなんてのは予報士の言葉。わたしの生活に重ね合わせる心積もりらしい。
「学校行きたくない。日がな一日お姉ちゃんと適当に過ごしたい」
「明日も三、四時間で帰れるでしょう」
「だからこそさー。中学校生活の老後なんだし好きにして良いじゃん! 授業終わったんだし。折角雨なのにー」
「老後なら終活しなきゃね。生活は終わるまで終わらないのだから」
「豪華客船の旅とかしない?」
「それよりかは日常を過ごしたいから」
「餌を間違えたか。二人で愛の逃避行は?」
「だめ。心配かけるのは本望じゃないから。月海は私以外との関わりも大切にしないと。二人だけじゃ生きることさえ叶わないことは理解しているでしょう?」
目が細まるのが分かる。やっぱり“正しい”お姉ちゃんの言葉は、いや、そんなことを言う場面のお姉ちゃんの心境は、酷く曖昧模糊で複雑怪奇だ。全部ホントで全部ウソなんじゃないかって思う。
注文の品が届く。砂糖の居ないカフェラテは苦味の鋭利は削れても鈍い苦味そのものが残ったままだった。砂糖入れよ。
「そういえばお姉ちゃん好きな割にブラックコーヒーあんまり飲まないよね」
「午後だと夜まで響くし、朝は用意するのが手間になるから」
「じゃあ今飲んでて大丈夫?」
「多分だめ」
「じゃあ夜更かししよっか」
「それも良いかもね。明日に大事もないことだし」
お姉ちゃんはこの時節の学校を自身にとって肝要と規定はしないとのこと。推察するに、現状他人との意思疎通に充分なコミュニケーション能力を維持しており、進学で一切の関係を消失させる予定だから。
お姉ちゃんは第一印象より大袈裟に会話に積極的だ。お母さんに言わせれば姉妹で中身が逆でも違和感無いらしい。無論外見との整合性だけを評価軸にすればの話。
「夜更かしさせてわたしの友人作りは見捨てて良いの?」
「見捨てはしない。でも、月海は嫌なことはしても拒絶反応を示したら絶対にやらないから」
「おー。多分正解!」
今の登校先じゃわたしは手遅れだもんね。
新鮮なクリームチーズと甘酸っぱいブルーベリーに舌鼓を打つ。
お姉ちゃんもタルトを口に含む。輪郭がクレパス調になった。
「交換しよー。一口ちょーだい!」
「どうぞ」
「どうもどうも。それでは頂いて、と」
こっちの腕までタルト生地で輪郭が縁取られた。
酸っぱいは寂しい。甘いは嬉しいだ。
会計に入るとお姉ちゃんが「姉の面子を立てさせてくれる?」なんて。妹としては服従する方針に異議なしだ。
けどもっと好きになれる色合いの回答が欲しい。面倒な服わぬ妹なのだわたしは。
思い返せば奢られた回数が多いし。何も言わずに享受するのは私的に微妙だと思う。
「妹にだって面子はあるんだけどな」
「それもそうね。でも、月海は日頃出掛ける先を決めてくれる。今日改めて凄さを実感したから、お礼もさせて。月海のため以上に有意義なお金の使い方なんて思い付かないし。その面からすれば私が私のために行うのでもある」
「ありがとう! そこまで言われたらお姉ちゃんの宜しいようにして。でもお姉ちゃん、それって隠居したお婆ちゃんの精神性だよ」
「そう。ああ、そうかも」
納得されてしまった。確かにお姉ちゃんの内情は老婆心を含む。それに精神年齢が肉体の同年代に大差で勝っているとは思う。でもその塩梅は成熟しているの範疇であって、枯死には至っていない。
そしてお姉ちゃんが臆面もなく言い放つ言葉は頻繁に瑞々しく、甘い。
「ここがお姉ちゃんの選択した場所?」
「そうなる。ごめんなさい。結局総身で楽しさを受信出来る場所ではなくて。私が懐古に付き合わせてしまった」
「ううん。わたしだっていつも行きたい場所へお姉ちゃんを振り回してるし。気にしないで良いのに」
「ありがとう」
我が家の最寄駅から徒歩三十分も必要としない隣駅前に居た。
この場所に辿り着くには茫漠とした時間が必要だと考えていた小学校以前を思い出す。
親の運転する自動車を経た末にあった場所。生活圏からは断絶した場所、としてしか認識していなかった。幹線道路が河川の如く二箇所の導線を妨げていたからだろう。
ロータリー横に鎮座するエメラルドグリーンと比喩するには些か差し込まれた白の強い色彩のビルに入る。
狭小で薄暗い階段を抜け、ガラス張りのドアを開けば図書館だった。瞬間、お姉ちゃんがここを選んだ理由を薄らと解する。
