片田舎の剣聖 錬鉄の英霊   作:ナチュル志保

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いつも読んでいただき、ありがとうございます!
ご感想、ここすき、励みになります!

本章では、原作から少し離れたお話を書かせていただきます。
色々とツッコミどころも出てくるかもしれませんが、今回も私の好きを詰め込んでいきたいと思いますので、何卒温かい目でお付き合いいただけますと幸いです。

また、今後のお話やタグについて、活動報告にて書かせていただきました。
お時間がありましたら、そちらもご一読いただけると嬉しいです。

最後に、冒頭に登場する青年について。
原作の彼とは厳密には異なる存在として描いておりますが、その人柄や境遇に触れたく、今回登場させていただきました。


【陸章・第1話】『偽りの再戦』

――それは、過去に彼が呼び出された時のことだった。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

村は、静まり返っていた。

人の営みが失われた場所には、独特の静けさがある。

 

風が吹き抜ける音。

遠くで軋む木戸の音。

そして、地面を踏みしめる足音。

それ以外には、何も聞こえない。

 

赤い外套を纏った男が、一人、村の中央を歩いていた。

その手には、黒と白の双剣。

刃に付着していた血が、ゆっくりと地面へ滴り落ちる。

 

男の名は、エミヤ。

かつて、正義の味方を目指した者。

そして今は、世界の均衡を守るために使役される、名もなき掃除屋だった。

 

今回の任務は、ある集落の排除。

それ以上でも、それ以下でもない。

 

この村では、長い年月をかけて、一つの信仰が育まれていた。

人間のあらゆる罪。

あらゆる悪意。

あらゆる災厄。

 

それらは、ただ一人の人間に由来する。

そう信じることで、村人たちは自らの正しさを保っていた。

不作も、病も、争いも、すべては、悪しき者が存在するからだと。

 

自分たちは正しい。

自分たちは清らかだ。

悪は、あの男一人にある。

 

――そうして、彼らは生きていた。

 

だが、その信仰はやがて、村の内側だけでは収まらなくなった。

外の人間をも巻き込み、異端と見なした者を排斥し、幾つもの争いを生み出した。

やがて、それは放置できない歪みとなり――そして、抑止力が動いた。

 

世界にとって、その集落は排除すべきものとなった。

 

守護者は、それを実行した。

抵抗する者を斬り、逃げる者を射抜いた。

武器を持たぬ者も、例外ではなかった。

 

彼らの誰が善人で、誰が悪人であったのか。

その判断に意味はない。

必要なのは、結果だけだった。

 

 

やがて村から人の気配が消えた頃。

エミヤは、一軒の建物の前で足を止めた。

 

村の外れに建つ、古びた石造りの建物。

扉には、幾重にも祈りの言葉が刻まれていた。

その奥に、まだ一つだけ、人の気配が残っている。

 

「……」

 

エミヤは無言で扉を押し開けた。

薄暗い廊下。

湿った石壁。

鼻を突く、血と腐敗の臭い。

その先に、小さな部屋があった。

そして。

 

「……おや?」

 

声がした。

 

「へえ。こりゃまた、珍しいお客さんだ」

 

部屋の奥。

壁に繋がれた、一人の青年がいた。

年の頃は、十代の終わりか、二十歳を過ぎた程度だろうか。

 

痩せ細った身体には、数え切れないほどの傷が刻まれていた。

両腕は鎖に繋がれ、足も自由には動かせない。

長い間、まともな食事すら与えられていなかったのだろう。

生きていること自体が、不思議なほどだった。

 

だが、その青年は笑っていた。

 

「なんだよ。今日の当番は、随分と物騒な格好してんじゃねえか」

 

「……」

 

エミヤは答えなかった。

青年は、男の姿を眺める。

赤い外套。

手にした双剣。

そして、衣服に残る血の跡。

 

「……ああ」

 

青年は、何かに納得したように頷いた。

 

「なるほどね。そういうことか」

 

「何がだ」

 

「いやいや。ようやく終わりが来たんだな、と思ってさ」

 

