そんな彼女が休日の予定を聞いた相手は、かつての担当トレーナーだった。
「トレちゃんさ、今度の休日暇?」
突然の訪問依頼に戸惑いながらも、断り切れず再び始まるふたりの時間。
シアタールームで交わされるのは、懐かしい映画の感想、過去の思い出、そして、いまの距離。
大人と子供、教師と生徒、ウマ娘とトレーナー——
越えてはいけない境界線に揺れる気持ちと、それでも伝えたい想い。
甘さと切なさが交錯する夜を越え、二人はそれぞれの「好き」に向き合っていく。
長い時間をかけて育った感情が、ようやく形を成すその瞬間。
「私にちょうだい、トレちゃんの人生」
この言葉に込められた真意と覚悟が、二人の未来をそっと動かし始める。
すれ違い、遠回りして、それでも辿り着いたのは——恋のスタートラインだった。
「トレちゃんさ、今度の休日暇?」
ある晴れた日の午後。
商店街の片隅にひっそりと建つ喫茶店でテーブルを囲むのは、トランセンドとそのトレーナーだ。
それなりの時間いたのか、すでに緩くなってしまったコーヒーを口に含みながら、トレーナーはトランセンドの問いかけに胸ポケットからメモ帳を取り出す。
「いまんとこは……土曜なら暇だな。日曜はちょっと用事あるけど」
「いいね。なら土曜トレちゃん家行っていい?」
トランセンドの誘いはいつも突発的だ。
その場の思いつきで投げかけられる言葉には随分と慣れたものだが、問題は行き先の方である。
「家はまずいだろ家は。そこ以外ならどこでもいいけど」
「でもトレちゃん前に家あげてくれたじゃん」
「あん時は仕方なくだ。それにすぐに返しただろ」
思い返すのは打ち上げ会場探しに困り、唯一近隣である程度の広さと環境が整っていたトレーナー宅に集団で押しかけた時のこと。
だがあの時はウマ娘だけでなくトレーナーも他に複数人いた。
一人で来るのと集団で来るのでは、その意味合いは大きく変わる。
悩むトレーナーに対して、トランセンドはダメ押しとばかりに人懐っこい笑みを見せ、両手を拝むように合わせ、ウィンクまでして見せる。
「まぁまぁここは一つ……ね?」
「最近思うんだけど、その頼み方をしたら俺が折れると思ってないか?」
「え? 違うの?」
てっきりそうだと思ってましたと言わんばかりのトランセンド。
実際この頼み方をされて折れた回数は、トレーナーの中でも記憶の中に無数にあるのだが。
「……お前が俺のことを舐めてるのは分かったよ」
「舐めてなんかないよ〜。だってこの前ちらっと見たけどトレちゃんの部屋、7.1chどころか7.1.4chだったじゃん。あの音響は気になるよぉ」
「おまっ──いつの間に俺の部屋に!?」
「それ聞いちゃう? 乙女の秘密を暴こうとするなんてトレちゃんやらし〜」
自分の身体を抱き抱えるようにしながら後ろに下がるトランセンドに一言言ってやりたくなるが、とはいえ目を離したら絶対に漁られるのは理解しつつ、目を離したのは自分。
強く言えばトランセンドが引き下がることは理解しつつも、好奇心の強い彼女のことなので今回の一件があったからとはいえ、すぐに引き下がるようなことはないだろうとトレーナーは理解していた。
「ま、なんにせよそういう事で。今週末楽しみだねトレちゃん」
「憂鬱の間違いだろ」
そう言いながらトレーナーはコーヒーを喉の奥に流し込む。
いつもは美味しく感じられるのに、今日はなぜだかいつもより苦いような気がするのだった。
/
「マジで来たのかよ……」
そうして週末。
約束を確実に取り付けたわけでもなければ、その後家のことについて盛り上がったわけでもないので、もしかすれば来ないのでは?
