私には悔いばかり残りました。
どうも自分には、人という役があっていないようにばかり思えるのです。傷ついた者をふと見て、心を慮り、言葉を投げかけてみれば、とうとう相手は泣き出す。そして、私はその場の罪人に成り果てるのです。私には、それがとても耐えられませんでした。どうも自分は、他人を助けることはできないようでした。
またある日、雨がざあざあと降ったあとに外へ出て、道路の水たまりを飛び越え、踏んで、水の跳ねる姿を見ていれば、近所の人々のひそひそ話の、
『まぁ、なんて幼稚なんでしょう。いい大人なのに、あれじゃあねぇ。』
『まるで、子供みたい。あれでいいとこのお坊ちゃんなんだから、嫌よねぇ。』
などという言葉が耳に入り、反論しそうになりました。しかし、結局は恥ずべきは自分だと理解してしまったので、逃げるように家へ帰りました。自分は大人になりきれなかったのです。
そんな日々が嫌になり、普通になろうとして、努力しようとするけれども、目の前にしようと決めたものを持ってきてみれば、嫌な思い出ばかりが私を苛んで、どうしても苦しくて助けを求めてみれば、やる気のない私の自己責任ということで決まり、何も言えなくなり、とうとう飛び降りようと試みるも、知らぬ人に殴られ止められました。手放すこともできませんでした。その人の普通さが、とてもまぶしくて顔も見れませんでした。
普通とは、なにか。ふと考えてみれば、形が浮かび上がり、目指そうとは思えるのですが、考えをやめてみれば、また私は心知らずの馬鹿者になるのです。それがどうも悔しくて悔しくて、泣いてみれば、そんな自分が馬鹿らしくなり、諦めてふて寝してしまうのです。そのサイクルを繰り返し、知り合いに相談してみれば、努力すべしと、ありがたく無責任な言葉が、私の心を打ち付け、打ち負かすのです。私には、努力を認めてもらうことさえ、許されないようでした。
結局のところ私がいくら頑張ろうと、結果を爪の先程度でもつけねば、過程の努力さえ無いものとして扱われるのです。そんな当たり前のことさえ、普通ではない私には、とてもできやしない無理難題に思えました。そうしてやっとのことで自分なりにやり遂げた頃には、すでに信頼はなく、白痴な無能者のレッテルが貼り付けられているのです。当たり前の事でした。しかし、私は当たり前の事さえ苦しみに絶え間なくさらされねば、受け止め、剥がそうと思いさえできないのです。私は、道化に成り果てようと思いました。しかし、道化にさえなれないのです。私は、普通になれませんでした。
また悔いが増えました。
普通の人は普通じゃない自分を目指して、普通じゃない人は普通を目指します。普通じゃない人って、上より下が圧倒的に多いんですよ、きっと。
ここまで読んでくれてありがとうございました。また、いつか会いましょう。