青年は、軽く肩をすくめようとした。

しかし、鎖が鳴っただけだった。

 

「外、静かだろ?」

 

「……ああ」

 

「だよなあ」

 

青年は、妙に満足そうな声を出した。

 

「いつもなら、もっと騒がしいんだよ。祈りだの、呪いだの、悪魔だの。朝から晩まで、よく飽きねえもんだって思ってたけど」

 

「……」

 

「それが、今日は静かだ」

 

青年は、エミヤを見る。

 

「アンタがやったのか?」

 

「そうだ」

 

短い返答だった。

青年は、僅かに目を見開いた。

それから――笑った。

 

「そいつはまた、景気のいい話だ」

 

「……」

 

「いやあ、驚いたね。あいつら、あれだけ神様だの正義だの言ってたくせに、最後は随分あっさりしたもんだ」

 

青年は、愉快そうに笑っていた。

だが、その笑い声には、僅かな掠れがあった。

エミヤは、静かに双剣を下ろした。

 

「……君も、ここで終わりだ」

 

「だろうな」

 

青年は、あっさりと頷いた。

 

「見りゃ分かるよ。アンタ、助けに来たって顔じゃねえし」

 

「……」

 

「それに、こっちも長くはねえ。今さら外に出されたところで、まともに生きれるか怪しいしな」

 

その言葉に、嘘はなかった。

青年の身体は、既に限界を迎えていた。

仮に鎖を断ち切り、この場から連れ出したとしても、命を繋ぎ止められる保証はない。

 

何より、守護者に与えられた任務は、この集落に生じた歪みを消し去ることだった。

青年もまた、その中心に置かれた存在である。

見逃すという選択肢は、初めから与えられていなかった。

エミヤは双剣を構えた。

 

「苦しませはしない」

 

「おっと」

 

青年が、声を上げた。

 

「ちょい待ち、ちょい待ち」

 

「何だ」

 

「いや、そんな急がなくたっていいだろ。どうせオレは逃げられねえんだし」

 

「話すことなどない」

 

「つれないねえ」

 

青年は、呆れたように笑った。

 

「別に企みがあるわけじゃねえよ。ほら、見ての通り、手も足も出ないってやつ?」

 

鎖を鳴らす。

 

「掃除屋だって、そこまで時間厳守じゃないだろ?」

 

エミヤは、青年を見た。

 

「何が望みだ」

 

「お、話が早い」

 

青年は笑う。

 

「ちょっとばかし、世間話に付き合ってくれよ」

 

「……世間話?」

 

「ああ。人生最後のお喋りってやつだ」

 

「……」

 

「どうせ死ぬんだ。少しくらい、いいだろ?」

 

エミヤは、しばらく黙っていた。

目の前の青年は、命乞いをしていない。

救いを求めてもいない。

ただ、話がしたいと言っている。

口を動かすことに、どれほど激痛が走っているか、青年の有様を見れば、想像は容易い。

 

「……手短にな」

 

エミヤは、双剣を下ろした。

青年は、少しだけ驚いた顔をした。

それから、にやりと笑う。

 

「へえ。案外、話の分かる人じゃん」

 

「用件を言え」

 

「はいはい。せっかちだねえ」

 

青年は、少しだけ考える素振りを見せた。

そして、口を開いた。

 

「なあ、アンタ」

 

「……何だ」

 

「この村、どう思う?」

 

エミヤは、僅かに眉を寄せた。

 

「……何?」

 

「だからさ。この村の連中の考え方だよ」

 

青年は、天井を見上げた。

 

「自分たちは正しい。自分たちは清らかだ。悪いことは全部、あそこにいる奴のせい」

 

その口調は、どこまでも軽かった。

 

「いやあ、便利だよなあ。畑が枯れても、病気になっても、隣の家と喧嘩しても、全部オレのせいにすりゃいいんだから」

 

「……」

 

「で、アンタはどう思う?」

 

エミヤは、少しだけ沈黙してから口を開く。

 

「……酷く歪(いびつ)だな」

 

そう答えた。

青年は、目を細めた。

 

「だよなあ」

 

