もう一度、故郷へ帰ろう

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リバースデイ

 

「あちぃぃぃ」

「うるせえ」

 七月二十七日、午前十一時二十八分、快晴。雲一つない、水の様に澄んで、上へ上へと広がっていく空の下。二人の青年が墓前にしゃがみこんでいた。

 一人は喪服の様に黒いスーツを着込み、また一人はベージュの半ズボンに白のポロシャツというカジュアルな着こなしだ。対照的な衣装の二人だが、外見から推測できる年の頃は同じで、砕けた口調は仲の良い友人同士に見える。

「何でこんな暑いんだよ。うわ、三十六度」

「そんなスーツなんて着てるからだと思うぞ」

 外気温は三十六度。年々上がっていくように思える夏の温度は、七月であっても侮ることは出来ない。

「分かってる、それは分かってるんだ! でも脱がんぞ! これは俺の流儀だからな」

「まあ、悪いとは言わんが」

スーツの男が大袈裟な身振りで胸を張れば、シャツの男は呆れたように、変なところで頑固だなとぼやく。

「なあ」

「なんだ」

 スーツの男が尋ねる。その顔は先程と打って変わり、僅かに暗い色が見て取れた。

「お前もうすぐ就職だよな」

「ああ、今四年だし」

「来年も集まれるかな、俺ら」

「お前も来れてるんだし大丈夫じゃないか?」

 その問いに、シャツの男はつまりながらも答える。

「俺は、大して忙しくもないからいいけど、お前、結構良い大学行っただろ。だからさ」

 二人は顔を見合わせた、互いが互いに何か含んだような顔を見せ合い。そしてシャツの男が意を決したように口を開く。

「来るよ、来年も。忙しくても。絶対」

 その返事に、スーツの男が破顔する。生来の明るさを感じさせる、満面の笑みだ。

「そっか、そうだよな! ツンデレのお前がこの機会を逃すわけないもんな!」

「ツンデレは余計だ。それに、約束したからな、ここにはいないアイツと」

「ここにはいないアイツ、か」

 二人は立ちあがり、呟くように〝アイツ〟に言及する。万感の思いが詰まった言葉だった。

 そんな二人を後ろから見守るように目を細める男が、いつの間にやら立っていた。

 

 

 

 ミンミンミンミンミンミンミンミン。

 けたたましい蝉たちの合唱が、どこか遠くで鳴っている。クマゼミのものともミンミンゼミのものともとれるぼやけた音は、段々とその輪郭を鮮明にしていった。 

まだ覚醒しきっていない意識の中で胸に手を当てる。力強い心臓の躍動が、手を伝って脳に届いた。

「ふぁあ」

 おれは目を閉じたまま半身を起こす。ボンドでくっついているのか、瞼は中々開かない。

本来ならば二度寝をしていたところだが、今日は夏期講習の初日であり、夏休みにも関わらずこうして朝起きなければならなかったのだ。

数分ぼうっとしていると、瞼のボンドは少しずつ溶けだして、やがて涙となって目じりから垂れていった。ふわぁと、あくびをまた一つ。

 視線を横へやると、デジタルの置時計がまるで責めるように時刻を表示している。十一時四十二分。挽回の余地などない、完全な遅刻だった。

 一瞬の硬直から気を取り直したおれは、布団の中からスマホを探り当て、ラインのグループトークを開いた。

『寝坊したわ』

 送ったメッセージにはすぐに既読が1つ。

『ずるいぞお前だけ』

 佐藤からだ。行きたくないと昨日散々喚いていたのが、どうやら真面目に受けているらしい。就職希望者は任意参加だったはずだが、律儀なのか、それとも知らないだけか。まあ授業中に返信が帰ってきているので、結論は語るまでもないのだろう。

 ベッドから這い出て、グッと伸びをする。学校には行くまい。そう心に決めると、いつもと変わらない自室が微かに明るく見えた。空気は澄み、窓越しに見える空は青く輝いて、心地よい雀の声が聞こえてくるような気がする。テレビを点ければ、きっと昼のワイドショーをやっているのだろう。

しかしせっかく休むのだから、どこか外へ出かけたかった。

ショルダーバックにペットボトルを詰め、ポケットに財布とスマホを入れてアパートを後にする。

街は人で賑わっていた。全国を回ればいくらでも見つかるような、小さな地方都市であるところの水田市は、大規模な商業施設や観光名所はないものの、そこそこ発展した駅前施設と、それなりの緑が共存した住みやすい場所だ。住み始めてまだ2年目だが、この街のことはかなり気に入っている。

駅前を抜け、郊外の方へと足を進め、木々が茂る公園を横切る。人の音が途絶え、蝉たちのささやきが主張を強めた。そのワシワシという鳴き声に、胸の奥で侘しさを覚える。  

大阪に居た頃は、関東ではミンミンゼミが鳴いていると思っていた。しかし実際に来てみれば、おなじみのクマゼミが勢力を伸ばしていて、他種を掻き消さんばかりの大歓声を上げているのだ。これでは風情もなにもない。

公園を抜けて高架を潜り、橋を渡って住宅街を過ぎれば、我らの水田高校が見えてくる。

五年前に建て替えられたばかりの、真新しく縦に長い校舎が、陽の光を受けてその存在をテカテカと主張している。

ちょうど授業が終わった頃だったらしく、ちらほらと生徒が校舎から出てきている。中には級友達の姿もあり、顔を合わせてこちらを指さしている。おれが手を振れば、彼らはニヤニヤと悪戯な笑みを浮かべた。

近づいて来た級友達と一言二言会話を交わして別れ、待つこと数十秒後、お目当てだった二人が連れ立って姿を現す。佐藤は今日も体力を持て余しているようで、遠目からも騒いでいるのが見て取れる。あ、目が合った。

おれを認識した佐藤は例によって呆け顔で指さした後、こちらに向かって走り寄ってくる。片割れの久遠は呆れ顔を作り、歩き追従する。その顔が醸し出す雰囲気に、肩をすくめて溜息をつく様子を幻視した。

「お前っお前サボったのに来たのかよ!」

 そう言い切った後、佐藤は膝に手をつき息を整える。

「さっき連絡見たが、最近遅刻多いぞお前」

 遅れて着いてきた久遠が、スマホの画面を見せながら言った。遅刻というか、今日はまるっきりサボりだけど。

「いやぁ最近寝つきが悪くて、起きられへんねんな」

 遅刻が多いのは事実だ。最近危機感を覚えて、天井に《起床》の二文字を張り付けた。それで防げるのは二度寝だけだったが。

「それより何で学校来たんだよ、煽りか?」

「煽ってるわけじゃなくてな、家おると暇でさ、飯食おうと思って。そのついで」

「やっぱ煽ってんじゃねえか!」

 佐藤は腰を落とし、両手を上げて抗議をする。シャーというネコ科の鳴き声が聞こえてきそうな恰好だった。

「馬鹿の威嚇だな」久遠が鼻で笑って言う。

「お前も笑うな!」

 佐藤はそちらにも反応して威嚇するが、二人とも半笑いで、緊迫感はまるでない。

「で、どこで行くんだ?」

「なんにも決めてへん」

「だと思ったよ」

 久遠が溜息をつく。その仕草がやけに板についていて、おれは以前彼がそのことをぼやいていたのを思い出した。

「マクドでいいんちゃう?」

「マックかぁ、気分じゃないんだよな」

 俺の適当な提案は、佐藤のお気には召さなかったようだ。

まあ、何を食べるかは正直どうでもいい。どこでもいいから外に出て居たかった。家に居たらまた寝てしまいそうだったから。

「ならどこがいいんだよ」

 久遠が佐藤に尋ねる。

「んー、そうめん?」

「家で食え」

「じゃあうどん」

「まあそれなら……長田はどうだ?」

「俺はどこでも。もうお腹ペコペコやし」

「じゃ、決まりだな! 飯行くぞ飯!」

「お前が仕切んな、っておい!」

 佐藤が走りだし、その後を久遠が諦めたように追う。うどん屋のある駅前の繁華街まではまだまだ距離があるが、ずっと走るつもりなのだろうか。

 いつものことながら、ある意味息ぴったりだなと、遠ざかる二人の背中を眺め、そしておれも走り出した。

 

 数学教師の講義をbgmにして、手元のペンを弄ぶ。キャップを外して、またつける、くるくると回す、握る、じっと眺めてみる。  

天然の貝殻で作られているらしいこのペンは、光を反射してキラキラと輝いている。角度によって色合いが変わるストライプは万華鏡のようで、また影の暗がりでうっすらと青く光る様はスマートデバイスのような近未来の趣がある。