そう考えていたトレーナー。
万が一来た時のために一応準備をしてはいたものの、玄関先の来訪者はそんなトレーナーの言葉に笑みを浮かべている。
「約束は守る派だからねぇ。お邪魔します。これお土産ねトレちゃん」
おっ! 商店街の限定プリンじゃん! さっすがトラン」
サンタ模様があしらわれたパッケージに入っているプリンは、なぜか冬にしか販売しないケーキ屋の限定商品。
昨日今日で用意できるものではないので、部屋に来るのは前々から計画していたのだろう。
改めて服装を見てみればいつもよりかなり厚着であり、暖かそうなニットの上にいつものパーカーを着用し、ズボンも冬用の少しダボっとしたものを履いている。
「持つべきものは愛バってね。それじゃあトレちゃん早速シアタールームにごー」
「マジで映画見に来たんだな。いいよ、一応用意しておいたし」
トレーナーが案内するままに室内を進んでいく二人。
玄関扉からまっすぐ進む廊下は突き当たりがリビング、左には扉が三つで右には扉が一つある。
左は手前から書斎、トイレ、洗面所+風呂場。
右側はその三部屋分すべてを開けて作られた特製のシアタールームだ。
防音のためにかなり分厚くなっている扉を開けると、天井含めありとあらゆるところにスピーカーが見え隠れしていた。
玄関側の壁に向かって天井から吊るされたプロジェクターが映像を投影しており、画面サイズは100インチ近くはあるだろう。
部屋の中央には二台の椅子が並べられており、その椅子の間にはラック型の机も置いてある。
ラックの上には事前に用意されたお菓子類がいくつか並び、椅子の縁につけられたドリンクホルダーには既に飲み物が備え付けられていた。
「おおっ。ちらっと見た時も思ったけど本当にガチだね」
そう言いながら飛び込むように椅子に座るトランセンド。
支えられるようなふわりとした感触に、そのまま寝入ってしまいそうな心地よさに襲われる。
ふと手が当たったドリンクを口に含んでみれば、少し辛口の冷たいジンジャーエールが喉を通り過ぎていく。
いつもトレーナーと映画を見にいく時に頼むので、それを覚えていたのだろう。
そんな事実に頬が緩み切っていた。
「趣味が講じてってな。地元いた時は小ちゃな映画館で駄々こねて再放送してもらってたけど、いまはそんなことできる場所もないし仕方なく」
自慢のシアタールームを褒められてトレーナーも満更ではないらしい。
隣に座りながらも嬉しそうな表情を浮かべていた。
「いい趣味してるよ本当に。やっぱりこういう所に女の人連れ込むの?」
「──ぶっ!? げほっ!」
突如としてとんでもない爆弾を投下され咽せてしまう。
トランセンドの顔は笑っているが目は笑っていない。
「おまっ、ばっ、バカなこと言うな! この部屋に入ったことあるやつなんか数えるほどしかいないしほぼ男だわ」
「そっか。ここまで手慣れてるからてっきりいつもの事なのかと」
「お前本当に……まぁいいや。そんで? 今日は何見るつもりなんだ?」
これ以上話のペースをトランセンドに引っ張られるわけにはいかない。
そう判断したトレーナーは急いで話の方向性を切り替える。
画面上に映し出されているのはFire tvのホーム画面であり、様々なサブスクに入っているので見たい映画は一通り見れるだろう。
「トレちゃんの見たいやつと、ウチの見たいやつ、一個ずつ見よ」
「分かった。じゃんけんで順番決めるか」
「いいよー。じゃあウチはチョキ出すから」
「心理戦やめろ」
言いながらトランセンドの掛け声に合わせて手を出すトレーナー。
特に何も考えずにパーを出せば、宣言通りトランセンドはチョキを出し勝敗は決する。
ただのジャンケンだが勝利に終わり中々嬉しそうな表情をトランセンドは浮かべていた。
「おっ、ウチの勝ちだね。じゃあウチから順番に交互で」
「トランはいつも通りアニメか?」
「そだよん。やっぱりアニメ映画はいいよ、日本の文化としてどんどん流行ってもらわないと」
「そうだな」
「それじゃあ……どっちにしようかなぁ」
トレーナーが手渡したリモコンを使って配信サイトを覗いていくトランセンド。
各配信サイトごとの特色を考えれば何を見たいのかというのは大体分かるもので、トレーナーは彼女が何を見るのか予測を立てながらただじっと画面を見ていた。
「この他人が動画を入れるの待ってる時間いいよなぁ」
「何入れるのか予測するのが楽しいんだよねぇ」
「わかる」
