ご感想、ここすき、励みになります!
本章では、原作から少し離れたお話を書かせていただきます。
色々とツッコミどころも出てくるかもしれませんが、今回も私の好きを詰め込んでいきたいと思いますので、何卒温かい目でお付き合いいただけますと幸いです。
また、今後のお話やタグについて、活動報告にて書かせていただきました。
お時間がありましたら、そちらもご一読いただけると嬉しいです。
最後に、冒頭に登場する青年について。
原作の彼とは厳密には異なる存在として描いておりますが、その人柄や境遇に触れたく、今回登場させていただきました。
――それは、過去に彼が呼び出された時のことだった。
◇ ◇ ◇
村は、静まり返っていた。
人の営みが失われた場所には、独特の静けさがある。
風が吹き抜ける音。
遠くで軋む木戸の音。
そして、地面を踏みしめる足音。
それ以外には、何も聞こえない。
赤い外套を纏った男が、一人、村の中央を歩いていた。
その手には、黒と白の双剣。
刃に付着していた血が、ゆっくりと地面へ滴り落ちる。
男の名は、エミヤ。
かつて、正義の味方を目指した者。
そして今は、世界の均衡を守るために使役される、名もなき掃除屋だった。
今回の任務は、ある集落の排除。
それ以上でも、それ以下でもない。
この村では、長い年月をかけて、一つの信仰が育まれていた。
人間のあらゆる罪。
あらゆる悪意。
あらゆる災厄。
それらは、ただ一人の人間に由来する。
そう信じることで、村人たちは自らの正しさを保っていた。
不作も、病も、争いも、すべては、悪しき者が存在するからだと。
自分たちは正しい。
自分たちは清らかだ。
悪は、あの男一人にある。
――そうして、彼らは生きていた。
だが、その信仰はやがて、村の内側だけでは収まらなくなった。
外の人間をも巻き込み、異端と見なした者を排斥し、幾つもの争いを生み出した。
やがて、それは放置できない歪みとなり――そして、抑止力が動いた。
世界にとって、その集落は排除すべきものとなった。
守護者は、それを実行した。
抵抗する者を斬り、逃げる者を射抜いた。
武器を持たぬ者も、例外ではなかった。
彼らの誰が善人で、誰が悪人であったのか。
その判断に意味はない。
必要なのは、結果だけだった。
やがて村から人の気配が消えた頃。
エミヤは、一軒の建物の前で足を止めた。
村の外れに建つ、古びた石造りの建物。
扉には、幾重にも祈りの言葉が刻まれていた。
その奥に、まだ一つだけ、人の気配が残っている。
「……」
エミヤは無言で扉を押し開けた。
薄暗い廊下。
湿った石壁。
鼻を突く、血と腐敗の臭い。
その先に、小さな部屋があった。
そして。
「……おや?」
声がした。
「へえ。こりゃまた、珍しいお客さんだ」
部屋の奥。
壁に繋がれた、一人の青年がいた。
年の頃は、十代の終わりか、二十歳を過ぎた程度だろうか。
痩せ細った身体には、数え切れないほどの傷が刻まれていた。
両腕は鎖に繋がれ、足も自由には動かせない。
長い間、まともな食事すら与えられていなかったのだろう。
生きていること自体が、不思議なほどだった。
だが、その青年は笑っていた。
「なんだよ。今日の当番は、随分と物騒な格好してんじゃねえか」
「……」
エミヤは答えなかった。
青年は、男の姿を眺める。
赤い外套。
手にした双剣。
そして、衣服に残る血の跡。
「……ああ」
青年は、何かに納得したように頷いた。
「なるほどね。そういうことか」
「何がだ」
「いやいや。ようやく終わりが来たんだな、と思ってさ」
青年は、軽く肩をすくめようとした。
しかし、鎖が鳴っただけだった。
「外、静かだろ?」
「……ああ」
「だよなあ」
青年は、妙に満足そうな声を出した。
「いつもなら、もっと騒がしいんだよ。祈りだの、呪いだの、悪魔だの。朝から晩まで、よく飽きねえもんだって思ってたけど」
「……」
「それが、今日は静かだ」
青年は、エミヤを見る。
「アンタがやったのか?」
「そうだ」
短い返答だった。
青年は、僅かに目を見開いた。
