本編IF
都の米騒動の際に爆発が起きず、尚且つサクナのメンタルが原作よりも弱かった話

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サクナヒメの二次創作が少なすぎる。もっと増えてほしい。
こんな感じのお題を他の人書いてくれないかな

追記、話の色々な描写ちょっと盛りました。


第1話

薄暗い蔵の中。

供物用の灯が僅かに揺れ、蝋燭の炎が米俵の影を歪に揺らしていた。

静寂を破るのは、火が弾ける音と、心臓の音だけ。

 

「ココロワ、これは……」

 

サクナの声は低かった。

手に取った米粒を、じっと見つめていた指先が、震えている。

 

「……わたくしが、流していた米です」

 

揺れる火の明かりの中、ココロワヒメは背筋を伸ばして立っていた。

顔を逸らさず、ただ静かに――声を震わせずに告げた。

 

「真に、お主が……」

 

「はい。間違いなく、わたくしの手によるものです」

 

「なにゆえじゃ……っ!! なぜお主が、このようなことを……!」

 

サクナが一歩踏み込む。

足音が、木の床に乾いた音を落とした。

それだけで、蔵の空気が、ひときわ冷たく感じられる。

 

「――貴方に、都に戻ってきてほしくなかったからです」

 

その言葉は、焼けるように鋭かった。

言葉ではなく、刃だった。

サクナの目が、大きく見開かれる。

 

「っ……」

 

「漸く頂けた御役目を、勤め上げたかったからです」

 

「待て! わしは御役目を邪魔したりせんぞ! むしろ、喜んで――」

 

「貴方に、わたくしの気持ちなどわかりません!」

 

声が、堰を切ったように溢れる。

それは怒りではなく――傷だらけの誇りが、ついに崩れ落ちた音だった。

 

「好きな時に食べて寝て、書を読み笑って、奔放に生きてきた貴方と違い、

 わたくしは……わたくしはずっと、必死に努力を積み重ねてきたのです……!」

 

吐き出すたびに、肺が軋む。

胸の奥の黒い感情が、やっと言葉になった。

 

「なのに、認められなかった……!

 家名に寄りかかり、贅をむさぼる貴方ばかりが、神々の目に映っていた!」

 

火の揺らぎが二人の影をぶつける。

まるで、それぞれの心に積もった時間が、今、ぶつかり合っているかのようだった。

 

ココロワの肩が小刻みに震える。

目は逸らさない。けれど、それ以上近づけば、すべてが壊れてしまいそうだった。

 

「ようやく頂いた御役目なのです。これまで、どれほどこの時を待ち侘びてきたか……

 もう貴方に奪われたくはない。貴方の影に怯えたくは、ないのです……!」

 

言葉の最後が、潰れた。

嗚咽になりかけた感情を、奥歯を噛みしめて飲み込んだ。

 

サクナは、沈黙していた。

目を伏せることも、怒鳴ることもせず、ただ、まっすぐにココロワを見つめていた。

 

しかしその目の奥は、深く澱んでいた。

 

「全部、嘘だったのか?」

 

ぽつりと、呟くように。

それは、責める声ではなかった。ただ、哀しみの重みを含んでいた。

 

「今までの日々は、友情は、全て……嘘だったと、申すのか?」

 

答えられなかった。

答えたくなかった。

 

友情は、確かにあった。それ以上の想いだって――確かに、あった。

でも、それと同じくらい、

わたくしの胸の底には、黒く、ねっとりと沈殿する感情があった。

まるで汚泥のように、心にへばりつき、剥がれない、嫉妬の渦。

 

誰よりも自由で、誰よりも真っ直ぐで、

羨ましくて、尊くて、憎らしくて、怖くて……そして、愛しかった。

 

神々すらも惹きつける、その笑顔がまぶしすぎて、

まるで光に焦がれて堕ちる羽虫のように、その輝きの虜となった。

 

ああ、どうしてこんな感情を抱いてしまったのだろう。

どうして、わたくしはあなたを、まっすぐに好きになれなかったのだろう。

 

ココロワの喉が、ひくりと震える。

言葉が出そうで、出なかった。

いや――言えるはずが、なかったのだ。

 

その様子を見たサクナは、静かに――まるで、季節が変わるような穏やかさで、微笑んだ。

 

「……そうか」

 

火が、ぱちりと弾けた。

 

「違う、わかっておる。お主は最初から裏切ってなどおらん」

 