「長田、ここの答えわかるか?」

「あ、はい!」

 突然教師に指名され、思わず声を出して立ち上がった。しかし黒板には何も書かれていない、チョークを消した白い跡だけが残っている。

「あー、えーっと、そこの答えわぁ」

急に頭を使おうとしても思考は回らず、周囲を見渡してもヒントはなく、口を半開きにして突っ立って、意味もない言葉を連ねる。リアルタイムで自覚できるほどの間抜けに顔が熱くなる。

「よし、少し早いが今日はここまで。長田はちゃんと授業聞いとけよ」

「いやぁ、すんません」

 揶揄われていただけらしい、周囲から堪えきれなかった笑い声が微かに聞こえる。時計を見ればチャイムの五分前、驚くべきことに、おれは一時間ずっとペンを見ていたのだ。ノートをしまい帰り支度をする同級生に囲まれ、縮こまるように席に着いた。

「お前大丈夫か? 最近ずっとこうだぞ」

 腕を組んでこちらを見下ろす久遠は、その長身と怜悧な顔立ちも相まって、こちらを責め立てているような迫力を伴っていた。

「最近寝不足でな。どうもぼぉーっとしちゃうねん」

「昨日も言ってたな。酷いなら病院に行くのも手だぞ」抵抗あるなら俺も付いて行くし。そう提案する久遠は、外見のイメージとは裏腹に優しい奴だ。

「そこまでじゃないねん。三日、いや五日あれば元に戻せるから」

 両手を顔の前で振って否定する。スマホ片手に夜更ししているだけなのに、そこまで心配されるとバツが悪い。

「いや、でも」

「大丈夫! 大丈夫やから! それよりほら、もう帰ろうぜ」

 納得していない様子で顔を歪める久遠の肩に手を添え、教室の出口へと押していく。

 そうやって教室を出れば久遠も諦めたようで、これ以上追及されることはなかった。

「佐藤の奴、自分が任意参加ってこと知ってんのかな?」

 下駄箱へと向かう途中、黙ったままの久遠に話題を振る。

「知らないだろうな。知ってたら来ない」

 久遠は力強く即答した。佐藤の間の抜け具合はおれも久遠も同意するところだ。なんなら本人も自覚している節があるので三人の共通認識とも言える。

「ま、教えてやらねえけど」

 久遠が不敵な笑みを浮かべて言う。いつも真面目で、苦労人的立ち位置にいることの多い久遠だが、これで結構イイ性格をしている。怠け者のおれや能天気馬鹿な佐藤とつるんで〝いつもの三人組〟をしていられるのは、そういう一面があるからなのだろう。

「おーーい」

 階段を下りて下駄箱で靴を履き替えていると、おれ達とは別のクラスだった佐藤が廊下から手を上げて合流する。

「さっきで何の話してたんだ?」

「お前が馬鹿だって話だ」

「なんだと⁉」

 佐藤が絡み、久遠があしらう。どうやら見られていたようだ。おれ達の教室は校舎の一番奥にあるため、下校の際は佐藤の教室を通る、その時に目にしたのだろう。もっとも、こんなやり取りは形式化した〝いつもの〟ことで、佐藤も特に追及せずに受け流している。

「そんなことより、これ見てくれよ!」

 佐藤が鞄から丸められた雑誌を取り出す。テカテカとカラフルで、目に悪そうなそれは、表紙に大きく〝夏の海水浴場特集〟と書かれてある。

「旅行誌か」

「そう! 夏期講習終わったらさ、皆でどっか行こうぜ。あ、海じゃなくても全然いいんだ、関西とかもありだと思ってるんだよ。な、長田」

 佐藤がこちらに振り向く。期待しているところ悪いが、おれは大阪以外の土地勘はあんまりないぞ。京都も奈良も馴染みないし。

しかし旅行か、佐藤のことだ、大方その場の思い付きなのだろう。言うならもっと早く言ってほしかった。だが、そうだな、この機会に今行ってみるのもいいのかもしれない。

「関西じゃないんやけど、行きたい場所があんねん」

「いいねえ、どこどこ?」

 佐藤が楽しそうな声色でおれに尋ねる。久遠は何も言わないが、眉が少しだけ上がっているのが見えた。

 見つめられて、少し口をもごつかせる。妙な居心地の悪さを感じながらも、その言葉を口に出した。

「岩手県、大船渡。おれの故郷に、十三年ぶりの里帰りがしたい」

 二人が揃って首を傾げる。ポカンと、音が鳴ったような顔と沈黙だった。

「え? 長田って大阪出身じゃねえの?」

「お前のソレ、エセだったのか」

 

 

 

 ピピピピ、ピピピピ。四時四十五分に設定していたスマホのアラームが鳴る。しかしその音は随分と小さく、頼りない。画面を確認すれば音量バーは半分を下回っている。これじゃ起こせない訳だ。

「朝か」

 モスグリーンのカーテンを開ければもう外は明るくて、陽の光が顔に降りかかる。その眩しさに目を細め、一度カーテンを閉じようとして、もう寝られないと手を止めた。

 今日は八月三日。一週間の夏期講習が終わり、我々水校生にとっては本当の夏休み初日。そして約束していた旅行の出発日だ。夏期講習の七日中五日寝坊したおれではあるが、流石に今日は遅れられない。睡魔と倦怠感で重い体を大袈裟に動かして、洗面台に向かい身支度をする。

髪を濡らし、ワックスをつける。身だしなみを整えたら、次は荷物の準備だ。キャリーバッグの中身を確認し、あらかじめ用意してあった服に着替える。二、三度指さしで確認し、電気を消してキャリーバッグを引きずり部屋を後にする。久遠と佐藤は水田には住んではおらず、東京駅での待ち合わせだ。そこから東北新幹線に乗って、バス、BRTと乗り継いでいく。ルートや旅館の選定はインターネットを使い一時間足らずで終わった。数日前に急遽決まった旅行が、こんなにもトントン拍子に進んだのだ、文明の利器様様である。

水田駅までの道は、夏休みの早朝とあって肌寒く、人もまばらなため透き通った静寂を保っている。キャリーバッグの走行音も静謐を乱すことはなく、むしろ調和してその静けさを引き立てていた。

湿度は高く、肌に張り付くような空気が心地よい。旅の始まりは、そんな、どこか懐かしいような朝だった。

水田駅に着き、東京行きの快速電車に乗り込む。こんな時間でも客はいるもので、スーツを着たサラリーマン風の男、旅行者らしき女、いかにも普段着といったTシャツにジャケットをだらしなく着崩した、何故この時間のこの場所にいるのか、さっぱり分からないような若者。

それでもおれを含め四人。当然誰かが喋るわけもなく、まだ明けきっていない紺碧を照らす蛍光灯の光と、規則的な電車の走行音が印象的だ。 

各々が別々のシートに座り、車内を広々と使っている光景には、ある種の満足感と特別感、そして彼等への一方的な親近感を覚える。もしかしたら、おれは結構好きなのかもしれない、この旅の朝が。

ガタンゴトンと揺られていく。

 

 流石は東京といったところか、六時を少し回っただけのこの時間において、人の波が形成されている場所などそう多くないだろう。ラッシュ時程ではないまばらな波ではあるが、慣れない土地での待ち合わせを阻害することは出来る。

『いまどこ』

『新幹線の改札前』

『同じく』

 ラインで居場所を聞けば、二人はすでに合流しているようで、おれも落ち合うべく案内板とスマホを頼りに東京駅の人波を泳いでいく。

 おーい。力強い佐藤の声が聞こえた。声のした方を見れば、二人が改札の奥に立っている。早朝に大声を出したからか、佐藤が久遠に叱られていた。そちらに手を振り返して、おれは彼らの下へと速足で向かう。普段のものと変わらないように見える改札機に乗車券と特急券を差し込み、少しの抵抗感の後に手を離せば、小気味良い音と共に迎え入れられる。ICカードに慣れた人間にとって、切符を吸い取られる質量感は懐かしくも新鮮なものだった。

「悪い、ちょっと迷った」

「おう、早く行くぞ。出発まであと十分ないからな」

 手を合わせて二人に近づけば、久遠が急かし、縦に並びいそいそとホームへと上がる。

「どの電車だっけ?」

「二十二番のりば、秋田行きのこまち。言っても仙台まで一時間ちょっと乗るだけやけどな」

 雑談を交わしながら乗り込んだのは、赤色のはやぶさといった風貌の車両だ。車内は盆前とあって空いており、四列シートに座る人影はまばらだ。俺がA席、久遠がB席、通路を挟んで佐藤がC席。D席は空席で、少しホッとする。

