そして街中へ出たアンナは、瞳を輝かせた。
沢山の人がいて、馬車や車両が行き交っている。
高く立派な建物や、賑やかなお店も数多くあった。
そこかしこの街路樹や花壇には色とりどりの花が咲いているし、ふよふよと浮かぶ蝶々や尻尾を振って駆け回る犬までいた。
楽しい。綺麗。それが彼女の抱いた想いだ。
お日様は穏やかで、生き生きとした街の姿に感動している。
何せこの頃のアンナは貧弱で、あまり家の外へ出た事がなかった。
たまには出るが、そこにあるのは温泉と街道であり、穏やかで風情はあるが街の中心部のような煌びやかさはない。
マリアに連れられてドロテアの所に行く事はあるものの、往復の馬車ではだいたい眠ってしまっている。『御使のおくるみ』に包まれていたからだが、この頃はよく判っていなかった。
とにかく見る物全てが新鮮で面白く、アンナはまたもや、フラフラと歩み出すのであった。
そしてどこかも判らぬ場所へ出て、なおも街の様相を楽しんでいると、自分を見詰める強い視線に気が付いた。
周囲を見渡し視線の主を探す。
首を振り、全身で回って周囲を見渡せば、その主は路地裏の入り口近くにある藪の中にいた。
猫である。灰蒼の毛並に金色の瞳を持った、綺麗な猫さんであった。
思わずアンナは猫さんと口にした。その猫さんは「なーご」も鳴いて立ち上がる。
暫くじっとアンナを見ていたが、やがてくるりと踵を返してひょこひょこと歩み出した。
トコトコではない。ひょこひょこである。歩みは遅い。何故ならびっこを引いている。後足を怪我しているようだった。
待って! 猫さん! あんよを怪我してるよ!
またもや思わず叫んで、幼いアンナは駆け出した。
猫さんを追い掛ける為である。だが遅い。とてつもなく遅い。駆け出してはみたものの、彼女の足はナメクジのように鈍足だった。
足を怪我した猫よりも遥かに遅い駆け足であった。
そして猫さんを追い、路地裏の中へ入り込んだアンナであった。
やがて息が上がると立ち止まり、堪らず息を整える。この時既に、猫さんを見失っていた。
彼女は自身の運動能力の低さに自覚がなかった。
比べた事がないからだ。だから当たり前のように普通だと思っていたし、相手は足を怪我した猫さんだ。
歩幅は小さいし、足だって健康な自分の方が早いに決まっていると思っていた。だが、それはとんでもない慢心である。この頃のアンナは己を知らなすぎた。
やがてようやく息を整えて周囲を見渡せば、まったく知らない場所である。
アンナの頬から血の気が引く。
猫さんを追い掛けて来てみれば、未知の場所、しかも薄暗く空気の澱んだ路地裏だ。
そんな場所は知らない。彼女がこれまで過ごした場所は、明るく空気の綺麗な所しかなかった。
彼女は少し、怖くなっていた。
立ち竦んでしまったアンナの耳に、硬い物が硬い物にぶつかる物音が聴こえた。
何度も、何度も。
それは時に軽く、時に重い物音で、鋭い時もあれば、ひどく重々しい時もあった。
耳を澄ませば、その物音の中にひどく楽しげな笑い声が混じっている。
その声は幾つもあった。どうしてか、とても楽しげな笑い声な癖に、背筋がゾワリとするような気持ち悪さがあった。
だがアンナはそれには目を瞑る。
声からして人だ。声は高く、子供のようだった。
人、それも子供であるのならアンナの同族である。
今までは他の子供達と話した事はないが、意思の疎通が取れるなら、現状の打開策となるかもしれないと考えた。
路地裏から抜け出る道を知ってるかもしれないし、猫さんの事だって知っているかもしれない。
希望が見えたと信じて、アンナは物音のする方向へ歩み出した。
だがそこで、希望を信じたアンナが見せられたのは狂気に満ちた無惨な光景であった。
猫さんが居た。血溜まりの中に倒れ込んで。
猫さんの無事だった後足は、今はない。
大きな石に押し潰されていた。