まるで、気の合う相手を見つけたかのような声だった。

 

「いや、良かった良かった。外の連中まで同じこと言い出したら、さすがに笑えねえからさ」

 

「……」

 

「ま、今さらだけどな」

 

青年は、喉の奥で笑った。

エミヤは、その様子を見つめていた。

そして、ふと問いかける。

 

「君は、彼らを恨んではいないのか」

 

青年は、きょとんとした顔をした。

それから、間の抜けた声を上げた。

 

「いやいやいや。何言ってんの、アンタ」

 

「……」

 

「恨んでるに決まってんだろ」

 

あまりにも、あっさりした返答だった。

 

「こんな目に遭わされてんだぜ?恨まない方がおかしいって」

 

青年は、笑った。

 

「そりゃあもう、恨みまくりよ。できることなら、一人残らず同じ目に遭わせてやりたかったくらいだ」

 

「そうか」

 

「おう」

 

青年は、あっけらかんと頷いた。

 

「ならば、なぜ笑っている」

 

「ん?」

 

「君は、彼らの死を喜んでいるようには見えない」

 

青年は、少しだけ目を細めた。

 

「……へえ」

 

そして、くつくつと笑った。

 

「アンタ、変なところ見てんなあ」

 

「……」

 

「ま、そうだね。別に悲しくはねえよ。あいつらが死んだって聞いて、胸が痛むほど出来た人間でもないし」

 

青年は、一度言葉を切った。

 

「けどさ。人間って、弱い生き物だろ?」

 

エミヤは答えなかった。

 

「自分が悪いなんて、思いたくねえんだよ。失敗したのも、誰かを傷つけたのも、どうにもならない不幸が起きたのも」

 

青年は、ゆっくりと続ける。

 

「全部、自分のせいじゃないって思いたい」

 

「……」

 

「だから、分かりやすい悪が欲しくなる」

 

青年は、自分の胸を顎で示した。

 

「で、ここには都合のいいのが一人選ばれたってわけ」

 

「それで、納得できるのか」

 

「まさか」

 

青年は、即座に否定した。

 

「理解できるのと、許せるのは別だろ?」

 

その声だけは、少しも笑っていなかった。

 

「オレは、あいつらを許さねえよ。死んだからって、帳消しになるもんでもない」

 

「……」

 

「ただ、どうしてああなったのかくらいは、分かるって話さ」

 

青年は、再び笑った。

 

「ま、人間なんてそんなもんだろ」

 

エミヤは、黙っていた。

その言葉は、彼にとって理解できないものではなかった。

 

人は、正しさを求める。

自らの行いに意味を求める。

誰かを救うために、誰かを切り捨てる。

そして、切り捨てた相手を悪と呼べるなら、その選択は幾分か容易になる。

 

だが、現実は、そう単純ではなかった。

救うべき者が、善人とは限らない。

殺すべき者が、悪人とも限らない。

ましてや、誰か一人を犠牲にすれば、すべてが正しくなるなどという都合のよい話は存在しない。

彼は、それを嫌というほど知っていた。

 

「人間の弱さを理由に、他者を踏みにじることは正当化されん」

 

エミヤは、静かに告げた。

 

「それが、どれほど都合のよい理屈であろうとな」

 

青年は、少しだけ目を丸くした。

 

「いいねえ。そういうの、嫌いじゃないぜ」

 

「……何?」

 

「いや、なんでも」

 

青年は、愉快そうにエミヤを眺めた。

 

「たださ。アンタも、そうだったら良かったんじゃねえの?」

 

「何の話だ」

 

「――分かりやすい悪がいる世界の話」

 

青年は、軽く首を傾げた。

 

「例えば、魔王とかさ」

 

「……」

 

「そいつを倒せば、みんな幸せになる。誰も泣かない。誰も恨まない。悪い奴だけが死んで、めでたしめでたし」

 

青年は、笑う。

 

「いやあ、最高じゃん。アンタには、そういう敵が必要だったんじゃない?」

 

エミヤの指が、僅かに動いた。

 

「なぜ、私にそのような話をする」

 