サクナの声は、どこまでも優しかった。

それが、返って怖かった。痛かった。

 

「何も珍しいことではない。神も人も同じじゃ。

 わしが勝手に近づいて、勝手に親友と思って、勝手に心を寄せていただけなんじゃ。

 他の神々と同じ、上辺だけの付き合いだったということじゃろう」

 

「ち、違……!」

 

「父と母の評判を聞いて近づいてきた神は大勢おった。

 

 皆、最初は親しげじゃ。けれど、徐々に声をかけてくることは少なくなり、やがては……目すらも合わなくなる」

 

「…………!」

 

「でも、ココロワだけは、違うと思っておったのじゃ……」

 

その言葉に、ココロワは胸を抉られた。

涙が出なかったのは、感情が既に擦り切れていたからだ。

 

「お主は、わしが一番寂しかった時に、傍にいてくれた。

 わしと一緒に遊んでくれたっ!

 共に語らい、笑ってくれたっ……!

 

 ……いつも、隣にいてくれた」

 

瞼の裏に浮かんだのは、

小さな笑い声。寄り添って歩いた道。

寄せては返す波の音の中で、ただ肩を並べていた、あの日々。

 

そのすべてが、今や遥か遠くに霞んでいる。

 

「サクナ、さん」

 

その声は、もはや声と呼べるものではなかった。

喉の奥で、かすれるように、悲鳴の寸前でこらえた名だった。

 

ココロワの喉が引き攣り、指先が震える。

視界が涙でにじみ、火の明かりがぼやけて揺れる。

――苦しい。息が、できない。

 

心の奥底を爪でかき回されるような痛みとともに、

言葉にならない後悔が、胸の奥で暴れていた。

 

ふらり、と。

まるで重みを失ったかのように、サクナの体が揺れ、一歩二歩と後ずさる。

一瞬、崩れ落ちるのではと錯覚するほど、危うい揺れだった。

 

そして――そのまま、ぽろぽろと。

言葉もなく、声もなく。

ただ、涙だけが、ひとつ、またひとつと、こぼれ落ちていった。

 

熱もなく、音もない。

まるで、心という器の底が抜けて、すべてが流れ落ちていくような――

諦めにも似た、静かで、深い涙だった。

 

サクナは、その頬を濡らす雫を拭いながら、ゆっくりと口を開いた。

 

「……お主とおると、不思議と寒くなかったんじゃ」

 

その声は、どこまでも穏やかで、どこまでも静かだった。

まるで自分の想いに、別れを告げるかのように。

 

「涙が頬を伝う感触で、目が覚めることもなかった」

 

一つひとつの言葉が、火の明かりに揺れる。

優しさに満ちたその声は、どこか……終わりの香りがした。

 

「無二の友よ、

 例えお主がどう思っておっても、あの日々は、わしにとって何にも代え難い宝じゃった。

 

 楽しかったのじゃ、ココロワ。今まで、本当にっ……」

 

サクナは目を閉じて、しばらくその場に静かに立ち尽くした。

その瞼から、最後の涙がひとすじ流れる。

そして、サクナは静かに、深く、頭を下げた。

 

「今まで付き纏って、本当に、すまなかった。

 本心を語ってくれて、ありがとう」

 

しばしの沈黙。

火が揺れ、また、静まる。

 

そのあと、サクナは――

とても静かな声で、淡々と、けれど決然と告げた。

 

「今まで迷惑をかけた詫びじゃ……カムヒツキ様には、わしが犯人だと、そう伝えておくぞ」

 

――駄目だ。それだけは絶対に駄目だ。

ココロワは、心の中で絶叫していた。

 

このまま、サクナさんを放置してはいけない。

私の罪を、彼女に、こんなにも重い罪を背負わせてはいけない。

 

ふと、気づけば手が――

震える指先が、無意識にサクナの方へと向かっていた。

 

「待って!!」

 

その声は、途切れがちで、震えていた。

でも、それでも、必死に手を伸ばす。

 

しかしそれは空を切り――

届かなかった。

 

ココロワは指先が空気を掻き分けるのを感じながら、ただ静かに、震えながらその場に立ち尽くした。

体中が震えているのに、目の前の光景がまるで他人事のように遠く感じられた。

 

「お主は御役目を、しっかり勤め上げるのじゃぞ――」

 