軽く雑談を交わしながらも、どうやらホーム画面に表示されるような映画ではなかったらしく、流石にないかと口に出して文字入力し始めるトランセンド。
どうやらどちらにするか悩んでいたのはもう彼女の中で決めたらしい。
この季節に相応しいタイトルが画面には表示されていた。
「東京ゴッドファーザーズか。いいの選んでくるな」
「この前パプリカ見たし、その繋がりでねん。AKIRAと老人Zもまた見たいけど。トレちゃんAKIRA見たことある?」
「もちろん。隣の部屋に漫画版あるぞ」
「ウッソマジで? また今度来た時見よ」
何やら不穏なことを口にしたトランセンドにトレーナーが目線を向けてみれば、彼女は可愛らしく舌をちろりと出してごまかすと、そのまま再生を押す。
序盤の大まかな流れとしては、クリスマスの夜にゴミ捨て場で赤子を拾った三人のホームレスが、赤子を親元に返すために奮起するというシンプルなものである。
特殊能力や魔法なんてものはなく、さながら実写ドラマのような作品ではあるが、アニメーションだからこその表現や演技には引き込まれるものがあった。
「……この時代の独特な演技、やっぱいいなぁ」
「年代を感じるよね。それこそもうちょっと古いのだと黒澤作品みたいなのもいいけど」
「いいよなぁ。それで言うと水戸黄門は世代間の橋渡しにちょうどいいと思うんだ。忠臣蔵とかリバイバルしないとそのうち忘れ去られそうなものも作り直して欲しいんだけど」
そんな雑談を交わしながら、二人は流れる映画をゆったりと見る。
こうして自分の中に湧き上がった疑問や共有したい事柄を、すぐに横の人に言えるのが家で見る映画の醍醐味だ。
映画館で話すのは公共のマナーとしてダメだし、貸し切り状態の映画館であっても人によっては上映中にしゃべるのが嫌な人もいる。
環境と、共有できる相手がいてこそ初めて成立できる贅沢な趣味である。
少ない金をかき集め、小さな見ず知らずの赤ん坊のためにミルクまで買う主人公たちの姿を見て、ふとトランセンドは隣に座るトレーナーに投げかける。
「トレちゃんさ、もしウチが急にいなくなって、急に子供抱き抱えてたらどうする?」
「保護して大人として怒って、大人として対処するよ」
現実的な返答だ。
実際もしそうなったら、大人としてそうするのが正解なのだろう。
そこで話を終わらせてしまってもよかったのだが、どうせならとトランセンドは一歩踏み込んだことを聞いてみる。
「一緒に育ててくれないの?」
「なんで一緒に育てるんだよ。最悪保護者が見つからなくなって、どうしようもなくなったら俺が育てるよ」
「なんでトレちゃんだけなのさ」
疑問を投げかけるが、トランセンドはトレーナーが持つ答えを知っていた。
だからモニターから視線をずらさずに、ただ駄々をこねるようにして分かりきったことをトレーナーに問いかけるしかない。
そしてトレーナーはそれを分かっていて言葉を返した。
「それが大人で、トランセンドはまだ子供だからだ」
「トレちゃんはずるいね」
「大人はずるいの」
それが結論で、どうにもならない事実であった。
そうして起承まで終わった映画は転結へと向かって進んでいく。
偶然助けた人が怖い人で、歓迎されながらも発砲事件に巻き込まれ、そうして徐々にバラバラになっていく三人。
主人公と行動を共にしていた男の一人は、同じホームレスの基に転がりこんで話をしていた。
寒い冬空は老人の身体には厳しく、しかもどうやら持病があるようにも見て取れる。
そう長くはないだろうと思いながら見ていれば、実際話をしているうちに老人は静かに息を引き取った。
「……このおじいちゃん、一人でこんなところで死んじゃって、寂しくなかったのかな」
「寂しかったろうな。でも最後に横に人がいてくれたのは救いだったんじゃないかな」
一人でずっといるのは寂しい。
でも最後に誰かが横にいてくれれば、それだけで救われる心もあるのではないか。
そうして映画は佳境に入り、結末を迎える。
エンドロールが流れていくのを眺めながら二人はこの映画を見て自分の中にためた様々な感情を呼吸と共に大きく息を吐きだして、見終わった後のなんとも言えない空気に心地よく体を浸らせる。
「ふぅ。面白かったぁ」
「前から思ってたけどトランは持ってくる映画のセンスがいい」
「お褒めの言葉どうも。トレちゃん何見るの? やっぱB級映画?」
先程から何度かホーム画面に映っているおすすめ映画の欄には予告すら見たことのないものが多くあり、中でもサメ映画関連のものはタイトルから内容すら推察できないものばかりである。
