「大変不躾な質問かと存じますが、あなた方ご夫妻は、唯一神教徒では、ありませんね?」
信教の自由が認められているビタロサの民だが、その殆どの者は、国教でもある唯一神教の信徒である。ただしそれは殆どであり、それ以外の者がまったくいない訳ではない。
「ああ。僕達は、東にある、ヤボンという国から来たんだ。唯一神様の洗礼は、受けてない」
賠償について相談したいという男、今回の引越しの依頼人でもある、マサト=キリュー氏に誘われてやって来たのは、院内に置かれている喫茶店であった。アンナには、それを受けるつもりはない。依頼は、冒険者組合を挟んだ請負事業であり、対等な契約だ。過失があれば賠償責任が当然発生するのだが、今回のアンナの怪我は、依頼によるものではないのだと断った。
なおも食い下がるマサトに対し、ぶつけたのが、冒頭の質問であった。
「まぁ。それはまた、随分と、ご苦労なさったのでしょうね」
当然のように着いて来て、口を挟んだのは看護師の女性である。アンナを新生児室へ誘ってくれた彼女は、婦長であると名乗った。これは偉い。若い癖に、貫禄もある。女性看護師の指揮官にして、責任者だ。只者ではない。
「いえ。それ程でも。アンナさん。ひょっとして、それは改宗のお誘いかい? だったら、申し訳ないのだが、僕達はコレでね」
そう言ったマサトが、指で印を結ぶと、彼の額に、複雑な形状の印が浮かんだ。唯一神教で呼ぶところの聖痕、他教のものを呼ぶ場合は、神授印と称される、契約の証。
「うちのクソったれの神様は、大層独占欲が強くてね。血族に刻まれるのさ。そこに、自由意志なんて、ありはしないよ」
「すると、奥様も、そして、あの子も」
「同じだよ。なんせ僕達は、従兄妹同士なんでね。しみったれた蜘蛛は、どこまで逃げたって、生贄を逃してはくれないのさ。君達は授かり物だって言ってくれるが、僕達にとってのコレは、呪いでしかないのさ」
自嘲するマサトだが、その表情に、鬱屈したものは無いように見える。彼等の過去は知らぬが、現在は折り合いを付け、上手くやっているようだった。
「失礼ですが、その蜘蛛神様の権能のなかに、幼子を守護したり、病を跳ね除けるようなものは、おありでしょうか?」
「そんな優しいモノ、ある訳ないさ」
人類種が神と呼ぶ超越者達は、契約を結んだ者へ加護を与える。それは千差万別であり、多種多様なものであった。
「でしたら、御使のおくるみを暫くの間、託しましょう。その効能は——」
説明に驚きの声を挙げたのは、婦長の方だった。アンナは何気なく使っていたものだが、成程、考えて見れば、医療関係者には垂涎の品だろう事が理解出来る。是非解析させて欲しいと頼まれたのだが、術具の解析には解体が伴うものである。おくるみは母ルクレツィアの形見であった。易々と、頷ける話ではなかった。
「婦長様、申し訳ありませんが、そのお話は、お断りさせて頂きます。なにせ、母の——」
そう言いかけた所で、一人の若い女がやってきて。
「婦長。お願いします。緊急救命のアンナちゃんっていう小さな女の子に、治療費の明細を渡して貰っても、いいですか」
と、割って入って来た。アンナ達がいるのは窓際の席だ。彼女は、窓越しに婦長の姿を見つけて、喫茶店に入って来たのだろう。その装いは、看護師の内、女性が着る制服である物の色違いだ。本来の品は白。彼女の纏う物は桃色だった。
アンナは立ち上がり、淑女の礼をとる。
「失礼します。お姉様。別に小さくはありませんが、私こそが、その緊急救命のアンナだと思われます。明細を拝見させて頂いても、よろしいでしょうか?」
婦長は、女性としてはかなりの大柄だ。その隣に座るアンナは小さい。席を立たねば、彼女の影に隠されてしまう。
「レーナさん。この子が、アンナちゃんよ」
手に封筒を持った女性、レーナと呼ばれた女性は暫し呆然とし、アンナを見詰めた。爪先から毛先まで。隅々までじっくりと、舐めるように、丹念に。
「はい。アンナと申します。以後、お見知り置きを。レーナお姉様」
あまりにも執拗な視線に、多少の居心地の悪さを感じたが、見られる事には慣れている。