「何とか間に合ったな」

 佐藤が席に着き、荷物をまとめながら、通路越に話しかけてくる。

「東京駅広すぎんねん。めっちゃ道迷ったわ」

「そうは言っても遅れたのは十分程度だろ、普段のこと考えたら頑張った方だよ」

「そうそう、今日は寝坊もしなかったし」

 両隣から含みのありそうなフォローを頂く。

「信用ないなあ」

 そうおどけて見せれば、二人は苦笑を返す。その動作がどんな言葉よりも彼らの心情を表していた。

「ふぁあ」

「眠いのか?」

「今日は朝早かったから、ちょっとな」

「そっか、長田は水田からだもんな。この中じゃ一番遠いわけだ」

「そうそう、家出たん五時やで。チューわけでちょっと寝る」

「時間になったら起こすよ」

 久遠の言葉に返事を返し、おれは瞼の意志に従って目を瞑る。そうすれば睡魔はすぐにやってきて、おれを夢の中へと導いた。

 

 ざあ、ざあ。波の音が聞こえる。今はもう懐かしい、海の気配だ。真っ暗、何もかもが真っ暗な世界。自分の身体すら見えない。けれどもどこからか波音が聞こえる。おれは何故かとても怖くなって、その場から逃げ出した。それでも景色は変わらない、波音だけが遠ざかったり近くなったり。波音が大きくなるたび、おれは方向を変えて逃げ惑った。

 やがて疲れ果てて立ち止まる。身体がないのに疲れるのはおかしな気分だが、ともかく立ち止まった。膝に手をついて息を整える。身体は見えないのに感覚は存在したのだ。

 膝から手を放して顔をあげると、九十歳くらいだろうか、どこか見覚えのある老人が目の前に立っていた。おれは老人に話しかける。

「こんにちは」

 老人は何も返さない。

「こんなところでどうしたんですか?」

 老人は答えない。

 何の反応も示さない老人に困ったおれは、その場で途方に暮れてしまう。どうしたものか。いや、そもそも彼に構う必要なんてないのではないだろうか。そうだ、ここから去ればいい、なんて冴えているんだろう。おれは天才だ。そう考えて、老人に背を向けようとする。

 すると突然、老人に肩を掴まれる。思わずびくっと反応して、彼の眼を見てしまった。

 それは、闇よりも闇の様な黒色だった。世界は真っ暗なのに、彼の眼はそれ以上に暗く感じる。

「うわぁぁぁ」

 恐慌状態に陥って、俺は逃げ出した。老人の手を払い、全力で足を回した。けれども全然前には進まず、月にいるような無重力感が、ふわふわとおれをその場にとどめていた。それでも懸命に、体を動かして前に進む。ちょっとずつ、ゆっくりと。時折訪れる着地の瞬間に思いっきり地面をけって進んだ。不思議なことに、老人に追いつかれることはなかった。

 どこまで逃げてきたのか、相変わらず景色は真っ黒で距離感覚がおかしくなる。老人の姿は見えない。どうやら上手く撒けたようだ。逃げ切れたというのに、老人の目を思い出して恐怖感がよみがえってきた。おれはどうしようもなくなって、その場で蹲る。両手で耳をふさいで、何もかもを拒絶しようとする。しかしそれはかなわない、恐怖心は衝動となって、おれの胸を揺らしている。何で心がハートなのか、分かった気がした。

 波の音が聞こえる。

 

 ハッと目を覚ます。悪夢からの覚醒は、睡眠の余韻を感じさせないものだった。

 胸に手を当てれば、バクバクと心臓が鳴る音を感じる。

「ちょうどいいとことで起きたな、あと十分で仙台につくぞ」

「降りる準備しとけよー」

 悪夢を見ていたことは悟られていない、現実の方はなんの影響もなかったようだ。

「あ、ああ」

 新幹線に乗っていたのは一時間とその半分、東京駅発で仙台駅にてすぐに降りる。これからバスで二時間、BRTで一時間の過酷な旅が始まるのだ。少しの眠りで疲れが取れる若い肉体に、いつも以上にありがたみを感じる。

「新幹線乗って一時間で降りるって、なんか変な気分だよな」

 車両から降り、駅の地下を歩きながら佐藤が言う。

「正確には一時間半な、でも、お前の意見には同意だ。新幹線以外の時間の方が長いのも大きいだろうな」

 腕時計を見つつ久遠が同意した。

「まあまあ二人とも、過酷な旅は若者の醍醐味やで」

「お前何歳だよ」

 歩いているうちにバス乗り場まで到着する。おれ達はすぐにチケットを買ってバスに乗り込んだ。おれ達が座席に座ると、バスはそれを待っていたかのように扉を閉めて発進する。

「大船渡って岩手だよな、じゃあ何で長田は関西弁なんだ?」

 青空を映す車窓を眺めバスに揺られながら、おれ達は暇を持て余していたこともあり、佐藤がずっと疑問に思っていたであろう質問をしてきた。

「おい佐藤」

「いや、ええねん」

 咎めようとする久遠を制止して、俺は軽くこれまでの経緯を二人に話す。

「小さいころ、いくつやったかな、四歳か五歳くらいの時に震災に遭ってさ。それからずっと大阪に住んでんねん。だから口調も半分似非で半分本物」

「……すまん、無神経だった」

 佐藤はおれの言葉にハッとしていて、初めて気づいたようだった。

「だからええって、正直震災のことなんてあんま覚えてへんからな」

 当時は幼かったこともあり、覚えていることは少ない。両親のことも、地震のことも、故郷のことも。さらに言えば、現実を正しく認識できていたかも怪しい。訳も分からず走らされて、その後色々あって訳も分からず大阪に連れられたのだ。おれにとって東日本大震災とは、幼少期の曖昧な認識と記憶の上に立っているものというのが実情だ。

 車内、というよりおれ達三人の中で気まずい空気が流れる。重い話をしたからだろう、おれとしては気にしていないし、このまま空気が重いと気が滅入るのだが、こればっかりは仕方がない。そもそも、友人連れて里帰りすると決めた時点で、こうなることは予想出来ていた。きっと時間が解決してくれるだろうと、背もたれに体重を預ける。そんなどんより三人組を乗せたバスは、三陸の地を走り抜けていく。

「なあ、このバス全然停まらなくね?」

しばらく経って、沈黙などなかったかの様に佐藤が言葉を発した。

「そりゃ、高速バスだからな、二時間で停まるの二か所だぞ」

「うっそまじかよ、予約なかったから路線バスとばかり」

佐藤と久遠のやり取りは、いつも通りのものに戻っていた。先ほどまで胸に残っていたどんより感と緊張感が抜けていくのを感じる。

「さっきチケット買うったやんけ」

「切符みたいなものだと思ってた」

 三人で顔を見合わせ、誰かがプッと噴き出したのを契機に、皆つられてクスクスと声を落として笑いだす。公共の場故大笑いは出来ないが、これも一種の爆笑なのだと思った。

「バーカ」

「アホやな」

 笑みを残しながら、久遠とおれは言う。

「仕方なくないか?」

 一音ごとに区切る独特なイントネーションで佐藤が反論する。それがまたおれ達のツボに入って、クスクス笑いを加速させた。

それからおれ達は先程の気まずかった時間を忘れ、そして二時間という長いバスでの時間を忘れて談笑に興じた。久しぶりに眠気に襲われない時間だった。

あっという間に時間は過ぎ、バスを降りる。ここからはBRTを使って旅館まで向かうのだ。ここは宮城県の端っこ。大船渡まではまだまだ遠い。

 

「BRTとは、正式名称をバス・ラピッド・トランジットと言い、バス専用道を駆使して電車の様に定時制で運行する交通システムのことである」

 佐藤の「BRTって何?」という疑問に答え、久遠が事前に調べていたのであろう知識を披露する。眼鏡もないのに眉間を抑える彼は、どことなく得意げな顔をしている。

「さらに言えば、この大船渡線は震災で崩壊した線路の跡地を使用している。訳分からん表現だが、バス版電車ってことだな」

 本当に訳分からん表現だが、確かに的を射ている。それにしてもこの駅の光景は。

「なんかテーマパークのゴーカートみてえ」

 佐藤もおれと同じ考えだったようで、思考に被さって感想を口に出す。フェンスに囲われた段差の低いホームと線路の在るべき場所に敷かれているコンクリートの道は、まるでゴーカートの乗り場の様な遊園地感を醸し出していた。しかしこの遊園地感は、おれ達初見の旅行者を驚かせるのと同時に、童心に帰ったようなワクワク感を与えてくれる。

「確かにゴーカートみたいだ」

「うん、ゴーカート」

 久遠も同意見のようで、三人の内心が一致した。多分、これは誰の目にもゴーカートに見えると思う。これが良いことなのか悪いことなのかは分からない。けど、おれ個人の感想としては、かなり好ましい光景だった。こういう新たな発見と驚きは、旅ならではのものだろう。

