これにて、一旦お仕舞い。
カターニアに住む自称ごく普通の街娘兼、冒険者であるアンナはその日、冒険者組合へと向かっていた。
当然ながらお仕事のためである。
労働依頼としての街のお花屋さんでのお手伝い。
基本的にはお花の世話をする簡単なものだが、場合によっては接客をする必要もあった。
身体への負担は少ないが、それなりの植物に対する知識や社交性、読み書き計算なども必要とされる。
歴とした労働依頼であった。
今年八歳となるアンナは、母であるマリアからの一人歩き禁止令がようやく解かれ、市内であるならば自由気ままに出歩く事を許されていた。
十二の歳までは主と国家の間の愛し子でもある子供達。
それを標的とする命知らずの犯罪者は少なく、カターニアは治安の良い都市でもある。
いつだって、どこだって人で溢れていた。
アンナを知る者もそれなりにいて、素直な彼女は愛想も良い為、知り合った街の大人達にはとても可愛がられている。
学園に通っていないアンナにとって、街は社交の場でもあった。人は人々との関わりにより成長する。
持病のようなものにより、学園通いを諦めたアンナには必要な経験として許されている事だった。
とはいえ、保護者であるマリアに油断はない。
普段は付き添うし、この日のように所用あって不在の間でも幾つもの保護術具を身に付けさせている。
実の所、これらは少々過剰なものである。
アンナ評価からすると、下手をすれば単身であっても発生したばかりの小規模異界程度ならば進むだけでも攻略出来た。
どう考えても街歩きには過剰なものだった。
マリアは、アンナを一人でも確りと生きられるように。と厳しく躾けている癖に、大層親バカな上、呆れるくらいに過保護でもあった。
「おーい。そこのお嬢ちゃん。ちょい待ちなよ。お母ちゃんか、お父ちゃんは一緒じゃないんか? もしかして、迷子か?」
「いつもお仕事、お疲れ様です。いいえ。幸いにも、迷子ではございませんわ。お声掛け頂き、ありがとうございます。この街の平穏は、護衛団のお兄様方のおかげでございますわね」
背中から声を掛けられて振り返り、丁寧な淑女の礼を披露して朗らかに挨拶をするアンナであった。
制服姿の二人組。
こうやって、都市の治安維持を引き受ける護衛団の皆様に出会す事は珍しくもない事である。
だが、声まで掛けられる事は珍しい。
一人歩きをするようになり、二人一組で街を回る彼等に声を掛けられる事が増えた。
考えてみれば、当たり前の話であった。
平日の日中では子供の一人歩きは少ない。同年代の子供達は大体が学園に通っている。
「おう。あんがとうよ。随分としっかりしているが、流石にお嬢ちゃんには一人歩きはまだ早いかなぁ。よければ、家まで送って行くぜ。場合によっては親御さんには、ちっと話を聞かせて貰わねばなんねぇが」
だから、こうやって気を回すのだろう。
保護者には教育を受けさせる義務がある。
それを怠っていないかを調べるのも彼等の職務の一つであった。
「そうですね。私も未熟故、未だ学園へと通えていない身。ご不審に思われるのは致し方ありません。ですが、私も街のお手伝いというお仕事があるのです。家へ帰っていたら、遅刻してしまいます」
「感心なこったが一人で行くんかい? ご両親はどういうつもりだい?」
「本日は二人共、お仕事に出ておりますの。朝早くから出てしまった為に、今日は一人でお手伝いに向かいますのよ。よく知った場所なので、ご心配なさらず。迷子になんて、なりませんわ」
「ほえー。ちっちぇのに、感心なお嬢ちゃんだなぁ。まぁ、じゃあ。そのお店までは俺達が送ってやんよ。どこだい?」
「ちっちゃくないもん」
「こいつは失礼しました。シニョーラ。あんなに綺麗な礼が出来るんだもんな。子供扱いは良くねぇな」
質問に答えず、唇を尖らせたアンナに護衛団の二人は苦笑する。
彼等とて、いっぱしの大人である。
子供だからこそ、子供扱いされるのを嫌がるという、子供らしい感性に理解があった。
微笑ましいものである。拗ねるアンナを上手に煽てて機嫌を取っていく。
護衛団の二人は思う。
基本的にはカターニアは治安が良いし、子供狙いなど殆どない。だがこの幼女。ちょっと目立つ。
ごく普通の厚服という地味な服装だが、容姿が非常に美しい。加えて振る舞いに気品がある癖に、無垢な可愛らしさもあった。
血迷った者が出ても不思議はないと思い、心配した。
遠巻きに視線らしきモノも感じるのだ。それらはこの幼女に向けて注がれている。気付いているのか、いないのか。
幼女は気にも留めていない風であった。
「ありがとうございます。素敵なシニョーリ。それではお誘いにお応えして、中央区一番街までのエスコート。どうぞよろしくお願いいたしますわ」
柔らかく微笑んで。甘やかな声音で淑女の礼。こんな仕草までするのだ。物言いは背伸びした生意気なものである。
なのに、とても愛らしい。ちょっと放ってはおけなかった。
これ程に無防備に好意を振り撒けば、勘違いする者は出るものだ。いっぱしの大人である彼等。決して邪な気持ちではないと誓っている。
そうしてアンナは二人のお兄様に両手を繋がれて、気分良く街道を歩む。
右手側のお兄様が騎兵隊の唄を歌ってくれていて、気分は大いに盛り上がっていた。
勇壮で、正義の為に一生懸命な騎士達の旅唄。
好きな道、歩む景色を喜んで、心のままに駆け回る自由人達の遊びが楽しい。
アンナも併せて歌っている。
それは大好きなお父さん。サルバトーレの心のようでいて。その背中を追うような心持ちで、一緒になって高らかに唄う。
——我等が行く。晴れ渡る蒼空の下で。紅き炎を夜の友とし。我等は行く。澄み切った星空の下で。我等は行く。いつかまた巡り合うその日まで。
旧い祝い歌を取り込んだ歌唱は、とても高揚するお歌であった。
元は戦争に向かう兵士たちの歌だが、今では冒険のお歌でもある。アンナには戦争は嫌だという気持ちがあるが、冒険はしたいと思っていた。
「楽しいお散歩。ありがとうございました。優しきお兄様方。ご健勝をお祈りいたします。ごきげんよう」
「おう。お手伝い、頑張んなよ」
中央区一番街、大通りまで来たアンナ達一行は立ち止まる。
恭しく淑女の礼を取り、感謝の言葉を述べて別れを告げれば、お兄様達は手を振りながらも去っていく。巡回へ戻っていくようだった。
冒険者組合の扉を潜ったアンナは受付へ向かう。
見習い用のものである。
清掃用の制服を身に纏ったお兄様達の背中に並んだ。その前には郵便配達の制服を纏うお姉様や、土木工事用の制服姿のおじ様方がいる。その先にも、それぞれ制服姿の人々が並んでいた。
合わせても十名で、依頼書を受け取っては速やかに離れて行く。然程に待つ事もなく、アンナは受付に辿り着いた。用意されている台座に登る。
「おはようございます!」
「おはようございます。いらっしゃい。アンナちゃん。今日は二番街のお花屋さんでのお手伝いよね」
