ミリアムがロウムへ発って暫くの日数が過ぎたある日、アンナの元へフロレンスから報せが入った。病院からのお手紙としてのもので、キリュー親子の近々の退院を伝えるものだった。
「ん? どうしたのアンナ。さっきから、ずっと考え込んじゃって」
丁度遊びに来ていたリーナが尋ねる。非常に行儀が悪く、ゴロゴロしながらお菓子を貪り、持って来た絵物語を読んでいた。
「ええ。ちょっと」
退院ともなれば、既に『御使のおくるみ』の権能は働いていない筈だ。それでもフロレンスは特に物言う事なく、退院という門出のみを伝えた。それは心遣いである。余計なしがらみを気にせずに、素直に門出を喜べるようにとの、彼女なりの優しさだろう。
「リーナお姉様。私、次の安息日に、病院へ行こうかと思うんです」
そう言って暦を指差すと、寝転がりながら本を読んでいたリーナは起き上がった。
「病院? どこか悪いのかしら?」
「いえ。そうじゃなくて、知り合いの退院なので、お迎えとお祝いをしに行こうかなって」
「あら。それは、おめでたいわね。でも、その方は大丈夫なの?」
「はい。病気とか、怪我じゃなくって、赤ちゃんが産まれたんです。それで、暫く病院でお世話になってて」
「赤ちゃんで退院っていうと、もしかして、州立カターニア総合病院?」
「ご存知でした? リーナお姉様は流石に博識ですね」
「というか、ウチの残姉が働いてるのよ」
「ざんねぇ?」
「そ。残念な姉。略して残姉」
「え? リーナお姉様には、お姉様がいらしたのですか? それなら何も、マリアにお姉様になって貰わなくても良いんじゃ……?」
「かーっ! わかってないわね! まったく、このど素人がっ! いいかしら!? マリアお姉様と、ウチの残姉とじゃ、正に月とスッポンよ! 姉力を比べれば、はっきりと判る程の、雲泥の差! お姉様と残姉とじゃ、天と地程にもかけ離れた存在なのよ! アンナ、お茶淹れてきなさい!」
突然怒り出すリーナであった。彼女のアンナへの扱いは割とぞんざいだが、その分気安い。なんとなく、実際の姉妹の距離感は、こんなものなのではないかとアンナは思っている。はいはいと、リーナの主張をあしらいながら、アンナはリーナが命じるままに、新しい紅茶を淹れるのだった。
「でも、病院にお勤めになられてるなんて、立派なお姉様ではないですか」
「病院っても、事務員よ。お医者様や看護師なら、自慢にもなるんだけどねー」
「事務員も、ご立派なお仕事ですよ」
「仕事はね。働きもせず、散々お見合いをぶっちしまくって、もう養えんって両親に言われた挙句、実家から追い出された残姉だけど、それでもご立派?」
「黙秘します」
「賢くなったわねぇ。……いやね。ウチがオタク気質なのって、残姉の影響なのよ」
「おたく?」
「そ。お宅。家の中でも出来る、読書とか絵画とか妄想とかといった、一人でも出来る趣味に行き過ぎてハマる愛好家の事ね。様々な専門知識を併せ持つ場合もあるけど、対人経験の未熟さから、コミュニケーション能力に障害を持つ者も多いらしいわ」
「随分と短く纏まった、上手な呼称ですね」
「残姉の命名よ。良くわからない単語を作る癖があるの。昔からおねーちゃんは色々な物語を話してくれてね。それでウチも影響されて、読書好きになったんだ。ウチの描いている絵物語も、おねーちゃんに教えて貰った手法を用いているの」
リーナは姉の事をおねーちゃんと呼ぶんだとアンナは思った。姉の事を話す時、リーナは幸せそうな顔をしているように見える。残姉などと言いつつも、確かな絆があるようだった。
「うん。ウチも退院のお祝い付き合うわ。人手はあるにこした事ないでしょ? ウチだって、残姉に逢わなくちゃならないし」
「いいんですか?」
