俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ   作:最高司祭アドミニストレータ

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橘「夢じゃ、なかった…」


王冠の重みは胃に来る - (橘圭一 視点)

 意識が深海から浮上するように、ゆっくりと戻ってくる。鼻腔をくすぐるのは無機質な消毒液の臭いと、それに混じる強烈な花の香りだ。橘圭一は重い瞼を閉じたまま、思考を巡らせた。

 

 夢だ。これは、夢に違いない。目を開ければ、そこは自宅の天井で、傍らには読みかけの漫画と飲みかけの缶ビールがあるはずだ。今日は、非番で泥のように眠り続けることができる、平和な一日なのだ。

 

 そうに決まっている。そうでなければならない。橘は祈るような気持ちで、恐る恐る薄目を開けた。一筋の光が網膜を刺す。視界がクリアになるにつれて、そこに映し出されたのは、残酷すぎる現実だった。

 

 

「隊長…♡」

「起きた! 隊長が起きましたよ!」

「バイタル安定。意識レベル正常。おはようございます…私の神様」

 

 

 視界いっぱいに広がる、三つの美貌。黒澤麗奈、赤城陽菜、白石雪乃。彼女たちが至近距離から、橘の顔を覗き込んでいる。その距離はあまりに近く、吐息がかかるほどだ。

 

 そして、彼女たちの背後には、壁が見えないほど大量の胡蝶蘭が積み上げられている。白やピンクの大輪の花が部屋を埋め尽くす様は、まるで花屋の開店セールかあるいは豪華な葬儀場のようだった。

 

 

(知ってた。知ってたけどさぁ! 何この状況! 花粉でむせるわ! 酸素より花の匂いの方が濃いぞ!)

 

 

 橘は内心で絶叫した。夢ではなかった。あの地獄のようなテロ事件も誘拐劇も、すべて現実だったのだ。

 

 

「良かった…。本当に良かったですわ」

 

 

 麗奈が涙ぐみながら、橘の手を握りしめる。その力は強く爪が食い込んでいる。

 

 

「心配しましたよー! 隊長が死んじゃったら私、誰を担げばいいか分からなくなっちゃいますもん!」

 

 

 陽菜が無邪気に笑う。担ぐ前提なのが恐ろしい。

 

 

「…記録完了。隊長の覚醒時の瞳孔の開き具合…保存しました」

 

 

 雪乃がタブレットを操作する。プライバシーなど最初から存在しない。橘が何かを言おうと口を開きかけたその時、病室のドアが勢いよく開かれた。

 

 現れたのはこの国の警察組織における二人の巨頭。警視総監と、父•橘厳一郎だった。二人は満面の笑みを浮かべて、ベッドに歩み寄ってくる。

 

 

「おお! 気がついたか橘警視!」

 

 

 総監が大きな声で呼びかけ、橘の手をガシッと握りしめた。橘の思考が停止する。

 

 

(警視? 俺は警部だったはずだが)

 

 

「君の勇気ある行動と見事な指揮能力に敬意を表し、本日付で特例措置として…二階級特進とする!!」

 

 

 総監が高らかに宣言した。二階級特進。それは通常、殉職した警官に与えられる名誉だ。生きている人間に適用されるなど、前代未聞だ。

 

 だが、恐怖の本番はここからだった。

 

 

「さらに! 君が率いる『特四』の実績を鑑み、本日付で特四を臨時編成から、正式な常設部隊へと昇格させる!」

 

 

 総監の言葉に三人の部下たちが歓声を上げる。橘の顔色が青ざめていく。常設。つまり、解散はないということだ。

 

 

「そして橘警視! 君を特四の『永年隊長』に任命する! 定年まで…君が望むなら、死ぬまでこの国の治安を最前線で守り続けてくれたまえ! 君の代わりはいないのだから!」

 

 

 永年隊長。その言葉が重い鉄槌となって、橘の頭蓋骨を粉砕した。終身刑だ。これは栄転などではない。無期限の懲役判決を言い渡されたに等しい。内勤に戻る夢も南の島で隠居する夢も、すべてが木っ端微塵に吹き飛んだ。

 

 

「おめでとう圭一」

 

 

 厳一郎が感涙を堪えながら何度も頷いている。その目は「よくやった」「逃がさんぞ」という、二つの意味で輝いていた。

 

 

「これで、お前は日本の治安を守る要石となったのだ。もう逃げることは許されんぞ。国民が、世界がお前に期待しているのだ」

 

(永年ってなんだよ! 刑期か!? 俺はいつになったら、普通の事務仕事に戻れるんだよ! 要石って人柱のことだろ!?)