良い挨拶をすれば、受付のアリアお姉様も愛想良く微笑んで案内をくれる。
この依頼、既に何度か受けていた。
日雇いの依頼である為きこうして出勤前に組合へ寄り依頼書を受け取って、仕事場へと向かう事となる。
最近になり、アンナの受けられる労働依頼は増えてきている。
最初の頃は制服が用意出来ないから。と、断られる依頼も多かった。
先程まで前にいた方々が受けられている清掃や、土木工事などの労働依頼がそうであった。
でも中には腕章やエプロンなどの小物の装着を制服とするような依頼もあった。
そういった依頼を受けて実績を積んでいく。お花屋さんの制服はエプロンで、お店に置いて貰っている。
接客業などの制服は店毎に異なる為、結構融通が効くものだった。
このお花屋さんのお手伝い。
お花屋さんご夫婦のお孫さんが学園から帰って来るまでのものとなる。拘束時間も長くなく、日暮れ前には仕事を終えて帰れた。
アンナには大変都合の良い依頼であったが、報酬は安めであって、それ程人気があるものでもない。
実はこの手の日雇い労働依頼。結構数多くあった。
依頼を出しているものの、それは企業やお店自体がその場凌ぎの労働力を必要としての事ではない。
一時的に必要であれば、期間を定めた常庸依頼とするであろうし、恒常的に必要ならば従業員として雇うだろう。
都市の住民がこういった依頼を出しているのは、孤児達の為である。より正確にいうならば、十二となって冒険者登録され、事業者となった元孤児達の為の依頼であった。
冒険者登録されて事業者となったのならば、義務教育修了相当とされる。
学園に通うという義務に近い物が免除されるが、事業者でもあるので学費や税金も免除とはならない。
学業と生活とでは、優先度が歴然となってしまう。
それに、学園においては進学や就労の支援は十五の齢から本格化する事になる。通う余裕もないので、学園で得られる支援や縁故という恩恵を元孤児である冒険者達は受けにくかった。
国や地域によって、そういった冒険者達は安価な労働力として重宝されている。
だが、それでは貧困の螺旋から逃れる事は難しい。
為政者達にとっても生活の不安定な民は不満分子となり易く、扱い難かった。
放置してしまえば良民の間に階層を作る原因ともなるので、一種の社会問題となる事だってありえた。
そういった問題を、僅かにでも解決しようというのが労働依頼であった。
必要不可欠な労働力としてだけでなく、社会人として育む事を目的としたもの。
こういった類いの依頼ならば、特別な縁故、そして素養や技術が無くとも日銭を稼げ、日々の生活を送れる。様々な業種で依頼があるので、本人のやる気があれば良い職業訓練や働き口探しの場ともなった。
シシリアには現在、孤児は存在していない。
そして孤児上がりである未成年冒険者もだ。
このような依頼が出されるのは単なる伝統であり習慣だった。
しかしてこの習慣のおかげで、アンナは冒険者として働けている。社会人としていられた。
冒険者が冒険者らしいお仕事をするのには、一定の信用や社会性が求められる。
それを育むのが様々な労働依頼であり、自立して生活する為の土台でもあった。
今も昔も変わりなく、冒険者組合は社会から零れかねない者達の拠り所ともなっている。
そしてお花屋さんで目一杯に働いたアンナはご夫婦やお客様にはしっかりとした挨拶や計算の上手さを褒められて、帰って来たお孫さんにもお花の手入れの丁寧さを褒めて貰って、大変にご満悦であった。
そしてなんと、お土産まで頂いてしまっている。
鉢植えに入れられたお花であった。金色の可愛らしいお花で、キンレンカやナスタチウムなどと呼ばれるお花であるそうだ。
シシリアでは流通していないお花であった。
育て方次第であるが、食用にもなるとも教えられている。花や葉にピリッとした辛味があって、色々な料理に合わせられるらしい。
ガリア王国や、ガリアに近いトリノ地方などでは観賞用だけでなく、食用としても栽培されているそうである。
そしてこの頂いたお花。学園で食用として育てられたものだという。
その内の幾つかを栽培指南書と共に頂いた。
丁寧な君ならば、上手く育てられる筈だと煽てられて。食べてみて、気に入ったのならば、育ててみるとよいだろう。挑戦だ。とも乗せられて。
お孫さんはこの花に大層ご執心な様子でエトナ下層の農園でも育てられるかを試みるそうだ。
結果次第では新たな輸出作物になる筈だと大変意気込んでもいる。
早速お花の株を馬車へと乗せてエトナ火山に向けて出発してしまった。
着いた頃には日が暮れてしまうだろう。明日でも良さそうなのに。
そう思いながらもアンナは応援し、幸運を祈っておいた。
なお、アンナは辛いものが苦手であるがこのお花を育てる気は満々であった。
褒められて、煽てられて、乗せられているのだから仕方がない。とてもチョロい娘であった。
鉢植えを抱えたアンナは依頼の後の日課でもある市場巡りをしていた。
日課というが依頼完了が閉市の後になれば市場へは入れないし、そもそも都合が悪く、依頼を受諾出来ない日もあるので行ける時には行く。
という程度の頻度であった。
アンナはお勉強の一貫として、市場で流通品の価格推移などを調査している。
それらは公表資料であり、管理棟に行けば纏められた物が閲覧出来た。
それに実際に見て回った所感などを併せて、マリアと共に物品の相場などを考察するのも楽しい遊びの一つであった。
それに市場は様々な物品の集う場所である。
需要や人気の高い商品などは朝の内に売れてしまい現物を見る事は余り多くはない。
なのだが、アンナの目当ては別にある。
というよりも、売れ残りの中からお宝を探し出す事を楽しみにしていた。
これもまた冒険のようで、楽しい遊びであった。
当然ながら売れ残りの中には需要と供給の関係や、適正でない価格設定による物などもあるのだが、中には使途や用途が不明であったり、その物品の価値に誰も注目していないが故に売れ残りとなった品もある。
そういった物品の活用方法を考えたり、別の市場へ流した場合の損益計算などもアンナの遊びの一つであった。
例え売れ残りといえど、初めて目にする様な品もあり、そういった物品との出会いを求め、時には購入する事まである。
アンナは子供という事もあり、あまり金銭を持ち歩かない。安全面を考慮した結果であった。
しかし、依頼の後では多少なりとも纏まったお金を手にしている。
どうしても欲しい、あるいは必要な物があったのならば、購入する事はやぶさかでもなかった。
だがまぁ。そうそう面白い物品など見つかるはずもなく、大抵の場合は見ているだけである。
そして本日の市場調査をあらかた終えたアンナは再び生鮮食品市場へと向かう。
それは崇高な使命の為だった。
アンナが可能な限りに閉市前の市場へと訪れるその真実の理由。