それきり、サクナは振り返らなかった。

火の中を裂くように、ココロワの手が空を切る。

サクナの姿は、すでに蔵の戸口の向こうへ――

その影も、声も、光の外へと消えていった。

 

 

***

波の音が遠くから聞こえていた。

夏の終わり、風にそよぐ稲穂は金色に染まり、陽光に反射してきらめいている。

 

――まるで、何事もなかったかのように。

 

港に舟が一艘、音もなく着いた。

 

乗っていたのは、ひとりの神。

青い衣に包まれた細い体。背中にからくりの歯車を背負い、その瞳には――赦されぬ罪。

 

「……サクナさん」

 

白くて細い指を胸元で組みしめる。

その声は、揺れる風よりもかすかだった。

 

現れたのは、いつも通りのサクナヒメだった。

陽に焼けた頬、どこか無邪気で飾り気のない笑顔――そして、あの人懐っこい声。

 

「おお、ココロワではないか! よく来たのう!」

 

「……っ、あの、サクナさん……」

 

「ん? どうした、顔が真っ青じゃぞ。舟酔いか?」

 

「……違います。その、謝罪を……させて、ください。

 許してくれなどと……言うつもりっ…は、ありません……」

 

ココロワは膝を折ろうとした。

けれど、その前に。

 

「謝罪? 何のことじゃ?」

 

サクナの声が、まっすぐに降ってきた。

 

戸惑いの混じった声音。

けれど、それは責めではなかった。拒絶でも、怒りでもない。

 

――ただ、純粋に「知らない」という声音だった。

 

「サクナさん……。あの時、都で……米に混ぜ物をしたのは、

 わたくしが……貴方を妬んで、陥れようとして……っ、本当にっ…申し訳――」

 

膝が地につく前に、サクナの顔が見えた。

その瞳に浮かぶのは、純粋な困惑だけだった。

 

まるで、本当に――なにも、覚えていないような……

 

「……えっと、それは……何の話じゃ?」

 

笑ってすら、いた。

 

そう、“普通の再会”として、彼女はそこに立っていた。

罪を告げられたにもかかわらず、怯えるでもなく、疑うでもなく、

ただ、自然体で、心から――わたくしを迎え入れていた。

 

その光景に、思考が固まる。

時間の流れが、止まる。

 

(……嘘、でしょう?)

 

震える心の奥で、声にならない叫びが渦巻く。

 

「っ……!」

 

ココロワの口元が、ひくりと震えた。

 

今ここにいる彼女は、すべてを忘れたように、穏やかだった。

穢れも怒りも、後悔すらもなく、

ただ――

 

「そなた、疲れておるのではないか? 海路は荒れておるし、荷も重かったろう。

 まずはわしの屋敷で休むとよいぞ!」

 

ぐい、と腕を取られ、何の躊躇もなく歩き出す。

“何か重大な告白をされた”という空気が、一切存在しない。

優しさだけが、そこにあった。

 

(どうして……どうして……)

 

わたくしの罪は、どこに行ったのか。

わたくしが壊したものは、

――本当に、なにも、残っていないのか?

 

ココロワの頭の中が、きしきしと音を立てて回る。

 

(違う……待って……そんなはずは……)

 

胸が、どうしようもなく、嫌な予感で満ちていく。

だって――これは、忘れられるような話じゃない。

無かったことにできるような物ではない。

 

神の都から、永久に追放されるほどの罪だったはずで。

 

わたくしが語った言葉、あの蔵で見た瞳。

あの時の火の明かり、息遣い、声の震え――

どれも、まぎれもない現実だったはずだ。

 

――サクナさん、本当に……何も覚えていらっしゃらないのですか……?

 

その現実が、頭では理解できず、心では拒絶できず、ただ、じわりじわりと喉を締め上げてきた。

 

***

その夜、ヒノエの空は静かだった。

虫の声も、風のざわめきも、何もかもが遠くに聞こえる。

 

屋敷の一室――

膝を折り、畳に座したまま、ココロワは一歩も動けなかった。

 

目の前には、皆と談笑するサクナさんの笑顔。

優しくて、変わらなくて、あまりにもいつも通りで。

 

あまりにも、現実感がない。

 

(……夢、だったのでしょうか)

 

喉の奥で呟く声すら、他人のもののようだった。

 

脳裏に浮かぶのは、あの灯り。

あの揺れる影。

そして――“さようなら”を告げるような微笑み。

そのすべてを、わたくしは――確かに、覚えている。

 

(……夢じゃ、ない。夢なはずが、ない)

 

だけど、それでも思ってしまう。

 

(もしかして……わたくしの妄想だったのでは?)