 

 

 橘の頬が引きつる。拒絶したい。「嫌です」「無理です」「辞めます」と叫びたい。だが、周囲の空気はそれを許さない。

 

 総監の期待、父の圧力、部下たちの狂喜。それらが幾重にも重なり、橘の喉を締め上げている。彼の口は長年の習性に従い、自動的に模範解答を紡ぎ出してしまった。

 

 

「光栄です。身命を賭して務め上げます」

 

 

 その言葉が、自らの首を絞めるロープになると知りながら。総監と父は満足げに頷き、多忙な公務へと戻っていった。嵐のような祝福が去り、病室には再び四人だけが残された。

 

 部下たちが改めて橘を囲む。その瞳の色が変わった。上司を敬う目ではない。所有物を確認する目だ。逃がさないという確固たる意志が、その瞳の奥で揺らめいている。

 

 

「一生お仕えしますわ。私の王」

 

 

 麗奈が妖艶に微笑む。その背後には、「死んでも離しません」という幻聴が聞こえる。

 

 

「ずっと一緒ですね! 隊長! トイレもお風呂も一緒ですね!」

 

 

 陽菜が無邪気に恐ろしいことを言う。彼女にプライベート空間の概念はない。

 

 

「…」

 

 

 雪乃は無言で、一枚の書類に何かを記入している。チラリと見えたその用紙には、「婚姻」という文字が見えた気がしたが、橘は強く目を閉じて見なかったことにした。

 

 

(ああ…詰んだ)

 

 

 橘は悟った。完全に詰んだ。俺はこの先、定年退職するその日まで、それどころか死ぬまでこいつらに飼い殺されるんだ。

 

 

 栄光? 

 名誉? 

 

 

 違うね。これは無間地獄だ。きらびやかな装飾が施された、出口のない迷宮だ。

 

 

「お祝いしましょう隊長!」

 

 

 陽菜が、どこからか持ってきた祝杯用のシャンパンを開けた。

 

 

 ポンッ! 

 

 

 小気味よい音が室内に響く。だが橘には、その音が手錠がロックされる「カチャリ」という音にしか、聞こえなかった。注がれた琥珀色の液体。ノンアルコールのはずだが、今の橘には猛毒に見える。

 

 彼は震える手でグラスを受け取った。三人がグラスを掲げる。その笑顔は美しく、そして絶望的に怖かった。

 

 

「乾杯!」

 

 

 彼女たちの声が重なる。橘は引きつった笑顔でグラスを合わせた。

 

 

(乾杯…)

 

 

 己の終わった人生と、これから始まる地獄の日々に。橘はグラスの中身を一気に飲み干した。炭酸が喉を焼く。その痛みだけが、彼が生きて地獄に落ちたことを実感させてくれる、唯一の感覚だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 季節が巡り、また一つ橘圭一の胃に穴が開く頃。新装された特四隊長室は、無駄に広くなっていた。父のポケットマネーと警察の予算が潤沢に注ぎ込まれた結果床には、イタリア製の高級大理石が敷き詰められデスクは最高級のレザー張りになっていた。

 

 そこに座る男の表情は、以前にも増して死んでいた。

 

 橘圭一は、デスクに突っ伏していた。その背中からは、哀愁という名の煙が立ち上っている。変わったものといえば、部屋の豪華さだけではない。机の上に積み上げられた、書類の山。その高さは、以前の倍以上になっていた。

 

 

『テロ対策報告書』

『メディア取材の申し込み』

『一日警察署長依頼』

『ファンレター』

 

 

 

 英雄になった代償としての、膨大な事務作業。ファンタジー小説並みの嘘報告書を書くスキルだけが、日々向上していく。

 

 そして、デスクの端に置かれた常備薬。以前は市販の胃薬だったが、今は違う。病院で処方された強力な精神安定剤と胃粘膜保護剤、更には睡眠導入剤のセットが鎮座している。薬の量と強さが、ランクアップしているのだ。これが英雄の証かと思うと泣けてくる。

 

 更に、その横には異様な存在感を放つ物体がある。昼食の時間だ。

 

 麗奈が作った三段重ねの重箱。中身は高級食材をふんだんに使った懐石料理だが、一段ごとに「愛」という文字が海苔や人参で描かれている。

 

 陽菜が持ってきた鍋ごとの豚汁。寸胴鍋だ。どう見ても十人前はある。

 

 そして雪乃が調合した、謎の粉末とサプリメントの山。「隊長の遺伝子レベルに合わせた最適解です」と言っていたが、色が毒々しい紫なのはなぜなのか。

 