共有したかったのだ。過去の時間を。空間を。
漂う独特な紙の香りと靴を隔てて伝わる毛羽立った床面。低い天井とその影響で踏み台さえ不必要な本棚。指を掛けた文庫本はフィルム貼りで表紙と触れ合えない。
わたしの中心部にあった記憶が一息で表層に湧出する。
「夏休み冬休みはいつもこのテレビでアニメ映画見たよね。ヘッドホンもらってさー」
「レーザーディスクでね。月海はレコードと勘違いしてた」
「そうそう! 本物のレコード見たことなかったから。薄っぺらな円盤ってだけ思ってたし。それにしてもこの機械残ってたんだ」
「加えて部屋が狭いから仕切りも衝立もなし。本当にあのときのまま」
薄灰色の立方体は家のノートパソコンにすら負ける画面サイズ。肘掛けの幅広い椅子を寄せ合い、前のめりになったと思い出す。
「それにヘッドホンも学校の視力検査で使うみたいなのだったよね」
「今にも折れそうなフレームで気を遣わされたり」
「あったあった! 見る直前に気付いて横着したやつでしょ。お姉ちゃん昔からそうだもんねー」
「仕方ないでしょう。進行形が中断されるのを好きになれないのだから」
周囲をもう一度見渡す。明るい時間帯なのに入館者は二人だけだった。平日だし本を持ち歩くのは躊躇う天気。加えて主たる利用者に成り得る小学生は下校中なので詮方ないかな。
記憶が定かなら、受付口のある一つ下の階には新聞ラックが設置されていた。其方の方が人の居る可能性は高い。
いや、わたしたちが利用していた時も滅多に他人と鉢合わせなかったし、単に過疎化した施設であるだけかも。長期休暇真っ只中で日も高いなんて正に書き入れ時だろうに。
市役所に隣接した図書館はここよりも何もかもが充実している。
出先機関に過ぎないこの場所は足りないものだらけだ。需要が流れるのも不思議はない。
「なんか借りてくの?」
「いえ。空がこれだし、何より気を惹かれる本はなかったから」
「お姉ちゃん借りた本すぐに読破しちゃってたもんね。何なら映画観てても指止めなかったし」
「私だけの読破速度だった訳じゃないでしょう。月海、あなたの方が速読家なんだから。私は置いていかれないよう精一杯だった」
「そんなことないよ。お姉ちゃんは内容を読み取るのが上手でページを捲る指が速かったけれど、わたしは表層的な理解だけ。本腰を入れてじっくり読んでも原稿に向かう人の場所まで脚が伸びなかった。だから量だけは増やした。お姉ちゃんと同じものは見れなかったけど」
「私と同じものなんて見ないで良いのに」
「見たいんだから仕方ないよー!」
「それに私が行っていたのは本の深層の理解でない。私の深層での妄想」
「それでも史料や物語からより多くを貰ったのはお姉ちゃんだし」
傘立てから柄を握って抜き、階段を降りる。
日陰から外れれば、太陽の傾きを視認せずとも実感する。
「随分いたねー。久しぶりの懐かしさ! ってかんじだった。わたしだけじゃ既知の場所に戻るなんて稀だから」
「記憶の引き出しが壊れてしまわない限りは、忘れてしまっても往昔を失くすことはない。そう確かに思って欲しかった。私は過去の人間だから。現在より先を見るあなたとは違って。揃って幼くないのだから何を今更と思うけれど」
お姉ちゃんが傘の石突で水面に波紋を創出する。わたしを眼中に収めずに。
「お姉ちゃんの癖だよそれ! 衝動的な欲求を後付けの理屈で上塗りするの。理屈付けが職人技だから、お姉ちゃんが自分でも奥に埋もれたのが何かわかんなくなっちゃう! わたしだってその理詰めな部分も好きだし大切だけどね」
水晶体の厚みが急変するのが分かる。レンズは正しくわたしをお姉ちゃんに届けてくれたみたいだ。
お姉ちゃんが傘を持ち直して前を向く。
「私がここに月海と来て、楽しみたいと思って来た。それだけかな」
「そうなの!? うれしー!」
「そこまで見透していたのかと・・・・・・少し恥ずかしいこと言った?」
「いやいや。もっとじゃんじゃん言葉にして!」
「まあ良いけれど」
発言の割には微塵も羞恥が覗かないのがお姉ちゃんだ。
真剣に相対してくれているような、わたしの幼気が容易に手玉に取られているような。
「そろそろ時間だし、帰る?」
「もうちょっと! もう一回どこか行こう!」
「そう。それなら服でも見る?」