「え。何これ。超カワイイんですけど、ガチ? しかもさっきの、ガチ物のカーテシーじゃん。ガチお嬢様? 夢? 天国? お姉様? 貴女が、アンナちゃん?」
「はい。アンナでございますよ。レーナお姉様」
「何これ? 萌え殺し? え? 待って。空気まで甘くない? お姉様? 妹? え? もしかして、これ言っちゃっていいの? タイが、曲がっていてよ。アンナ」
最後だけキリリと表情を引き締め、所謂キメ顔を晒したレーナだが、アンナはタイなどしていない。小首を傾げるしかなかった。
「アンナちゃん、レーナさんはね、当院で事務員をしてくださってるの。ちょっとだけ変わった所があるけれど、真面目で、とっても優秀なのよ。仲良くしてあげてね。今は、治療明細を持って来てくれたのね。あの封筒が、それよ。受け取ったら、お母さんか、お父さん……いえ、保護者の方に渡してくれないかしら」
どうやら、婦長様には、何かを誤解されているらしい。言葉を選び、態々言い換えてもいる。心当たりはあった。姓を名乗っていない事と、十五歳以下という年少での、冒険者登録が理由だろう。
これら二つに該当するのは、概ねが孤児だ。
姓を名乗らないのは、元々知らない為だというのが大半だ。中には名すら持たない者もあった。名は保護者によって速やかに付けられるが、姓は違う。ビタロサの国法では、姓、これは即ち、家の名だ。これに対し、課税がされる。
姓は旧成人となる十五の歳までに、自ら選ぶ。それまでは、親がいる者は親の姓を名乗るのが一般的で、選ぶのも大体がそれである。孤児には元々名乗る為の姓がないし、名乗るだけでも課税対象者となる恐れがあった。ならば、態々名乗る必要もない。
課税対象でない以上、冒険者組合で受け取った報酬は総取りだ。伊達や酔狂でなければ、年少者の冒険者登録には、生活の為の必然性があった。
「いえ。若輩者とはいえ、私も一介の冒険者です。支払いは、自分で行いますので」
そしてアンナは、どちらかといえば、その伊達や酔狂の側である。孤児、ひいては年少冒険者など皆無なカターニアで、少ない状況証拠から推測を立て、相応しい態度を選んだ婦長は確かに傑物だ。が、残念ながら、正解ではない。アンナは別に、それを指摘するつもりもなかった。素性を暴かれる方が、余程面倒だからだ。
「え? 何それ? キレカワカッコカワイイとか、お姉さん萌え死ぬわ。あ、ダメ。鼻血出そう。我慢よ、れいな。YESロリーヤNOタッチを忘れてはいけないわ。あ、アンナちゃん、これ明細ね」
受け取った封筒を懐に忍ばせて、淑女の礼。
「ありがとうございます。レーナお姉様。それと、私もお姉様に仲良くして頂けると、とても嬉しいです。頂いた封筒の中は、後程検めさせていただきますわ。お姉様。ごきげんよう」
口上に微笑を添えて。
「ごきげんよう頂きましたー! あ、ヤバ。もう限界。鼻血が。壊れちゃう。このままじゃ、真っ白に萌え尽きちゃう。ダメよれいな。お嬢様に、汚物は見せられないわ。耐えるのよ私。魔術師れいなはクールに去るぜ。ごきげんよう。アンナお嬢様〜」
そう言って上を向き、回れ右をして駆け出すレーナ。その顔から垂れる、紅い雫が床板を濡らした。言うまでもなく、鼻血であった。
「とても賑やかな方ですね」
「あれでも、上級登録された冒険者なのよ。アンナちゃんの先輩ね。それはともかくとして、明細を確認しちゃいなさいな」
はい。と頷いて封筒を開け、中身を確かめる。婦長もマサトも、それを覗くような真似はしない。アンナの目は、書かれた文字と数字、つまりは、施された治療内容と、その代金額を追ってゆく。それに伴い段々と、彼女の表情は曇っていった。その支払い額は想定していたよりも、遥かに高い。
「可哀想だから、先に言っておきますけどね。治療費の支払いは、既に済んでおりますよ」
その言葉にマサトを見れば、否定の意味で首を振る。再び明細兼請求書を見れば、領収印が、既に刻まれていた。