だがそんなトランセンドからの問いかけに対してトレーナーは首を横に振った。
彼にとってB級映画は作業のお供に見るものあり、人を巻き込んでゆっくり腰を据えて見るようなものではないからだ。
「サメがコーン畑を泳いでる映画はさすがに他の人と一緒に見れないよ。邦画か洋画か……どれにしよっかな」
スマートフォンを取り出して何やら表のようなものを見ているトレーナー。
そこには気になっているのにまだ見れなかった多くの作品の名前が一覧で表示されており、その中の一つを見つけるとトレーナーの指が止まる。
「じゃあこれで」
そう言いながら検索をかけていくトレーナー。
題名は「死刑に至る病」、少し前に放送されていた邦画だ。
「あっ、これ気になってたやつだ」
「予告編見て行きたかったんだけど、その時ちょうど用事と被って行けなかったから、ちょうどいい」
ここでも改めてあらすじを語っておくべきだろう。
主人公はある日、二十四人もの少年少女を殺害した連続殺人鬼から一通の手紙を受け取る。
その手紙の内容は、二十四件の殺害のうち最後の一件は自分が行ったものではない、というものだった。
幼少期からその殺人鬼と関係性があった主人公は、鬱屈した大学生活の中で訪れた衝撃的な出来事を前に、冤罪証明をするため独自に調査を開始する……という話だ。
サスペンスというよりは、どちらかというと会話をメインとする今作。
序盤の大学生活パートは、これからの衝撃の展開までのいわば退屈な日常を描くものであり、そうなると自然と会話も生まれる。
「トレちゃんの大学時代ってさ、どんなだった?」
「いまとあんま変わんないよ。タキトレと二人してバカやって回ってただけ」
「うっそ! 二人って同じ大学出身なの!?」
トレセン学園のトレーナーは、意外と専門的な知識を大学時代に学んでいる者は少なく、ゆえに様々な大学からトレーナーとして入ってきている。
そんな関係からトレーナーが同じ大学だというのはあまり聞かない話であり、しかもよりにもよって定期的に何やらケミカルな発色をしていたトレーナーと同じ大学だったと知れば、トランセンドの驚きようも無理はない。
「言ってなかったっけ? エアグルーヴの担当の人は一個上だし、うちの学校けっこうトレセン学園に就職してる人多いよ」
「多分それ、ほとんどみんな知らないよ」
「あんまり大学の時の話とかしないし、それもそうか」
トレーナーはなんでもないことのように流すが、トランセンドはそんな他のウマ娘達が知らないトレーナーのことを知れて心底嬉しかった。
趣味や休日にしていること、ウマ娘達の走りに向ける情熱は誰よりも理解しているつもりではある。
だがそれは会ってからのトレーナーのことで、出会う前のトレーナーのことはこんな機会でもなければ知ることはなかっただろう。
そうしてお互いに軽く雑談を交えながら映画鑑賞を続けていると、気が付けば時計の針はどんどんと過ぎていき、エンドロールが流れていく。
過去に囚われた青年と、青年を拐かす大人の構図は邦画として見入るだけの魅力があった。
一本目の映画よりも長い沈黙の後、吐き出すようにトランセンドが言葉を出す。
「意外な結末だったなぁ……面白かった」
「動きのある映画もいいけど、こういうゆったりで頭使う映画マジで好きだわ」
「そうだねぇ」
リクライニングを倒し、天井を眺めながら二人は映画の世界に浸る。
先ほどまでのように会話を楽しむのも一興だが、こうしてゆったりと結論を知ったからこそ感じられる映画の感覚に身を投じるのもまた映画の醍醐味だ。
そうして時間を過ごしていると、ふとトランセンドの耳に時計の秒針が動く音が聞こえる。
昼前に来たとはいえ、既に映画二本を見た後なので、かなり時間が経っているはずだ。
「いま何時だろ」
「十七時四十二分。そろそろ帰った方がいいな、送るよ」
「えぇ。まだまだこれからでしょ、あれやこれやしたいこといっぱいあるのに」
ゲームもしてないし、アニメだって見たい。
さっきの映画の感想だって、まだまだ色々話したいことはあるのだ。
せっかく用意してきたトランセンドとしては、こんなところで返されてはたまったものではない。
だがトレーナーの意思は固い。
「ダメだ」
「……トレちゃんさぁ、いつまでそうするつもり?」
ジト目を向けながらトランセンドはトレーナーに問いかける。
「ウチがトレセン学園を卒業して、もう丸一年以上経つ。この場所に来るのだって、誰に止められるものでもない」