「それがお姉ちゃんの直感ならば」
「直感と言える域でもない。月海より感情的な頭なのは否定しないけど」
心なしか横に落ちる雨に爪先を濡らした。地面に砕ける雫のように跳ねて水溜りを熟す。交差点を襷掛けに渡れば轍を無視して踏み付け跨ぐ。
マンホールを踏めば十数対の前照灯に晒される。それでも眩しさと無縁だ。明るい大気に溶けてしまう淡い光線だから。
太陽から溢れる光線だけでも巨大で、屋内でさえ影響下。向き合うのも一苦労だ。
駅前に聳えるショッピングセンターは室内としての億劫さと店舗の寄り合い所帯としての手狭さを併せ持つ施設だった。
二階のお店でお姉ちゃんに似合う服を選ぶ。まあお姉ちゃんは持ち前の顔立ちと脚の長さのお陰で最低値を大幅に引き上げて、大失敗以外は誤魔化しが効く。なればこそ、美味しい素材をより美味しく調理したくなるものだ。
「今日のはお姉ちゃん選出コーデだよね」
「月海が今日を私に委ねたのだから私自身も私に任せたかった。無難にはなったけど」
「無難無難って言うけどそれはお姉ちゃんにとっての話だよね。その無地無地コーデは普通到底許されざる行為だから。すっごく綺麗に纏まってるから瞳は描き損じてないけどさー。わたしはもっと乱してアウトロー方面に寄った方が好みかな」
「中折れ帽でも被る?」
「そんなイタリア系のマフィアみたいな・・・・・・」
「私よりも月海がより多方面のファッションに詳しいでしょ。私だと一定の服装が限界だから、好みがあれば月海の縦にして。いつも通りにね。あなたの好きはあなただけのものだから」
「そこまで言われたらとことん付き合ってもらうからねー!」
これにそれにあれにどれにと季節の節目に見合う印象の品物を手に取り続ける。
気温の制約が緩まり、少しなら厚手も薄手も違和と負担にならない。そんな種々様々の対象があると脳内の全体像組み立てにも時間が必要。嬉しい悲鳴をあげそうだ。
数十回、髄膜のこちら側でお姉ちゃんにキャットウォークを往復させる。受賞したコーデ達で実在のお姉ちゃんを彩ってみる。更衣室が纏まった数用意されているお陰で、心置きなく時間を注ぎ込める。
うんうん。我が眼に一片の曇りなしだ。
右手にハンガーを、左手にキャップを持ち更衣室からの出待ちをする。
時計の長針が五回は刻んだ。衣擦れの音なんてとっくに消え失せたのに、お姉ちゃんがを引割幕を開く気配はない。
舞台に場面転換が起きぬままもう一度長針が進んだ。そろそろ声を掛けるべきだろう。
不意に、唐突な話題が耳に入る。
「月海は・・・・・・月海は、何故私を知ろうとするの?」
「なんでって。お姉ちゃん、知ってるでしょ。わたしは知らないを知りたい。それだけだから」
「それは未知を減らす理由であって、単体で
「うーん、考えたこともないや。でも多分、お姉ちゃんはわたしの中で沢山を構成してるからじゃないかな。自分に近いほど不思議は多くなるでしょ」
「そう」
「そうなのです! あと、着替え終わったなら見せてよー」
傘を覆っていた袋をゴミ箱に捨て、ガラス張りの自動ドアを通る。
捨てた袋を見れば、わたしはくしゃくしゃなのにお姉ちゃんは角を合わせて畳んでいた。几帳面。
広がる世界は夕に染まるどころか夕が暮れる時刻にずれ込んでいた。そんな余白も抜ける所も有り得ない雲爛漫な空模様だけど。
目線を下せば出入り口に設けられた階段の先にお姉ちゃんの姿。機械的で竣敏なお姉ちゃんの動作に出遅れてしまったらしい。
段差を滑り落ちないよう細心の注意を伴って駆け下りる。
お姉ちゃんの横、定位置に落ち着いても手を握ることは出来なかった。
傘とわたしの選んだ服の入る袋で両手に空きがないのも一つ。けどそれは根本的な要素じゃない。それだけなら紙袋を強奪するなり対処法は幾らでもある。
大きいのはお姉ちゃんが一意思索の海に潜っていたから。それも海溝の底部に触れそうなぐらいに。
流石に言葉は無論指先も届きそうにない人を、望まれもせず海面まで引き上げるほど無粋じゃない。
そんなことしたら余計にお姉ちゃんの深淵への理解から遠ざかってしまう。急がば回れだ。
そんなわたしのお姉ちゃん理解への道程の一環として、いまさっき在ったお姉ちゃんの言動を回顧してみる。
お姉ちゃんがわたしへあんな質問を投げ掛けた理由は?
