7月某日
──外気温35.5度、室内温度32.6度。
うだるような暑さの中で、汗を流し仕事をし帰宅の中途。警察が誰かの家を取り囲んでいた。そんな光景を無視し、帰路を急いだ。伸びた影がいつまでもついてくる。
そんな夏の日の一幕。
鍵を開け、扉を開く。すると、むわっとまとわりつくような熱気。それと共に生臭さが鼻を突いた。生ゴミの密封が上手くいっていなかった事に舌打ちをした。ワンルームの賃貸をぐるりと見渡すと、生活感のある台所に濃い影が差し込んでいた。
髪を緩く結び、作り置きした総菜とレンジで米を温めて少し遅めのごはんを食べる。スマホを見ながらだらだらとご飯を完食し、いざ洗おうとすると、台所がどうにも生臭い。鼻を覆いたくなる刺激と、熱されたイヤな匂いが鼻の奥に残る。
「うげぇ」
どうにも臭いなと思っていたら、シンクの中のトラップに食べ残しが引っかかっていたらしく、それが臭いの元だった。鼻をつまみながら手を伸ばす。
ねちょ、というぬめり独特の感覚を手の甲に味わってしまって、ダブルで最悪な気分になった。排水溝周りのぬめりが酷くなってきている。明日休みだし掃除しないとな、と思いながら、皿を洗う。
結局、その日は生臭さは消えることはなかった。
7月翌日。母親から珍しく連絡が来た。
『アンタ大丈夫?』
『何が?』
『そっちの家の近くでバラバラ殺人があったって聞いてるけど』
『は?』
テレビなんてものは無いため、ネットを調べると、どうにも帰りに見かけたものがそうらしい。SNSのチェックも有名インフルエンサーのみだった為、寝耳に水だった。
『バラバラ殺人らしいよ』
『うわ、こわ』
ネットにも似たような事が書いてある。行方不明になったのは数か月前で殺されたのも結構前。少しずつバラバラにしてトイレに流したとか、配管が詰まったことが原因で露呈したとか、だから身体半分は下水道にいるとか、そんな事がつらつらと憶測交じりで語られている。
そういった与太話込みで嫌悪感が湧く。近所で起きたのもそうだし、それをネタにするのも好きでは無いし、そもそも犯人捕まっていないみたいで怖いし。とそんな事を思いながら、シンクを掃除する。
あぁ、この嫌悪感、ぬめりに似てるな。と、ふと思う。知らぬ間に増えていて、触れてしまうとイヤな気分になるもの。
どうにも生臭いような気もするけど、だいぶ落とせたように思う。とスポンジをゴミ箱に放り込んだ。
7月休日
買い出しから帰ると、また熱気が歓迎してくれる。嬉しくない。しかし、それよりも嬉しくない事がひとつ。二日前に嗅いだ臭いが再来したのだ。それも、もっと強くなっている。思わず鼻を覆う。原因が分からずシンクを覗き込む。
何もない。
試しに水を流してみると、臭いは消えたがその代わりに何故かすぐに水が溜まってしまう。どうにも配管が詰まったようだ。昨日使った洗剤が悪さでもしたのかと憶測し、とりあえず台所を使うのを諦めて半額シールのついた弁当を再度買いに出かけた。
7月平日
いつまでも詰まったままにしてもおけないので、業者を呼ぶ。
修理の間、暇を持て余していると、怪訝そうな顔をした業者がやってきた。
「あの……申し訳ないのですが、髪をキッチンで洗ったりなどしております?」
「はい?」
「その……髪の毛が大量に詰まっておりまして……」
見せられたモノを見て、背筋が凍りついた。
黒くて長い髪が配管の中から大量に出てきたというのだ。
「とりあえず、こちらで処理いたしますが……」
声が遠く聞こえる。異常事態を呑み込めずにただ思考が巡る。
『バラバラ殺人なんだってね』
『死体が下水道を彷徨って……』
無関係なはずだ。ただ、通りかかっただけのはずだ。なのに何故か直近の事件のことが思い浮かぶ。関係ないと振り払っても、纏わりつくように縋りつくように思考の隙間、視界の端から事実が映る。