それから――笑った。
「そいつはまた、景気のいい話だ」
「……」
「いやあ、驚いたね。あいつら、あれだけ神様だの正義だの言ってたくせに、最後は随分あっさりしたもんだ」
青年は、愉快そうに笑っていた。
だが、その笑い声には、僅かな掠れがあった。
エミヤは、静かに双剣を下ろした。
「……君も、ここで終わりだ」
「だろうな」
青年は、あっさりと頷いた。
「見りゃ分かるよ。アンタ、助けに来たって顔じゃねえし」
「……」
「それに、こっちも長くはねえ。今さら外に出されたところで、まともに生きれるか怪しいしな」
その言葉に、嘘はなかった。
青年の身体は、既に限界を迎えていた。
仮に鎖を断ち切り、この場から連れ出したとしても、命を繋ぎ止められる保証はない。
何より、守護者に与えられた任務は、この集落に生じた歪みを消し去ることだった。
青年もまた、その中心に置かれた存在である。
見逃すという選択肢は、初めから与えられていなかった。
エミヤは双剣を構えた。
「苦しませはしない」
「おっと」
青年が、声を上げた。
「ちょい待ち、ちょい待ち」
「何だ」
「いや、そんな急がなくたっていいだろ。どうせオレは逃げられねえんだし」
「話すことなどない」
「つれないねえ」
青年は、呆れたように笑った。
「別に企みがあるわけじゃねえよ。ほら、見ての通り、手も足も出ないってやつ?」
鎖を鳴らす。
「掃除屋だって、そこまで時間厳守じゃないだろ?」
エミヤは、青年を見た。
「何が望みだ」
「お、話が早い」
青年は笑う。
「ちょっとばかし、世間話に付き合ってくれよ」
「……世間話?」
「ああ。人生最後のお喋りってやつだ」
「……」
「どうせ死ぬんだ。少しくらい、いいだろ?」
エミヤは、しばらく黙っていた。
目の前の青年は、命乞いをしていない。
救いを求めてもいない。
ただ、話がしたいと言っている。
口を動かすことに、どれほど激痛が走っているか、青年の有様を見れば、想像は容易い。
「……手短にな」
エミヤは、双剣を下ろした。
青年は、少しだけ驚いた顔をした。
それから、にやりと笑う。
「へえ。案外、話の分かる人じゃん」
「用件を言え」
「はいはい。せっかちだねえ」
青年は、少しだけ考える素振りを見せた。
そして、口を開いた。
「なあ、アンタ」
「……何だ」
「この村、どう思う?」
エミヤは、僅かに眉を寄せた。
「……何?」
「だからさ。この村の連中の考え方だよ」
青年は、天井を見上げた。
「自分たちは正しい。自分たちは清らかだ。悪いことは全部、あそこにいる奴のせい」
その口調は、どこまでも軽かった。
「いやあ、便利だよなあ。畑が枯れても、病気になっても、隣の家と喧嘩しても、全部オレのせいにすりゃいいんだから」
「……」
「で、アンタはどう思う?」
エミヤは、少しだけ沈黙してから口を開く。
「……酷く歪(いびつ)だな」
そう答えた。
青年は、目を細めた。
「だよなあ」
まるで、気の合う相手を見つけたかのような声だった。
「いや、良かった良かった。外の連中まで同じこと言い出したら、さすがに笑えねえからさ」
「……」
「ま、今さらだけどな」
青年は、喉の奥で笑った。
エミヤは、その様子を見つめていた。
そして、ふと問いかける。
「君は、彼らを恨んではいないのか」
青年は、きょとんとした顔をした。
それから、間の抜けた声を上げた。
「いやいやいや。何言ってんの、アンタ」
「……」
「恨んでるに決まってんだろ」
あまりにも、あっさりした返答だった。
「こんな目に遭わされてんだぜ?恨まない方がおかしいって」
青年は、笑った。
「そりゃあもう、恨みまくりよ。できることなら、一人残らず同じ目に遭わせてやりたかったくらいだ」
「そうか」
「おう」
青年は、あっけらかんと頷いた。
「ならば、なぜ笑っている」
「ん?」
「君は、彼らの死を喜んでいるようには見えない」
青年は、少しだけ目を細めた。
「……へえ」
そして、くつくつと笑った。
「アンタ、変なところ見てんなあ」
「……」