赤信号で時間が発生したしシンキングタイム突にゅ・・・・・・「ねえ」
「なになに!?」
「いえ、この質問が酷く面倒だと理解した上で尋ねたいのだけれど、月海は私が完全に不可逆に消失したらどうする?」
お姉ちゃんの言葉を完全に確認する。
思考が一瞬塵芥と化す。
酷く非道い豪雨に晒される。
傘は折り畳みでもないのに競うように頼り甲斐が薄い。
四肢は末端から肘膝に至るまで生地が肌に密着し厭な感触。お姉ちゃんは胸元に抱え、辛うじて袋の中身を保護していた。
遠雷と水面を吹き飛ばす自動車の音に、全てを包み消す雨音。の筈なのに、お姉ちゃんの透き通る声だけが包装を貫通してわたしに響く。
「快不快だと不快に寄った言葉とは理解しているつもり。それでも解答を知りたくて」
周囲の認識で処理の手一杯なわたしの神経を打ち据える迦陵頻伽。
その玲凛によって傘を取り落としたかと思う程度にはつむじも冷えた。
まだまだ口を開けば掠れた空気ばかりが漏れるけれど、無理矢理にでも声帯を震わせて音声を絞り出す。
言葉にしないと伝わらないこともあるから。
「わかんないよ。だって、お姉ちゃんはずっとここにいるでしょ」
「確かにこれは仮定でしかない。でも、仮定を言えば、信号さえ変わらないうちにあの車がわたしだけを轢き殺すかも。だから今聞きたいと思う」
「わたしそんなこと想像したくない。わたしにそんな嫌な妄想言わせないでよ。そもそも頭使っても考えつかないよ」
「それは違う。月海ならわたしが消えてどうなるかなんてすぐに考えが及ぶでしょう。感情とは無縁に」
「無理だよ! だってお姉ちゃんと一緒じゃなきゃわたし生きられない!」
歩行者信号はとっくに青だった。動く気にはならなかったけど。
「そんな筈ない。あなたはこんなにも優れているのだから、私と無関係にでも過ごせる」
「お姉ちゃんを間に挟まないと教師とも満足に話せないのに? お姉ちゃんと居られないなら死んだ方がマシだよ。わたしをお姉ちゃん以上に理解してる人なんて存在しない」
「そんなことを言わないで。私の一存であなたの命を奪えるなんて有り得てはいけない。別離の判断をするだけでなんて」
「それが現実だよ。見ることも聞くことも触れることさえ叶わなくなっても、お姉ちゃんとわたしが心の全てを伝え合えればそれで良いの。一つ取っても失うことは耐えられないぐらい苦痛だけど、どんなに痛くてもお姉ちゃんに会えなくなるよりは痛くない。それは“ぐらい”じゃなくて耐えられない」
言ってやった。言ってしまった。
激情に身を委ねるのは、喜怒哀と悔恨が同時に浮かび上がる愚行だった。
お姉ちゃんと対面しているはずなのに、自分しか見えなくて猛烈な不安に強襲される。
その不安とは特定の対象は存在せず、将来に対するのに相似する唯ぼんやりとしたものだった。
そして恐らく不安は的中してしまうのだろう。視界という情報源に恃めば。
「そう・・・・・・ああ、そうなの。私は間違ったのか。あなたの選択に尽く過ぎた干渉をした。姉だからなんて言い訳を唱えて。実態は虚栄心に過ぎないのに。あなたに背を向けられたくなかった。くだらない。あなたに立ちはだかる障害を勝手に除いて、あなたを知らないままに環境を繕った。何処へでも行ける大きな翼を持っているというのに、矮小な鳥籠に詰め込んだ。そんなのは家族への行為じゃない。唯一の同位体が羽を傷つける瞬間に憐憫を抱いて、貶めた。加害者は私なのにね」
「なんでそんなこと・・・・・・! お姉ちゃんはすごいよ! 私なんかよりもずっとずっと! 少なくともわたしはそう思ってる。例えお姉ちゃんでも大切なお姉ちゃんを貶さないでよ!」
お姉ちゃんが息を呑んだ。
対面して目線も接続しているのに、わたしとお姉ちゃんの間に断線が起きている気がしてならない。