 更にゴーカートっぽい駅を探すべく大船渡線で検索すると、水色の屋根がある駅を見つけた。気仙沼駅、君がキングオブ遊園地駅だ。

 まあそんなことは置いておいて、後方からバスが近づいてくるのを見止める。赤い車体に一本の白線が入ったバスこそが、おれ達が目的地までお世話になる大船渡線の車両だ。これから約一時間、彼の背に揺られることになる。

 車内はそれなりに人がいて、おれ達はスーツケースを持っていることもあり、席には座らず広い場所で立っていることを決めた。長い旅路ではあったが、これまではずっと座っていたので足腰への負担は現状そこまででもない。BRT専用の道路を、バスは走り出した。

 

 バスは専用道路を抜け、一般道に繰り出していた。驚くべきことに、このバスは高速道路を走る。しかも、その高速道路はほとんどが無料区間だ、高速道路を通りますとアナウンスされたこと、そしてインターチェンジを通らなかったこと、二度の驚きをもってBRTの旅は始まった。

 バスは車通りが少なくもきれいに舗装された道を通る、次第に海が見えてきた、交通安全の『通安』だけが見えるガードレールを通り過ぎ、奇跡の一本松を望みながら進んでいく。一本松は遠目から見てもわかるほどにワイヤーが張り巡らされていて、倒すまいとする人々の意地を感じる。

「めっちゃ支えられてるな」

「そりゃ倒す訳にはいかんだろ」

 岩手、三陸の街並みは思っていたより都会で、道路や建物も綺麗だった。多分、全部ここ十数年で建てられたものだろう。今もなお続く復興の現場に想いをせる。

 いつからかバスは専用道に戻っていて、深い森と海に囲まれている。外からはミンミンゼミの鳴き声が聞こえる。混じりけのない、夏の鳴き声だ。そうしてバスは数か所の駅を超え、ついに目的地の大船渡駅に停留する。

 バスから降りると、東京よりも涼しい空気、そしてかすかな潮のにおいを感じる。港町である大船渡は海に近い。だから潮のにおいもがするのだろうか。

「久しぶりの故郷はどうだ」

 後ろから降りてきた佐藤と久遠が横に並び立つ。

「どうやろう、あんまり覚えてない気もするし。随分、変わった気もする。でも、なんか懐かしいわ。覚えてなくても故郷は故郷なんかなあ」

 駅の近くには、真新しいとまでは言わずとも綺麗な建物が多い。この辺りはすべて復興後の風景なのだろう。しかし肌をなぞるこの湿った空気が、なんだか懐かしいような、寂しいような、望郷の念というのだろうか、そういった感情を呼び起こしている。

 旅館まで、十数分の道のりを歩いていく。本来ならば大船渡駅の次の地ノ森駅の方が近いのだが、少し歩きたくて一つ前の駅で降りた。

 おれ達が歩く道は、車道は片側一車線で歩道が大きく、左手には道の駅や土産屋、右側には海と五メートルをゆうに超えるほどの巨大な防潮堤がある。やはり見覚えのない、新しい街だ。

「すげえ、壁だ」

「津波の教訓が生きているんだろうな」

「海は見えにくくなってるけど、まあしゃあないか」

 港町のはずの大船渡は、海が見えない。巨大な防潮堤に阻まれて、県内でも有数の港である大船渡港はその姿を隠している。これもある種、かつての震災の傷跡とも言えるかもしれない。

 空には厚い雲がかかり、遠くからはミンミンゼミの鳴き声がかすかに聞こえる。関東では聞けなくなったこの音は、おれの脳の片隅にある何かを優しく刺激するようだった。

 

 旅館には、もうすぐ四時になるかという頃合いに到着した。少し坂を上ったところにある、ネイビーと山吹色のコントラストが印象的な立派な建物で、部屋は畳張りに敷布団の和風な宿だ。

「あぁぁぁ、疲れた」

「先に荷解き終わらせろ」

 部屋に案内されてすぐ、長旅で固まった体を伸ばし、ソファに体を投げ出す佐藤。荷解きが終わっていないことを目ざとく見つけた久遠がそれを指摘する。

「えー、良いじゃんちょっとくらい」

「面倒なことは先に済ませておくもんだよ」

「ケチ」

「ケチじゃねえだろ!」

 次第に久遠もヒートアップしてきて、二人して荷解きそっちのけで言い合っている。久遠もこういうところというか、真面目風なだけで真面目ではないよなというか、二人は割と似た者同士なのだろう。

「ほらほら二人とも、取っ組み合いなんてしたら他の人に迷惑やろ」

 だからこうやって仲裁しなければならない。

「でも佐藤が!」

「いいや久遠が悪い」

 この期に及んでもしょうもない言い合いを続ける二人は、割と子供っぽい。

「荷解きも終わってないんやから、はしゃぐのはまだ先やで」

「あ」

 久遠が声を漏らす、我に返ったようだ。おずおずと荷解きを再開する久遠を見て、佐藤も毒気が抜かれたように自分のキャリーバックに向かう。本来荷解きはそれほど時間のかかるものではないので、真面目にやればすぐに終わった。

「そういえば、かなり復興が進んでたよな、この町」

「確かに、普通の田舎町って感じだった。綺麗な建物も多かったし」

「もう十三年もたってるしな、何もかもその時のままってこともないやろ」

 十三年。全てが変わったあの日は、覚えていなくとも確かに経験したあの震災は、もう十三年も前の出来事なのだ。それが長いか短いかは、おれには分からない。当事者ではあっても。実感を持たないおれにはきっと理解できない時間なのだと思う。

「でもやっぱり不思議だよ。言い方は悪いけど、俺にとって震災は他人事だったし、復興だってそうだ。正直、人が寄り付けないような場所だとも思ってた」

「福島の一部は今もそうらしいけど、岩手はそんなところはないんちゃうかな。多分やけど。それに、ここだってまだ爪痕は残ってるはずやで」

 ずっと東京に住んでいた久遠と佐藤にとっては、遠い土地での災害でしかなかった。当時は四歳だったしそれは無理もないことだ。精々が、テレビでニュースばかり放送している程度の認識だったのだろう。かくいうおれも、誰かに促されて走った記憶しかない。あとは、そう、あの波の音くらいだ。

 

 話し込んでいたら、すっかり外も暗くなっていた。夕食の買い出しをするために旅館を出たおれ達は、坂の下のコンビニで総菜と水、そして弁当を買い、また坂を上り旅館へと戻った。一日目は移動だけの予定だったので、夕飯は地元の店などには入らず、コンビニ飯で済ませることにした。

「あ、箸もらうの忘れてた」

 おれは唐揚げ弁当、久遠はカルボナーラ、佐藤はそばだ。まあしかし、佐藤は素手で食べることが決定したらしい。

「馬鹿が、素手で食べろ」

「そんなこと言わずにさあ。二本持ってない?」

「持ってるわけないだろ、食べ終わったら貸してやる」

 仕方なし、という風にため息をつきながら久遠が答えた。

「さんきゅー、助かるわ」

 久遠が食べ終わり、佐藤がそばをすすっている間、おれは寝る準備を済ませていた。

「もう寝るのか?」

「うん、やることもないし、明日も朝早いし」

 十時過ぎ、まだ寝るには早すぎる時間だが、明日アラームを頼りに起きなければならないことを考えれば妥当なのではないだろうか、特におれは寝坊癖があるし。

「じゃあ俺も寝るか」

「うん、もれも」

「お前はまず食い終われ」

 

 三つ並べられた布団に入って、部屋の電気を消す。順番は右から久遠、おれ、佐藤。いつもの立ち位置がそのまま布団の順番になった。時刻は一時、ずっとしゃべり続けていた佐藤はとっくに寝息をたてていて、久遠も先程からずっと静かだ。

 かくいうおれは、二時間以上たっても寝れずにいた。三人で居れば寝られるとも考えていたが、思い違いだったらしい。ぐるぐると、思考が泊まらない、破滅的な妄想で、頭が恐怖で満ちる。いっそ暴れて周囲に当たり散らしたいが、一人じゃないからそれも出来ない。  

こんな時は、恐怖と共に、閉塞感に襲われる。時間に囚われている閉塞感。過去にも未来にも行けない、この見えない時の檻に閉じ込められる閉塞感。

 いや、違う。おれは何も知らない。

「寝れないのか?」

 ごろごろと何度も寝返りを打っていたからだろうか、隣で寝ていた久遠を起こしてしまったようだ。

「ちょっとな」

「眠剤飲むか?」

 久遠にはかなり心配されているらしい、不眠症とかではないと思うが、そういえば、学校でもそんな話をしたのを思い出した。

「なんで眠剤なんか持ってんねん」

「俺も色々あるんだよ」

 そりゃそうか、悩みを抱えているのが俺だけってこともないよな。

「ありがとう。けどいいや、眠くなったら眠れるし」

「そうか、ならいいんだ」

 あっさりと引き下がる。ここでしつこくせず、おれに任せてくれることがありがたかった。

「おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 

 