「ま、そうだね。別に悲しくはねえよ。あいつらが死んだって聞いて、胸が痛むほど出来た人間でもないし」
青年は、一度言葉を切った。
「けどさ。人間って、弱い生き物だろ?」
エミヤは答えなかった。
「自分が悪いなんて、思いたくねえんだよ。失敗したのも、誰かを傷つけたのも、どうにもならない不幸が起きたのも」
青年は、ゆっくりと続ける。
「全部、自分のせいじゃないって思いたい」
「……」
「だから、分かりやすい悪が欲しくなる」
青年は、自分の胸を顎で示した。
「で、ここには都合のいいのが一人選ばれたってわけ」
「それで、納得できるのか」
「まさか」
青年は、即座に否定した。
「理解できるのと、許せるのは別だろ?」
その声だけは、少しも笑っていなかった。
「オレは、あいつらを許さねえよ。死んだからって、帳消しになるもんでもない」
「……」
「ただ、どうしてああなったのかくらいは、分かるって話さ」
青年は、再び笑った。
「ま、人間なんてそんなもんだろ」
エミヤは、黙っていた。
その言葉は、彼にとって理解できないものではなかった。
人は、正しさを求める。
自らの行いに意味を求める。
誰かを救うために、誰かを切り捨てる。
そして、切り捨てた相手を悪と呼べるなら、その選択は幾分か容易になる。
だが、現実は、そう単純ではなかった。
救うべき者が、善人とは限らない。
殺すべき者が、悪人とも限らない。
ましてや、誰か一人を犠牲にすれば、すべてが正しくなるなどという都合のよい話は存在しない。
彼は、それを嫌というほど知っていた。
「人間の弱さを理由に、他者を踏みにじることは正当化されん」
エミヤは、静かに告げた。
「それが、どれほど都合のよい理屈であろうとな」
青年は、少しだけ目を丸くした。
「いいねえ。そういうの、嫌いじゃないぜ」
「……何?」
「いや、なんでも」
青年は、愉快そうにエミヤを眺めた。
「たださ。アンタも、そうだったら良かったんじゃねえの?」
「何の話だ」
「――分かりやすい悪がいる世界の話」
青年は、軽く首を傾げた。
「例えば、魔王とかさ」
「……」
「そいつを倒せば、みんな幸せになる。誰も泣かない。誰も恨まない。悪い奴だけが死んで、めでたしめでたし」
青年は、笑う。
「いやあ、最高じゃん。アンタには、そういう敵が必要だったんじゃない?」
エミヤの指が、僅かに動いた。
「なぜ、私にそのような話をする」
「んー?」
青年は、考えるように天井を見上げた。
「勘、かな」
「勘だと?」
「そ。アンタ、さっきからずっと、嫌そうな顔してるから」
「……」
「人を殺すのが好きな奴なら、もうちょっと楽しそうにするだろ。仕事だって割り切ってる奴なら、もうちょっと何も考えてなさそうだ」
青年は、エミヤを見る。
「でもアンタ、どっちでもねえ」
「……」
「殺すのは嫌い。けど、殺さなきゃならない。そういう顔だ」
エミヤは、何も答えなかった。
青年は、そんな彼を見て、少しだけ笑みを深めた。
「だったらさ。最初から、悪い奴だけを倒してりゃ良かったんじゃねえの?」
それは、あまりにも無邪気な問いだった。
あまりにも、残酷な問いだった。
エミヤは、青年を見つめた。
「……そんな世界があるなら、苦労はしない」
やがて、そう答えた。
青年は一瞬だけ黙り、小さく笑った。
「世の中、そう上手くはいかねえよな」
青年は、天井を見上げる。
「悪い奴を作らなきゃ、正しく生きられない連中がいる」
「……」
「正しく生きようとして、悪いことをしなきゃならない奴もいる」
青年は、そこで言葉を切った。
そして、エミヤへ視線を戻した。
「難儀だねえ、正義の味方ってのも」
沈黙が落ちた。
エミヤは、答えなかった。
青年も、それ以上は何も言わなかった。
ただ、どこか満足そうに笑っていた。
「……さて」
青年が、口を開いた。
「そろそろ、いいかね」
エミヤは、静かに双剣を構え直した。
「ああ。いやあ、付き合ってくれてありがとな」
青年は、笑う。
「最後に、なかなか面白い奴と話せたよ」
「そうか」
「おう」
青年は、目を細めた。