言葉にしても尚伝わらないこともあるのかも。そう思ってしまった。
露先から滴る雨水の様に細々息を吐き出して、お姉ちゃんが足元を正した。
「他人を頼れるのは素晴らしいと思う。ただ、相手は選ばなきゃ意味がない。転んだ先の杖が腐っていたら一突きで崩れ落ちてしまうから」
「お姉ちゃんが崩れたら今すぐ快晴になるかも」
「あなたの信頼は何処からのもの? 私が染み込ませたものとは違うの? 私はあなたに求められた知識を返した。主観の混入しない言葉は有り得ないのだから、知識は私の主観を基盤にした姿だったでしょう。あなたは私以外からどれだけの知識を受け取ったのか。知識の量に対して十分ではなかったはず。私の明示出来るのは一面だけ。他の面は知らないのだから見せることはできない。あなたは二次元的な知識を与えられ、三次元的な知識は自身で補完した。それではあなたの元来の視点と私の主観ばかりが表立ってしまう。結局循環して私の他に確固とした支柱は持たなくなってしまった」
「でもわたしはそのお陰でお姉ちゃんを知れた! なんで自分の用意した重箱の隅ばかり突くの?」
自分でも冷静さを欠いた状態なのは重々承知だ。しかしながら、お姉ちゃんも冷静じゃない。
給食で苦手なメニューが出たのに牛乳を先に飲んでしまったから流し込むこともできないみたいな顔をしている。
そんなにえぐみが強いならこんな会話投げ出しちゃえば良いのに、相当悪食に近づきたいらしい。噛み締めた口元と噛み潰された様な瞳孔が歪む。
「あなたは私をどの程度知っているの?」
「どの程度かって・・・・・・それは全然、知らない・・・・・・けど! お姉ちゃんの次には知ってる!」
「地球に一万メートルのボーリング坑を設けたとて、それで惑星の梗概を読み取ったとは言わないでしょう。他人なんて、十五年を共にしても言ってしまえばその程度」
「それでも地表を浚うだけの時代に比べれば格段に進化してるじゃん。それに、これからもっと広範に深くまで知れるよ! 絶対! 時間と意思があれば難しくないでしょ?」
「そう、あなたならそれも思うまま進めるでしょう。私の意思の介在しないままに」
「ねえ。お姉ちゃんはわたしから遠ざかりたいの? お姉ちゃんの居なくなったわたしについて尋ねて、お姉ちゃんの自己嫌悪を論ってさ。離れさせようとして、そんなにわたしが嫌だったの?」
捨てないで。
「私があなたを嫌う訳ない。多分、あなたと私の目標最高到達点は座標がずれているのだと思う。私はあなたに知って欲しくない部分が総身でも隠し切れない程にある。あなたの信頼がなんて話ではなく、あなたが肩がぶつかりそうな横に居るからこそ。最も身近だからこそ失望されたくない」
「失望なんて」
「する。私を知られてあなたが抱く感情が如何様かは知らない。予想しなくても、主題はそこじゃない。もしも好感を抱いたとしても失望しない訳がない。私はそんな人間だ。ずっと迷子のまま」
断言を突き付けられた。
お姉ちゃんがわたしから目を逸らし、自動車達が拍を取る様に横切る車道を眺める。会話の末尾の宣告なのだろう。堂々巡りに意味を感じ得なかったのだろうか。
双眸は険と憂鬱の狭間で細く引き延ばされていた。
句点を打ったから文章が終わるとは限らない。だから段落を変えてでも鉤括弧を書き加えようとするのに、挿入するべき単語が出てこない。
つんのめりそうな程前のめりになる。それでも倒れ込むことさえせずにいた。
重心が土踏まずと地面の間に移ってしまったのだろうか。思考は雲を隔てた高空を浮ついているのに。
雨に溶けて天才的なひらめきとやらが落ちてこないだろうか。
いや、周囲から投げ込まれたその言葉を拒絶してきたわたしには過剰な願いだろう。