「んー?」

 

青年は、考えるように天井を見上げた。

 

「勘、かな」

 

「勘だと?」

 

「そ。アンタ、さっきからずっと、嫌そうな顔してるから」

 

「……」

 

「人を殺すのが好きな奴なら、もうちょっと楽しそうにするだろ。仕事だって割り切ってる奴なら、もうちょっと何も考えてなさそうだ」

 

青年は、エミヤを見る。

 

「でもアンタ、どっちでもねえ」

 

「……」

 

「殺すのは嫌い。けど、殺さなきゃならない。そういう顔だ」

 

エミヤは、何も答えなかった。

青年は、そんな彼を見て、少しだけ笑みを深めた。

 

「だったらさ。最初から、悪い奴だけを倒してりゃ良かったんじゃねえの?」

 

それは、あまりにも無邪気な問いだった。

あまりにも、残酷な問いだった。

エミヤは、青年を見つめた。

 

「……そんな世界があるなら、苦労はしない」

 

やがて、そう答えた。

青年は一瞬だけ黙り、小さく笑った。

 

「世の中、そう上手くはいかねえよな」

 

青年は、天井を見上げる。

 

「悪い奴を作らなきゃ、正しく生きられない連中がいる」

 

「……」

 

「正しく生きようとして、悪いことをしなきゃならない奴もいる」

 

青年は、そこで言葉を切った。

そして、エミヤへ視線を戻した。

 

「難儀だねえ、正義の味方ってのも」

 

沈黙が落ちた。

エミヤは、答えなかった。

青年も、それ以上は何も言わなかった。

ただ、どこか満足そうに笑っていた。

 

「……さて」

 

青年が、口を開いた。

 

「そろそろ、いいかね」

 

エミヤは、静かに双剣を構え直した。

 

「ああ。いやあ、付き合ってくれてありがとな」

 

青年は、笑う。

 

「最後に、なかなか面白い奴と話せたよ」

 

「そうか」

 

「おう」

 

青年は、目を細めた。

 

「それにしても、アンタも大変だな」

 

「何がだ」

 

「いや、ほら。世界を守るってのは、随分と割に合わない仕事らしい」

 

「……」

 

「ま、オレには関係ないけどさ」

 

その言葉に、エミヤは何も返さなかった。

ただ、一歩だけ近づいた。

青年は、逃げなかった。

目を閉じることもしなかった――もっとも、初めから潰れていない片目は、閉じられないように縫い留められていた。

 

「じゃあな。次は、もうちょっとマシな仕事にありつけるといいな」

 

青年は、笑っていた。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

魔術学院、地下。

その最奥にある広間には、今もなお、重苦しい空気が漂っていた。

壁面には幾重もの術式が刻まれ、床には巨大な魔法陣が広がっている。

 

その中央に、黒い影が、静かに蠢いていた。

 

「いよいよだね」

 

ベリルが、小さく息を吐いた。

その声に応じるように、アリューシアが剣を握り直す。

 

「はい、先生」

 

彼女の隣には、ヘンブリッツ。

そして、少し離れた位置にスレナが立っていた。

三人とも、既に抜剣している。

広間の後方では、ルーシーが魔法陣の状態を確認していた。

 

「結界の維持は問題ないからの。封印を解いても、こやつが外へ逃げ出すことはないじゃろう」

 

「承知しました」

 

アリューシアが答える。

 

「ただし、油断は禁物じゃ。前回のように、どのような姿になるか分からん」

 

「ええ。承知しています」

 

忠告に対するヘンブリッツの返事に、ベリルもまた、静かに頷いた。

 

あの日。

彼らは、この場所で一度、敗北した。

最終的には勝利を収めたものの、剣士としては決して納得のいく結果ではなかった。

ベリル自身もまた、仲間たちの支援がなければ、あの影を退けることはできなかった。

 

だが、今は違う。

アリューシアとヘンブリッツは、あれから幾度となく訓練を重ねてきた。

スレナもまた、あの影への対策を考えている。

ルーシーによる支援もある。

そして、ベリル自身も以前とは異なるものを、その眼に宿していた。

 