 

(あんなにも笑ってくれる。

 声をかけてくれる。

 “親友じゃ”と――)

 

――“親友”。

 

その言葉だけで、胸の奥が痛んだ。

罪を重ねたわたくしには、もはや呼ばれる資格などなかったはずなのに。

 

「……あなたの声は、どうしてこんなにも優しいのですか」

 

ふと漏れた声が、自分でも驚くほど弱かった。

まるで、過去の自分に縋るような言葉だった。

目の奥が熱くなる。

だめだ。泣くつもりはなかったのに。

 

「夢なんかじゃない……

 わたくしは、あの日……

 本当に、あなたを――傷つけたのです……」

 

畳に、涙がぽとりと落ちる。

今さら何を嘆いたところで、あの日の言葉も、罪も、もう――取り消せない。

 

けれど。

 

(ならば……なぜ、あの人はあんな顔を……)

 

記憶の中では、彼女は泣いていた。

酷く、壊れそうなほどに。

 

わからない。

本当に、わからない。

 

(なのに……どうして、わたくしだけが……あの日に取り残されているのですか)

 

膝の上で組んでいた手に、力がこもる。

その時、障子越しに、老いた声が響いた。

 

「ココロワヒメ様、少しよろしいですかな?」

 

***

夜の屋敷裏。

星々のまたたきすら遠く感じるほど、空気は冷えていた。

けれど、それ以上に凍りついていたのは、ココロワの胸だった。

ただ一言、それだけの問いかけが、喉を焼くように重かった。

 

「……なぜ、サクナさんはあのことを……?」

 

「……」

 

老いた剣霊は、しばしの沈黙のあと、言いにくそうに口を開いた。

 

「おひいさまは――記憶を封じられました。ご自身の術で、です」

 

「記憶を……」

 

「はい。都で罪を被り、永久追放を受けた直後――

 自身の記憶から、“あの事件”を完全に消されたのです」

 

「…………っ」

 

言葉が、喉に詰まった。

崩れ落ちそうな意識を、歯を噛んで繋ぎとめる。

 

「わたくしは問いました。“なぜ、そのようなことを”と」

 

たま爺は、夜空を見上げた。

 

「おひいさまは、こう仰いました」

 

『このままでは、わしがココロワを憎んでしまう。

信じることも、笑い合うこともできなくなる。

それは――イヤなんじゃ。わしが、わしでなくなってしまう。なら、忘れた方がいい。

 

もし、ココロワがまた訪ねてきてくれたなら――

わしはまた、笑って迎えたいのじゃ』

 

「…………」

 

記憶という最も神聖な領域に、自らの手で蓋をした。

それは、優しさなどという言葉では足りなかった。

それは、自らを“壊してまで”、相手を赦そうとする――愛の形だった。

 

「ココロワヒメ様……

 おひいさまが記憶を封じたのは、貴女を守るためだけではない。

 あれは、“自分の心”を守るためでもあったのです。

 それほどまでに、貴女様のことを――深く想っていたのでしょうな」

 

ココロワは、唇を押し当てた指を、無意識に震わせた。

 

その言葉が、どれほど苦しかったか。

自らの記憶を失うことでしか、“わたくし”を愛せなくなるという事実。

 

「おひいさまは、貴女を憎むくらいなら――“何も知らぬ親友”に戻る道を選んだのです」

 

ココロワは唇を噛んだ。肩を震わせる。

それは涙ではなかった。泣くには、あまりにも、惨くて。

 

「……優しい人、ですね。……サクナさんは、いつも……」

 

声が震え、ひび割れていた。

視界が滲み、足から力が抜け、崩れ落ちそうになる。

言葉の先が、涙になりそうだった。

けれど、泣けなかった。泣いてはいけなかった。

 

泣くということは、あの人が背負った痛みから目を逸らすことだから。

 

「――わたくしが壊したのは、あの人の“記憶”ではなかったのです」

 

ポツリと、ココロワは呟いた。

 

「わたくしが踏みにじったのは……

 “信じたい”という心であり、“共にいたい”と願った想いであり、

 ――サクナさん自身、なのです」

 

自分の罪が、どれほど重いか。

どれほど、取り返しのつかないことをしたのか。

 