嫌悪に賞賛を包含させて、感性から切り捨てて生きてきたのだ。ひらめきの受け皿として要件を満たさない、手で作った器にも負ける感性しか残っていない。
捨てたものがため振り出しへと戻るには絶望的に時間が不足していた。
今ぶつかった時機を逸すると命にすら手を掛ける喪失を被るだろう。
最悪な予想に襲われる。
たかが予想。だが予想だ。わたしの予想はよく当たると評判なのだ。だから最悪だ。
肘が曲がったままでも届くその繊手。それを掴み取る勇気さえ発生しない。
いつもならこんな愚図には落ちぶれないのに、なんて逃避をしてしまいそう。
いつもが如何でも今がこの不甲斐なさじゃあ自己肯定の意義は存在しないというのに。
どうすれば良いのかてんで確実にならない。
お姉ちゃんに質問したいくらいだ。どうすれば良いですか、って。
抽象的な悪問とは承知だ。意地の悪くて質問で返されたって疑問で相殺も出来ないと。
お姉ちゃん曰くその人柄でわたしが失望するらしいけれど、それじゃあわたしはわたし自身の人柄に対しては絶望でもするべきなのかな。お姉ちゃんの人柄とやらが想定を越して最悪だったとして、やっと同じ穴の狢と見做せる。見透かされれば見放されて当然かもね。
迷子な現状は特段酷い。
・・・・・・迷子。そっか。
どうせ迷子ならお姉ちゃんも・・・・・・いや、違うかな。お姉ちゃんの主観に迎合してより深く、抜けないと思う程致命的に刺すのなら、
「お姉ちゃん。お姉ちゃんが迷子だからってわたしも迷子のままにするの?」
重荷に成る他責に吐き気がする。
傘を畳んでお姉ちゃんの左腕を掴む。瞬きもせずお姉ちゃんを見つめてたら、その時間が終わる前に濡れ鼠になっちゃった。
お姉ちゃんは自分が縛りつける側なんて他動詞を使う。でもそれは殆ど嘘。
使うべきは受動態なのに、勘違いも甚だしい。
字義の通りの殺し文句を刺し込まれたお姉ちゃんは口腔を覗かせたままに昇華しちゃった。気体のままならこの手から腕も引き抜けたのにね。
お姉ちゃんは自傷まで厭わないくらい正しい。だって言うのにそんな正しさが霞んでしまう程断然優しい。妹のためにその妹を傷付けてしまうぐらいに。雨に濡れ迷子の可哀想な妹の手を突き返すことが不可能なぐらいに。
お姉ちゃんだってわたしが打算と執着を編み込んだ言葉を紡いだことなんて解している筈。不安と切望が微塵でも一糸でも針穴を通していたらその点から目移りしないけど。
お姉ちゃんが約束を思い出してくれたのか。思い出したとして意識してくれたかも預かり知れない。それでも並んで一つ傘の下に入る。
揃って外側の肩峰を雨に降られた。
「しないよ」
「嘘、つかない?」
「泣かせてしまった妹に嘘をつく姉にはならない」
「口にしないのが粋ってものでしょ」
「姉だもの」
「名前で呼んでよ」
「月海?」
どこか抜けた表情のお姉ちゃん。
やっと呼んでくれた。
感情が昂り統御から外れてしまう。気付けばお姉ちゃんを抱き留めていた。お姉ちゃん自身の服が濡れちゃうのに気を割く雰囲気も無くて、わたしもあまりに大きな感情で温められる。
「ごめんなさい。独り善がりで、月海のことを無視していた」
「いいよ。それにわたしだってお姉ちゃんの悩みに気づけなかったし。雨は降ったし後は地が固まるだけでしょ?」
「そこにまで達するならまずは雨が止まないとね」
「もー! じゃあ雨雨やめやめー!」
「この傘から出たい?」
「雨やむのは明日でオッケーだからねー!」
両手首から指先の全体でお姉ちゃんの肩甲骨と背骨を押さえる。
両手の状態を考慮して期待はしていなかったのに、お姉ちゃんは手指の第一、第二関節で返答を贈与してくれた。近い。嬉しい。素晴らしい。
矢張りお姉ちゃんはお姉ちゃんだ。
わたしを暗がりから連れ出してくれるのは、心から笑わせてくれるのは、お姉ちゃんだけ。