「アンナちゃん。貴女がどれ程の無茶をしたのか。その治療の為に、どれほどの物が必要だったのかは、その明細を見た今の貴女なら、理解出来ていると思います。これは、無知な貴女への、我々からのお仕置きです。ここに、貴女へ渡すよう、さるお方よりお預かりした手紙があります。これは、貴女様が成人後、きっとここへ訪れる事になるから、その時に渡して欲しいと託された物です。今回のご来院は、まったくの想定外です。ですから、それまでに読む事はお薦めしません。それでも、これは何かの縁です。今受け取りますか? アンナ・マリア・ルクレツィア・ドロテア=オリヴェートリオ・シシリア」
ああ。と、アンナは深く嘆息した。婦長は、自分が想像した以上の傑物であった。不正解などとは、とんでもない。彼女は、その名を知っていてなお、それに相応しい言葉を選んでいたのだ。
——その時までは、預かっていて欲しい。そう請うたアンナへ、では、今日の所は封筒だけでも、お見せしましょう。と、差し出された手紙は、オリヴェートリオ・シシリア辺境伯家の紋章によって、封ぜられていた。宛名には、愛する娘、アンナへ。と、記されている。そして差出人の署名は、ルクレツィア・ドロテア=オリヴェートリオ・シシリア辺境伯夫人。アンナの生母を示すものだった。
「アンナ様、ご存知ではないかもしれませんが、当院の後援には、先代辺境伯である、ヨアキム様も名を連ねております」
「あの人も……」
「ええ。新生児室の完成は、あの方のご尽力無しには有り得ませんでした。当時、構想のみで眠っていた計画を掘り起こし、押し進めたご当人こそ、ヨアキム様なのですから」
「あの人が……」
「そのヨアキム様から、アンナ様へお手紙が届いております。ご覧になられますか?」
「私に?」
母ルクレツィアの夫であり、アンナの血縁上の父親でもあるヨアキムから手紙を貰った事など、かつてない。顔を合わせた記憶すら数度の事でしかないし、碌に言葉を交わした事もない。彼から与えられたモノなど、この身と爵位を除けば、狂気に濁った無機質な視線と、憎悪と怨嗟の籠った、よく解らない言葉ばかりであった。
そんな男が、自分に宛てたという手紙だ。果たして、どんな言葉が綴られているというのか。恐怖心よりも、好奇心が勝った。
手紙をアンナへと手渡した婦長は、今はマサトへ向けて、男親としての心構えなどを説いている。彼もアンナの名が暴かれた時にこそ、大いに動揺した様子であったが、今では落ち着いて、婦長の言葉をメモに取っていた。
一線を引かれている。それは、ありがたい気遣いだった。
アンナは封筒を切ると、書かれた手紙に目を通す。
——我が最愛の妻、ルクレツィアを世界より奪いし忌み子よ。貴様が何をしたかは問わぬ。問わぬが、貴様の罪を知れ。ビタロサに置かれた治療機関での個人負担率は二割。つまりは、総額の八割が、公費、即ち国民の血税により賄われる。そして、貴様に与えた立場は、例え望まぬとも、最高級の治療を施す。貴様が得た病や、負った傷を癒すのは、民の犠牲であると心得よ。この一件、邪な魂を調伏しなかった我が咎だ。よって、今回の治療費の全額は、此方で負担する。民の為に。貴様は己の無知を悔いよ。貴様の罪は、その存在其の物である。貴様の存在は、様々な、そして多くの者達の犠牲の上に成り立っている。貴様は、罪そのものであるが故に、勝手に生きる事も、また死ぬ事も赦されぬ。忌み子よ。罪の化身たる化け物よ。貴様の歩む道に、贖罪はない。犠牲のみがあると知れ。永劫の生贄よ。思うがままに、冒涜的であり続けよ。我が憎悪が、消えぬように、醜き魂であり続けるのだ。死と苦痛と絶望の御名において、呪いあれ。
アンナの眉間に皺が寄り、ぐぬぬと唸る。
文体が、気持ち悪い。読みにくい。この人は、いい歳をして、改行すらも出来ぬのかと、落胆もする。そのくせ、筆跡だけは端正で、一文字ずつは、非常に読みやすい。
恨み言や、罵倒などは覚悟の上だったので、そこに思う所はない。ただ言葉選びが、仰々しくも居丈高でいて、その癖、ひどく曖昧な事が腹立たしい。
「婦長様。お伺いしたいことが」
「ん? なぁに?」