 

 朝、案の定定刻通りに起きられなかったおれは、佐藤の右足から繰り出さされた一撃で目を覚ますことになった。

「おーい、起きろー」

 目を開けてあたりを見回すと、佐藤と久遠はとっくに支度を済ませていて、おれだけが寝巻のまま布団に寝そべっていた。

「ああ、おはよう」

「おはよう寝坊助君」

 フンスと息を吐いて得意げな顔の佐藤。いつも揶揄われている分、こうやって誰かのフォローに回る機会が嬉しいのだろう。

 起き上がって伸びをして、窓の外に目を向ける。時刻は七時を回り、外はすっかり明るくなっている。視界に移る山々には微かに霧がかかっているが、空を見れば澄んだ青色だ。相変わらず海は見えないけれど、港町らしくカモメが飛んでいる。

「外みてないで早く着替えろよ」

「ああ、ごめんごめん」

 佐藤に促されて、寝巻から着替える。黒いストレートパンツに水色のシャツ、そして青いワッパのついたメタルフレームの眼鏡。旅行ということで気合を入れた格好だ。

 朝食に、昨日コンビニで買ったおにぎりを食べる。当然だが、水田の味と変わらない。

 今日は、大船渡の街を散策する予定だ。久遠や佐藤にとっては退屈かもしれないが、十三年振りの里帰り。おれにとっては重要なことなのだ。

「で、長田。今日はどこから回るんだ?」

「決めてない」

「え、決めてねぇの?」

「観光地ってわけでもないし。おれが見たかったのは普通の街だから。でもとりあえずは大船渡駅の方に行こうと思ってる」

 大船渡は決して有名な観光地などではない。なまじ観光をするにしても、ここからでは車が必要な距離にあるし、それはおれが今見たいものではない。おれは、震災の爪痕と、その復興の様子を見に来たのだ。かつてこの地に住んでいた人間として、見るべきだという義務感にも近い感情があった。

「なるほどな、まあ長田の行きたいとこについていくよ」

 旅館を出て、道なりに進んでいく。左手にある防潮堤は、遠目から見てもわかる巨体を誇示するように堅牢に建っている。

「あの壁、取っ払えねえかな」

 ぼやくように佐藤が呟く。本当にそうなるとは思っていないだろうが、まあ無理な話だ。

「できる訳ないだろ」

「まあでも気持ちはわかるで。海見えへんのは痛いよな」

「先人たちの学びと努力をなんだと思ってるんだ貴様らは」

 久遠は呆れたように首を横に振る。こういう仕草が板につくから、佐藤も自重しないのだろう。

少し歩いた先に坂があり、そこを上っていけば、大船渡の港を一望できる場所があった。

 大船渡の街は結構な高低差がある。海側と陸側で、坂による隔たりがあるのだ。それこそ少し坂を登れば昔ながらの民家が立ち並び、逆に海側に坂を下れば平らな土地に新しい建物が立ち並んでいる。それは崩壊した建物や、荒廃した土地以上に、震災の影響を感じさせるものだった。両隣の二人の顔を見れば、言葉にこそ出さないものの、いや、言葉に出さないからこそ、何か感じ入るものがあるのは明らかだ。

 おれ達は無言のまま坂を下り、また大通りに戻って道なりに歩く。少し先に行けば、一際目を引くかもめテラスと書かれた黒い建物が目に入る。芝生の上に立っていて、従業員らしき人が芝生を整備しているのがうかがえた。名前と立地からして、かもめの卵の店なのだろう、スマホで調べると総本店と出てきた。

「かもめテラスだって」

「総本店らしいで」

「へえ、何の?」

「何のって、かもめの卵やん」

「何それ」

「え?」

「俺も知らん」

「ええ⁉ 三陸銘菓かもめの卵をご存じでない⁉」

 信じられない。岩手の誇りだぞ。東京でも売ってるくらいだぞ⁉

「ホンマに知らんの?」

「知らん」

「全然」

 二人の答えに、おれは少なくないショックを受ける。かもめの卵を知らない日本人がいるとは、おれが思っているより世間は広く、おれが思っているよりかもめの卵の知名度は低いらしい。もちろん、二人が特殊なだけの可能性も大いにあるが、身近な友人が知らなかったことはやはり衝撃的だ。

「よし、かもめの卵の素晴らしさを教えてやる! なに、時間ならたっぷりある」

 おれは二人の背中を押して、かもめテラスのに入る。

「お、おう」

「テンション高いなお前」

 かもめテラスの店内は、コンビニほどの大きさで、洋菓子の甘い匂いを漂わせている。かもめの卵をはじめ、様々な和菓子屋洋菓子、焼き立てのパンにケーキ、さらにはフードスペースまであり、小さいながらも見るだけで楽しい場所だ。

ケーキやソフトクリームにも心が惹かれるが、おれには二人にかもめの卵を食べさせるという使命がある。一目散にかもめの卵を買って、店の外に出て開封し二人に一つずつ渡す。

「ほら、おれの奢りや、感謝して食べたまえ」

「お、おお。ありがとう」

 久遠は袋を開けて食べ始めるが、佐藤は開封せず、怪訝な顔でかもめの卵を回し見ていた。

「どうした?」

「なあ長田、これ、本物のかもめの卵じゃないよな?」

「なわけあるか、はよ食え」

 確かに卵型ではあるが、本物のかもめの卵ではない、餡をカステラ生地とホワイトチョコで包んだ菓子であって、断じてかもめの湯で卵などではないのだ。

「うん、美味しい」

「まあ、普通に美味いな」

かもめの卵を食べて感想がそれだけとは。

「お前ら、お前ら感想はそれだけか⁉ 餡とチョコのマリアージュとか、和洋の奇跡的な両立とか、そういう感想はないのか⁉」

「だからなんでそんなにテンションが高いんだよ」

「熱いな」

 二人の冷めた反応を見て、おれは天を仰ぐ。青い空と日光が眩しい、おれを慰めるかのように降り注ぐ岩手の太陽は、きっとかもめの卵のすばらしさを分かってくれるだろう。

「はあ」

 おれはため息をついた、どれだけ熱心に説明しても、二人が分かってくれることはないのだ。であれば、太陽と二人でこの感情を分かち合うだけで良い。

「なんでお前が呆れてるんだよ」

「釈然としねぇ」

 二人が何やらぼやいているが、無視だ無視。その代わりおれもこれ以上迫ったりしない、これでお互い様だ。

「慶ちゃんか?」

 久遠でも佐藤でもない、後ろから聞こえたしゃがれた男の声に、おれたちは三人そろって振り向いた。

 そこに立っていたのは、柴犬を連れた老人だった。七十歳程だろうか、犬の散歩の途中といった様子で、右手にはリード、左手にはビニール袋を持っている。真っ直ぐこちらを向いて、両手に持ったものを落としかねないくらいに凝視している。

「やっぱり慶ちゃんじゃないか」

 老人が歩み寄ってくる。その顔には喜色が浮かんでいた。

「え、えっと」

「私はてっきり、いや、そうかそうか」

 老人はおれがここにいることを確かめるかのように、ゆっくりと、しかし力強く抱き着いた。いきなりのことにどうすればいいか分からなくなったおれも、老人に抱擁を返す。

「本当に久しぶりだ。大きくなって、けれど、目元はあの頃と全然変わらないな」

 老人は抱擁を解き、おれの顔を覗き込むように見つめる。よく見れば、その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。

「後ろの二人はお友達かい?」

 老人の言葉に二人がいつの間にか後ろに下がっていたらしいことを知る。

「はい、今は東京に住んでて、夏休みを利用して里帰りに」

「今は東京に。元気でやっているようだね。いや、本当に会えてよかった」

 老人は涙を拭って、おれの肩をたたいた後、丁寧な別れの言葉と共に去っていった。おれはその場に呆然と立ち尽くして、懐かしい東北の訛りをリフレインさせていた。老人の言葉は、ほとんど共通語であるものの、そのイントネーションだけはしっかりと東北のものであった。