わたしもお姉ちゃんに対してそうなりたいとは思う。でも多分わたしは未だその域には達していないのだろう。
横断歩道の渡り際。一つ傘の下、繋いだ手を二度と離さず済むように大切に兼ねて強く握りしめた。
稀少な機会を手中に収めた様だ。
昨日の意趣返し、ではないけれどお姉ちゃんの寝顔を存分に観察する。勿体無いので見惚れてもみる。
案外稚気のある顔立ちで同い年なんだなって改めて思う。
そんな表情を見ると平常との差分で視線がゆらりふらりとしてもっと深くまで存在が差し込まれてしまう。
僅かに寝巻きのはだけた胸元からは二本の鎖骨とその間に打ち込まれた胸骨が存在を証明していた。
継ぎ目まで浮き出るその場所は、被さる皮膚とそれに付随する組織の薄さを強調する。
爪が触れれば眠りも醒めて解け落ちてしまう均衡だ。悔しいけれど今のわたし達に架けられた間柄みたいだった。
昨日を思い返せば、本当に情報が怒濤に成った一日だ。
冷静ぶって後悔でもするみたいな口調になった。けど、わたしは悔いることが可能な地点に到着していない。まだ先に立ったままだ。
短針さえ1周したのに思案の部屋は強盗が出ていってそのまま。昨日荒らされて収拾がつかない。
多分昨日は脳内で炸裂した滅茶苦茶を吐いた。
吐きたいのは今のわたしだってのに。ひでえ奴だぜ昨日のわたし。
楽しい時間の経過は加速しているなんて文言はわたしには該当しない。
寧ろ楽の感情の総量と時間の速度は反比例しているかも知れない。お姉ちゃんを書き留めるのに必死だから。
記憶の本棚内でお姉ちゃんと刻まれたハードカバーの割合を高めたいのだ。そうすれば記憶を探っても種々のお姉ちゃんの文章に傾斜していて素敵だろう。
まあ、大百科と見紛う文量でも内容が抽出されたみたいな濃度に落ち着くのはお姉ちゃんに依拠しているけど。
そしてその莫大な文量に当たってもお姉ちゃんが激情を外に向ける描写はなかった。
お姉ちゃんと言う外面の下は感知していない。ただ、面の下で木星の暴風が吹き荒れていても隙間風すら漏らした記憶は持ち合わせていない。わたしがそうなのだから他人もそうだろう。
昨日の未知のお姉ちゃんを経ても、それぐらいの自信はある。
昨日の事態、あれは確かに喧嘩だったのだろう。生まれて初めての。
わたしとお姉ちゃんが争うなんて経験したことがなかった。だってどんな時もお姉ちゃんが譲ってしまうから。そんなのは幼い時分のわたしだって理解したから、あんまり過分な要求は止めたけれども。
そんなお姉ちゃんにも譲れない線引きがあったのだろう。
それが自分の皮下、お面の裏に広がるお姉ちゃん。
お姉ちゃんは近すぎる距離を恐れて、意識してか無意識かほんの少しわたしとの間を引き離そうとした。
焦ったわたしが過剰に反応して、無茶をしてお面に手を掛けたからそれを弾いた。それだけのつもりだったのだろう。
詰め寄られて快い人間なんて普遍的じゃないし、当然だ。
だけどわたしはそれだけのことで戸惑った。だって未知の経験だったから。
他人との希薄な関係性は、とどのつまり接触の機会も希薄にした。
お姉ちゃん以外とも係争を抱えてこなかったわたしは、お姉ちゃんの質問を誤解して支離滅裂な思考回路に囚われたのだ。
お姉ちゃんも、他人との火花散る摩擦に限定すれば等しい環境下だった筈だ。だからわたしより遥かに微かでも影響されて、思考の余裕が擦り落とされた。お姉ちゃんがあんなに饒舌になったのも舌に至るまでの精錬工程を停止した弊害だろう。それとも雄弁の銀を選択したのかな。
布団から飛び出たお姉ちゃんの指。そこにわたしの指を絡め合わせる。
緩慢と持ち上げられた瞼の下は涙ぐんでいた。