「だって、その日はマリアお姉様が不在じゃない。レベッカのママの所で、指名依頼でしょ。アンタみたいなお子ちゃま一人で病院に行かすのも不安だし、付き合ってあげるわ」
なんのかんのと言いながら、面倒見が良いのだ。カターニアは治安の良い街であるが、子供の一人歩きに不安がない訳ではない。病院は市街部から少し外れた郊外にあった。
「その心は?」
「ウチの両親が、残姉に用意していたお見合いの幾つか、随分と相手方が熱心でね。ウチにも飛び火しそうで面倒だから、残念な姉には、防波堤にでもなって貰おうかなーって」
成程、ちゃっかりしているリーナらしい。
大方、相手か両親かは判らぬが、姉が捕まらぬのなら、妹さんの方ではどうだろうなどと持ち出したのであろう。情緒のない話であるが、婚姻とは主に家と家とで結ばれる契約の一種であり、当人同士の感情をあまり省みない場合もある。特に貴族や有力な商家には、その傾向が強かった。
「それでは、リーナお姉様の自由な未来の為にも、お付き合い願いますね」
「良きに計らえ。じゃ、当日の朝、迎えに来るわね。朝食を頂いたら出ましょう。ちゃんと早起きしてなさいよ」
「朝?」
「そうじゃなければ、マリアお姉様成分を補充できないじゃないの。出掛ける前の栄養補給は大切なのよ。なんか文句ある?」
「ないですけど、それなら前日に、お泊まりすれば良いのではないでしょうか?」
「は? お泊まり?」
「はい。お泊まりです」
「いいわね! アンナ、アンタ冴えてるじゃない! 褒めてあげるわ! 頭を出しなさい!」
「ありがとうございます」
言って、素直に頭を差し出すアンナである。滅多にないが、リーナはアンナを褒める時、頭を撫でる癖がある。そして、それがとても上手であった。頭や耳裏、首元などを手指で撫で回すのだが、非常に手慣れていて、とても心地よいのだ。これは、リーナが家のペット達を褒める時と同じなのだが、アンナは知らない。
「せっかくだし、皆も誘ってみましょうか」
「お母さんに、お話してきますね」
「待ちなさい。お願いは、一緒にするものよ。ノエミに連絡するわ」
「レベッカおねーちゃんは?」
「あの子も、どうせ一緒にいるわよ。ミリアムの晴れ舞台だって、張り切っているもの」
携帯用交信機が所持出来るのは、成人してからだ。これは州法による規制である。所持していれば人を問わず、
「やっぱり、一緒にいたわ」
そして富裕層には、
一説によると、交信の習得には、術者の肉体的、精神的な成熟度が要求されるという。これは肉体的には脳、精神的には自我が未成熟な間は、術者自身に悪影響を与える危険性があると、魂が安全装置を働かせる為らしい。未熟なアンナもまた、マリアに習得はまだ待つよう言われている。
成熟した富裕層には不要なものであるし、必要とする者には高嶺の花である。安全に使用出来る、安価な交信機の潜在需要は大きいが、現状を覆すには、更なる技術革新が必要だった。
「ミリアムの夜会衣装、なんとかなりそうだって。しっかし、王都ってば、進んでるわよね。風紀はどうなっているのかしら」
王都の学府では、季節毎に夜会が催される。
その主催は、伝統として王族を始めとする有力貴族達だった。やむを得ない理由以外での不参加は論外で、参加者には正装が求められた。それも学生としてではなく、国民としてのだ。これは、成人年齢が姓を選び、納税者となる十五歳であった頃の名残であるらしい。
流れ者のミリアムが、夜会に着ていけるドレスなど持っているはずもない。そういった者に向けて、王族自らが経営する貸衣装屋もある。ありがたいことに、学府生には無償であった。
ところが、ミリアムは動きにくいドレスが苦手であった。更には、必要とも、欲しいとも思ってもいなかった。