「知り合いか?」

 後ろから、久遠に声を掛けられる。

「いや、知らない人だ」

「え、でもお前の名前」

「知らない」

 振り返り見た二人の顔は、驚きと困惑、そして何か痛ましげなものを見たような、そんな色を湛えていた。そうだ、おれは何も知らない。

「行くぞ」

 呆然とする二人を促して、海の方向へと進む。横断歩道を渡り、壁のような防潮堤を目印に海側へと歩いていく。

「おい、ちょっと待て」

「え、ああ。ごめん」

 追いついた二人に肩を引かれ、ハッとする。一人で先行しすぎた。少し熱くなりすぎたかもしれない。

「いや、いいんだけどさ。大丈夫か、ちょっと変だぞ今のお前」

「佐藤に言われたくない」

「あー、言ったなお前!」

 佐藤にまで心配されているようじゃダメだな。やっぱり普段通りにしないと。

「悪い悪い、ほら、海行こうぜ」

「おう!」

 海の手前、正確に言えば防潮堤の手前に、広い公園があった。遊具は多くないので、公園というより広場といった方が正しいかもしれない。平日の昼前ということもあり、おれ達のほかに人はいない。しかし綺麗に整備されている様子から、普段は地域の憩いの場として活用されている雰囲気を感じ取った。

「なんだろこの時計」

 まさしく震災の被災後といったような時計台が、おれ達の目の前に現れた。石造りで、遠目に見れば普通の時計台だが、時計の部分だけが、根本から強引に捻られたようにねじ曲がっている。時刻は三時二十五分で止まっており、それはどこか、小学校の修学旅行で見た被爆した時計を思い起こさせた。

 隣に建てられた案内板には、震災遺構、茶茶丸パーク時計塔と書かれており、よく読み込むとここら一体が商店街だったことが分かる。

「商店街がほとんど更地か」

 そうつぶやいた久遠の声からは、津波への大きな畏怖が感じられて、少しブルーな気持ちになる。震災で亡くなった人々や、失われた生活を思えば、この畏れは、あまりにも不誠実であるように思えるのだ、たとえそれが必要なことだとしても。

 

コンクリート造りで武骨な印象のある防潮堤だが、その一部には絵が描かれていたり、遊び心のある面も存在する。今上っている坂もその一つだ。

おれ達は今、時計塔の先に堤防のように登れる坂を見つけ、防潮堤を超え海の側に歩いている。坂の中には、過去の地震による津波の到達地点が書かれた石碑があり、この地が何度も津波に襲われていることが読み取れた。

そんな坂を上りきると、そこには眼下に広がる大船渡港と、何やら鉄枠にガラスをはめたモニュメントが目に入る。遮る壁のなくなった潮風が気持ちいい。この大船渡について、初めての海だった。

海側にも階段があり、コンクリート造りながらも芝生の緑が点在する堤防につながっている。おれ達は階段を下りる前に、例のモニュメントの前に足を運んだ。

十本の鉄の柱を土台として、鉄枠に薄い水色のガラスをはめ込んだモニュメントは、日本語と英語で未来に祈ると大きく書かれていて、被災した人々への追悼と、復興に携わった人々を忘れないという思いが綴られている。追悼の碑にこんなことを思うのは不謹慎なのかもしれないが、結構センスがいい。

 モニュメントから目を離し、階段を下りていく。海は穏やかで、波の音もゆったりとしたものだ。

 近くにあった屋根付きのベンチに座って潮風に当たる。優しい海の風は心を穏やかにしてくれる。

 本当に? 突如沸いて来た思考は、瞬く間におれの脳内を蹂躙する。波の音がどんどん激しくなる。轟音が、怒号と悲鳴を掻き消していく。走って走って走って、後ろにいる大きな何かから逃げる。背中を押す誰かの手は汗ばんでいて、加減を知らないそれに時々倒される。そのたびに起き上がってまた走る。走る走る走る。走って、どうする?

 気づけばおれは、崖っぷちにいた。十七歳の、今の姿で。目の前には暗闇があって、一歩でも進めば底なしの無に落ちてしまいそうだった。いつもそうだ、おれはずっと崖っぷちにいる。いつ足元が崩れるか、怖くて怖くて仕方がなかった。だったらいっそ、自分から飛んでしまおう。そう思っておれは、思いっきりジャンプをした。

「おい! おい! しっかりしろ」

 気づけば、久遠がおれを覗き込んで肩を揺らしている。その奥には佐藤が心配そうにこちらを見ていた。

「気が付いたか、お前、ずっと呼びかけに答えなかったから心配したぞ」

「熱中症かと思ったよ」

 久遠が一歩下がり、佐藤がスポーツドリンクを差し出してくる。

「ありがとう、ちょっとぼおっとしてた」

 佐藤から飲み物を受け取り、それを飲みながら立ち上がる。

「さて、潮風に当たったことやし、次はどこいこか」

 海に背を向けて、階段の方に歩く。

「待て」

 久遠がおれを呼び止める。

「お前、最近変だぞ」

「まあ寝不足やしな」

「それだけじゃない、ここに来てから特におかしい。やっぱり、辛いんじゃないのか?」

久遠にしては珍しく、しつこいまでに足を踏み入れてくる。

「そんなんじゃないって」

「辛いなら、予定を繰り上げて帰っても」

「だから違うって言ってるだろ!」

 急な怒声に、正面から受けた久遠が怯む。が、すぐに気を取り直して、こちらを真っ直ぐ睨みつける。

「違わないだろ。そんなに苦しいならもうやめよう」

「お前には関係ない」

 何も知らない人間に、分かったような顔をされたくない。

「いいや、ある」

「関係ねえよ! これはおれの問題だ!」

「そうじゃないから、俺達をここに連れてきたんじゃないのか? なあ、教えてくれ、お前は何に苦しんでる?」

 人の心にずかずかと入り込んで、教えてくれだと? 久遠の言葉が何度もリフレインして、そのたびに怒りが込み上げてくる。

「お前を救いたいんだ」

 その言葉に、おれの中にあった何かが切れて、おれは久遠に殴りかかっていた。顔面に入ったそれに、久遠は数歩後ろによろめいた。

「救いたい? 救いたいだと? お前の英雄気取りにもほとほと呆れるよ! おれは何も知らない! おれは何も苦しんでなんかいない!」

 そうだよ、こいつは、ずっと主人公になりたくてうずうずしてた奴だ。だからこんなことを言い出す。

「苦しんでいるから、そうやって怒鳴るんだろうが」

 血が出た唇を拭って、久遠はこぶしを振りかぶる。

「それを、認めろ!」

 溜めを作って、久遠はおれに殴りかかる。綺麗なまでのテレフォンパンチは、おれの顔に吸い込まれて、鈍い痛みと共に鼻にかけられていた眼鏡を飛ばした。

「痛ってえな、眼鏡が壊れたらどうするんだ」

「そうじゃねえだろ」

「止めろ! お前らそこまでだ!」

 お互いに近づきあい、取っ組み合いになりそうだったところを、佐藤が割って入って体で止める。おれと久遠はそのまま引き離され、お互いに距離をとる。

「さっきから聞いてりゃ、救うとか知らないとか、挙句の果てに殴り合いまでして。どうしたんだよお前ら」

 そう言われて冷静になれば、佐藤の怒りも最もだ、事情も聴かされずに友人二人が旅行先で殴り合いだなんて、そりゃ困るわな。

「あー、ごめん。ちょっと熱くなった」

 佐藤の仲裁で頭を冷やしたおれは、眼鏡を拾い状態を確かめる。よかった、大きな傷はない。

「話は終わってない」

「は?」

「おい待て! 終わり! 終わりだから! 久遠も長田ももうやめろ! ほら! 次の場所行くぞ!」

 佐藤が必死に諫めて、久遠は渋々という風に矛を収めた。しかし、あの顔はまだ懲りていないように思える。またこの後も、救うだのなんだの言いだすのだろう。おれは救いなんて欲しくないのに。

 

 

 

 キャッセン大船渡は、大船渡駅からもほど近い場所に位置する複合型商業施設だ。といっても、ショッピングモールのように一つの建物にテナントが集まっているわけではなく、コテージのように一つ一つの店がより集まっている、いわば小さな商店街のような施設だ。

 おれ達は海からかもめテラスの近くまで戻ってきて、川を渡りその少し先にある、件のキャッセン大船渡を発見したのだ。

 書店に喫茶店、土産屋や和菓子屋、少し奥には巨大なスーパーマーケットにホームセンター。ここに来れば何でも揃う、と言ってしまえばあまりにありがちな広告文句だが、少なくとも土産物を買うのに不自由はないだろう。