そう、誰にも止められることではないのだ。
門限もなければ寮もない。
トレセン学園を卒業し、大学生になったトランセンドはどこに行くのも自分の意思で決められる。
まだ子供だと言われればそれはそうだが、彼が断る理由にしようとしているソレは、トランセンドが止まる理由にはならない。
「休日に、異性の家に一人で来てるんだよ? その意味すらわからない訳じゃないでしょ?」
ラックに手をつき、トレーナーに向かって近寄るトランセンド。
ジッと瞳を見つめれば、微かに揺らぐ瞳はトレーナーの心に迷いがある証拠。
本来ならばもう引き返しても良い頃合いで、実際トランセンドの脳は早くこんなことをやめろと警鐘を鳴らしている。
だがウマ娘としての本能が、ここでこそ一歩を踏み締めるべきだと確信していた。
「ねぇトレちゃん、ウチだってもう学園を卒業して一人立ちしてるんだよ。本当にダメ?」
これでダメならば、それは仕方のないことなのだろう。
下唇を噛み、手をぎゅっと握りしめながら懇願するトランセンドを前にして、トレーナーは悩む。
悩みに悩み、そして自分のことを見つめるトランセンドの瞳を見た。
(ああ、レースに勝った時にも見た自分の好きな彼女の瞳だ)
そう気が付いてしまった時には、もうトレーナーの中で結論は出ていた。
「……終電までには帰ること。いいな?」
「ーーうん! さっすがトレちゃん」
そうして三年間をかけて作り上げられ、ゆっくりと錆びていた歯車は、結末がどうなるのかもわからないままに動き始める。
ただ一つ言えることは、少なくともトランセンドに後悔はなかった。
停滞するくらいなら壊れてもいいから前に進みたい。
それがウマ娘、トランセンドであった。
「それじゃあ映画続き見る?」
「いや、そろそろ飯作らないとな。悪いけどその間適当に時間潰しててくれ、ゲームとか一通りそろってるし」
言いながらトレーナーがクローゼットを開けると、一面さまざまなゲームが敷き詰められている。
現役時代、トレーナーが家でゴロゴロするのを至福の時間だと言っていた時はヤキモチを焼いていたトランセンド。
だが、さすがにここまで設備が整った環境を見てしまうと、トレーナーの気持ちもよく分かるというものだった。
気になっていたゲームや、もう気軽に遊べないゲームを前にゲーマーとしての血が騒ぐが、とはいえこの場所に来た目的をすぐに忘れるトランセンドではない。
料理を共にするというイベントは、なかなかどうして魅力的だ。
「手伝うよ?」
「いいよ、すぐに終わるし。この音響でやるゲーム、超楽しいぞ?」
「そっか。なら今日はお言葉に甘えるよん。次はウチが作るから」
前言撤回しクローゼットからコントローラーを取り出し、あれでもないこれでもないと探し始めるトランセンド。
せめて次回の食事の約束を取り付けられたのが彼女のファインプレーか。
「期待しないで待ってるよ」
そう言って物色するトランセンドを置いて台所に向かったトレーナー。
冷蔵庫の中身を軽く一瞥すると、手際よく食材を台所の上に並べていく。
ポケットからスマホを取り出し音楽をかければ、さながら一人でやる料理も料理番組やそういったゲームのように感じられた。
今日作るのはカレーライス。
トランセンドが食べることを考えて寸胴鍋を取り出したトレーナーは、それと同時にフライパンもキッチンの上に置く。
牛肉に塩胡椒をまぶし、サラダ油を塗ったフライパンで外側を焼いていき、ある程度火が通ったら赤ワインと水に浸す。
この時ローリエを入れておくのが彼なりのコツだ。
煮込んでいる間に刻んだ玉ねぎ、人参とリンゴのすりおろしを作っておき、小さなフライパンを取り出して再び油を敷く。
刻んだ玉ねぎを色が変わるまで炒め、刻みニンニク、生姜、リンゴの順番に入れて人参も加えれば鼻の奥をいい香りが抜けていく。
そこにいくつかのスパイスを混ぜ合わせたものを入れ、温めながら混ぜていき、出来上がったものを全て寸胴に入れる。
この頃になってくると肉もかなり良い柔らかさになっているので、ローリエを抜き、汁ごと全て寸胴に入れてかき混ぜればほとんどの工程は終わり。
塩、コーヒー、チョコを入れ、コンソメにウスターソース。
トランセンドは甘いのが好きなので蜂蜜とヨーグルトを少し多めに入れればこれで完成だ。
時間にして四十分程度といったところだろうか。
試しに味見をしてみれば、トランセンドに自信を持って食べさせられる味だ。
(なんか床ちょっと震えてるな。なんのゲームやってんだ?)