 ドアが開く。ノックはない。いつもの三人が入ってくる。

 

 

「隊長♡ 今夜のスケジュールの確認を。会食の後はフリーですわね。でしたら私の部屋で、アロマオイルマッサージなどいかがです? 全身くまなく、ほぐして差し上げますわ♡」

 

 

 麗奈が艶っぽく迫る。その目は「ほぐす」以上のことをする気満々だ。

 

 

「隊長! 今度の訓練、実弾使ってもいいですか!? ロケットランチャーのおかわり欲しいです! 都庁の時みたいにドカンとやりたいです!」

 

 

 陽菜が物騒な要求をする。彼女の中であのテロ事件は、「楽しかったイベント」として処理されているらしい。

 

 

「…隊長。PCのセキュリティ強化しておきました。ついでに検索履歴も、全てバックアップ済みです。昨夜ご覧になっていた、『グラビア』のページも保存しておきました♡」

 

 

 雪乃が無表情で告げる。公開処刑だ。俺の性癖がデータベース化されている。橘は薬を水で流し込みながら、死んだ魚のような目で遠くを見た。

 

 窓の外には平和な東京の空が広がっているが、この部屋の中だけは世紀末だ。

 

 

(何も変わっちゃいない。より悪化してる)

 

 

 橘は心の中で嘆いた。英雄になれば、少しは自由になれるかと思った。

 

 だが、逆だった。

 

 注目されればされるほど、彼女たちの独占欲は強まり、監視の目は厳しくなる。プライバシーは死滅し、命の危険は日常化し、胃壁は限界突破した。もはや胃薬が主食で、飯がサプリメントのようなものだ。

 

 

 プルルルル。

 

 

 内線電話が鳴る。この音を聞くだけで、心臓が縮み上がるパブロフの犬状態だ。橘は恐る恐る、受話器を取った。

 

 

「はい。特四隊長橘です」

『私だ。圭一』

 

 

 父の声。相変わらずの上機嫌だ。

 

 

『また面白い事件が入ったぞ。国際的なハッカー集団が国家機密を狙っているらしい。お前の部隊にうってつけだ。期待しているぞ』

 

 

 面白い事件とは、すなわち厄介事の婉曲表現だ。またか。また死地に送るのか。

 

 

「…了解いたしました。直ちに取り掛かります」

 

 

 拒否権はない。レールの上を走り続けるしかないのだ。橘は受話器を置き、深く長く溜息をついた。肺の中の空気を全て入れ替えるほどの深いため息。

 

 彼は立ち上がり鏡の前に立った。顔を作る。頬の筋肉を上げ目尻を下げ、慈愛と威厳に満ちた表情を作る。聖人の微笑み。この仮面だけが、彼を守る唯一の盾だ。

 

 

(…やるしかない。だって俺は英雄になっちまったんだからな)

 

 

 橘は鏡の中の自分に言い聞かせた。逃げ場はない。生き抜いてみせる。この猛獣たちを従え(従わされ)、父の期待に応え(誤魔化し)、世間の称賛を浴びる(勘違いさせる)。

 

 それが、橘圭一の生きる道。

 

 

(あーあ。誰か俺をここから誘拐してくんねえかなぁ!! 二度とな!!)

 

 

 心の中で盛大に絶叫し本音を吐き出す。だが、その顔には完璧な笑顔が張り付いている。

 

 橘は涙目で、しかし力強く一歩を踏み出した。地獄のような隊長室の扉を開け放つ。そこには今日も今日とて、新たなトラブルと愛と狂気が待っている。

 

 

「出動だ!」

 

 

 英雄の声が響く。彼の胃痛の歴史はまだ終わらない。そして、これからも永遠に続いていくのだろう。

 

 伝説という名の美しい檻の中で。




拙作「俺以外が死んでもどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ」、これにて無事完結となります!

連載開始から半年。執筆を始めた当初は、この壮大な物語を、本当に最後まで描き切れるのか、風呂敷を畳み切れるのかと、不安でいっぱいでした。しかし、まさかこうして最終話まで全力で走り抜け、完結の瞬間を迎えられるとは…正直なところ、作者自身が一番驚いており、夢のような心地です。

執筆を進める中で、物語は私の想定を超えて動き出しました。まさかここまでカオスで、熱く、そして面白い展開になるとは!

皆様、この長い旅路を楽しんでいただけたでしょうか?

私は今後も、筆を止めることなく、また新たな世界を創造していこうと思います。至らない部分も多々あるかと思いますが、これからもどうぞ温かく見守っていただければ幸いです。

本当にありがとうございました!
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