「配置を確認しようか」

 

ベリルは、皆を見渡した。

 

「俺が正面から相手をする。アリューシアとヘンブリッツ君は左右から援護。スレナは少し後ろで、相手の動きに合わせて動いてほしい」

 

「はい」

 

「承知しました」

 

「分かりました、先生」

 

三人が、それぞれ答える。

 

「ルーシーは後方から支援をお願いするよ」

 

「うむ。任せておけ」

 

ベリルは頷き、中央の影へ視線を戻した。

 

「……それじゃあ、始めよう」

 

ルーシーが手を掲げる。

床に刻まれた魔法陣が、淡く輝き始めた。

封印を構成していた術式が、一つずつ解かれていく。

重なり合っていた光の輪が消え、中央に閉じ込められていた黒い影が、ゆっくりと広がった。

 

「来るぞ」

 

スレナが、低く呟く。

黒い影が、盛り上がる。

床に広がっていた闇が、まるで水面から浮かび上がるように、徐々に人の形を取り始めた。

その輪郭を見た瞬間、アリューシアが僅かに息を呑んだ。

 

「やはり、エミヤさんですか」

 

前回と同じだった。

あの赤い外套の男。

剣を振るい、幾つもの武装を使い分ける、異世界の英霊。

誰もが、その姿を思い浮かべたが、ただ一人、ベリルが眉をひそめた。

 

「……いや、違う」

 

その言葉を合図にしたかのように、人影の輪郭が、歪んだ。

伸びかけていた両腕が、不自然に垂れ下がる。

背が曲がり、肩が膨らむ。

人の形を保っていた脚が、黒い塊へと沈んでいく。

 

「なんだ、あれは」

 

ヘンブリッツが、思わず声を漏らす。

そこに現れたのは、獣だった。

人の背丈をわずかに超える、黒い獣。

 

全身は夜よりも暗い影に覆われ、四肢の先には、刃のように鋭い爪が伸びている。

顔に当たる部分には、はっきりとした目鼻がない。

ただ、裂け目のような口だけが、僅かに開いていた。

 

「……前とは、姿が違いますね」

 

スレナが呟く。

ベリルは、剣を構えた。

 

「でも、油断はしない方がいい」

 

その眼が、僅かに細められる。

黒い獣は、じっとこちらを見ていた。

いや、見ている、という表現が正しいのかも分からない。

 

目のない顔が、確かにベリルへ向けられている。

その姿には、かつて対峙したエミヤの影のような威圧感はなかった。

だが、だからこそ、得体が知れなかった。

 

「来ます!」

 

アリューシアが叫んだ。

次の瞬間、黒い獣が地面を蹴った。

 

「――っ!」

 

速い。

姿通り、獣を思わせる速度で、影がベリルへ迫る。

振り上げられた右腕、その先に伸びた爪が、鋭く振り下ろされた。

 

ベリルは、半歩だけ身体をずらした。

黒い爪が、彼の肩先を掠めることなく通り過ぎる。

直後に反対側から、もう一撃。

 

ベリルは剣を立て、その軌道を外へ流した。

甲高い音が響く。

獣の爪と、剣の刃が触れ合った。

 

「先生!」

 

アリューシアが、側面から踏み込む。

しかし、ベリルは短く告げた。

 

「大丈夫!まだ、様子を見たい」

 

「……承知しました」

 

アリューシアは即座に足を止め、援護できる位置を保った。

獣は、再び爪を振るう。

そのどれもが、ベリルへ届かない。

 

ベリルは大きく動かなかった。

剣を合わせ、僅かに身体を捻り、必要な分だけ足を運ぶ。

それだけで、獣の攻撃は空を切った。

 

「妙だね」

 

ベリルが、静かに呟く。

動きが、単純すぎる。

眼の力がなくとも、十分に対処できる。

 

かつての影は、こちらの剣を読み、隙を突き、幾つもの武装を使い分けてきた。

だが、目の前の獣には、それがない。

ただ、目の前の相手へ爪を振るっているだけだった。

 