それは、彼女の信仰する牛乳を救う為である。
牛乳には厳格な販売基準が設けられており、それから逸れてしまった牛乳はとても悲しい事に廃棄処分となった。
食の安全や、価格安定の為には必要な事だとアンナとて、判ってはいる。
判ってはいるが、だからといってみすみす牛乳の悲劇を見逃す訳にはいかなかった。
それは心の、信仰の問題だ。
世の全ての牛乳は美味しく頂かれるべきだし、正しく使われるべきである。
だが、現実はそうではない。飲まれる事なく廃棄処分とされる牛乳もあれば、お料理などに活用されずに廃棄処分されてしまう牛乳もまたあった。
現実的にアンナの力では、いと尊き大量の牛乳達を救う事など出来ず、何度も枕を涙で濡らしたものだ。
だが絶望の淵にあるアンナにも救いはあった。マリアにより、牛乳の救済を赦されたのだ。
通常瓶で、一本分だけという条件で。
その為の喜捨も持たされていた。
話の判るマリアはその日必要とする金銭に加えて、必ずや牛乳一本分のお金を渡してくれた。
無論、これでは全ての牛乳を救う事など出来ない。
出来ないが、たった一本とはいえど、口に運び、お腹に収め、救う事が出来るのだ。
信仰は揺るがない。それは大きな福音だった。
「あの。おじ様。本日の廃棄予定の牛乳は、こちらにはございませんか?」
「お。また来たね。お嬢ちゃん。ありがたい事に今日の廃棄予定の牛乳はもうないよ。明日以降の品ならあるが、お嬢ちゃんはお得意様だ。廃棄予定分の値段で良いよ」
「なっ!?」
狼狽えるアンナであった。
こんな事など今までは一度もなかった。
廃棄処分となる牛乳が無いのは素晴らしく、喜ばしい事である。
だが、アンナの記憶にある限り、前例の無い事でもあった。
未知の状況だ。未知は怖い。予測も立たず、準備もせずにいれば、覚悟も固まらない。
それに、牛乳購入は救済の為の喜捨である。
今救うべき牛乳でないのならざ、救いにはならない。だからこそ未知を解き明かす為に思考し、行動に移した。
「すみません。今日の牛乳の入荷量は普段とも変わりありませんよね。それでは今日の廃棄処分送りとなった牛乳が売れてしまう何かがあったのでしょうか?」
「おうよ。変わらず安定供給されとるよ。今日は大口の買い入れが入ってな」
「態々、期限切れ間近の牛乳をですか?」
「なんでも、その方が都合が良いそうでな」
なんという事でしょう。そうアンナは思った。
ちょっとだけアンナ自身の都合は置いておき、自分と同じ様に牛乳の救済を行なっている者があるという朗報。
それも、彼女の様に一本だけというささやかなものとは違い、大規模な救済である。感服し、感激していた。
「その、買主の方は? ……ごめんなさい。言えませんよね」
「悪ぃな。守秘義務があっかんな」
つい、その救世主に感謝を伝えたくて尋ねてしまった。だが、それに答えを与えられる事はないと理解もしていて謝罪する。
商人には守秘義務があり、尋ねられたからといって買い手の情報を晒すような真似はしない。
彼等がそれを晒すのは正当な手続きを踏まれた時だけであった。
ちょっと考え込むアンナ。
救世主の事は非常に気になるが、喫緊の課題があった。
それは明日には廃棄処分となる予定の牛乳を、この日この時に救っても良いのかという、信仰の問題だった。
アンナが牛乳の救済を行うのはせめて、一本だけでもという敬虔な想いから来るものだ。
決して飲みたいからではないと、本人は主張している。だからこそ、救済する牛乳は行き場のないものだけだった。
ところが、明日の廃棄処分予定品にはまだ行き場があった。
誰かに美味しく頂かれるかもしれないし、誰かが有効に利用するのかもしれなかった。
今日のように、救済の道だってありえた。
無念にも廃棄処分の列に並ぶのかもしれないが、未来は未確定なものである。
素敵な出会いがあるのかもしれないし、運命的な邂逅だってあっても良い。
牛乳の使徒を自認するアンナには、その機会を奪うような背教が正しいものだとは思えなかった。
だが、牛乳は飲みたい。
牛乳には貴賤などないが、残念な事に商業上の習慣によって値段が付けられる。
売る為の手管だが、古い物程価格を下げて販売する事は合理的でさえあった。廃棄処分予定品は、最安値となっている。
「ま、牛乳が欲しいなら、どれでも好きなの持ってきな。お代は勿論、いつもの値段だよ」
このお得感というもの、結構アンナを刺激する。
市場価値より安く買うというのも冒険であった。
その誘惑が信仰心とせめぎあっていた。
牛乳は飲みたい。それにお得感のある買い物も出来る。
だが、真なる牛乳の布教を思うのならば、天命というものを信じるのならば、今は我慢すべきであった。
敬虔な信徒として、牛乳の可能性を奪うなどという背教など——。
「いつも、ありがとうな。にしても、お嬢ちゃん。本当に美味そうに飲んでくれるなぁ」
実にあっさりと背教者の烙印を刻まれたアンナは美味しく牛乳を頂いていた。
本来の価格がちょっとお高い牛乳が、紛れ込んでいたからである。
それはエンナの牛乳。
名前通りに、エンナの牧場で育った乳牛から採れた乳である。
エンナの乳牛は良い草を食べていて、食品審議会からも特選の位が与えられている良質な物だった。
そして牛乳はエンナ独自の技術によって非常に低温で殺菌される。
この手法により牛乳は高い脂肪分を保つ。つまりは甘味が強くコクが深いものとなった。
その癖、雑味が無いのは餌のおかげなのだろう。
濃厚なのに、スッキリとして爽やかな味わいがあった。
このエンナの牛乳、結構な人気商品で殆どが廃棄処分となる事はない。生産を絞っている事もあるが、需要が高かった。アンナにしてもこれまでは、廃棄予定品の中で目撃した事がなかった。
「ごちそうさまです。大変美味しゅうございますわ。ですが、良かったのでしょうか? このようなズルをしてしまって」
いつものように牛乳選びに吟味していて見つけたのがエンナの牛乳だ。
この廃棄予定の品々、処理を簡略化する為に廃棄日の三日前からはラベルなどは剥がされて、共通の廃棄処分予定品として十把一絡げで販売される。
勿論販売者側は売買記録の為に個々の商品を把握しているのだが、買い手側には判別が付けづらい。
このような商品を仕入れ、転売することを専門とする
「いいって、いいって。ここにあるのは平等に、廃棄処分に並ぶ品だ。そこからお宝を選ぶのも、商売の醍醐味よ。気にするこっちゃねぇぜ」
アンナの敬虔な想いは狂化によって補強され、些細な成分を見抜く目利きを可能としていた。
牛乳における色彩や被膜の濃淡から乳脂肪分割合などを推測するなど造作もなかった。
その中で、一際高い乳脂肪分割合を見つけている。この時の気分は甘味にそそられており、濃厚なものこそを求めていた。
牛乳に貴賤はない。だが、アンナは迷いなく一際濃厚に輝く牛乳を手に取った。