「それにしても、アンタも大変だな」
「何がだ」
「いや、ほら。世界を守るってのは、随分と割に合わない仕事らしい」
「……」
「ま、オレには関係ないけどさ」
その言葉に、エミヤは何も返さなかった。
ただ、一歩だけ近づいた。
青年は、逃げなかった。
目を閉じることもしなかった――もっとも、初めから潰れていない片目は、閉じられないように縫い留められていた。
「じゃあな。次は、もうちょっとマシな仕事にありつけるといいな」
青年は、笑っていた。
◇ ◇ ◇
魔術学院、地下。
その最奥にある広間には、今もなお、重苦しい空気が漂っていた。
壁面には幾重もの術式が刻まれ、床には巨大な魔法陣が広がっている。
その中央に、黒い影が、静かに蠢いていた。
「いよいよだね」
ベリルが、小さく息を吐いた。
その声に応じるように、アリューシアが剣を握り直す。
「はい、先生」
彼女の隣には、ヘンブリッツ。
そして、少し離れた位置にスレナが立っていた。
三人とも、既に抜剣している。
広間の後方では、ルーシーが魔法陣の状態を確認していた。
「結界の維持は問題ないからの。封印を解いても、こやつが外へ逃げ出すことはないじゃろう」
「承知しました」
アリューシアが答える。
「ただし、油断は禁物じゃ。前回のように、どのような姿になるか分からん」
「ええ。承知しています」
忠告に対するヘンブリッツの返事に、ベリルもまた、静かに頷いた。
あの日。
彼らは、この場所で一度、敗北した。
最終的には勝利を収めたものの、剣士としては決して納得のいく結果ではなかった。
ベリル自身もまた、仲間たちの支援がなければ、あの影を退けることはできなかった。
だが、今は違う。
アリューシアとヘンブリッツは、あれから幾度となく訓練を重ねてきた。
スレナもまた、あの影への対策を考えている。
ルーシーによる支援もある。
そして、ベリル自身も以前とは異なるものを、その眼に宿していた。
「配置を確認しようか」
ベリルは、皆を見渡した。
「俺が正面から相手をする。アリューシアとヘンブリッツ君は左右から援護。スレナは少し後ろで、相手の動きに合わせて動いてほしい」
「はい」
「承知しました」
「分かりました、先生」
三人が、それぞれ答える。
「ルーシーは後方から支援をお願いするよ」
「うむ。任せておけ」
ベリルは頷き、中央の影へ視線を戻した。
「……それじゃあ、始めよう」
ルーシーが手を掲げる。
床に刻まれた魔法陣が、淡く輝き始めた。
封印を構成していた術式が、一つずつ解かれていく。
重なり合っていた光の輪が消え、中央に閉じ込められていた黒い影が、ゆっくりと広がった。
「来るぞ」
スレナが、低く呟く。
黒い影が、盛り上がる。
床に広がっていた闇が、まるで水面から浮かび上がるように、徐々に人の形を取り始めた。
その輪郭を見た瞬間、アリューシアが僅かに息を呑んだ。
「やはり、エミヤさんですか」
前回と同じだった。
あの赤い外套の男。
剣を振るい、幾つもの武装を使い分ける、異世界の英霊。
誰もが、その姿を思い浮かべたが、ただ一人、ベリルが眉をひそめた。
「……いや、違う」
その言葉を合図にしたかのように、人影の輪郭が、歪んだ。
伸びかけていた両腕が、不自然に垂れ下がる。
背が曲がり、肩が膨らむ。
人の形を保っていた脚が、黒い塊へと沈んでいく。
「なんだ、あれは」
ヘンブリッツが、思わず声を漏らす。
そこに現れたのは、獣だった。
人の背丈をわずかに超える、黒い獣。
全身は夜よりも暗い影に覆われ、四肢の先には、刃のように鋭い爪が伸びている。
顔に当たる部分には、はっきりとした目鼻がない。
ただ、裂け目のような口だけが、僅かに開いていた。
「……前とは、姿が違いますね」
スレナが呟く。
ベリルは、剣を構えた。
「でも、油断はしない方がいい」
その眼が、僅かに細められる。
黒い獣は、じっとこちらを見ていた。
いや、見ている、という表現が正しいのかも分からない。
目のない顔が、確かにベリルへ向けられている。