そしてお腹にも、大きくはないが石が乗っている。
その下には血溜まりが広がっていて、それはどんどん大きくなっていく。
首と顎を動かしているが鳴き声さえも出せないようで、その動きはひどく弱々しい。
そして狭い路地裏の中に、幾つもの甲高い笑い声が響いている。
声の主達はアンナが当初期待した通りの、子供達であった。
歳は十歳になるかならずやで、彼女に比べれば大分大きな男の子達であった。
皆揃って身形はよく、小綺麗な服を纏っている。その癖、表情だけが汚いものだった。
彼等は楽しげに、猫さんへ向けて石を放っている。
石は軽いものから重いものまであって、外れたものは硬い音を立てて地面に転がる。
先程まで聞こえていた、あの物音だった。
彼等は石を放り、猫さんから外れる度に、下手くそ! だの、ノーコン! などと口々に汚い言葉で互いを囃し立て、笑い合っていた。
思わぬ光景に立ち竦んでしまっていたアンナには、彼等の声も顔も、酷く醜悪なものに思えた。
頭ではすぐにでも猫さんの元へ行きたいのに、身体が動かない。
息さえも出来なくて、酷く苦しかった。
でも、猫さんの方が絶対に痛いし苦しい。
助けに行かなきゃと思うものの、身体が動いてくれないでる。叫び出したいくらいなのに、口も開けられなかった。
そして一番囃し立てられていた男の子が、顔を真っ赤にして大きな石を抱えて来た。
彼はこの大石を頭に当ててやると言い、周囲の男の子達は「やれるのか、出来たら勇者だな」などと、またもや口々に楽しげに囃し立てた。
男の子が石の投擲体制に入ろうと、腰を落としていく。膝を曲げ、屈伸の運動により投げる為だ。
ダメ! 絶対にダメ! あんな大きな石が当たったら、猫さんが死んじゃう!
アンナは声にならない声で叫んだ。
男の子の身体は全身の運動を石へと伝えるながら、ゆっくりと伸び上がる。
そして呪縛が解けたかのように、アンナの身体が動いた。猫さんの元に駆ける。だが、その動きはひどく遅いものだ。
男の子の手から石が離れようとした、その刹那。
アンナの唇から言葉が漏れた。
理に囚われし、愚昧なる信徒が請い願い奉る。意識の下、不可知の海で揺蕩う、偉大なりし狂える大神よ。御身の慈悲深き加護の元、我に、肉の枷を外す不忠を、許したまへ。狂化(バーサーク)!
それは詠唱だった。アンナの身体能力は数十倍にも強化され、猫さんの元へと駆ける。
既に石は手を離れ、放物線を描いていた。
コメカミの少し上、額近くに強い衝撃が走った。
石が、当たったのだ。
狂化の恩恵により石は砕けたが、アンナは額にドロリとした紅いものが流れたのを感じた。
血であった。
紅い血潮が頭部から吹き出し流れた。
皮膚が切れたのだろう。狂化は身体能力から身体構造、そして精神性まで強化する術式であり、その強度は乗算される。
この時アンナの強化比率は百倍に近かった。
だがこの乗算という一見凄まじいまでの比率、裏を返せば素体の身体能力に掛かるものであり、元が貧弱であっては最終的な能力がそこまで高くなる訳ではなかった。
石は大きい割に脆かったのか、だからこそ砕けて鋭利な破片となって出血に繋がった。
だがそんな事は今のアンナには関係ない。
流れ出る血液など気にせずに、猫さんの傍へと座り込む。
お腹に乗った石を片手でどかす。
狂化していなければ、両手でも持ち上がらなかっただろう。
潰れたお腹から肋骨が飛び出ていて、そこから出血していた。
服を破いて止血の助けとする。これも狂化の恩恵であった。応急処置の方法は身に付いているので、迷いはなかった。
次に足を押し潰している石だ。これは大きい。先程頭に当たった物よりも。
両手を使って退かせた。だが予測出来ていた事ではあるが、脚は無惨に押し潰されている。
それでも僅かではあるが、希望があった。