「しっかし。お嬢ちゃんもすげぇよな。いっつも真剣に選んでいるが、外れた事って、ないもんな」
その時々の気分にもよるが、アンナが選ぶのは品質の良い物だ。
それ自体は、牛乳への深い知識と狂化による感覚強化を以てすれば、そう難しい事ではない。
——だって、美味しい牛乳が飲みたいんだもん。
牛乳に貴賤はないのだと主張しつつ、美味しいヤツを選んで掴み取るアンナは背教者に相応しい、堕落した咎人であった。
そんなこんなで美味しい、幸せな一時を過ごしているアンナである。
お仕事の後の一杯は格別だという話を聞いていた。それは頷ける話だと実感している。
よく働いた今日も一杯が格別だ。
冒険者組合に併設されま酒場で、この一杯の為に生きている。と語っていた男性の気持ちに共感出来た。
私もいっぱしの冒険者であるとの誇りを胸に抱き、アンナは美味しい牛乳を飲み干した。
濃厚な甘味が口内に拡がって、幸せだった。
「もし。そこなお嬢様。つかぬ事をお伺いしますが、少々お時間を頂いても宜しいでしょうか?」
そんなアンナへ、声が掛けられた。少し低いが女性のものだ。背中側、高い位置から聞こえている。
アンナは椅子から降りて振り返る。黒と白。清楚さと機能性を備えた侍女の正装。侍女服を纏う女性の姿が見えた。
スラリとして背が高い大人の女性であった。そしてアンナは淑女の礼。
「ごきげんよう。シニョーラ。私めへ、お声掛け下されたのでしょうか。もし、そうならば。問題ございません。もし、違ったのならば、失礼いたしましたわ」
「貴女様へで、ございますよ。不躾なお願い。申し訳ございません。お慈悲に感謝を」
アンナと同じく淑女の礼を一つして、女性は微笑んだ。歳の頃はマリアよりも幾つか上くらい。
ドロテア程ではないにせよ、場数を踏んだ者特有の貫禄があった。侍女服の仕立てが良くて、姿勢も良い。印象としては、良家に仕える出来た侍女。
だが、そんな女性からお声掛け頂くような理由に思い至らず、取り繕ってはいるもののアンナはちょっと警戒していた。
マリアには常日頃から、知らない人に声を掛けられても着いてはいかないように。甘い顔など見せないように。と言い含められている。
それに、チリチリと肌を刺すような奇妙な感覚。
そういった気配を持つ者には油断しないようにとも教えられている。
それでも礼を失しないのは人としての礼節である。
加えて、侍女という職種の特性を考慮してのものでもあった。
侍女とは名の通りに侍る女である。
貴人の側に仕える者として、様々な雑事を取り仕切る。
その為、往々にして素性明らかな者である事が求められた。貴族の臣下や寄騎の子女が侍女として主筋へと仕える事が一般的である。
その為に一介の侍女とはいえ、爵位持ちの家の子女であったり、本人が爵位を持つ貴族である事など珍しい事ではなかった。
辺境伯であるアンナが言うのも何なのだが、貴族は面子とかには煩いのだ。
その辺は破落戸とも変わらない。
些細な侮りなどから血が流れる事は珍しくもないし、アンナはごく普通の街娘のつもりである。
礼を失して侮りと捉えられ、無礼打ちと称して襲われては敵わない。
礼節とは世の摩擦を緩和する、便利な手管でもあるのだ。
「そうご警戒なさらず。私めは現在、ここカターニアに滞在されるさるお方に拾われて、侍従としてお仕えするキリコと申します。と、言いましても、幼子へお声掛けするのは不審でしょうね」
苦笑する侍女服姿の女性。キリコであった。名乗りはあったが、正確な身分や立場は秘匿されている。油断してはならない。
それに、アンナの警戒を察知しているとなれば隙を付くのは難しい。いざという時に逃げ切れるかは賭けとなる。
「あー、もう。そんなに私、怪しく見えます? 結構頑張ってるつもりなんだけどなぁ……。——あ。そうだ。職員さん。聞きそびれておりました。空瓶は如何しましょう?」
「あ? あー。洗って持って来てくれりゃ、瓶代は返せるが、あれじゃ、ちょっとなぁ。管理棟には報告しておく。纏った箱数だったら、そっちへ行ってくれ。一箱分くらいならここでも良いが、あの数だと、ここじゃ、ちょっと。な?」
牛乳の空き瓶は洗って返せば代金の一部が買い手へ返る。これは瓶販売される商品共通の習慣であった。
元は硝子の原料となる珪砂協会による働きかけによるものだ。
珪砂は天然資源であり、その用途用法の多彩さにより需要は多岐に渡る。有限の資源を無駄にしない為の働きだった。
今では一般化している習慣で、資源は循環し再利用されていた。
なのでアンナも飲み終えた牛乳瓶を洗浄して返す予定であった。
水の良く湧くカターニアには水場が多く、市場にも洗い場が数多く置かれていた。
「も、もしや。貴女様が、牛乳の救世主!?」
これでアンナは結構聡い子で、人の話もよく聞いている。
二人の会話の流れから、よもやこのキリコと名乗った女性が牛乳達を救った救世主なのではないかと思い当たっていた。
とても感激している。当然ながら、キリコの顔には疑問符が浮かんだ。
「牛乳は確かに購入いたしましたが、救世主?」
当然の疑問を口にする。キリコの戸惑うような視線と、アンナの真っ直ぐな視線が結ばれた。
「はい! あの、誰にも愛されず、飲まれもせずに虚しく散るだけであった悲しき牛乳達。それをお救いくださった聖人よ。心より、感謝いたします。主は、牛乳あれと仰いました。飲めよ。食せよ。お腹いっぱいにと、そう仰いました。ああ。なんと言う福音……」
妙な戯言を口走るアンナであった。
主はそんな事など言ってはいないし、そんな教えはなかった。キリコも市場の職員さんも、ちょっと引いている。
「救世主様! 牛乳を救う為ならば、私の時間など些細な事! なんなりと、お申し付けください!」
「お、おう……」
若干どころか大分引き気味のキリコだが、対人、それも少女への対応は経験により得意としていた。
特に少女の警戒心や嫌悪感などには敏感で、それを察知する術にも長けていた。
訳がわからないなりに、この幼女の警戒心はすっかりと解かれ、逆に敬意が溢れていると察知している。
牛乳の救世主なる面妖な存在になどなったつもりはない。もし、そういう者があるならば、それはキリコの女主人であるべきだ。
今回の牛乳の購入、彼女の意思なのだから。
と、あっさりと主人へと責任を転嫁する。訳がわからないなりに、キリコは結構、強かだった。
「牛乳の購入は、我等が姫君がお決めになった事。私は謂わば主人の走狗。そのような賞賛なぞ不要な事。お嬢様。少し、落ち着きなさって」
「走狗とは何ですかっ! 立派な使徒ではありませんか! 聖キリコよ。そう己を卑下なさらないでくださいまし。ご主人様の敬虔な想いを代行される。それもまた、善行です。どうか、己をお誇りください。牛と乳と、牛乳の御名において。そうあれかし」