「……けど、だからといって長引かせる理由はないね」

 

ベリルは、剣を握り直した。

黒い獣が、再び身を沈めた。

四肢に力が込められる。

次の瞬間、獣は真正面から飛びかかった。

その姿を見たベリルは、静かに一歩を踏み出した。

 

「――ふっ!」

 

鋭い呼気。

ベリルの剣が、閃いた。

 

一閃。

黒い獣の身体が、斜めに裂けた。

振り下ろされるはずだった爪が、空中で止まる。

影の身体が左右へ分かれる。その奥に埋もれていた小さな核も、同時に二つへ割れた。

 

「……」

 

ベリルは、剣を振り抜いた姿勢のまま、静かに息を吐いた。

黒い獣は、地面へ崩れ落ちる。

その身体は、煙のようにほどけ、床へ広がっていった。

 

そして、ゆっくりと消えていく。

残されたのは、二つに割れた小さな核だけだった。

 

「……終わり、かな」

 

ベリルが、呟く。

ルーシーが手を掲げ、淡い光が核の周囲を包み込む。

 

「……ふむ」

 

彼女は、しばらく術式の反応を確かめていた。

やがて、頷く。

 

「少なくとも、影を維持する魔力の流れは完全に途絶えておる。核も、間違いなく断たれておるな」

 

「そうか」

 

ベリルは、剣を下ろした。

 

「それなら、良かった」

 

だが。その表情には、僅かな戸惑いが残っていた。

 

「……先生!」

 

アリューシアが、駆け寄ってくる。

 

「お見事でした!」

 

「さすがです」

 

ヘンブリッツも、感心したように笑った。

 

「まさか、これほど早く決着がつくとは」

 

「ええ、やはり先生の剣筋は綺麗ですね」

 

スレナも、静かに頷いた。

だが、彼女はすぐに表情を曇らせた。

 

「ただ……」

 

ベリルは、彼女の言葉を待たずに頷いた。

 

「少し、妙だったね。前に戦った時とは、まるで別の相手だった」

 

ベリルは、影が消えた場所を見つめた。

 

「あの時は、俺たちの動きに合わせて戦い方を変えてきた。けど、今回は……」

 

「力任せに襲いかかってきただけ、という印象でしたね」

 

スレナが続け、アリューシアも頷いた。

ベリルは、腕を組んだ。

 

「何か、理由があるのかもしれない」

 

「それについては、持ち帰って調べるしかなかろう」

 

ルーシーが、二人の会話に加わった。

彼女の手には、二つに割れた核があった。

 

「ただし、期待はせん方がよいぞ」

 

ルーシーは、核を軽く持ち上げた。

 

「これでは、元の術式を辿ることも難しい。残っておる魔力も、ごく僅かじゃ」

 

ベリルは、少しだけ申し訳なさそうに笑った。

 

「それは、すまなかったね」

 

「いや、責めておるわけではない」

 

ルーシーは、苦笑する。

 

「むしろ、確実に仕留めたのは正しい判断じゃ。あのまま動かしておく方が、よほど危険だったじゃろう」

 

「そう言ってもらえると助かるよ」

 

ルーシーは、核を小さな布に包んだ。

 

「ふむ。もっとも、調べるだけは調べてみるがのぉ」

 

ベリルは、改めて皆を見渡した。

 

アリューシア。

ヘンブリッツ。

スレナ。

そして、ルーシー。

誰一人として、傷を負っていない。

 

「何はともあれ、皆が無事で本当に良かった」

 

ベリルは、穏やかに微笑んだ。

その言葉に、アリューシアが微笑む。

 

「はい。先生」

 

ヘンブリッツも頷き、スレナも肩の力を抜く。

ルーシーは、そんな彼らを見て、軽く肩をすくめる。

 

「お主らしい言葉じゃな」

 

「そうかな?」

 

「うむ。相変わらず、勝ったことより皆の無事を喜ぶのじゃな」

 

「まあ、俺としては、それが一番だからね」

 

ルーシーは、小さく笑った。

 

「……さて。長居は無用じゃ」

 

