「レースが終わってから、少しお話、しましょう?」
彼女――セクレタリアトはそう告げると、鼻歌を鳴らしながらターフに降り立つ。
ゲートの傍らに立つ教導役らしき男性にひと声かけ、その首が縦に振られたのを見るや、腕をだらだらと伸ばしながら、他のウマ娘と同様にゲートへ入っていく。
瞬間、空気が固まる。
さっきまでの熱気とはまた違う、その場が支配されたかのような、張り詰めた空気。
天才だったり怪物だったりと呼ばれるウマ娘は、レースそのもの、いや世界そのものすらも塗り替えてしまうという。
今、まさにそのような事象が目の前で起きている。
思わず固唾を飲む。
今この場の支配者は誰か。それは本能的にわかってしまう。
周囲を見渡すと、さっきまで騒々しくなっていたトレーナーたちからは僕と同じように喉を鳴らす音が聞こえて。
模擬レースを走る予定のウマ娘たちの中には、もうすでに顔を青ざめさせていた者までいた。
――なんだよ、この
世界の中心にはただひとつ、薔薇のような〝赤〟が咲いている。
ゲートの傍らに立つ男性がボタンを押した直後。
――ガコンッ!
まるで後ろから獲物を追い詰めていく追跡者のように。
標的を定めた狩人のように。
すでに最後方から動きだした〝赤〟に抜き去られていく。
これではもう、勝負などではなかった。
「……嘘、だろ……?」
誰かが呟く。
この世界には、〝赤〟以外存在しない。
この世界には、誰だって置き去りにされる。
この世界には、ついてこれる者など存在しない。
一瞬、〝赤〟と視線が交わる。
――ついてこれるか?
そんな視線に。
ふつふつと、ふつふつと。
胸の内から
熱を帯びたそれを、胃袋から、喉から吐き出すように。
――うるさい。
歯を噛み締め、目元を伏せ。
――うるさい。
すう、と息を吸い込む。
――今から、俺は。
あの〝赤〟に、この世界に。
――――この感情を、ぶつけてやるッ!
「
瞬間、世界がひび割れていく。
セクレタリアトがゴール板を通過した途端、周囲はいつもの騒がしさを取り戻す。
さっきまでの静寂が嘘みたいに、セクレタリアトを囲むようにトレーナーたちが集まる。
ゾーンを自由自在に使いこなす才能云々だとか、クラシック三冠レベル云々だとかいう声が聞こえてくるが、正直もうどうでもよかった。
ただ
あの試すような目で喧嘩を売られたからには、買わなければいけないだろう。
だからひと言、叫んでやる。
「――売られた喧嘩なら買ってやるッ、アメリカンウマ娘ッ!」
明らかに余計なひと言。
だけれど今は、そうでも叫ばないと負けた気がした。
だからこの場は、
セクレタリアトは目を丸くし、こちらを見つめている。
だが口角は不気味なほど上がっている。
新たな獲物に目をつけたハンターのように。
狂気に塗れていて、狂喜に浸っていて。
彼女は一歩、また一歩とスカウトの波を割るように歩み寄ってくる。
「――アナタ、名前は?」
「……森、|森啓(もりひろし)」
「よろしい。一応こちらももう一度、名乗りましょう」
「アタシはセクレタリアト。アメリカからこの地へやってきた刺客のような者」
「アナタは今、アタシにどうしたい?」
すう、と息を吸う。
「――勝ちたい」
「それは、なにで?」
「……いやすまん、
「……それはなぜ?」
「単純だよ。
「…………」
「その時点で、俺は勝った。だからもう、用はない」
立ち去ろうと背を向けると、
「いいのかしら? アタシをスカウトしなくて?」
「――もういいよ。今はそれ以上に疲れたから寝たいんだよ。じゃあな」
背後がざわついているが、もうどうだっていい。
足早に運動場を去るだけ。
言いたいことはもう言えた。それだけ、それだけで十分だった。
ほぼ僕専用のようになっているトレーナー用の小屋の前であくびをする。
頭をぽりぽり掻きむしり、もう一度あくび。
「ったく、僕らしくないな……」
ドアノブを回し、開けて入れば。
「あら、また会ったわね」
「うーい、森ィ! お疲れさーん! 助けてくれると嬉しいなァ!」
「…………は?」
目の前には、セクレタリアトと汗を滝のように流しているチャラ同期。
そのふたりが、ソファに腰かけていた。