「ほら、見ろよ! お土産買っていこうぜ!」

 佐藤が必死に場を盛り上げようとするが、冷え切った空気はどうにもならない。久遠は意味ありげにこちらを見るだけだし、おれもそれに応える気はない。

「本屋もあるぞ! 長田、お前本好きだっただろ?」

 確かに、本は好きだ、特に、こういう旅先の書店で買うと、いつもと違うブックカバーをかけてもらえたりして、特別感を味わう事も出来る。おれは二人を置いて、本屋に入る。

 外観から分かっていたが、店の中はかなり広く、本の数も多い。文芸書の棚には、新刊だけでなくそれなりに種類も豊富で、珍しい出版社の文庫本も置いてある。

「こんなのどうだ」

 ビジネス書の棚を見ていた久遠がこちらに来て一冊の白い本をこちらに渡す。

「睡眠学?」

 いわゆる睡眠化学系の本だ。

「思ったんだが、今のお前に必要なのは健康的な生活習慣だ。おれの眠剤もやるから、とりあえず睡眠習慣をつけることから始めないか?」

「あー、いや、いいよ」

 呆気にとられたというか毒気が抜かれたというか、怒鳴り返す気力もなくして曖昧な返事をする。

「そうか、良いか。じゃあ買ってくる」

「え、ちが、そうじゃなくて」

 否定も空しく、久遠はレジに向かって速足で歩いて行った。勘違いなのかわざとなのか、おれに買い与えるつもりなのだろう。まったく傲慢で押しつけがましい。

「ほら、持っていけ。お前に必要なものだ」

 改めて本を渡される。さっきは散々に言ったが、純粋な厚意は断りづらいし、猫の描かれたブックカバーはかわいかったので受け取った。けど、受け取っただけだ。多分読まないだろう、本棚の肥やしになるのがオチだ。

「それと、これ」

 久遠がもう一つ手渡してきた袋の中には、ケースに入った錠剤が入っている。

「これは?」

「眠剤だよ。やるって言っただろ」

「だからなんでそんなもん持ってんねん」

「色々あるんだよ」

 カサカサと音をたてる錠剤は、いつも気丈な久遠には似合わない。思えば、二年も一緒にいたのに、おれ達は互いのことを何も知らない。久遠のことも、佐藤のことも。堤防で久遠に言われた言葉が蘇る。おれはきっと、二人のことをもっと知りたくてここに誘ったのだと、そう思った。

「分かった、もらっとくわ」

 そう言うと、久遠は驚いたように眉を上げた。

「なんや、そんなに意外か?」

「ああ、てっきり断られるかと思ってた」

「最初はそのつもりやったけど、まあちょっとな」

 おれが二人を知らないように、二人もおれのことを知らない。でも、もしかしたら、おれ達が真の意味で親友に成れる日は近いのかもれなかった。

「よかったー。二人とも一先ず仲直り出来て」

 呑気な、それでも真剣みを含んだ絶妙なトーンと共に、佐藤が近づいてくる。

「ホンマごめん。迷惑かけた」

「妥協は仕方がない。まずは一歩からだ」

「お前なあ」

 一件落着、とはいかないが、加えてまだ久遠は諦めてないみたいだが、一先ず喧嘩は終わった。

 書店を出たおれ達は、昼時ともあって近くのラーメン屋に入り昼食を済ませた。チェーン店のラーメンが地元の味かどうかは意見の分かれるところだが、調べてみれば地元のチェーンだったので、そう称しても問題ないだろう。少なくともおれはそう思う。ちなみに、佐藤の分はおれと久遠で折半して出した、流石に迷惑をかけすぎたことを反省した結果だ。

 その後、先ほどまでとは反対側に道を戻って進み、盛駅のあたりまで歩いて見回った。盛駅までは結構距離があり、歩いて一時間ほどかかった上に、坂が多く足が棒になるようだった。盛は大船渡駅周辺と違い、昔からあるような建物や施設が多いという印象だ。サンリアというショッピングモールにも入り、中にあるスーパーで明日の朝ご飯を買う。ブックカバーもそうだが、こういう旅先のショッピングモールのレシートは、とっておきたくなる。

 サンリアを出て、盛駅に向かう。ここはJRと三陸鉄道の駅が隣り合って出来ている。おれ達はJRの側の駅でバスを待っていた。

「三十分に一本ってマジかよ」

「まあ田舎やしな」

「東京と比べるな」

「息ピッタリだなお前ら」

 駅舎内でバスを待つ。盛駅はBRTの終点駅であり、比較的大きな駅舎を持っている。

 数分後、やってきたバスは乗客を降ろし、Uターンしておれ達の待つホームにやってきた。そのままバスに乗って数分揺られ、また大船渡駅に帰ってきた。

 大船渡駅を出るとすぐに、朝に入ったかもめテラスがある。

「お土産買っていこうぜ」

「かもめの卵か、確かに美味かったからなあれ」

「そうだろうそうだろう」

 二人にかもめの卵の美味しさを分かってもらって嬉しいよ。

 お土産を買った後は、夕飯の準備だ。キャッセン大船渡の奥にあるスーパーで、総菜の買い出しをする。

「旅館で食べるスーパーの総菜ってなんかテンション上がるよな」

「静かに食べれるからな」

「あと、窓の外の景色見ながらとかもいいよな」

 おれ達はそれぞれローストビーフ、寿司、オムライスを買い、そのまま帰路についた。佐藤は今度こそ箸を忘れなかった。

 旅館に帰り、服を着替えてリラックスする。まだ夕方で、夕飯の時間ではない。買ってきた総菜を冷蔵庫に入れ、敷き直されていた布団の上に寝転ぶ。

 

 瓦礫まみれの街の残骸、泥に覆われた足場の上、まだ四歳の少年が泣き声を上げ歩いていた。おれはその光景を後ろから見ている。声をかけることは叶わない、かけられたとしても届かないだろうし、かける言葉も持っていない。

 夢だ。それも、飛び切り悪い夢だ。おれはまた、不本意にも眠ってしまったのだろう。まあ、久遠に佐藤もいるから、その点については安心できる。

「パパ! ママ! どこにいるの?」

 少年が声を上げる。声を上げても、返事をする人はいない。少年の声はどこにも届かず、空に消えていく。おれはそんな様子を見ることしか出来ない。彼の肩を叩くことも、手を繋ぐことも、抱きしめてやる事も出来ない。 

彼はおれだ。記憶の奥底へ押しやったはずの、かつてのおれだ。自分で自分を支えることなんて出来ない。

「慶ちゃん!」

 一人の男性が少年に駆け寄る。

「こんなところにいいちゃ駄目だ! 早く避難所に戻ろう」

 男性の口ぶりから察するに、少年は避難所を抜け出してきたのだろう。

「でも、まだパパとママが」

「パパとママを探すのは、大人の人に任せよう。ここは危ない、安全な場所に行こう」

「やだやだやだ! パパとママを探す!」

「慶ちゃん!」

 男性が厳しい顔で少年を りつける。理不尽なことをしてでも連れ戻さなければならない、そんな使命感を帯びた、震えた声だった。

 その時、ぐうぅと、腹の音が鳴って。少年は俯いて黙り込んでしまう。

「ほら、お昼ご飯を食べよう。避難所でみんなが待っているよ」

「うん」

 長い沈黙の後、少年が首肯する。泣きそうな声だ。

 少年が男性に手を引かれて去っていく様を、おれは見ている。少年は何度もこちらを振り返りながらも、やがて坂を上り見えなくなってしまう。少年は去った。でもおれは、彼がまだこの地を彷徨っているように思えてならない。今も、彼は、つまりおれは、彷徨い続けている、荒野と化した街の中を、瓦礫の平原を。

 ふと気配がして、後ろに振り返った。そこには『おれ』がいて、じっとこちらを見つめている。

「随分、分かりやすいのが来たな」

 『おれ』は何も答えない。当然だ、自分と対話することなど出来ない。出来るのは、自分に素直になることだけだ。

 そうして無言の自分を眺めている時、変化は訪れた。目の前にいる『おれ』が老化し始めたのだ。『おれ』は、青年になり、中年になり、そしてヨボヨボの老人になった。

 その姿は、昨日夢に見た老人と、そっくりそのまま同じだった。まさかの一致に、しかし俺は納得していた。つまり、これこそがおれの恐怖なんだ。それは誰もが持っていて、ありふれた恐怖。でもおれはちょっぴり、人よりも臆病だった。

 だから、おれは、死ぬのが怖い。

 

 

 

 パチリと目が覚める。部屋は真っ暗で、かろうじて見える両隣では二人はもう寝ていた。

 どうにかスマホを手繰り寄せて確認した時刻は午前四時。こんなに寝てたのか、通りで瞼が軽い。

 二人を起こさないように静かに起き上がって、伸びをする。目が慣れてきたようで、辺りを視認できるようになった。

 もう一度、眠っている二人を見る。ぐっすりと、何の不安もなく、何の憚りもない、きれいな寝顔だ。うん、これなら、きっとやれる。

 おれは二人に気づかれないように、他の宿泊客を起こさないように、そっと宿を抜け出した。

 