結局、業者も帰ってしまい自宅から人の気配が無くなる。すると今度は、小さな物音が気になってくる。かべに掛けてある時計の音。隣人の小さな物音、コツコツと登ってくる階段の音。普段なら気にすらしない異音が自身を取り囲んでいた。
ペタリ、と湿った音がした。
それは台所の中。シンクの排水溝の奥。
髪の毛が詰まっていたと言われた、下水管。
「何、何なの!?」
その気配を掻き消すように、叫ぶとピタリとその音は止んだ。
生ごみをもっと強くしたような臭いと、誰かの気配だけがそこに残っていた。
7月隔日
結局自宅に怖くなってしまい、二、三日ホテルを取ってそこで過ごすことにした。こんなことを相談する相手も現状居ないし、母は遠方。会社に相談したら心の病と疑われる事だろう。手痛い出費と思いつつも、しばらくは快適に過ごした。
しかし、重要な資料を家に置いて来てしまったことを悟り、再び家へと帰る羽目になった。気が重いと思いつつも階段を登り、自宅の扉の前に立つ。何度も開けた扉なのにまるで知らない家の扉のように待ち構えていた。
固唾を飲んで、恐る恐る扉を開ける。
すると、むわっとまとわりつくような熱気が纏わりついてくる。ワンルームの部屋は出ていったときと変わらずの生活感のある部屋。一歩踏み入れると、慣れた匂いがする。
ほっ、と息を吐く。結局は考えすぎだったかな、と一応持ってきていた荷物を下ろし、再びここで住む為にゴソゴソと片付け始める。重要な資料を見つけ、部屋に籠もる熱気に耐えられずにリモコンを探す。じっとりとした汗を吸ったシャツを脱いで楽になりたいという思いだった。
──ペタリ、と言う異音が唐突に耳に飛び込んできた。
見なくてもいいのに、つい、そちらを注視してしまう。
夕暮れ時の闇。生活感のある台所に濃い影が差し込んでいた。
コチ、コチ、と時計の音が響いた。
「き、気にしすぎでしょ。私」
奮い立たせるように笑いながら立ち上がり、音がした気がした場所のシンクを覗き込んだ。
何もない。
ふぅ、と息を吐いて、何と無しにシンクを触ってみる。
ぬるっ、という感覚が指先を伝う。残っていたぬめりだろうか、随分と残っているな、となぞってみると指の形をしているように思ってしまう。そのままにトラップを持ち上げる。
「ひっ……!!」
声が漏れ出た。何かが下から這い出ようとしていたのだ。青白く細い『指』のような何かが出口を求めるように芋虫のように暴れまわっている。
部屋に残留していた熱気と共に、もう一度イヤな臭いが鼻を突き始める。生ごみを熱して発生する臭気が一気にあふれ出す。嗚咽と共に尻もちをつく。
ペタリ、ともう一度音がした。
湿った音が明らかに下から辿って、こちらへと向かってくる。『何か』が排水溝から登ってくる。
「知らない……知らない……!!! なんでっ!!」
ガタン、と何かがステンレスの台に到達したようだ。そして、それを起点にしてズルズルと『ナニ』が引き上げられていく音。
歯がガチガチと鳴り揃わなくなる。吐き出す息が荒い。質量をもった何かがもうすぐ完全に──。そのときであった。
ピロン、とポケットに入れっぱなしにしていたスマホが鳴る。
その通知音に弾かれるようにして、ドアを蹴破るようにして家から飛び出した。脇目も振らずただひらすらにその場から離れていった。
某月終日
あれから家には戻っていない。
結局、家は引き払うことにした。
業者を呼んで、家財のほとんどを捨てて、会社も辞めて、今は実家に戻っている。
地元を離れてから数年。懐かしい匂いにも慣れてきて日常になってきた。再就職も果たし、もう一度独立を果たそうとしている。あの日に出会った出来事への恐怖はだんだんと薄れていってる。
──けれど、時々思い出すのだ。
『ぬめり』を触った時のような、不意に来るイヤなものを触ってしまった感覚と、うだるような暑さの中で放置された、あの熱された生ごみの臭いを。
──思い出すのだ。
排水溝を覗き込むときに、水が吸い込まれる様を見るときに。一人のときの隙間から覗き込んでくる。
あの音を。
ペタリ。