赦されなかったのではない。

赦すことすら放棄させてしまったのだ。

罵倒すらしてもらえなかった。怒ることも、拒むこともなかった。

それほどまでに、わたくしはあの人を――深く、絶望させてしまったのだ。

忘れることでしか関係を保てなかった。

それが、すべてを物語っていた。

 

後悔では足りず、懺悔では癒えぬ。

ならばこの傷は、わたくし自身が引きずって歩くしかない。

 

「……それでも、笑って迎えてくださった」

 

ココロワの視線が、屋敷の奥に向いた。

そこには今も、無邪気に笑う“親友”がいる。

だが、あの笑顔は、何も知らない笑顔だ。

 

もう、彼女の中には“わたくしの罪”は存在しない。

だとすれば、この罪と痛みは――永劫、わたくしひとりのもの。

あの日の言葉も、あの瞳も、あの別れも。

すべて、わたくしの体に焼きつけたまま、生きていく。

 

それは、贖罪ではない。

許しを請うでもなく、赦されるためでもない。

――償うための、生き様そのもの。

 

「たとえ、“親友”という言葉に、心が切り裂かれても……

 たとえ、もう二度と、わたくしの想いを告げられなくても……

 それでも、あの方の隣に在るために――」

 

祈りよりも深く、呪いよりも静かに――ただ一人の神を想う、鋼の決意。

 

「わたくしは、サクナさんに“微笑み殺される”覚悟で、生きます」

 

その言葉は、凪いだ夜空に散っていった。

まるで、星がひとつ堕ちたあとの、誰にも届かぬ祈りの残響のように。

 

たま爺は何も答えなかった。

ただ、星の流れたその先を、長く長く――見送っていた。

 

***

「のう、ココロワ」

 

「……はい?」

 

その声音に振り向けば、サクナがいつものようににかっと笑っていた。

それは、陽光のように無垢で、変わらぬ“親しみ”だけを湛えた笑顔。

 

「お主が来てくれて、本当に嬉しいのじゃ。皆も喜んでおるし、わしも作業が捗る!」

 

「……はい。そう言っていただけて、嬉しいですわ」

 

「脱穀機の改良も、お主がいてくれたからこそじゃからの!」

 

ココロワは、そっと微笑んだ。

 

 

けれどそれは、静かにひとつの願いを飲み込む笑顔。

“親友”と呼ばれるたびに、胸の奥がきしきしと軋んだ。

 

「ふふ、なんじゃ? 顔が赤いぞ。風邪でも引いたか?」

 

「……いえ。なんでもありませんわ」

 

あどけなく伸ばされた指が、そっと頬に触れた。

それだけで、胸が焼けるように苦しくなった。

小さく、柔らかいこの手は、あの涙を拭っていた手と、同じなのだ。

 

「そうか。じゃあ、今日は休み時間に少し茶でも飲もう。

 そういえば、最近朧月香子の新作が出ておらんくてな……」

 

その名を聞いた瞬間、

心臓がぴたりと止まったような錯覚に襲われた。

 

朧月香子――

サクナが愛してやまない物語を綴る、もうひとつの“わたくし”。

その筆は、かつてサクナを傷つけた、この手で動いている。

 

かつて、わたくしは告げようとしていた。

貴方に恋をしていると。

太陽のように明るく、すべてを照らすその笑顔に、

どうしようもなく惹かれているのだと。

 

けれど、言えなかった。

その想いがあまりにも大きすぎて、言葉にすることが恐ろしかった。

 

だからわたくしは、物語の形を借りた。

誰にも届かぬ片恋を筆に、すべてを封じ込めたのだ。

 

けれど、それはもうできない。

“何も知らない貴女”に向かって、わたくしの都合だけで愛を投げるなど、あまりにも卑怯すぎる。

なのに、願ってしまうのだ。

 

もし、もしも……

“今のわたくし”に、貴女が恋してくれるのならば、その時は――と。

 

その願いが、どれほど醜く、どれほど罪深いか。

わかっている。

それでも、胸の底から捨てきれない。

 

「っ……」

 

「む? なんじゃ? わし、また変なこと言ったか?」

 

「……いいえ。変わらず“親友”でいてくれますのね、貴方は」

 

「ん? なにを当たり前のことを。

 わしは、優しくて聡明なココロワのことが好きじゃ。一番に信頼しとるぞ!」

 

――その“好き”には、何の偽りもない。

何の下心もない、無垢な信頼の証。

 