彼女には、形見として、母親が着ていた物を仕立て直した物がある。淡い色彩をした、清楚な花の模様が可愛らしいドレスであった。だが、今では体型が異なり過ぎて、とても着られたものではない。彼女には、こういった可愛らしい物は自分には似合わないとの想いもあった。幼い頃は喜んで着ていたのだが。
そんな理由で、ミリアムはドレスの用意をしていなかった。だが、出発の数日前、ノエミがそれを知る。服飾に強い拘りを持つノエミである。彼女は王都の夜会を知っていたし、根が生真面目なミリアムの事、遺漏なく用意しているだろうと思い込んでいたのだが。
それが、荷造り中にどこを見ても、ドレスの用意がない。不思議に思いミリアムへ問い糺せば、貸衣装で済ますつもりだと言う。
ノエミは激怒した。淑女の正装であるドレスとは、謂わば女の戦装束である。それを、やむを得ない理由もなく借り物で済まそうなど、あまりにも無作法というものだ。そう説けば、あまりの剣幕にミリアムは謝罪する。だが、今からドレスを用意するのは難しいと彼女は言った。ならば、私が仕立てるまで。とノエミが張り切り、レベッカも同調する。彼女達共通の趣味は、女性を着飾らせる事だった。
「お二人の頑張りが報われそうで、何よりです。ミリアムおねーちゃんはお綺麗ですし、きっと素敵です。それと、風紀は心配いりませんよ。夜会とはいっても、リーナお姉様の思うような、浮ついたものではないそうですし」
「って言っても、所詮は婚活パーティよ。ウチの感覚からすると、悪徳に染まった都会の退廃した文化で、品性を堕落させようとするような、くだらない浪費行動にしか思えんけどね」
これは地方民に良くある思い込みから来る物なのだが、都会、この場合は王都圏内の習慣や風潮に対して、あまり良い感情を抱いていない。互助や清貧を美徳とする田舎者から見れば、個人主義が強く、上昇志向で華美な都会者達は胡散臭く、怪しくも見えるのだ。
「主よ。どうか、我が友ミリアムを、邪智暴虐なる都会から護り給えよ。そうあれかし」
こうやって祈る程である。リーナは熱心な唯一神教徒でもあった。主は、見目麗しいお姉様であると主張する、異端中の異端であるが。
「それで、お二人は何と?」
「二人共乗り気ね。さ、おねだりに行くわよ」
さらりとおねだりと言い切って、アンナの手を引くリーナであった。彼女自身意識した事ではないが、これは残姉こと、レーナの真似である。彼女は、二人でお願い事や謝罪をする時、妹の手を引いて常に相手の真正面に立っていた。残念と言いつつも、姉の影響は大きいようだった。
勢い込んだリーナであったが、あっさりとマリアと、家主であるサルバトーレの許可が降りる。むしろ、渡りに船とばかりに歓迎された。泊める事は彼等に支障なかったし、病院へ行こうとしている当日は二人共、所用あって不在であった為である。マリアはレベッカの母の所での指名依頼、サルバトーレは仕事であった。二人はアンナが病院の世話になったあの日以来、少々過保護気味でもある。
「初めまして。僕はサルバトーレ。アンナの父親をやっているよ。娘が、いつもお世話なってるそうだね。ありがとう。ご令嬢。お名前をお伺いしても、よろしいでしょうか」
リーナ達が入ったのは、アンナ達の家の居間である。そこで長身の美丈夫が跪き、場違いな程見事な騎士礼を取っていた。
「トト! 帰っていたのね!」
「やぁ。ただいま。アンナ」
「おかえりなさい!」
アンナがリーナの握る手を振り解き、詰襟の官服を纏う男に駆け寄り跳ねた。彼はピョンと飛びついたアンナの体を抱き抱えたままクルクルと回った。
「あはは。アンナは相変わらず、羽のように軽いね。果物ばかりでなく、お肉を食べないと駄目だよ。特に、赤身がいい」