いろいろと気を使って設置しているので、よほどの音響でなければ他の部屋に影響はないはずだが、足裏から感じる確かな振動はかなり激しめのゲームをやっている証拠である。
弱火で煮詰めながら部屋に戻ってみると、コントローラーを握りしめて楽しそうにゲームしているトランセンドの姿がそこにはあった。
よほど温まっているのか扉を開けてもこちらに見向きもせず、血眼になって敵を追いかけ回している。
「なんのゲームやってるのかと思ったらBFか。分かってるな」
「トレちゃんこの音響でやるBFやっばいよ! 超楽しい!」
体感型のゲームは音響一つで没入感が大きく変わる。
たとえば戦場を味わえるこのゲームであれば、付近に爆弾が落ちればそれなりの轟音が鳴り、低音が鈍く体を抜けていく。
ゲーム中では小さくていつもなら聞こえないキャラの声や布ずれの音、それらが明確にリアリティを出し、気が付けばまるでその場に立っているような感覚を味わえる。
すっかりトリガーハッピーになったトランセンドはところ構わず撃ちまくって楽しんでいた。
「そりゃよかった。そろそろ出来上がったから台所行くぞ」
「おっ! 待ってました♪」
とはいえ食事ができたのであればそちらが優先。
ゲームを止めて二人で台所へと移動する。
生活感のあまりなかったシアタールームとは違い、リビングには生活感があった。
入って右側には台所や食事用のテーブルがあり、左側にはこたつとハンガーラックがあり、窓際には少し大きめのベッドまである。
ベッドの手前には仕切り用のカーテンがあり、前来た時は閉められていたが今日はどうやら空いている。
主に普段生活しているのは左側なのだろう。
布団周りには畳まれているものの衣服がそのまま置かれており、ハンガーラックには少しよれっとした服がかけられている。
「前の時は仕切りで隠れてたけど、とれちゃんいっつもあそこで寝てるの?」
「ああ。実家から持ってくるの超大変だった」
いわゆる収納ベッドと呼ばれるようなタイプのダブルベッド。
収納の中に何が入っているのか非常に気になるトランセンドだったが、さすがにここで前に出過ぎるのはまずいと判断し、右に向かって進んで椅子に腰をかける。
天井から吊るされた照明が明るく食事用テーブルを照らしており、机の上に並べられた調味料は木でできたテーブルに綺麗な影を落としていた。
「おお~すんごい丁寧に並べられてる。やっぱ部屋初めて来たときも思ったけどトレちゃんお洒落だね」
「エアグルーヴの担当が先輩って話しただろ? あの人が俺達に女心とはなんたるかみたいな話をしてきてな。そんときついでにお洒落について学んだ」
「なるほどね。それは結構なことで。冷蔵庫開けていい?」
立って座ってと忙しないが、家主であるトレーナーが食事の準備をしている手前、ただ待っているというのも座り心地が悪い。
食器を出す手伝いくらいはしたかったが既に準備はしてしまった後のようなので、それならばとトランセンドは先ほどゲームをしている間に思い浮かんだ案を実行に移すことにした。
「良いけどあんまりなんもないぞ?」
「いんや、多分目的の物はあるはず。どれどれ……あ、あった」
そう言いながらトランセンドが取り出したのは銀色のロング缶。
度数はそれほど高くないが、店で買えば確実に年齢を確認される歴としたお酒だ。
トレセン学園を卒業したとはいえ、まだ年齢は十九歳であり、冷たく鋭い目つきでトレーナーはそんなトランセンドの行動を咎める。
「おい酒は流石にダメだろ。まだ十九だろ?」
「お堅いねトレちゃん。だけどまぁいいんだよ、ウチが飲むわけじゃないし。トレちゃんに飲んで欲しいだけだからさ」
「オレに?」
呆気に取られるトレーナー。
確かに味や酔うという感覚など気になるところがないわけではなかったが、今回は自分が素面で相手が酔っている状況こそトランセンドにとって理想であった。
ここから更に一歩関係性を深めるのであれば、いままでになかった第三の要素が必要なのである。
「トレちゃん、飲んでるところ一回も見せてくれたことないからさ。一回試しに見てみたくて」
そしてそれっぽい言い訳も既に考えてあるトランセンド。
用意周到な彼女の口ぶりに何か考えがあるのだろうとは思いつつも、トランセンドがいなければ一人晩酌を楽しむつもりだったトレーナーとしては、その提案は悪くなかった。
「お前なぁ……まぁいいけど。酔わない程度にするからな」
「それじゃ意味ないじゃん。酔うまで飲んでよ、付き合うからさ」
「おれなんか酔わせてもなんも面白くないぞ」
机の上に料理を並べていき、昨日の夜に作ったサラダや冷蔵庫からお茶を取り出して机に置けば、食事の準備はあらかた終わりだ。