それが、どれほど残酷か。

それが、どれほど――愛しかったか。

 

「サクナさん。……親友でいてくれて、ありがとうございます。

これからも……ずっと、貴方の“親友”で、いさせてください」

 

「何を言うておる。どのようなことがあろうと、ワシとお主はずっと親友じゃ!」

 

ココロワは、もう何も言わなかった。

微笑みだけを残して、静かに視線を落とした。

 

 

***

「ココロワ、そこはどうじゃ? ちゃんと動くか?」

 

「はい。調整済みですから、強く踏み込んでも大丈夫です」

 

サクナは満足そうに頷き、ふいににかっと笑った。

 

「ほほう! さすが、わしの親友じゃ!わしも鼻が高いぞ!」

 

その言葉が、空気を揺らした。

優しさに満ちた、何のてらいもないひとこと。

けれど、それは――わたくしの胸の奥に深く沈む刃だった。

 

「……はい、光栄ですわ」

 

笑顔で応えるのは、もう慣れていた。

けれど、その裏でどれほど、胸の中が軋んできたか。

 

──親友。

 

その響きは、今のわたくしにとって、

最も嬉しくて、最も耐え難い呼び名だった。

その言葉を耳にするたび、あの日が蘇る。

蔵の中、サクナさんの声が震え、涙を堪えながら、わたくしを見ていたあの目を。

 

「裏切ったのではない」と言いながら、

それでも確かに、深く傷ついていた眼差しを。

 

目に、耳に、頭に焼き付いて離れない。あの日、わたくしが切り裂いた信頼の断片は、今もくっきりと脳裏に残っている。

けれど、今のサクナさんは――その日を知らない。

わたくしが何をしたかも、何を言ったかも。

あの蔵で、言葉を詰まらせた罪の瞬間すら、もうどこにも残っていない。

 

すべてを忘れた貴女は、今も、変わらぬ笑顔で、

わたくしを“親友”と呼ぶ。

 

それが、どれほど優しくて、どれほど残酷か――

この世でもっとも、美しくて、尊くて、刺すような笑顔。

 

「のう、次の改良案じゃが……」

 

サクナの声にうなずきながら、心の奥で、小さな声が叫んでいた。

 

(どうして……こんなにも優しいのだろう。どうして、こんなにも――)

 

その笑顔の中に潜む優しさが、次第にわたくしを飲み込んでいく。

優しさが、まるでナイフのようにわたくしを切り刻んでいく。

触れるだけで心が裂けて、痛みしか残らない。

 

(ああ、いっそ死んでしまえたら、どれほど楽になれるのでしょうか)

 

その思いが胸に湧き上がり、のど元までこみ上げてきた。

死にたいなんて、口に出すこともできないのに、どうしてこんなにも、心が壊れていくのだろう。

誰もが見ているのに、この深い闇を――誰にも理解されないこの痛みを、ただ黙って飲み込んで生きていくしかない。

心が、もう、音を立てて壊れそうだった。

 

その問いに、答える者は誰もいなかった。

けれど、きっと答えなど最初から決まっていたのだろう。

それが、サクナさんという人だから。

わたくしが壊してしまったのに、それでも変わらない、優しさのかたち。

 

その優しさが、わたくしの心を、ゆっくりと確実に殺していく。

 

****

夜。

縁側で、月を見上げている。

あの日の夜と同じ月だった。

あの月の下で、わたくしは何をしていたのだろう。

あの月に照らされて、どれだけのことを見失ったのだろう。

 

誰もいないところでしか、わたくしは本音を出せない。

誰にも見られない夜の中で、ようやく出せる、心の隅に閉じ込めた言葉。

その言葉が、今、わたくしの中で静かに弾けようとしている。

 

「……はぁ……」

 

田の仕事、狩りの補佐、道具の修理。

わたくしは毎日、毎日、働いている。手を抜かず、精一杯。

 

それでも、それだけじゃ足りない。

この罪を贖うには、一生をかけても足りないのだ。

 

「……もっと、もっと役に立たなければ……」

 

独り言を呟いて、掌を見つめた。

サクナさんの心を汚したのは、わたくしだった。

 

「……サクナさん」

 

忘れられてなお、抱きしめられるたびに、心が泣いていた。

 

「あなたに微笑まれることほど、残酷なものはありませんわ……」

その言葉は、誰に向けるでもなく、ただ吐き出すように呟かれた。

夜の静寂の中に溶けていく。

その痛みが、どうしようもなく心の中で膨れ上がり、

それでも、逃げられない。

 