爽やかに笑う男、サルバトーレである。クルクルとアンナを振り回しながら、体幹にブレがない。アンナは楽しげにキャッキャと歓声を上げている。
「いつ帰ってきたの?」
「ついさっきさ。マリアにアンナのお友達が来ていると聞いてね。二人分の足音が聞こえたから、待っていたのさ」
「態々、騎士礼をしながら?」
「決まっていただろう? なんてったって、僕の騎士礼は、陛下のお墨付きだからね」
「うふふ。トトの頭は相変わらず羽のように軽いですね。お肉ばかりでなく、お魚を食べないと駄目ですよ。特に、目玉の周りとか」
「辛辣だなぁ」
音もなく、アンナを絨毯の上に降ろしたサルバトーレは、赤毛の頭をポリポリと掻くのであった。
「アナタ。リーナちゃんが困っていますよ。お父さんが帰ってきて嬉しいのは解りますが、アンナも程々になさい」
「はーい」
「返事は?」
「「はい!」」
返事が重なった。アンナとサルバトーレ、二人のものだ。父娘はよく躾けられていた。尤も、サルバトーレの返事は、ただの条件反射であることが母娘には丸分かりであるのだが。
「ごめんなさいね。リーナちゃん。紹介するわね。彼、サルバトーレはこの家の主人で、私の夫よ。当然、アンナの父親でもあるわ」
「はじめまして。ごきげんよう。サルバトーレ=ファブリ閣下。お会い出来て光栄です。私、旧き文士の裔、リーナ・リディア・ナタリア・ドロテア=シュペーと申します。閣下のお力により、シシリアの平穏が保たれている事、僭越ながらこの場を借りて、深く感謝申し上げます」
そして、淑女の礼。声に少々の硬さがあるが、アンナが目を瞠る程、そしてマリアが感心する程に、綺麗な所作だった。
リーナ本人もまた、会心の想いである。彼女は姉の影響で、淑女文化、曰く、お嬢様文化に傾倒している。学園でも礼儀作法として教え込まれるものではあるが、独自に修練を積んでもいた。ちなみに、これらを学ぶ修身という課業において、リーナは学園史上最優の成績であった。芸は身を助くとは、良く言ったものだ。動機は少々不純であるのだが。
「おお……。これはご丁寧に、どうも。でも、閣下だなんて、恥ずかしいよ。僕の事は気軽にトトおじさんとでも呼んでくれればいいのに」
「アナタ。失礼ですよ」
「トト。カッコ悪いです」
対してサルバトーレは狼狽えている。妻と娘の冷たい視線が突き刺さっている事に気付かぬ彼でもない。サルバトーレは自分の騎士礼は陛下のお墨付きだと言うが、その前に、口を開かず、体を動かさなければという但し書きが付く。彼は見た目と強さ、心根こそ騎士道を体現した男であるが、身につけた教養と知性は、お粗末なものであった。人それを、脳筋と呼ぶ。
「白百合のように可憐なリーナ嬢。ご丁寧な挨拶、痛み要る。ですが、この地の平和に、私の力なんて微々たるものさ。皆が望んでいるからこそ齎されたものだよ。感謝をするなら、隣人や、貴女自身にする事をお勧めするね。あと、家の中では僕はアンナの父親さ。閣下なんて仰々しく呼ばないで、おじさんって気楽に呼んで欲しいな」
とはいえ、取り繕う事など造作もない。経験があった。シシリア州防衛省の長として、それくらいの嗜みはあるのだ。加えて、女性相手に話をする時は、容姿を褒めるという鉄則も忘れない。段々と口調が崩れているのだが、傅きながら微笑めば、大抵の女性は五月蝿い事を言ってこない。なので、彼はこれを便利使いしていた。これも騎士としての嗜みだと、彼自身は思っている。
「お顔をお上げくださいまし。閣下」
「駄目かい?」
熱っぽく、まるで懇願するようにリーナを見上げるサルバトーレである。妻と娘からは長い吐息が漏れるが、彼は気にしない。あまり良い癖ではないので、たまに注意をするのだが、軽くあしらわれる。いつもの事なのだ。彼女達はサルバトーレが話す度、とても残念そうに吐息を漏らす奇癖があると、彼は納得していた。