怒り出したかと思えば、妙な存在というか、牛乳に対して祈りを捧げるアンナへキリコは益々引いていた。人の話を聞かないで、グイグイ迫って来る様は、仕える姫君にも良く似ていた。
それに、この様な真っ直ぐな敬意や好意など、居心地が悪いのだ。
キリコはこの十数年、主人や同僚以外からこのような感情を向けられた事などなかった。
向けられるのは下らない劣情や嫉妬。
そうでなければつまらない蔑みや嫌悪のような負の感情ばかりであった。
存在しないかのように、何の感情すらも向けられない事さえあった。近頃はそういったモノにも快楽を感じるようになっている。このキリコ。かなり年季の入った変態だった。
「お嬢様のお気持ち、頂きますよ。感謝を捧げます。して、牛乳はともかくとして、そちらの鉢植えについて、お聴きしたい事がございます」
キリコによる話題転換。
人類種は社会性のある生き物で取り繕う事など造作もない。
言葉と視線に促されて、アンナはここまで運んで来ていた鉢植えに目を向ける。結構大きくて重くて、これまでの道中、ずっとそれなりの強度で狂化を維持していた。今は一息ついているので、椅子の横に置いている。
「キンレンカ、あるいはナスタチウムというお花だそうですね。このお花が如何いたしましたか?」
「やっぱり!」
嬉しそうに笑うキリコ。
アンナは落ち着きを取り戻し、キリコの手を取り、どうぞご覧下さいと鉢植えまで案内する。
ほうほう。うんうん。と唸るキリコ。
悪い人ではなくて良かったとアンナは思う。
握った手は節くれ立っていて、ゴツゴツとした瘤が幾つも出来ていた。明らかに剣術、もしくは何らかの武器術に心得のある手であった。
恐らくは、高い練度で修めている。このようになるまでの修練は、並大抵の事ではないだろうとも思っていた。
「これは、市場に置いてあったものでしょうか? 食用に、栽培されていますよね?」
「はい。食用だそうですよ。そして、いいえです。この鉢植えは、二番街のお花屋さんで頂いたものです。お孫さんが学園で育てられていたものを、株分けして頂きました。加えて申し上げますと、本日の市場の出品物にはこのお花は類似品などを含めて確認されてはおりません」
返答に、がっくりと項垂れるキリコ。
アンナは大丈夫ですか? と背中を摩り、慰める。
この食い付きにこの落胆。
推測など簡単で、この花が欲しくて市場を探し回っていたのであろうと思われた。
そう尋ねれば、やはり彼女の女主人がこの花を使った料理、特に大蒜と唐辛子をオリーブオイルに絡めたパスタ。
アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノにこのナスタチウムを薬味として混ぜたものがお好きだそうで、キリコは食材を求めていたそうである。
キリコの話によれば、お嬢様はガリアの産まれであるそうだ。
シシリアの海にはここ数年、毎夏のように訪れているという。だがそれは一週ばかりの滞在で、特に不満を漏らす事などなかったらしい。
しかし、今回は長期滞在となってしまっていて、そろそろ二月となるという。
最近の主人は少々気鬱気味であり、元気がない。昔から家恋しいお人なので、せめて故郷の味の好物を用意して気晴らしとしようかと思い立ち、探していたという事であった。
そんなお話を聴かされて、アンナも思わず笑顔を輝かせた。なんと主人思いの侍女さんなのであろうと。
既にキリコとその主人であらせられる姫君。
お嬢様と呼ばれるお方への好感度は高かった。
牛乳好きなのだから同志である。元気がないとなれば心配にもなった。
そうなると、アンナも悩む。
このお花は頂きもので、育てるのだと約束している。しかして欲しい人がいる。気持ちとしては譲りたいが、それでは味見をして、育ててみなさい。と言ってくれたお花屋さんのお孫さん。その好意を無駄にするようだった。
ちょっと判断に困ってしまって頂いた経緯などを話してみると、キリコはそれでは仕方ありませんね。お花屋さんへは今度、伺いましょうと嘆息していた。
「あのあの」
「はいはい」
アンナが侍女服の裾を引っ張ると、柔らかく微笑むキリコ。
思惑が上手く運んでいなくとも穏やかであるのだから、やはり良い人だと思うアンナであった。
「お嬢様は、難しいお方なのですか?」
「とてもサッパリしたご気性の、お優しい方ですよ」
「ではでは。急ではありますが、私の様なごく普通の街娘がお食事にお誘いしてしまっては、ご迷惑でしょうか? お家は西門の側にあります。近いです。それに最近は私もお料理をお勉強していて、アーリオ・オーリオも、作った事があるんです。今日は両親も遅くなると思いますし、お夕飯を作るのはこれからです。調理具はありますし、材料も沢山ありますの。ガリア風の味付けなどは難しいかもしれませんので、キリコ様にお任せする事になっちゃいますけれど。お嬢様は私達と一緒に、ガリアのお花を楽しんでみられるというのは、いかがでございましょうか?」
この提案。ただの思い付きではない。朝からお夕飯をどうしようかとは考えていた。
マリアが不在でいつ帰ってくるかも判らない時だけであるが、アンナは自炊をするようになっている。
今日のマリアとサルバトーレはシラクザの海城を攻略している。
侵食を始めた為だ。
海城は霊峰エトナ火山のような大異界ではないが、それなりに歴史の旧い異界であった。
特徴としては死霊系の怪物、要するにお化けが多く出る。
付いて行っても足手纏いでしかないし、放っておいては被害が大きい。
早く、シラクザの民達を安心させて欲しい。
そう言って、アンナは二人を送り出していた。
同行を誘われたものの、断固として断った。保護者同伴であれば、アンナも冒険を許されている。
だが、涙を飲んで遠慮をしたというのが本人の弁である。
アンナ曰く。決してお化けが怖い訳ではないが、自分は適切な人選ではないのだと。
シラクザの異界常識には侵入者の年齢によって、攻略可能となるまでの時間が異なるようになっていた。
それまでは幻覚による歓待を受けねばならない。
その時間は、年長の者程短い。
老人ならば一刻もあれば充分で、成人である十八やマリア達の年齢であれば半日程となる。
だが、十五の仮成人では一昼夜。つまり一日経たなければ歓待は終わらない。
十二ならば三日三晩であった。それより下のアンナが居て、歓待時間がどれほどになるのかは未知数だった。
迅速な攻略が必要なのだ。
着いて行っても攻略の邪魔になるだけである。それに海城はシシリア軍基地の一つであって、海防の要ともされている。
行政府により防衛大臣に任じられているサルバトーレが放っておけるものでもなかった。急がないと。
という建前である。
「……やっぱり、ご迷惑ですか?」
「ご迷惑ではないでしょうが……。寧ろ、なかなか面白い提案ですね」
「本当ですかっ!?」
ちょっと食い気味になるアンナだ。