その姿には、かつて対峙したエミヤの影のような威圧感はなかった。
だが、だからこそ、得体が知れなかった。
「来ます!」
アリューシアが叫んだ。
次の瞬間、黒い獣が地面を蹴った。
「――っ!」
速い。
姿通り、獣を思わせる速度で、影がベリルへ迫る。
振り上げられた右腕、その先に伸びた爪が、鋭く振り下ろされた。
ベリルは、半歩だけ身体をずらした。
黒い爪が、彼の肩先を掠めることなく通り過ぎる。
直後に反対側から、もう一撃。
ベリルは剣を立て、その軌道を外へ流した。
甲高い音が響く。
獣の爪と、剣の刃が触れ合った。
「先生!」
アリューシアが、側面から踏み込む。
しかし、ベリルは短く告げた。
「大丈夫!まだ、様子を見たい」
「……承知しました」
アリューシアは即座に足を止め、援護できる位置を保った。
獣は、再び爪を振るう。
そのどれもが、ベリルへ届かない。
ベリルは大きく動かなかった。
剣を合わせ、僅かに身体を捻り、必要な分だけ足を運ぶ。
それだけで、獣の攻撃は空を切った。
「妙だね」
ベリルが、静かに呟く。
動きが、単純すぎる。
眼の力がなくとも、十分に対処できる。
かつての影は、こちらの剣を読み、隙を突き、幾つもの武装を使い分けてきた。
だが、目の前の獣には、それがない。
ただ、目の前の相手へ爪を振るっているだけだった。
「……けど、だからといって長引かせる理由はないね」
ベリルは、剣を握り直した。
黒い獣が、再び身を沈めた。
四肢に力が込められる。
次の瞬間、獣は真正面から飛びかかった。
その姿を見たベリルは、静かに一歩を踏み出した。
「――ふっ!」
鋭い呼気。
ベリルの剣が、閃いた。
一閃。
黒い獣の身体が、斜めに裂けた。
振り下ろされるはずだった爪が、空中で止まる。
影の身体が左右へ分かれる。その奥に埋もれていた小さな核も、同時に二つへ割れた。
「……」
ベリルは、剣を振り抜いた姿勢のまま、静かに息を吐いた。
黒い獣は、地面へ崩れ落ちる。
その身体は、煙のようにほどけ、床へ広がっていった。
そして、ゆっくりと消えていく。
残されたのは、二つに割れた小さな核だけだった。
「……終わり、かな」
ベリルが、呟く。
ルーシーが手を掲げ、淡い光が核の周囲を包み込む。
「……ふむ」
彼女は、しばらく術式の反応を確かめていた。
やがて、頷く。
「少なくとも、影を維持する魔力の流れは完全に途絶えておる。核も、間違いなく断たれておるな」
「そうか」
ベリルは、剣を下ろした。
「それなら、良かった」
だが。その表情には、僅かな戸惑いが残っていた。
「……先生!」
アリューシアが、駆け寄ってくる。
「お見事でした!」
「さすがです」
ヘンブリッツも、感心したように笑った。
「まさか、これほど早く決着がつくとは」
「ええ、やはり先生の剣筋は綺麗ですね」
スレナも、静かに頷いた。
だが、彼女はすぐに表情を曇らせた。
「ただ……」
ベリルは、彼女の言葉を待たずに頷いた。
「少し、妙だったね。前に戦った時とは、まるで別の相手だった」
ベリルは、影が消えた場所を見つめた。
「あの時は、俺たちの動きに合わせて戦い方を変えてきた。けど、今回は……」
「力任せに襲いかかってきただけ、という印象でしたね」
スレナが続け、アリューシアも頷いた。
ベリルは、腕を組んだ。
「何か、理由があるのかもしれない」
「それについては、持ち帰って調べるしかなかろう」
ルーシーが、二人の会話に加わった。
彼女の手には、二つに割れた核があった。
「ただし、期待はせん方がよいぞ」
ルーシーは、核を軽く持ち上げた。
「これでは、元の術式を辿ることも難しい。残っておる魔力も、ごく僅かじゃ」
ベリルは、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「それは、すまなかったね」
「いや、責めておるわけではない」
ルーシーは、苦笑する。
「むしろ、確実に仕留めたのは正しい判断じゃ。あのまま動かしておく方が、よほど危険だったじゃろう」
「そう言ってもらえると助かるよ」