「憶測に過ぎませんが、婦長様は、私の生母、ルクレツィアと、ご懇意だったご様子。お母様とは、一体、どのようなご縁で?」
アハハ。と、笑った婦長は、そこを突くとは、やっぱり、あの子の娘ですね。それとも、お母さんの教育が、余程良いのかしらね。と、零した。
「マリアお母さんの事も、ご存知でして?」
眉をハの字に垂らし、アンナは尋ねる。それを、その呼び方を知るという事は、アンナの周りには、間者がいるという事だと思った。そしてそれは、婦長がそこに連なる者だという事にも繋がる。父、ヨアキムよりの手紙がある事を聞いた時、懸念はあった。それは、その内容を読み進める内に、疑念へと変わった。インクが、乾ききっていなかった。
「鎌掛けに引っ掛かるとは、まだまだ子供ですね」
そして、今、最悪の確信へと変わった。婦長の声音には、不穏な響きが宿っている。
「婦長様。場所を移しましょう。ここでは、いささか貴女様にも、ご都合がよろしくないかと、存じます。キリュー様、申し訳ございませんが、少々中座させて頂きます。ご家族に、幸多からん事を。そうあれかし」
先程より長くの間、茶を飲むだけの機構となっていたマサトに告げる。彼は口を開けば、賠償に望むモノを問うだけだったし、アンナの名が暴かれた時から、それすらも消えていた。
「オリヴェートリオ・シシリア伯。それで、賠償の話だが、貴女様は、何を望まれますか?」
「いりませんって!」
「ほう。随分と酷い事を仰られる。僕達のような流れ者に、権威というものがどれ程の価値を持つか、理解出来ぬ貴女ではないでしょう?」
「わかりましたよ! それなら、幾つか修繕して貰いたい品がありますので、それで!」
承りました。そう落ち着き払って茶を啜るマサトだが、アンナの心中は穏やかではなかった。マリアの事を、お母さん。そう呼ぶ事が赦されるのは、家の中でだけだ。そう呼ぶ事を知るのは、サルバトーレしかいない筈である。家の中まで把握されているのならば、間者の力量は尋常なものではない。
「落ち着きなさい。興奮はお身体に障りますよ。それと私が、貴女の妄想通りにヨアキム様からの間者だったとして、今の貴女に何が出来ますか? 患者の思い違いを正すのも、看護師の役目。一つずつ、ご説明しましょう」
その通りなのだ。無力感に、力が抜ける。興奮が醒めれば、疲労感と倦怠感で、身体が重い。
とうに街中での監視は気付いていた。物心ついた頃からのものである。それは、脅威ではない。対象に悟られる監視など、捨て置いて構わない。その傲りは、裏を返せば、そうでない場合への大きな恐怖でもあった。
「それは、僕が聞いてしまっても、良い説明なのかい?」
「はい。問題はありませんが、そうですね。殿方が聞いて面白い話でもありませんし、アンナちゃんもこの様子です。場所を移しますが、いらっしゃいますか?」
「いや。それでは、この場はお開きとしましょう。ここの支払いは、僕の方で持たせて貰うよ。有意義な時間をありがとう。お二方」
「承知しました。ごちそうさまでした。キリュー様。何かご不明がございましたら、当院の看護師達に、ご相談くださいまし」
伝票を持って、席を立つマサトが、お辞儀を一つ。どうやら大人二人の手によって、これからの予定は決定されてしまったようだった。
「では、アンナちゃんのご希望通りに、場所を移すとしましょうか」
そう言って婦長は、アンナを横抱きに抱え上げる。力が強い。アンナはさしたる抵抗も出来ず、その豊満な胸元に収まった。
「え? あの、婦長様? 私、歩けますよ」
「喋ると、舌を噛みますよ。それに、私は看護師です。歩くだけで精一杯な患者を、歩かせませんよ。談話室に向かいます。あそこには、良いマッサージチェアが置かれていますので」
婦長が良いと断言しただけあって、マッサージチェアは、素晴らしい代物だった。一見は、柔らかな革素材のソファだ。なんでも、大型霊獣のものらしい。触れた者に感応し、それに最適な温度と質感を与えるという。成程、とても心地良い。ソファ自体の造りも上質で、腰掛けただけでも、全身を包まれたような安定感があった。