自分のコップにお茶を注ぐよりも早くトレーナーのコップにお酒を注ぐトランセンド。
こうなってしまうともう後はなるようにしかならない。
「いいのいいの。それじゃあいただきます」
手を合わせ、夜食はゆっくりと始まった。
まずはせっかくだからとスプーンで大きく一口分すくったトランセンドが、口いっぱいにカレーを頬張ると濃厚な香りが鼻を抜けていく。
暑すぎず冷たすぎず、ほんのり硬い米の感触を楽しみながら咀嚼し、喉の奥に流し込む頃には、多幸感が全身を包んでいる。
「ん! 相変わらずトレちゃん料理上手だねぇ」
「一人暮らししてるとどうしてもな。でもよかったよ、人に食べてもらうのは久々だから口に合うか少し心配だったんだ」
「美味しいよ、すっごく美味しい」
何気に料理を振る舞うのも振る舞われるのも、こうしてちゃんとしたものは初めての両者。
夜食を挟みながら先程の映画の話を軽く交える二人は、気が付けばお皿を空にしてテーブルを挟んで談笑を続ける。
トレーナーが何処からか持ってきたつまみ用のお菓子を二人でゆったり共有しながら会話をしていれば、必然それなりにトレーナーにも酒が入り始めていた。
既に机の上にある空き缶は六本を超えている。
「トレちゃんさ、いまは何してるんだっけ」
「新米トレーナーの育成がメインだな。当分ウマ娘のトレーナーになることはない」
「なんで?」
意外な話だ。
トランセンドはただそう思っていた。
URA優勝という栄光を手に入れられたのは自分の頑張りも勿論あるが、トレーナーがいたからこそ実現できたとトランセンドは理解している。
そして周囲のウマ娘達もそれをわかっていたはずだし、学園関係者は次なるウマ娘を絶対に彼につけるだろうともトランセンドは思っていた。
今後彼にサポートしてもらえたウマ娘達が輝かしい戦績を残すのであれば、初めての担当バとしてこれ以上の喜びはないとすらトランセンドは思っている。
だがそんなトランセンドに対し、トレーナーは一瞬目線を合わせてから下を向いて小さな声で疑問に答えた。
「……お前の……トランの走りが忘れられないからな。そんな奴に担当されるウマ娘は可哀想だ」
トランセンドの卒業後、トレーナーに来たスカウトの数は目が飛び出るほどの量だった。
名前を聞けば誰だか分かるような大物ばかりに指名されながら、それでも後進の育成に流れたのは彼が口にしたことが理由だ。
そしてそんな言葉を投げかけられたトランセンドはといえば、顔を真っ赤にしながら全力で照れていた。
「〜〜〜〜ッッっ」
叫び出したくなるのと嬉しさでどうにかなってしまいそうになりつつ、ここで下手に大きな反応を見せれば相手が黙りこくることを予見したトランセンド。
一拍深呼吸をして、声が震えないように気をつけながら言葉を返す。
「トレちゃんウチのこと本当に大好きだねぇ」
「あぁ。好きだよ」
「──っ、トレちゃんさ。酔ってる?」
ドクンと大きく胸が跳ねる。
定期的なペースでつまみを口に運んでいた手が止まり、両者の視線は交差した。
トランセンドの問いかけに対してトレーナーは言葉を返さない。
ただジッと目を見つめ返してくるだけで、そうしてなんとも言えない時間が流れ、恥ずかしさと期待にトランセンドがどうしようもなくなったころにトレーナーは言葉を続ける。
「酔ってるよ。お前が酔わせたんだろ」
机の上には既に缶だけで十本。
日本酒やその他も含めると酔うどころか潰れていないのがおかしいと言えるほどの量である。
「そっか…………そっか」
ガタっと音を立てながら立ち上がるトランセンド。
その目は完全に座ってしまっており、強い決意を持っているのが見て取れる。
だがそんな彼女を前にしてもトレーナーは表情を変えない。
「ああやめとけ。近づくな、そっから先は本当にダメだ」
「なんで? またいつもの?」
不機嫌を隠そうともせずにトランセンドはトレーナーに問いかける。
ここまで来たのだ、もういいではないか。
どうせここまで来たのならばあと少しくらい踏み込んでも、それでもいいではないか。
だがそうして強い一歩を踏み込むために体を前に出そうとしたトランセンドは、トレーナーに肩を抑えられる。
「そうだ。この際だからトランセンド、ハッキリしよう。俺はお前と付き合うつもりはない」
「なんっ……なんで! どうして!?」
理解が出来なかった。
数秒前には好きだと言ってくれた口で、それでも当然のように拒絶してくるトレーナーの姿がトランセンドには分からない。
だってさっきはあんなに照れくさそうに、心の底からの本心をようやく漏らしてくれたのに。