何故だか判らないが狂化の術式が行使出来た。
一応強化は教えられていたのだが、あまり強い興味を引かず、熱心に取り組んでいた訳ではない。
その上位術式である狂化を使えている。
ならば熱心に取り組んでいた治癒も、もしかしたらという期待だ。
アンナは心を落ち着けて、詠唱を口ずさんで治癒に挑んだ。
だが治癒は発動しない。強く願い、望んでいるのに治癒は発動しなかった。
アンナの詠唱だけが虚しく路地裏内に響く。
男の子達は既にいない。逃げたのだろうが、それは別にどうでも良い事だった。
何度も試みても、治癒は発動しなかった。
堪らず、虚しい詠唱の中に嗚咽が混じり始める。
救いたいのに、救えない。それが悲しいのか悔しいのかも判らなくて、ただただ胸の奥が寂しい。
ちゃんと唱えなきゃ。そう思って詠唱を繰り返すも、口を開く度に嗚咽の比率が上がってしまう。
これではいけないと繰り返すが、益々詠唱は無意味な嗚咽に変わってゆく。
そしてアンナが耐え切れなくなりかけた時、猫さんが、なーごと鳴いた。弱々しいが、優しい声だった。
思わず猫さんの顔を見る。
金色の瞳がアンナを見つめていた。
アンナは何度も、ごめんなさいと謝った。猫さんはまたもや、なーごと鳴く。
その瞳は涙のない、強い瞳であった。
大怪我をしている。痛くて、苦しいだろう。なのにまるで、謝らなくてもいいよ。と言われているように見えて、アンナの心は悲しみに溢れた。
だがその悲しみが、今のアンナに出来得る事を思い出させた。
ただの自己満足でしかない気休めだが、今の自分が猫さんに捧げられる物は、一つしかない。
そしてアンナの唇から詠唱が紡がれる。
我が心は、ただ汝に寄り添う。ただ一時の安らぎを。——
それは優しい声だった。そしてとても哀しい声だった。
この術式は最初の術式だ。母に渡せた、数少ない魔法であった。
生命を助けないし、傷は癒やせない。
肉体を再生させる事も出来なければ、病などへの抵抗もしない。
ただ僅かに気持ちを安らがせ、少しだけ幸せを感じさせるだけの、ささやかな術式。
アンナの無力を象徴し、戒める最初の呪い。それこそが
応急処置こそ施したものの大怪我だ。血も流れ過ぎている。
猫さんは、もうあまり長くないだろう。
例え生命が助かったとしても、後脚が二本とも潰れていた。野生の中では生きてはいけない。
自身の無力が悔しいのか、猫さんの境遇が哀しいのかも判らなくなって、アンナは安息を詠唱し続ける。
せめて、寂しくないように。せめて、哀しくないように。最期の時まで側にいますからと祈りながら。
疲労か、それとも泣き疲れたのか、はたまた出血によるものか。
アンナは安息を唱え続けたままに、やがて意識を手放した。
そして再び意識を取り戻したアンナだが、組合にあるマザー・ドゥーラの私室、統括室にいた。
寝台にではない。『御使のおくるみ』に包まれて、マリアの胸に抱かれて。
意識を取り戻したアンナから、おくるみがハラハラと解けてゆく。アンナは最初に、お母さん、ごめんなさい。と謝った。
マリアの目に、泣き腫らした痕が残っていたからだ。また心配をかけて、悲しませてしまったのかと哀しくなる。
難しい顔をしたドロテアが座っている。
彼女にもアンナは、ごめんなさい。おばあちゃん。と謝った。信頼し自由を与えてくれた彼女を裏切ってしまって申し訳ない気持ちであった。
だが二人共、アンナが意識を取り戻し声を出すと僅かに表情を柔らげる。ちょっと嬉しい。
そう安心してしまえばアンナの心を占めるのは、猫さんの事ばかりであった。
あの子はどうなってしまったのだろう。心配だった。やがて意を決し、二人に尋ねた。
猫さんの消息を尋ねれば、二人はまたもや難しい顔をした。
あまり良くない反応だ。アンナは最悪の結果を想像して落胆する。せめて、看取ってあげたかったと。
だが、そんなアンナは手酷い裏切りにあう。