 早朝というにも早すぎる、まだ眠りきっている大船渡の街は、やはり暗く、静かだ。都会に比べて圧倒的に少ない電灯が、頼りなく夜道を照らし、車通りの一切ない車道は、まるで世界が自分のものになったような錯覚をおれに与えた。

 そんなこんなであてどなく大通りを進み、たどり着いたのは昨日の堤防だった。結局ここを選ぶあたり、おれも海の子なんだろう。海辺の柵に手をついて、目を閉じて波の音を聞く。かつては恐怖の象徴だったそれは、今のおれには福音のように思えた。

 そういえば、ふと思う。二人は知っていただろうか、おれが心の中じゃ、関西弁を使っていなかったことを。

 おれは柵に乗り出した。ピンと足を延ばして、体を傾けて、海が近くなって、そして。

 そして、強い力で地面に引き倒された。

「死が」

 まるで持久走を終えた後の様に荒い息を吐いて、そこには久遠が立っていた。

「久遠、お前」

「死が、救済になってはいけない」

「なんで」

「お前を救いに来た」

 おれの問いには耳を貸さず、久遠はそう言い切る。上りかけの太陽が、その背後で輝いていた。

「今晩、寝ずに考えてたんだ。俺はどうすればよかったか、どうすればお前を救えるか。だからお前が出て行ったことにも気づいたし、追いかけることも出来た」

 つまり、おれの行動は筒抜けだったわけだ。

「無理だよ、言葉じゃおれを救えない」

「言葉じゃない」

 言葉じゃないなら、何が人を救うんだよ。その言葉は、口から出ることはなかった。

「お前を救うのは、生活習慣だ」

「は?」

 は? 意味が、意味が分からない、何を言ってるんだこいつは?

「しっかり食べて、しっかり寝る。若いうちは、これで大抵のことは何とかなる。それでもだめなら、病院へ行こう。大丈夫、俺の通ってるところ教えてやる」

「簡単に言ってくれるな」

「簡単じゃないさ」

「そうじゃない! お前は何もわかってない! 眠るのだって簡単じゃないんだ! 人はいつ死ぬか分からない! 寝ている時に心臓が止まるかもしれない! 大災害が起こるかもしれない! 考え出したらキリがない! 全部全部怖いんだよ! もうこんな思いをするのは嫌なんだ! 頼むから死なせてくれ!」

 死を恐れた人間が、それ故に死を望む。なんて皮肉だろうか。笑えない。

「それは極論だろ」

「その極論が怖いんだよ。明日、目が覚める保証がどこにある」

「それは」

 久遠が言葉に詰まる。

「目を開ければ、また新しい今日が始まる。そう信じているから、人はこの世界に立っていられるんだ。だけど、おれは、もう立てない」

 立てないんだよ、久遠。おれは座り込んだまま、言葉を落とした。

「それは、やっぱり震災が原因か?」

「ああそうさ。あの時のトラウマ、PTSDさ。おれだって頑張った、向き合おうとしたんだ。けど駄目だった、どうやったって押しつぶされて、泣いて彷徨ったあの場所に戻ってしまう」

「そうか」

 久遠は言葉を探しているように、顔をしかめている。だから言っただろう、言葉じゃおれを救えない。もちろん、生活習慣でも。

「馬鹿だな、お前は」

「え?」

「向き合う必要なんてないだろ」

 そんなわけない、向き合わなきゃダメだろ。そう伝えるために、顔を上げて久遠を見る。

 その目は、青空のようにどこまでも澄んでいて、もう迷いなんてないって顔をしていた。

「過去と向き合わなくても、前は向ける」

「で、でも、向き合わなきゃ! 決着を付けなきゃ! 囚われたままになる!」

「そんなこと忘れるくらい、笑ってやればいい。よく遊び、よく学び、よく笑う。トラウマなんて思い出す暇もないくらい、忙しく、楽しい人生を送ればいい」

 とんでもないことを言い出した。それが出来れば誰も苦労しない。

「忘れようとしたさ! でも出来なかった! 目をそらすことは出来ない!」

「それは違う。お前は目を閉じていただけだ。見たくないと見ないは違う。受け入れろ。受け入れたうえで、違うものを見るんだ」

 久遠の言葉は、難しいようで、簡単なようで。でもやっぱり難しかった。

「滅茶苦茶だ、そんなの無理だろ。いつか、フラッシュバックに襲われる日が来る」

「その時は、俺達がいる。俺も佐藤も、お前が辛いときはすっ飛んできてそばにいてやる。だから、胸張って生きろ」

 でも、ああ、そんなのって。

「何の解決にもなってない、これじゃただの先延ばしだ」

「それが青春ってやつだろ」

 青春。その言葉には魔力がある。まるで夏の晴天のような、そんな魔力が。だから。

「そうだな、お前の言うとおりだ。おれの負けだよ」

 そう言って、久遠に腕を差し出す。久遠はその腕をとって、おれを立ち上がらせた。

 久遠の顔には照れ隠しのような微笑が浮かんでいる。きっと、おれも同じ表情をしているだろう。

「じゃ、帰るか、って、あ」

「ん? なんだ? って、あ」

 堤防の階段の上、モニュメントの隣に、佐藤が満面の笑みで立っていた。

「よう! 喧嘩は終わったか?」

 タタタっと、佐藤が階段を駆け下りてくる。

「はあぁぁぁ」

「なに溜息ついてるんだよ」

「いや、佐藤に一本取られてちゃ終わりやなと思って」

「なんだと!」

「悪い悪い、揶揄ったわけじゃないねん」

「いやどう考えても揶揄ってただろ!」

「止めろお前らこんなところで」

 たまらず久遠が止めに入る、水田ならいざ知らず、旅行にまで来て喧嘩まがいのじゃれあいは、久遠的にはアウトらしい。さっきガチの喧嘩してたけど。

 そう思いつつも一応謝って、それが上辺だけだと見抜かれて怒られる。この旅行に来てから狂っていた調子が、次第に戻っきているような気がして、つい笑い声が漏れてしまった。

「なに笑ってんだ、まだ話は終わってないぞ」

 真面目くさって腰に手を当てる久遠におかしくなって、さらに笑い声が増していく。

 変なものを見ているような顔の久遠と、おれにつられて笑い始める佐藤。次第に久遠の表情も険が取れてきて、苦笑いをその顔に浮かべるようになる。

 ああ、いつもの三人だ。

 

 

 

「勝手に殺すな!」

 おれは木陰から飛び出して、背中を向けている二人の頭めがけて強烈なビンタをお見舞いした。

「痛ってえ」

「何するんだお前」

 二人が文句を言ってくるが、無視だ無視。

「何がここにはいないあいつだよ、勝手に死んだことにしやがって」

「そりゃお前が遅刻するからだろ」

 痛いところを突いてくる。おれの寝坊癖は、眠剤を飲み始めても変わらなかった。思えば、昔のおれは寝るのが好きな人間だったような気がする。

「いやあ、悪い!」

 両手を顔の前に合わせて頭を下げる。けれど、この遅刻癖だけはどうやっても直せないのだ。不眠だったころの反動だろうか、おれは一度寝たら最低八時間は絶対起きない体になってしまった。

「絶対反省してないだろ」

「いやあ、あはは。まあそれは置いといて、二人も律儀やな、毎年毎年こうやって墓に集まって」

「おい! まあ、いい。約束したからな」

「俺蚊帳の外だったけど」

 墓。そう、おれの墓だ。大船渡から帰ってきたあの日、久遠に提案されたのだ、再スタートの象徴に、生前墓を建てないかと。楽しそうだと思ったおれは一も二もなく賛成し、義両親もそれでふさぎ込んでいた息子が元気になれるならと了承してくれた。今は墓の費用を返すため、バイト漬けの学生生活を送っている。

 あの日から、色々なことが変わった。久遠に紹介された病院で薬をもらって、二人とはそれまで以上に遊ぶ仲になって、勉強も必死にこなして大学にも入れた。時々フラッシュバックが起こることもあるけど、そんなときは二人に電話して何とかしのいでいる。深夜に鬼電される二人に申し訳ないとも思うけど、その分ご飯を奢ったりして還元している。

 辛いことも多い、というか辛いことの方が多い人生だけど、おれはそこそこ幸せにやっている。人生笑ったもん勝ちって言葉は、誰のセリフだったか。おれもその通りだと思う。

 だからこれからも、おれは笑っていようと思う。きっとそれが、過去を覆い隠してくれるから。

「よーし飯行くぞ」

 墓の掃除も終わり、ぐっと伸びをする、

「お前の奢りな」

「もちろんよ」

「お、ラッキー。じゃあ俺天丼な」

「アホか高いわ!」

今日は年に一度の墓参り。名付けてリバースデイ! なんちって。

 

 


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