「そんな。恐れ多くて」
たまったものではないのがリーナである。歳上の、しかも身分のある男性にこのような態度を取られる謂れはない。彼女は立場の差を考慮して、相応しい態度を取ったつもりであった。
それが、こんな事になるなんて想定外だ。しかも、アンナとマリアがサルバトーレを見る目には、なんとなく、直感的なものであるが、既視感がある。というよりも、姉の奇行を見る時のリーナ自身の視線と同じものに感じる。見えるはずもないものなのに。
「……はぁ。……承知いたしましわ」
それに、彼女も色々と限界だった。このままでは、せっかく被った猫が剥がれる。いつだって、お姉様の前では淑女でありたいという、乙女心であった。それに、百戦錬磨とまではいかないものの、彼女にだって、盤面を制する為の武器はある。妥協という知恵の結晶を知る彼女は、決断した。
「サルバトーレお兄様。そうお呼びする事を、お許し頂けますでしょうか」
しゃがみこみ、見上げる姿勢を取っている。両手を震わせながら合わせて指を組む。そして仕上げには、頬を紅潮させながらの涙目での上目遣いであった。心細げに声を震わす事も忘れない。リーナ渾身の、おねだりポーズだ。
これは、リーナの羞恥心を犠牲にして繰り出す、謂わば自爆技である。犠牲が大きいだけあり、効果も折り紙付きだ。数多のシュペー社従業員達に、多くの物を捧げさせた、正しく必殺技であった。
「おい! 聞いたか? マリア、アンナ! 僕が、僕こそが、お兄様だぞ!」
効果は抜群だ。これをされた人達は、興奮状態に陥る事が多い。彼の場合、何故か高揚の仕方がおかしい気もするが。
「こんな、アンナよりもちょっと歳上の娘に、お兄様と呼ばれるなんて、僕もまだまだ捨てたもんじゃないな!」
リーナは四人娘の中では最も小柄である。それに伴い起伏も少ない。四人でいれば、誰の妹さんかい? などと、実年齢より幼く見られる事があるのにも慣れている。これは、リーナが貧相なのではない。他の三人が恵体過ぎるだけで、自分は並だというのが彼女の主張であった。
実に心外なのだが、この身体的特徴は世の方々の庇護欲を大いに刺激するらしく、これまでにリーナの本気のおねだりに抗える者はいなかった。
「うふふ。お兄様のお陰で、マリアお姉様やアンナも健やかに暮らせるのですわ。どうか、誇ってくださいまし」
とはいえ、容姿と所作によって為すことだ。
「ふ……。僕の騎士道が、家族の平穏に繋がるのなら、面倒な議会の要請を受けた甲斐があったよ」
彼は上級冒険者にして、オリヴェートリオの元筆頭騎士だ。単体戦力としては、シシリアで最上位に位置する。到底、州議会が無視出来る存在ではなく、首輪という訳でもないが、シシリア州の治安維持、軍事部門の責任者、防衛大臣として任じられている。ビタロサは統一されて暫くは連邦国家であった。流石に州統治者を王とは呼ばないが、その名残から役職名などは古来よりのものが使われている。この防衛大臣、場合に拠っては血生臭い仕事もあるが、殆どの職務は彼の騎士道と波長が良く合うようで、恙なく勤めていた。
「お兄様! 私、お願いがありますの。次の安息日に、朝からアンナと一緒に病院へ行きたいと思っておりますのですが……」
「なっ!? ……どこか、悪いのかい?」
リーナに最後まで語らせる事なく、防衛大臣サルバトーレ=ファブリは、ひどく狼狽えた様子でアンナとリーナを見回した。病院へ行くなどと聞けば、どこか悪いのか。と、疑う事は無理もない。アンナは噛んで含めるように口を開く。