ドロテアが机の後ろから何かを摘み上げると、アンナの前に差し出した。
なーご。と鳴いた何かは、灰蒼色の毛並みの黄金の瞳を持った、あの猫さんだった。
しかも血は洗われて毛並みは美しく、後脚二本が健在だった。訳が判らない。
それでも意味が解らないなりにアンナは大層喜んで、飛び上がり跳ね回った。
猫さんを抱き抱えようとしたが、駄目だった。
ドロテアに離された猫さんはとても大人しく座っていたのだが、アンナの力では持ち上がらない。
逆に足元へ纏わり付かれた際に、押されて尻餅を付いてしまう。彼女は大層非力であった。
そして詳しく聞いてみようとすれば、二つの保護術具を見せられる。
街中でバラバラで落ちていたという。
この保護術具。どちらも同じものであり、ネックレス型をしていた。
ドロテアに掛けられて暫くして鏡を見た時、アンナは同じネックレス二つ着けるのは変じゃないかと思い、両方外して手に持つ事にしたのだ。
どちらか片方は首に掛けてもよかったのだが、アンナにとってはマリアもドロテアも、どちらも大事な人である。
どちらか片方だけは選び難く、仕方なく両方外して両手に持つ事にしたのであった。
流石は三歳児。とても浅はかである。しかも二つとも落としてしまっているのだから目も当てられない。
保護術具には位置情報探知と生体確認が付与されているものの、それも身に付けていてこそのものである。
この術具がアンナから外れていて、二人の大人は半狂乱になって街中を探し回ったのだがその情報はアンナへ渡る事はなかった。大人達は恥ずかしかったからである。
改めて猫さんについて尋ねると、どうやらこの猫さん、めいめいに駆け回っていた二人が鉢合わせとなった時に路地裏から這い出て来たそうである。
前脚だけで這ってだ。
無惨な姿に二人共一瞬は目を奪われたのだが、それどころではないと情報交換をする二人。
猫さんは、彼女達をじっと見つめていたという。
情報の擦り合わせにより、路地裏内にいるかもしれないと二人が思った時、猫さんは着いて来いというような仕草をしたそうだ。
そこで二人は初めて猫さんのお腹の負傷に気付き、治癒を施した。
野良猫とはいえ、放っておける傷ではなかった。
そしてマリアが気付く。
猫さんの応急処置を施した布が、アンナの服の一部であると。
その服はエトナ山を登る為に仕立てたもので、マリア自ら織ったものである。どのような手段で切ったのかは判らなかったが、マリアが疲労軽減の付与を掛けており、見間違う筈もないものだった。
二人は猫さんが進む方向に、アンナがいるのだろうと確信する。理由などない。天啓のようなものだった。
そして二人は猫さんに着いて行こうとするのだが、その進みは遅い。
当然だ。前脚しか使えないのだ。寧ろ前脚だけで歩いているのだから、驚異的でさえあった。
だが焦れたのはドロテアだ。
見たところ後脚の一本は完全に潰れているが傷はまだ新しい。ならば癒すまでと、治癒術式を行使する。
彼女の最も得意とするのは身体強化だが、治癒や回復の術式も大したものである。
聖母の異名は、伊達ではないのだ。
そしてドロテアが傷を癒したが、果たして快癒したのは一本だけであった。
もう一本の脚は多少の修復がされたものの、癒えなかった。
それが自然と成程に、旧い傷であろうと思われた。
ぴょこぴょこした不恰好な歩みであったが脚を一本取り戻し、慣れた歩みとなった猫さんは二人を先導して進む。
そしてマリアとドロテア。二人が見たものは。
頭から血を流し、血溜まりの中で横たわるアンナの姿であった。
マリアは卒倒しかけたものの、すぐに駆け寄り容態を確かめる。
確かめてみれば、頭からの出血と瘤、疲労、そして体内術力の一時的な枯渇くらいの軽傷であった。
血溜まりの中にいるものの、他に出血がある訳ではない。