マリアとサルバトーレ。二人の帰りは夜になる。朝早くから出ていてもだ。攻略開始に時間経過による条件が設けられているのだから仕方がない事であった。
夕飯時には間に合わない。
遅くなれば、アンナは寝てしまっている。
なので、こういった日の場合一人での夕飯となった。ドロテアやカンナの所には行かない。
最近は労働の大変さを知るアンナである。多忙な二人に甘えるのにはちょっとだけ遠慮があった。
揶揄われるし。
「そ、そのですね。お夕飯をどうしようかとは思っていたのです。せっかくの頂き物なので、早速お料理に使おうとも考えていたのですが、一人だと、やはり持て余してしまって……」
鉢植えとは別に、調理用に小分けされたものも頂いていた。結構纏った量である。一人分には多すぎて、三人分にも過剰であった。
それはアンナの主張の補強でしかない。単純に、一人での食事が寂しいだけだった。
それに、牛乳という神聖な存在により縁を得た同志でもある。楽しくお話をしたいという気持ちがあった。とっくに警戒心など霧散してしまっている。とても浅はかな娘であった。
「良い提案では有りますが、それを決めるのは私ではありません。我が主人です。報告を持ち帰ります。それには情報が必要となりますので、問題がないか、見させて頂きましょう」
つまりは情報を持ち帰り、検討して貰えるという事で、それは姿勢として前向きなものである。アンナはじゃあ、お家へご案内しますね。と、笑った。
「とはいえ。知り合ったばかりの素性も判らぬ者を家へ招くなど、無警戒に過ぎますよ。淑女というものは、どこでも、誰にでも良い顔をしていれば良いというものでもありません。立ち居振る舞いには、お気を付けくださいな」
そう嗜められるが、悪い感触ではなかった。
ちょっと困ったようなお顔をしてのお小言だ。
アンナの経験上、こういった大人は良い人である事が多かった。
素直にハイと返事して、信頼に足ると思えたからこそ、お招きしようと思ったのですよ。キリコお姉様は良いお人です。と告げている。素直な気持ちであった。
市場の職員さんには、生意気言うなぁ。と呆れられてしまったが。
いつまでもお話ばかりをしている訳にはいかないので、牛乳瓶を洗いに行き、そして戻って来たアンナ。
牛乳瓶を返却し、お金を受け取った。
「それでは職員様。本日は良いお買い物、ありがとうございました。荷物の方、屋敷までよろしくお願い致します。ごきげんよう」
その後に、職員へ挨拶をしたキリコがアンナの頂き物の鉢植えを右手に抱えた。そして左手は、おいでなさい。と手招きしている。
アンナはトコトコと側に寄る。浮遊感。足が浮いていた。抱え上げられたのだ。
アンナは突然の事にちょっと驚いた。そして顔を上げてキリコを見上げる。彼女もまた、驚いたような表情だった。首を傾げながら、左右の腕に掛かる重さを確かめている。そして一言。
「ちっちゃいとはいえ、ちょっと軽過ぎやしない? 大丈夫? ちゃんと食べてる? まだ鉢植えの方が重いんだけど……」
「ちっちゃくないもん!」
アンナは精一杯に反論した。だが現実は非情である。いくら否定しようが、大きさも重さも変わりはしない。無駄な足掻きであった。
結論から言えば、キリコのご主人様は数名の侍従を連れてやって来る事となった。
アンナにとって自分のようなお世辞ではなく、お嬢様と呼ばれるキリコお姉様のご主人様が、足を運んでくれる気になってくれるかは一つの賭けだった。
ファブリ一家の邸宅は、親子三人で住むのが丁度良い、こじんまりとしたものである。
侍従を住まわせるようなものでもないし、オリヴェートリオの屋敷の様に貴賓を招いたりするような造りでもなかった。
マリアと二人、常日頃からお掃除や手入れをしているので清潔ではあった。
だが清潔は大前提として、客を楽しませる事を目的とする貴族や商家の屋敷と比べれば物足りない事は判っていた。
辺境伯であるアンナが言うのも何であるが、貴族とは結構面倒臭いものなのだ。
粗末な屋敷に招かれた。
それだけの理由で領土争いに発展する事など珍しくない。
高位貴族の子女は交友関係さえも選び抜かれたものとなる。その選定をするのもまた、貴人の家臣でもある侍女達の、大事な仕事の一つであった。
交信を使うキリコお姉様は、表情筋の動きが少ないながらも、とても嬉しそうなお顔をしているとアンナは見ていた。
余計な情報を漏らさずに、従者としての判断に任せた事は正解であるとも思っている。
アンナは結構小賢しい娘なのだ。
キリコの話を聞くに、お嬢様は少々お転婆ながらも、寂しがり屋で繊細な性格なのだろうと想像していた。
そんな彼女が気鬱気味なのだという。
なのに、キリコの口振りでは気晴らしの社交などを行っていない。
そして毎夏訪れるというシシリアと、初めての長期逗留という情報。
とすれば、導かれる予測はお嬢様はデビュタント前なのではないかという事だ。
貴族の子女がデビュタントに参加するのは十二とされている。それまでは気軽に遊び歩く事など殆ど無い。
そして、デビュタントの一年前から予定地に住まうのも伝統だった。それ以前も、生活に慣れるようにと短期の滞在を行い慣らしてゆく。
里心の強い、寂しがり屋な女の子。
社会に出る前の愛らしい雛鳥。
それはマリアから一人歩きを許された、一社会人でもあるアンナにとっては後輩のようなものだ。
発作があるので少々の不安があるが、歳上のお姉様ならば大丈夫であった。
アンナにとってキリコの話に聞くお嬢様は歳上といえども、ちょっとだけお姉さんぶれる相手でもあった。
アンナはこの頃、冒険者達の思想に毒されている。
存在を認められ始めていて、調子に乗っていたと言い換えても良い。
冒険者は年齢よりも歴の長さを重視する。
年齢や経歴、そして実力に関わらず、先に冒険者登録を行った者こそがお兄さんで、お姉さん。
所謂、先輩であるとの思想があった。
アンナもそういった先輩達に導かれてきたのだ。だから、先輩風を吹かせたかった。
そして自分が教えられたように、貴女の側には貴女を想う人達がいて、その方達に不安を覚えさせるようでは良い淑女とはなれませんよ。
そう諭すつもりであった。
淑女の部分を冒険者へと代えれば、実際にアンナ自身が言われた事である。
とても感銘を受けた言葉でもあった。
だからこそ、お招きを有難く頂くそうです。そうキリコが言ってから、アンナは今か今かとお嬢様のご到着を待ち望んでいたのであった。
「たっのもうー!」
そして待ち人来る。元気の良いお声で、訪を入れる言葉。それは大人の女性のもので、アンナは侍従の先触れの声と考えて、一緒にパスタを炒めていたキリコと共に迎えに立った。当然ながら火を落としている。
だが、門を出て見えたのは大人が四名。女性三人、男性一人の構成だ。一人は簡素な運動用の布服で、他は侍女服に執事服。
向かいの温泉の駐車場には、豪奢な馬車が止まっていた。お嬢様は中なのかな。そう考えながらアンナは淑女の礼を取り、一行へ歓迎の挨拶を行った。