気を抜けば、心臓が止まってしまいそうになる。

脳を直接撫でられたような気になる。

胃の中の物を、吐き出してしまいたくなる。

氷のように冷えた汗が滲みだし、勝手に体が震えだす。

 

「でも……」

 

唇が震え、言葉が喉で詰まる。

それでも、絞り出すように紡ぐ。

 

「それでも、貴方が隣で笑ってくれるなら、

 わたくしは、赦されずに生きてみせます」

 

この場所に、もう一度戻って来れたことに、責任を果たす。

貴方だけの為に、自分の全てを捧げる。

 

唇が、わずかにほころぶ。

その笑みは、涙を閉じ込めたまま生まれたものだった。

風が吹いた。

田の稲がざわつき、秋の気配が空を撫でる。

その風の中、ココロワはまっすぐに空を見上げた。

わたくしは、ここにいる。

貴女が忘れても、わたくしは覚えている。

 

これが、わたくしの――

 

「永遠の、贖罪です」

 

 

 

***

稲刈りの季節が来ておった。

空は澄み、風は涼しく、ようやく汗も乾きやすくなった。

この季節になると、毎年同じようなことを感じる。

しかし、今年は少し違っている気がした。

 

わしは今日も田に出て、ココロワと一緒に道具の整備をしておった。

いつも通り。ほんに、いつも通りじゃ。

 

「またしても失敗かのぅ……」

 

「ふふっ、そう落ち込まなくても。少しずつ改善していきましょう」

 

その笑顔が、なんだか少し――痛々しく見えた。

いや、やっぱり気のせいじゃろう。ココロワはいつも優しいし、完璧なのじゃから。

けれど、たまに、ふと思うんじゃ。

笑ってくれているのに、何かを我慢しているような気がする。

それが、なんとも不安でならん。

 

わしの方がふざけすぎたか?

いや、そんなに悪ふざけもしておらんはずじゃ。

いつも通りの、わしらしい態度、わしらしい振る舞い。

けれど……たまに、ふとココロワの笑顔が遠くに見えることがあるんじゃ。

ほんの一瞬だけ。風が吹いたときとか、日差しが傾いたときとか。

その瞬間に、わしは不意に感じるんじゃ。

 

――まるで、わしが届かんところで、独りで泣いとるような顔をしておる。

 

「なぁ、ココロワ」

 

「はい?」

 

「……なんでも、ないのじゃ」

 

ほんの一瞬、尋ねかけようとして――やめた。

理由は、自分でもよくわからん。

ただ、背が栗立つような、強烈な寒気が襲ってきた。

もし聞いてしまったら、何か、とても大切なものが壊れてしまう気がした。

その瞬間が、怖くてたまらんかった。

 

わしは、ココロワと一緒にいるのが嬉しい。

だから、楽しい話をしたいし、おかしな話で笑いたい。

わしが失敗しても、彼女が笑ってくれるだけで、元気をもらえるんじゃ。

でも、たまに思うんじゃ。

「もしかして、ココロワは、わしに何か隠しておるんじゃないか?」

いや、考えすぎじゃ。きっと、そんなことはないじゃろう。

けれど、心のどこかに引っかかるんじゃ。ひっそりと、棘のように。

 

――もしかして、わしは……何か、大事なことを忘れているのではないか?

その思いが、頭の隅をよぎる。

言葉にはできない、この不安が、わしの心に濁流のように押し寄せる。

ふと、風が吹いた。

わしは一度目を閉じ、空を仰いだ。

そして、無意識に息を吐いた。

 

「ココロワ、いつもありがとうな」

 

「……はい」

 

その返事の声が、どこか――遠かった。

でも、わしは何も聞けなかった。

だって、笑ってくれる。

一緒にいてくれる。それだけで、充分幸せなんじゃ。

 

「……楽しいなぁ、今日も」

 

独り言のように呟いた言葉に、ココロワはすぐに頷いてくれた。

 

「……ええ、本当に」

 

でも、風に流されたその声は――どこか、泣いていた。

その涙を、わしはまだ気づかない。気づきたくないのかもしれない。

けれど、その音も、わしの耳には届いている。

無自覚に、心の中で、ココロワの涙を拒絶している気がする。

そのことに気づきたくないから、わしはまた目を閉じる。


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