一安心したマリアは治癒術式を行使し、ドロテアに心配ないわと告げようとしたのだった。
だが、この場で最も混乱し、取り乱していたのは実の所ドロテアであった。
アンナが血溜まりの中で倒れているのを見た瞬間、彼女の頭は冷静ではなかった。
直ちに主の御技である
もしもこの時マリアの大丈夫。軽傷よ。という声が届かなければ、アンナは五つの時に、生命がなくなっていたであろう。まさに紙一重であった。
そして洗礼の秘蹟は、権威付けの為に様々な工程が踏まれるのだが、内実は非常に単純な術式である。
主の
というよりも、神聖術式自体が祈りによって展開される性質を持つ。
早いが、その早さ故の誤爆もあるのだ。
儀式で行使される神聖術式に勿体ぶった前振りが多いのは誤爆を防ぐ為の予防措置にすぎない。
済んでのところで洗礼の秘蹟をドロテアが取り止めたが、領域は展開したままである。
アンナは無事だが監視の目がある。ヨアキムの手の者だ。確たる安全を保つまで領域は展開したままでいる事にした。
この迂闊を後にドロテアは悔やむ事となる。
どうやらアンナは無事なようなので、二人は安堵する。
そうなると気になるのは猫さんの事である。
見たところ結構な老雌猫で、毛並は灰と蒼という珍しいものであった。
脚は一本駄目なようだが、三本脚でも不自由なく歩けるようだ。そして何より、金色の瞳には知性の煌めきが宿っていた。
歳経た猫は知性を有するという迷信があるが、彼女はそんな俗説にも頷ける瞳を持っていた。
アンナを回収したマリアとドロテアは、アンナの元へ案内してくれた猫さんと、巡り合わせて頂いた主へ祈りを捧げた。
そしてドロテアが、猫さん。ありがとう。貴女のお陰で、大事な孫娘は無事だったわ。もしかしたら貴女は、主より遣わされた救いの猫さんかもしれないわね。本当はその脚も治してあげたかったのだけど、力及ばずで、ごめんなさい。せめて、貴女の身体が癒えて、元気でいる事を主へ祈らせて頂戴ね。そうあれかし。のような内容の話しを、宗教家らしい持って回ったような仰々しい言葉遣いで言った。
言ってしまった。秘蹟の用意された空間の中で。
すると用意されていた洗礼の秘蹟が発動し、猫さんは福音に包まれる。
御使の楽隊達が荘厳な音楽を奏で、猫さんのお腹へ聖痕が刻まれた。
ドロテアもマリアも、え? というような顔をして固まった。
アンナは夢現の中にいるのか、猫さん。などど暢気に呟いている。
しかし、大人二人には、こんな展開想定外である。
洗礼の秘蹟を授けられた野良猫など、恐らくは前代未聞であった。
ドロテアは領域を解除し、猫さんを抱え上げる。
マリアはアンナを抱いて『御使のおくるみ』に包んだ。
二人は大汗を掻きながら、冒険者組合シシリア州統括室へと向かった。
そして意識を取り戻したアンナに事情を聞いて、マリアはアンナをこっぴどく叱った。
不注意や道具の紛失に、選べなかった優柔不断、そして自らを省みない無謀な自己犠牲などについてである。
心配をかけてしまったマリアに叱られるのは当然だし、ドロテアにも迷惑をかけている。
統括室の様子から、ドロテアが仕事を途中で放り出してまで探してくれたのを察していたし、それはマリアも同様だろう。
彼女は荷物を背負ったままだ。
書類仕事用に眼鏡も掛けていた。
アンナは、申し訳なさに縮こまっている。
だが、その視界に一心不乱に牛乳を舐める猫さんが入ると嬉しくなって、つい微笑んでしまうのだ。
すっかり元気になってくれて、よかったと。
そんな顔を見せられてしまってはマリアの毒気も抜ける。
もしも何かあったなら。不安で、心配だからこそ、しっかりと叱っているのだ。
叱られる中、アンナは一言だけ反抗した。
怪我なんかより、猫さんが殺されない事の方が大事だよ。と。
その上、自分に怪我を負わせた少年達まで憐れんだ。