「お初にお目通り致します。私めはカターニアのアンナ。冒険者にごさいます。尊きお嬢様をお迎え出来る僥倖、身に余る喜び。僭越ながら、僅かなりともお気晴らしの一助となれる様、尽くさせて頂きたいと思います。ようこそ。いらっしゃいませ。ガリアの皆様」
そして返礼を待つ。侍女服姿の女性が、布服の女性に何事かを囁いていた。布服の女性が首を振る気配を感じる。否定の意味でだ。
貴人の従者もまた貴族。礼儀としての貴族への挨拶。その習いとして、アンナは顔を伏せている。
彼女達の所作自体は見えていない。空気の動きから判断したものだ。狂化を用いていなくとも、その程度の芸当ならば熟るようになっていた。
恐らくは布服の女性が一行の纏め役であるのだろうと考えて、大人しく言葉を待っている。
しかして言葉は返らず、替わりにヌッとしゃがみこみ、頭を下げたままのアンナの顔を下から見上げる女性がいた。
涼やかな、アイスブルーの瞳。お母様のそれとも良く似た色彩に、思わず息を詰まらせる。
「貴女ねぇ。礼儀正しいのは結構だけど、子供が無理をして、お行儀良くなんてしてるんじゃないわよ。そんな態度でいられたら、気晴らしにはならないわ」
瞳を細めて言葉にする、黄金に輝く髪持つその人。
表情にまで生命の輝きを力強く煌めかす女性。彼女が桜色の唇で紡ぐは、不躾なお言葉。
「え? あの?」
序でに、アンナは言葉まで詰まってしまう。
傍若無人な言葉でも、心が伝わるから。優しい癖に悲しそうな、お母さんやおばあちゃんと似た表情なのだから。
「子供は子供らしく、我儘に、騒がしくしていなさいな。そうじゃなければ、愉しめないでしょ? それに、お行儀が良いだけのお人形のままじゃ、欲しい物なんて掴めないわよ」
何故だか。言葉は違えど、マリア達にも言われる言葉。もっと望んで欲しい。それを伝えて欲しい。そういう気持ちが伝わった。たが、反論もあった。
「でも、お客様に失礼があったら申し訳ないし……」
「アタシは、アタシ達は。それを込みで遊びに来てるのよ。それが大人の遊び。まぁ。きちんと躾られてるのだから仕方がない事でしょうけれどね。堅苦しいのは抜きよ。好きにして、楽にしてなさいな」
そして微笑みを贈られて、抱え上げられる。
「そういえば。挨拶がまだだったわね。お招き頂き、有難う。アンナちゃん。アタシの名前はマリーよ。ガリアのマリー。今日はよろしくね。さぁ。みんな。行くわよ」
歩み出そうとするマリー。
「え。あ。はい。よろしくお願いします。——じゃ、なくて。あの。えっと。マリーお姉様。お嬢様はお迎えにあがらなくても?」
「え?」
馬車とマリーを見比べながらも、なんとかそれだけは言えたアンナであるが、当のマリーからはキョトンとした顔を向けられてしまう。彼女は馬車へと視線を向けるアンナと、馬車とを見比べている。
お嬢様? と疑問符を浮かべるマリー。アンナは、お嬢様は、デビュタント前なのではございませんか? そう尋ねるものの、マリーはひたすらに首を傾げている。アンナも同じ様に首を傾げた。
二人でくるくると顔を見合わせたり、視線を巡らせる。やがて二人の視線は一人の人物に行き当たり、留まった。
アンナと共に門から出て、傍に控えていたキリコであった。恭しく淑女の礼を留める彼女を、二人はマジマジと見た。その頭が上がる。
「お待ちしておりました。マリーお嬢様」
「ほぇ?」
「キ〜リ〜コ〜ちゃ〜ん?」
呆けたアンナとは裏腹に、地の底から響くような低音でキリコの名を呼ぶのはマリー。
アンナは見る。マリーの白い肌、その額に浮かんだ青筋を。お顔だけは、とても綺麗な笑顔であった。
そして、キリコを見た。こちらもまた、してやったりとでもいう様な、とてもイイ笑顔をしている。思わぬ展開に、アンナは困惑してしまう。
「アナタ。この子に、どういった説明を?」
「マリーお嬢様の、普段からの行いなどを少々」
「それで、どうしてアタシが、デビュタント前の子供だと思われる訳?」
「つまりは第三者の偏見のない視点によって、お嬢様の普段の行いが、子供そのものだという事が、証明されたという事ですね」
主従の視線が結ばれて、言葉が行き交う。
マリーに抱かれたままのアンナは二人から発される謎の圧に慄きながらも、キリコのお話を思い出していた。
「お嬢様が、どのようなお方か。ですか?」
家へ案内してすぐに、キリコはお嬢様をお招きしても問題ないと判じていた。
ネタバラシをされれば納得で、ここがシシリア州防衛大臣であるサルバトーレ=ファブリ閣下の住居であり、アンナがその娘であるというならば何も問題無い。という事らしい。
アンナにはまったく信じられない事であるが、トトには大変な信用があるようだった。
大臣の肩書きという物の恐ろしさを、実感させられるアンナであった。
それはそれとして、お迎えの準備をしながらもキリコにはお話をねだっている。
気鬱気味だという以上、触れない方が良い話題もあるかもしれない。と考えての事だった。
事前の情報収集というものである。
「そうですね。先程もお話したように、お嬢様は結構なお転婆で、外遊びを好まれます。綺麗なお方ですが気さくなお人柄ですし、こざっぱりとしたご気性なので、どこへ出ても可愛がられておりましたね」
明るくて、可愛らしい方なのですね。と、アンナもウキウキであるが、そんな方が気鬱気味である事を思い出し、胸を痛めた。
「尤も、それではあまりにも慎みに欠けるだろうと、ご家族のみならず、親戚縁者の皆様方にまで心配される始末。実際に、危険などもありますしね。それにお嬢様も良いお年頃。そろそろ婚約者候補の選定も必要となります。お父君より暫くは大人しくしているようにと命じられ、ガリアより、ここシシリアへと」
「何故。ガリアのお方がこの島へ? 差し支えなければで結構ですが」
「せめてもの、親心なのですかね。お嬢様は三男四女の末娘という事もありまして、大層甘やかされて育たれました。そして、大きな志がおありです。シラクザの海は良い所で、幼少のみぎりよりお嬢様のお気に入りだとも伺っておりますので、その為なのでしょう。殊にここ数年は、浜辺で知り合ったという小さな娘さんをとても可愛がられておいでで、お友達などを連れて、遊びに来ていたのですよ」
ガリアでは未だに貴族出身女性が公職に就く事を認められていない。
社交の門であるデビュタントは存在するが、淑女達は花と例えられるように、場の主役ではなく、射止めるべき財宝であった。
というのも、このデビュタント。今でこそ社交界への入り口にして、初めての婚活パーティーなどとも揶揄される催しだが、元々は臣下が君主へお目見えし、忠誠を捧げる儀式であったからである。
過去には参加年齢も当時の成年とされる十五であった。大陸各国の王朝は血統による平和を標榜した神聖ロウム帝国とは縁戚であり、その価値観も近しい。