そして、その機能。肉体との接地面が微細に動き、実際に包み込む。そしてそれはやがて、強く、弱く、優しく、激しく動き出す。
その動きはときに繊細に、ときに苛烈にして、アンナの全身を揉みほぐしていった。
「ぁぅ〜」
はしたなく、そんな吐息までもが漏れ出た。
「お愉しみの所、申し訳ありませんが、お話を始めさせて頂きますね」
はい。お願いします。と返すアンナだが、彼女は、まったくぶれない婦長の声音に、慄いていた。彼女も、アンナと同じくマッサージチェアに身を委ねている。だというのに、小揺るぎもしていない。その胆力に、恐れ入る以上の事は出来なかった。
「眠ってしまっても、構いませんよ。私の言葉は、残りますから。返事はなくとも、お身体にお聴きしますし」
何それ怖い。と思う間もなく、アンナの意識は、心地良い微睡の中へ、溶けて行き——。
「いえ。そういう訳には、いきませんので、お話、聴かせて頂きます」
——かけた所で、マッサージチェアの拘束を解いて立ち上がり、そう言った。
「だったら、肘掛けの所にマッサージ機能の解除ボタンがあるわ」
アンナはそれを探し、押すと再びマッサージチェアに腰掛ける。ただ座り心地が良いだけの、良い感じのソファであった。
「あんまり警戒されても、仕方ないですね。私の名はフロレンスといいます。マリアとルクレツィアとは、同級の友人です。この名前に、聞き覚えはありませんか?」
「フロレンス様? 婦長様は、あの、クリミアの御使、夜鳴き鶯の、フロレンス様なのですか!?」
「大袈裟な渾名ですが、確かにそう呼ばれる事もありますね。ご存知のようで、何よりです。実は、アンナちゃんが赤ちゃんの時と五つくらいの時も、お会いしたことがあるのよ」
「母からも、伺っております。その節は、大変お世話になったそうで。改めて、お礼申し上げます。私が今、こうして健康に生きていられるのは、皆様のお陰でございます」
「お礼なんていらないわ。ただ、少なからず恩義を感じるというならば、自愛なさい。貴女が、いえ。誰もが、私の、私達の患者でないという事程、私達医療従事者の歓びはないわ」
「……はい。心に刻んでおきます」
難しい事だ。現実的でない、夢物語である。だが、それが彼女の信念なのだろうと、アンナは信じた。マリアの言う通り、フロレンス婦長が戦う相手は、死や、病や怪我という運命そのものなのだと、理屈でなく、心で感じ取った。ならば、アンナには、それを助ける義務がある。貴族、現オリヴェートリオ・シシリア辺境伯として。
「フロレンス婦長様。立て替えて貰ったという治療費、あの人へ返す事は、可能ですか?」
「難しいですね。治療費は、手続き上、既に精算されています。もしも、ヨアキム様への借入金として処理したいのならば、それは貴女方での問題となります。それは私の管轄外です。それに、彼も一度出したものを引っ込めるような、お人ではありません」
「では、質問を変えましょう。仮に、私が治療費相当の金子を用立てた場合、婦長様には返済の仲介をお願いしたいのですが、受けて頂けますでしょうか? もしもあの人が受け取らない場合には、病院への寄付金として頂いても構いません」
「まぁ、知らぬ仲でもないですし、他ならぬ患者の頼みです。それで心身健やかに過ごせるというならば、多少の協力も、やぶさかではありません。しかし、明細をご覧になったのならご承知でしょうが、結構お高いですよ?」
「それは、是という事ですね? ご協力、感謝いたします。はい。金額は承知しております。なので、値段を付けて頂きたい物があります」
勢いよく捲し立てるアンナであった。フロレンスは思案顔をしている。決して、アンナの勢いに飲まれた訳ではないだろう。だが、交渉の余地がある事は明白だった。
「それに値段を付けるのは、フロレンス婦長様でも、病院としてでも、構いません。いかがでございましょう?」
「私か、病院かですか。丁度、心当たりがある品物がありますね」
「ええ。言い値で構いませんが、必ず治療費は賄える金額となる事でしょう。せっかくですし、せーのでお互いに思っている品の名を言い合いませんか?」