彼女が手を掲げると、床に刻まれた魔法陣が再び淡く輝いた。

残された影の反応を確かめ、広間を閉じるための術式が動き始める。

 

「これで、ひとまず終わりじゃな」

 

「うん」

 

ベリルは頷いた。

 

「それじゃあ、帰ろうか」

 

五人は、広間を後にした。

重い扉が、ゆっくりと閉じる。

その向こうには、もう黒い影の姿はなかった。

ただ、冷たい石床と、静まり返った空間だけが残された。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

その日の夜。

ベリルは、自宅の寝台に横になっていた。

 

窓の外には、穏やかな夜の街が広がっている。

遠くから聞こえる、人々の話し声。

時折、風に揺れる木々の音。

いつもと変わらない夜だった。

 

「……ふぅ」

 

ベリルは、小さく息を吐いた。

あの影との戦い。

随分と長い間、心の片隅に引っかかっていたものだった。

それが、今日ようやく終わった。

 

「……皆、無事で良かった」

 

そう呟いて、目を閉じる。

明日になれば、またいつもの日々が始まる。

そんなことを考えながら、ベリルは静かに眠りへ落ちていった。

 

――そして。

 

夢を、見た。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

「……?」

 

気がつくと、ベリルは見知らぬ場所に立っていた。

地面は、黒い。

空も、黒い。

どこまでも続く、色のない世界。

 

「……ここは」

 

ベリルは、周囲を見渡した。

いつもの夢とは、違った。

これまで彼が見てきたのは、エミヤの過去だった。

 

戦場に炎。

血の匂い。

そして、救うために誰かを殺し続けた男の姿。

 

だが、今は何もない。

ただ、静かな闇だけが広がっている。

 

「……エミヤ?」

 

思わず、その名を呼んだ。

その姿を見つけることはなかった。

 

「……」

 

ベリルは、空を見上げた。

そこで初めて、それに気づいた。

 

太陽が、あった。

いや、それを太陽と呼んでよいのか分からなかった。

 

空の中央に浮かぶ、巨大な円。

その色は、黒。

周囲の闇よりもなお深い、底の見えない黒だった。

 

光を放っているわけではない。

熱を感じるわけでもない。

それなのに、目を逸らすことが、できなかった。

 

「……なんだ、あれは」

 

ベリルは、僅かに眉をひそめた。

黒い太陽。

その姿を見た瞬間、胸の奥に言いようのない不快感が広がった。

まるで、何かが自分の内側へ入り込もうとしているような。

そんな感覚だった。

 

「……っ」

 

ベリルは、思わず胸元を押さえた。

痛みはない。

だが、息が詰まる。

足元の闇が、ゆっくりと波打った。

 

黒い太陽が、僅かに揺らぐ。

いや、違う。

揺れているのは、世界の方だった。

 

「……これは」

 

ベリルは、後ずさった。

その時、どこからともなく、声が聞こえた気がした。

 

――ミツケタ。

 

「……!」

 

ベリルは、振り返った。

誰もいない。

だが、声は確かに聞こえた。

 

黒い太陽が、ゆっくりと大きくなる。

近づいているのか。

それとも、世界そのものが呑み込まれようとしているのか、分からない。

 

ベリルは、剣を抜こうとした。

――腰には、何もなかった。

 

「……っ!」

 

黒い太陽が、空を覆っていく。

そして、ベリルの足元が崩れ落ちた。

 

「――っ!」

 

身体が、闇へ沈んでいく。

手を伸ばしても、何も掴めない。

ただ、黒い太陽だけが、頭上に浮かんでいた。

 

まるで最初から、彼がここへ来ることを知っていたかのように。

 

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▼剣の道を志す者たちなら誰もが聞いたことのある『片田舎の剣聖』▼その弟子たちの誰もが言う▼『先生の後を継ぐのは間違いなく彼ですね』▼『悔しいが、我々弟子の中での最強は彼だな』▼『彼こそ、ベリル先生の一番弟子』▼『いやいや、俺なんてまだまだだし、そもそも一番弟子の意味知ってる!?』▼そんな剣士の物語▼


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