「トト。違いますよ。誰も体を悪くしていないので、安心なさいな。その日、仕立て屋さんの奥様。ヤヨイさんが、赤ちゃんと一緒に退院します。ですので、お祝いとお手伝いに私が行きたいって言ったの。リーナお姉様は、お手伝いに一緒に行くって、仰ってくれたのです」
「おおっ! それは目出度いな! 次の安息日だね! 僕も一緒に行くよ!」
瞳を輝かせて、同行を提案するサルバトーレ=ファブリ閣下であった。実に嬉しそうに言うが、そういう訳にもいかない。
「その日、というよりその週は、トトはパレルモで会合が予定されているので無理ですね」
彼には予定があるのだと、アンナは告げる。
「なら、会合はお休みにしよう! そしたら、僕も行けるね!」
「アナタ」
「トト。無責任なのは、嫌いです」
「なん……だと……」
両手両膝をつき、がっくりと項垂れるサルバトーレであった。
「それで、足は馬車を予定しておりますの。朝から出るのですから、せっかくですので此方に泊めて頂こうかと思いまして。その方が、手間も費用も節約出来ますので」
「レベッカおねーちゃんと、ノエミお姉さんも一緒よ。ね、トト。お泊まりを許して。お願いします」
いつの間にかアンナもリーナと並んでいる。しかも姿勢や表情まで、リーナのものに似せていた。膝を突き、見上げる姿勢で、手は祈りの印を結んでいる。あどけない頬を恥ずかしげに赤らめて、涙を滲ませた上目遣い。声も切なげに震わせている。演技にしろ本気にしろ、リーナは、この幼女、やべーなと思った。
そしてリーナも再びのおねだりの姿勢。この要求を通す為に、このような茶番まで演じているのだ。こっそりと、アンナとマリアへ目を向ける。一瞬だけ交差したアンナの瞳はリーナへの敬意を隠さず、マリアも泰然として微笑んでいる。『勝ったな』と、彼女は思った。
「どうか。私達が宿泊する事をお許しくださいまし。サルバトーレお兄様」
瞬間、リーナの脳内には勝利のファンファーレが鳴り響く。隣で傅く気配を感じた刹那、サルバトーレがもんどり打って倒れたのだ。しかもご丁寧に吐血している。
リーナは驚いた。彼女の愛読する小説によれば、美形は興奮すると鼻血を出すのではなく、吐血をする。鼻血は美しくないからだそうだ。そんな馬鹿な話はあるかと、彼女は嘲笑っていたのだが、どうやら事実だったらしい。顔を蒼褪めさせて、美青年は口許に付いた喀血を拭った。
「マリア。君も一緒に行くのかい?」
「残念ながら、その日は朝から指名依頼が入っておりますの。でも、リーナちゃん達がアンナを見ていてくれるのなら安心です。駄目かしら? アナタ」
そしてマリアまで隣に並んでいた。二人と似たようや仕草をそれも、形式的には同じであるが、ずっと洗練された所作で。リーナは改めて、この母娘、やべーな。と思った。
「ふ……。構わないよ。どうせ僕はその頃、パレルモでつまらない朝を、むさい部下達と一緒に迎えているのだから……」
そんな内心はともかくとして、家主の了解が得られたようである。であるならば、もう一人から了解を得なけれならない。ここまでの流れからして、あまり心配はしていないのだが。
「そういう訳ですので、私達の滞在をお許し頂けませんでしょうか。マリアお姉様」
「ええ。リーナちゃん達なら安心だわ。アンナをよろしくお願いしますね」
「はい。お任せください。お姉様」
「もう。あんまり気負っちゃ嫌よ。それと、お家へご挨拶に伺っても良いかしら? 一晩とはいえ、大事な娘さんをお預かりするのだもの。ちゃんとしないとね」
「両親には伝えておきますね。お姉様のご都合の良い時にでも、お願い致します」
その後、親同士がどうしたのかまではアンナは知らない。結果的にアンナはヤヨイ達が退院の日、三人と共に病院へ行く事になったのだから、何の問題もなかったのだろう。