産めよ増やせよ地に満ちよ。主の教えから、女性が妊娠と育児に追われる期間は長かった。自然と婦女の幸福は家庭にこそあるとされるようになる。
男は女の為に尽力し、女は男の帰るべき家庭を護る事こそが美徳。永らく、そういう思想が道徳の根底にあった。
しかし時代が下り、女性の社会進出が進んだ事からか英雄や明君が現れる。
多くの国家でも女性の政治参加が当然となったものの、ガリアだけはやや趣きが異なり旧い美徳を尊重した。
これにより、ガリアにおいては志ある女性は他国へ活躍の場を求めて発つようになる。また、他国からは逆に家庭の平穏こそを求める男女が集っていった。
「成程。我に志ありと知らしめる為にお嬢様はガリアを出て、ビタロサがシシリアまでいらっしゃっているのですね。ご立派なお方ではありませんか。と、すると。気鬱の原因はやはり」
「恐らくは、ご想像通りかと。自由を奪われた不満からですね。暫くは大荒れでしたが、最近は塞ぎ込んでしまわれて。私共もこれまで、項垂れて気落ちするお嬢様の姿など見ていませんでしたので、何とか元気付けたくて、慰めになればと」
キリコの説明はアンナの予測を補足する。やはり貴族で、それも高位貴族の子女なのだろうと。
それに、凄い人だとも思う。
ガリア貴族の子女が祖国でデビュタントを行わないのは我に大望有りとの主張である。
だが、齢十二で確固たる意思でそれを為す事は難しい。様々な不利益があるし、己の望みを練磨するのだって並外れている。
アンナは強い人が好きだ。自分自身の想い、望みで歩む人達の力になりたいし、憧れもあった。嬉しくて、お嬢様にもっと会いたくなる。
「あれ? でも、ここまでのお話ですと、別にお出掛けをしちゃ駄目。って約束がある訳でもありませんよね? お嬢様はどうして……」
話の流れの中でだが、別に外出などを禁じられたようではなかった。故の疑問。
アンナもいずれはやる事になるデビュタントである。予習はしていた。その事前準備期間だが、慎ましく過ごす事こそ望ましいとされているが、強制するものではない筈だ。それなりに自由が認められている。
一方、伝え聴くお嬢様の日常は禁欲的で自罰的な、まるで苦行や軟禁状態にあるようだった。
それではアンナの想像するお嬢様の家族像との印象が異なった。
「……お嬢様は大変真面目ではありますが、あまり賢くありません」
考え込むアンナの様子から察したのであろう。キリコが呟き、続ける。
「お嬢様がお父君から大人しくしているよう命が下った時に、三つ上の兄君もいらっしゃいました。神妙に命を拝領したお嬢様ですが、お転婆を知る兄君は信用しておられませんでした。『父上。どうせコイツは勝手に抜け出して、遊び呆けるぞ。約束なんて、するだけ無駄だ』そう、仰いました」
キリコの演技に引き込まれたアンナは、本人を知らないものの、口真似の上手さに驚いた。低く吐き出された声など、まるで男性の声である。すごーいと漏らしてしまう。キリコはちょっと得意げだった。
「それを侮辱だと怒ったお嬢様は、仰いました。『招かれない限り、自分から外出はしないと誓う』と。売り言葉に、買い言葉というヤツですね」
言ってしまえば、お嬢様は誇りと意地の為に自主的な軟禁状態にあるらしい。自縛自縄ということだ。
強制されている訳ではないので、外出や遊びに出るのは簡単だ。だが、自ら建てた誓願である。破ってしまえば己自身に叛く事となった。
山中の賊は破り易く、心中の賊は破り難し。
目に見える現実の敵には対処のしようもあるが、目には見えない心の中の隙や誘惑というものは、抗い難い大敵であるという格言だった。
衝動的な発言は確かにお利口とは言えないが、心を強く持つ気高い在り方が素敵で、アンナはまだ会った事もないお嬢様の事を益々好きになる。
そうなると情報収集など忘れて、もっと、もっと。とおねだりするのだ。
キリコの語り口は上手だし、とてもお嬢様を想っているように感じられた。
そのお話の中で出た、数々のエピソード。
特に牛乳が好きで、お化けが苦手な事とかには非常に共感出来た。
我儘でお転婆だけど、芯の確かな可愛らしいお嬢様。アンナは少し歳上のお姉様にお会い出来る事を、とても楽しみにしていた。
「ご、ごめんなさぁぁぁい!」
そう思い出していたアンナであった。謝罪を叫んで、あうあうと意味のない鳴き声を漏らしている。
キリコとの会話の中で、お嬢様がデビュタント前の子供であるとの情報など、まったく無かった。どころか、子供であるとか、年齢を示唆するような情報などさえも皆無であった。
お嬢様は父君に暫く大人しくしているように言われ、シシリアに来ただけである。そして兄君の言葉に憤り、自らの誓いによって引き篭もっていただけだ。
お話の中で、デビュタントなど一言も出ていない。
当然である。アンナによる思い込みの妄想でしかないのだから。アンナは断片的な情報を元に、勝手に想像力を働かせていた。特に裏取りなどもせずに。
「マリーお嬢様。アンナお嬢様は、『マリーお姉様』にお会い出来る事を、大層楽しみにしておいででしたよ。一緒にガリア風アーリオ・オーリオでお食事をして、ワンちゃん印の牛乳を飲んで、元気百倍です。と、それはそれは、大変に嬉しそうで」
「もー! 可愛い事言ってくれるのねっ! とても、よくってよ! アンナは優しい子ねっ!」
ぐりぐりと頬擦りされる。マリーお嬢様は大変にご満悦なようだった。対してアンナは自らの失態に顔を真っ赤にしていた。
マリーはアンナが子供だと思っていた事など全然気にしていないようであるが、アンナは気にする。
失礼だし、お姉さんぶって慰めるつもりであったのだから尚更だった。
「お食事も、アンナお嬢様と私めとでご用意しました」
「楽しみねっ! お邪魔するわよっ!」
「うがい、手洗いをなどをお忘れなく」
「当然ねっ!」
賑やかなマリーお姉様は子供の様に素直なお人だ。
眼鏡を掛けた侍女様からの言葉に頷いて、勢い良く玄関の扉を開けばご機嫌に、お邪魔しまーす。と言っている。アンナもやけくそ気味に元気良く、ようこそ! いらっしゃいませー! と挨拶しておいた。
このご挨拶。大変にお気に召されたようで、子供は風の子元気な子。煩いくらいで、丁度良いのよ。などと褒められて、よしよしされる。
そんな小さな子供じゃありませんよ。と言っても、生意気ねっ! と、暴力的なまでの可愛がりを受ける事となった。
ノリと勢いに流されて、アンナはすっかり羞恥心や礼儀作法なども忘れ去ってしまっている。賑やかな五名のお客様達を迎えて、夕飯を楽しんだ。
フィナーレまではこの夏の間に発表したかったお話です。
凄い話したい事はありますが、後に活動報告に書きますね。
居たのかさ判りませんが、ずっと読んで頂けた方がいると思って。それが自分ではないことを祈りながら。
ありがとうございました。