ルーシーは、核を小さな布に包んだ。
「ふむ。もっとも、調べるだけは調べてみるがのぉ」
ベリルは、改めて皆を見渡した。
アリューシア。
ヘンブリッツ。
スレナ。
そして、ルーシー。
誰一人として、傷を負っていない。
「何はともあれ、皆が無事で本当に良かった」
ベリルは、穏やかに微笑んだ。
その言葉に、アリューシアが微笑む。
「はい。先生」
ヘンブリッツも頷き、スレナも肩の力を抜く。
ルーシーは、そんな彼らを見て、軽く肩をすくめる。
「お主らしい言葉じゃな」
「そうかな?」
「うむ。相変わらず、勝ったことより皆の無事を喜ぶのじゃな」
「まあ、俺としては、それが一番だからね」
ルーシーは、小さく笑った。
「……さて。長居は無用じゃ」
彼女が手を掲げると、床に刻まれた魔法陣が再び淡く輝いた。
残された影の反応を確かめ、広間を閉じるための術式が動き始める。
「これで、ひとまず終わりじゃな」
「うん」
ベリルは頷いた。
「それじゃあ、帰ろうか」
五人は、広間を後にした。
重い扉が、ゆっくりと閉じる。
その向こうには、もう黒い影の姿はなかった。
ただ、冷たい石床と、静まり返った空間だけが残された。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
ベリルは、自宅の寝台に横になっていた。
窓の外には、穏やかな夜の街が広がっている。
遠くから聞こえる、人々の話し声。
時折、風に揺れる木々の音。
いつもと変わらない夜だった。
「……ふぅ」
ベリルは、小さく息を吐いた。
あの影との戦い。
随分と長い間、心の片隅に引っかかっていたものだった。
それが、今日ようやく終わった。
「……皆、無事で良かった」
そう呟いて、目を閉じる。
明日になれば、またいつもの日々が始まる。
そんなことを考えながら、ベリルは静かに眠りへ落ちていった。
――そして。
夢を、見た。
◇ ◇ ◇
「……?」
気がつくと、ベリルは見知らぬ場所に立っていた。
地面は、黒い。
空も、黒い。
どこまでも続く、色のない世界。
「……ここは」
ベリルは、周囲を見渡した。
いつもの夢とは、違った。
これまで彼が見てきたのは、エミヤの過去だった。
戦場に炎。
血の匂い。
そして、救うために誰かを殺し続けた男の姿。
だが、今は何もない。
ただ、静かな闇だけが広がっている。
「……エミヤ?」
思わず、その名を呼んだ。
その姿を見つけることはなかった。
「……」
ベリルは、空を見上げた。
そこで初めて、それに気づいた。
太陽が、あった。
いや、それを太陽と呼んでよいのか分からなかった。
空の中央に浮かぶ、巨大な円。
その色は、黒。
周囲の闇よりもなお深い、底の見えない黒だった。
光を放っているわけではない。
熱を感じるわけでもない。
それなのに、目を逸らすことが、できなかった。
「……なんだ、あれは」
ベリルは、僅かに眉をひそめた。
黒い太陽。
その姿を見た瞬間、胸の奥に言いようのない不快感が広がった。
まるで、何かが自分の内側へ入り込もうとしているような。
そんな感覚だった。
「……っ」
ベリルは、思わず胸元を押さえた。
痛みはない。
だが、息が詰まる。
足元の闇が、ゆっくりと波打った。
黒い太陽が、僅かに揺らぐ。
いや、違う。
揺れているのは、世界の方だった。
「……これは」
ベリルは、後ずさった。
その時、どこからともなく、声が聞こえた気がした。
――ミツケタ。
「……!」
ベリルは、振り返った。
誰もいない。
だが、声は確かに聞こえた。
黒い太陽が、ゆっくりと大きくなる。
近づいているのか。
それとも、世界そのものが呑み込まれようとしているのか、分からない。
ベリルは、剣を抜こうとした。
――腰には、何もなかった。
「……っ!」
黒い太陽が、空を覆っていく。
そして、ベリルの足元が崩れ落ちた。
「――っ!」
身体が、闇へ沈んでいく。
手を伸ばしても、何も掴めない。
ただ、黒い太陽だけが、頭上に浮かんでいた。
まるで最初から、彼がここへ来ることを知っていたかのように。