力のない猫さんを虐めて楽しんでいたのは、きっと今幸せじゃないから。きっと辛くて哀しくて、他者を愛し、慈しむ気持ちまで忘れそうになったから、あんな真似したんだよと。
ちゃんとみんなは愛されていて、その気持ちだけで幸せになれるんだよと教えてあげたいね。と。
そこまで言われてしまえば、マリアはそれ以上叱れない。
それにアンナが為した事は素晴らしく、善い行いだ。褒める所は褒めなくてはならない。
教育や躾はメリハリが必要である。
だが内実は、マリアが褒められて喜ぶアンナが好きだからに過ぎない。
それでも甘い顔をしてしもうのは違うような気がする。ドロテアもいるし、恥ずかしかった。
そこでマリアが思い出したのが花丸の約束である。
マリアはアンナへ、手帳は持っているか尋ねた。
アンナは腰に着けているポーチを探り、手帳を取り出して「あるよ」と答える。
マリアは今日の日付の頁を広げさせ、自分も収納術式から手帳を取り出すと、広げる。そして……。
今日のアンナは、大変善い行いを果たしました。猫さんの生命を守り、男の子達の尊厳をもまた守りました。その上で、少し怪我をして、多くの方々にご迷惑をお掛けしたけれど、無事帰ってきてくれました。ご褒美に、花丸を差し上げましょう。初めての花丸ですね。おめでとうございます。お家に帰ったら、暦にも大きく押印してあげますからね。
平坦な口調でツラツラとマリアが言って、綺麗な花丸を描く。二人の手帳にだ。澄ました表情をしているが、顔が赫い。
バァーッとでも擬音が付きそうな程に顔を輝かせるアンナであった。
少し前から約束していた。
アンナが善い行いをしたり、マリアが認めるくらいにお勉強や家のお手伝いを頑張った時には、花丸をあげましょうと。
この花丸が三つ貯まると、マリアがアンナのおねだりを叶えてくれるという。それも、可能なものであればなんでもだ。
この約束はおおいにアンナを刺激した。
近頃はマリアはお仕事が忙しいのか家を空ける事が多く、自習ばかりをさせられている。
偶にではあるが、一日帰って来ない事もあった。
そういう時にはサルバトーレがいて、アンナの相手をしてくれるのだが、彼の場合はなんか違う。
身体は大きいし、面白いので大好きなのだが、何か違うような気がするのだ。
半年くらい前までは、アンナはよく眠る子であった。だが、今はそうではない。
お昼の後や夕方に目を覚ましたのに、マリアがいない。その前までは、一緒に唄を歌ったりしていたのにだ。そうなると、家の中は虚で寒々しくて、とても寂しい。
サルバトーレは優しいが、その気持ちを埋めてくれる人ではなかった。繊細な感覚など持たない脳筋であるからだ。
そんな境遇に耐えかねたアンナへ齎された福音が花丸である。
アンナはマリアが忙しいのだろうとは予測していた。それでいてなお、自分と一緒に居てもらう時間を欲した。
アンナが花丸を集めて願いたいと思ったのは、マリアと共に過ごす時間であった。
そのような野心があるので、お勉強やお手伝いを頑張ってみたのだが、花丸はお預けだった。
アンナなりに考えて出した理論など、所詮は子供の浅知恵である。
それはすぐに自覚した。ならば。と、お手伝い等に精出してみるのだが、これが上手くいかない。
桶を運んでも転ぶし、掃除をしても上手くはない。
比較のしようがないので彼女は知らないが、三歳児など、そんなものである。
だがそうは思えなかったせいで、アンナは自分の不器用を嘆いた。
身体もあまり丈夫でなかった為、何かあると直ぐに体調を崩す。
そんな時はマリアも付きっきりで看病してくれるので満更でもないのだが、体調を持ち直すとマリアとはまた暫く会えなくなった。それも、普段よりも長く。
そのような背景により、アンナはこれまでは花丸を貰った事がない。
その機会がこんな風に訪れるとは、正に晴天の霹靂であった。