そっか。あのときのお姉ちゃんの表情って泣きそうな顔だったんだ。わたしとの会話中ずっと辛気を宿してたから打ち切りたいのかと勝手に推し量ってた。既視感を覚える筈だし、眠る前のお姉ちゃんらしいお姉ちゃんには当て嵌められなかった点も不思議はない。
「夢見心地は?」
「覚えてない。でも月海が横に居たのならその間は良かったんだと思う」
わたしとお姉ちゃんの距離が何歩分前後したのかは明瞭としない。概算は無理だ。
お姉ちゃんとわたしの相互理解は確かに深まった。逆に誤解も確かに深まったかも。
問題も抱いてそのまま。放出も解決にも決定しなかった。
現状の関係自体に恐怖していないのなら、それは嘘だ。何故なら世界は絶対がないのが絶対。紙一重で失くしかけた状態があったのだ。
欠落した場所から築かれる親愛だって有り得ただろう。長期的にはわたしの願望をより高い足場の上で実現したかも。
喪失の上で勝ち取るものも多いだろう。現状の変革を望むのなら捨てるものが必要で、身軽でないと届かない地点があるとは既に知覚していた。
けどそんなのは嫌だ。認められない。
悲しいを好きの範疇になんて入れられない。
未来の大切が為現在の大切を引き換えにしたくない。
だってかけがえがないから大切と呼ぶ筈。
わたしよりもお姉ちゃんの言い分に非が少ないことぐらい重々承知だ。でも他人と関わってお姉ちゃんとの時間を減らすのは受け入れられない。
我儘を言って問題の先送りに逃避していた。それで問題はなくなるだろうから。
未来のわたしとお姉ちゃんは未来の問題に比べればきっと随分高く成長している。何物も差し出さずに、些事として解決するに違いない。
恐怖は誤魔化して笑い飛ばせば良い。悲しいの光に差されるよりは楽しいの驟雨に打たれたい。
多分漸く本当の願いを探知出来た。わたしはお姉ちゃんと一緒にいたいだけだ。昨日、言葉にして真に理解を得た。アウトプットって大事。
お姉ちゃんのカバー裏まで暴きたい欲求が晴れた訳じゃない。けれど、理解を希うのは恐怖を振り払うためだ。
恐怖は掻き消したいがお姉ちゃんを引っ掻いて傷にしてまでの望みではない。誤魔化せるし。
待とう。お姉ちゃんが自分の意思で打ち明けてくれる刻まで・・・・・・かは分からないけど。
お姉ちゃんの裡で線引きが更新されれば黄色い線に乗って核心を追ってしまうと思う。
よって、理解への障壁は細心の注意を払って取り除くし、お姉ちゃんの価値観も軟化する様取り計らおう。不快の噴出口は塞いだままで。
お姉ちゃんが空いている手をぎこちなく伸ばして時計を掴む。
橙に光る画面はお姉ちゃん基準での寝坊を映し出した。因みにわたしの基準でも寝坊だ。
「疲労困憊で夢すら見なかったかも。急がなきゃ、この髪で外出したくないから」
「昨日って六時間未満!? って感じだったもん。それはさておき今日どこ行こっか」
「梯子の上にでも」
「おお! じゃあ、ベッドメイキングしてお出迎えの準備しなきゃ」
「期待大にしておく」
二人揃って横並びに座ったのをお姉ちゃんが抜け駆けして立ち上がる。
肘を伸ばしてみる。仕方ないんだから、とお姉ちゃんは手指を噛み合せ引き揚げてくれた。
窓に寄ればくぐもった小鳥の囀りが聴こえる。鳴き声の重なりから察するに複数羽居るらしい。駐車場に面した中庭へと頻繁に来訪するのだ。
降雨が来れば跡も濁さず羽搏き去ってしまうのだろう。
すぐ先、桜の時節を伴って来るのは同一の個体なのか、一期一会なのか。
知る由もない。世界はわたしのために創り出されたんじゃない。
それでもわたしは再びの邂逅を信じよう。そちらの方が心なしにでも嬉しいから。
それでもわたしはお姉ちゃんと手を繋いだままで死ねると信じよう。そうしないと見えない場所が擦り切れて壊れて崩れ落ちてしまうから。
ペットの雪豹を街中に放つのは罪造りすぎませんか
後半へ続くます