良いですね。と、婦長が頷いた。アンナが、少しだけ溜めて、せーのと言った。
「「御使のおくるみ」」
異口同音が重なる。だが、その表情は対照的であった。アンナは得意気に、フロレンスは訝しげに。
「簡単な質問でしたね。私がすぐに用意出来る物で、婦長様、もしくは病院がそれなりの金額を提示する代物など、『御使のおくるみ』以外にはあり得ません」
「先程まで、大分渋られていたようですが?」
「確りとした、理由がなかったからですよ。アレは少なくとも、ルクレツィアお母様の形見です。おいそれと手放したい筈、ないじゃないですか」
「どのような、心境の変化がありまして?」
「その前に、おくるみを引き渡すのは、あの子が必要としなくなってからです。これだけは、先に約束して頂きます」
「ええ。それは勿論、承知しております」
「結構です。心境の変化というよりも、迷っていたというのが、正確かもしれませんね」
フロレンスが、『御使のおくるみ』を解析したいと言い出した時、社会的には、そうする事が相応しいのではないかと思った。だが、正しい事だというのに、抵抗があった。
アンナの理屈では、お母様から遺された想いに値段を付けられる事に嫌悪感があったし、自ら手放すのも嫌だった。要するに、子供じみた我儘だったが、この事は、しこりとなった。
「正直に言っちゃうと、今もあんまり、手放したくはないんです。でも、私も思っちゃったんですよ。『御使のおくるみ』を私が持っていたとしても、使えるのは、一度に一人にでしかありません。だけど、もしも量産、改良が可能なら。多くの困っている人達の役に立てるなら。って。お母様が愛した全てのモノを、私が愛したいと思うなら、そうする事が一番良いんじゃないのかなって……」
「これは、責任重大ですね」
「ええ。そうですよ。フロレンス様には、お母様が愛し、私が愛したい全ての人達の為に、死や、病や怪我といった運命とは、戦って貰わないといけないのですから、責任重大です」
重い軽口に、クスクスと笑い合う二人。
「でも、そんな綺麗事ばかりじゃないんです。薄情ですよね。あの人に治療費を立て替えられたと聞いた時、お母様の形見をお金に換えても構わないと思いました。可哀想なあの人に、何かを背負わせるくらいなら、あの人の世話になるくらいなら、形見の品が手元に無くても、構わないって。これは、ただの子供の我儘です」
アンナの言葉に、少し悲しげに眉を下げるフロレンス。彼女には気にしている事があった。
「アンナ様は、ヨアキム様の事を、お父様とも、ヨアキム様ともお呼ばれに、ならないのですね」
故に漏らす。残酷な仕打ちだと知っていても、指摘せずにはいられない。父娘の間にある確執など知らないが、子が祖をそう呼べない寂しさを、彼女は知っている。
「私のお父さんは、トトだけです。その為だけに、トトは騎士の誓いを捨てたのですから。あの日から、私のお父さんは、トトだけです」
強い言葉であった。さしものフロレンスも、これ以上に、言葉を継ぐ事が出来なかった。
「……失礼しました。少し話が逸れましたね。私は聖人じゃないんで、勿論打算もありますよ。ちゃんと考えて、それが最良の選択だと自信が持てるなら、お母様は、お赦しになられるんじゃないかなって。いつか天国でお逢い出来た時に、偉いね。頑張ったね。いっぱい愛したねって、褒めて貰えるんじゃないかなって」
はにかんで微笑むアンナを、フロレンスは思わず抱き締めた。理由など、彼女自身も解らない。ただの、衝動であった。
「アンナちゃん。『御使のおくるみ』は、私が相応しい値段をお付けします。ヨアキム様の事も、お任せください」
口をついて出るのは、事務的な言葉ばかりである。鉄の女とは、よく言ったものだと、フロレンスは自嘲した。怪我や病の治療方法が判ろうが、心を癒す術までは身についていない。
「えへへ……。マリアお母さんの言った通りに、フロレンス様は、あったかくて、優しいですね……」
安心したのか今更ひどい倦怠感に襲われて、アンナの意識はまたも遠のくのだった。