溢れ出る思いが堪えきれず気が付けば大粒の涙を目の端に作り、トランセンドはすがるようにトレーナーに体重を預ける。
その姿は傍から見れば皮肉なことに甘えている子供のそれだ。
「好きなんでしょウチのこと! ウチだってどれだけトレちゃんのことが好きか──」
「気持ちには気付いてたよ、ずっと。正直俺も、結構前からトランセンドのことが好きだ」
「──なら!」
続きの言葉が怖くて、トランセンドはトレーナーの間に言葉を割っていれる。
このまま話の流れに身を任せてしまえばどうなるかは分かり切ったこと。
情にすがることしかできない自分がどうしようもなく恥ずかしくて、トランセンドはトレーナーの顔を見ることが出来なかった。
縋るように、ねだるように、服を掴み頭を下げてどうにかならないかと言う事しかできない。
「俺は君のご両親から信頼されてトレーナーを任せられた。トレセン学園にいる全てのウマ娘達がそうだ。中央のトレーナーとして、君の脚を預かった身として、その信頼は裏切れない」
正論だ。
大人が子供に言い聞かせる耳当たりの悪い事実。
でもそんな正論を耳にして辞められる恋心ならばこんなに拗らせていないとトランセンドは自覚している。
「……トレちゃんさ、それでウチが納得するって本気で思ったわけ?」
「納得するかどうかじゃない。俺にとってこれは揺るがない本心だ」
「いいよ。トレちゃんがそう言うなら私にだって考えがある」
「何をする気だ?」
「警戒しなくても手は出さないよ、しても無駄なのは分かってるし。この資料見てよ」
アイパッドを取り出して机の上に置いたトランセンド。
付き合う付き合わないの話にこんなものを持ち込むのは野暮だと思って出すつもりもなかったが、相手が正論で詰めてくるのであればトランセンドにできる対抗策はデータでその論理の矛盾を突くことくらいだ。
「……なんだこれ」
「結婚してるウマ娘の旦那さんの元々の職業をまとめた統計データだよ。対象となったのは千人、内トレーナーだったのは六%。つまりトレーナーとウマ娘の間に子供ができるのはおかしなことじゃない」
「詭弁だ。そのうち何%が俺達みたいな関係だったんだ?」
痛いところを付いてくる。
その場の思い付きで出したデータに対し、トレーナーの言葉は酷く冷たい。
冷静にデータを見て所感を述べるトレーナーを前にしてレースの時もそうだったなと思ってしまうあたり、どうにも二人の間には思い出が多すぎる。
「……両親には、もうウチが誰を好きなのか言った。二人とも応援してくれて、だからウチは今日ここにいる。それでもダメ?」
「……………………頼むトランセンド、分かってくれ。俺はお前が──」
振り絞るように言葉を出したトレーナー。
彼のか細く掻き消えそうな声を聴いて、トランセンドは状況を完全に理解する。
涙を拭い正面を向いてみれば、同じく泣きそうな表情をしているトレーナーの顔がトランセンドの目に入ってくる。
自分だけじゃなくて、目の前の相手も同じようにしがらみや不安でいっぱいなのだ。
それさえ分かってしまえばトランセンドに怖いものはなかった。
「──ねぇトレちゃん。そんな悲しいこと、言わないでよ」
トレーナーのほほに手を添えて、トランセンドは語りかける。
ただ本心をまっすぐに伝えること。
それが何よりも大切だと理解して。
「好きなら好きって、そう言ってよ。嫌いなら嫌いだっていい。ウチは見知らぬ誰かじゃなくて、トレちゃんと二人で話がしたい」
「お前は知らないだけなんだ。世の中には俺なんかより良い奴がいっぱい居て、いつかそいつらとお前が会う。俺よりもトランに相応しい人なんていくらでもいる」
トレーナーは自嘲気味に笑いながらそう言った。
怖いのだ。
結局は、トランセンドに見捨てられることが。
トレーナーという立場でありながら、見捨てられる恐怖に、必要じゃないと言われることに、耐えられない。
相手を強く求めているからこそ、否定されたときの事を考えると前に足を踏み出すことすらできない。
「トレちゃんも私も、臆病だね。ウチだって現役の時、ずっとトレちゃんに捨てられちゃうんじゃないかって怖かった。ウチより速いウマ娘が出てきたらそっちに行っちゃうんじゃないかって」
ウマ娘の価値は人によって様々だが、レースを勝つという一点に焦点を当てれば結局はどれだけ速いかだ。
トレセン学園という場所において自分より速い者は無数にいて、その中にはトレーナーとの関係が悪く他のトレーナーを探しているウマ娘だっていた。
結局現役の頃のほとんどはその悩みが胸の奥にギリギリまであったのは間違いがない。
「でもチャンピオンズCのゴールテープを切った瞬間に分かったんだよトレちゃん。トレちゃんには私しか居ないし、私にはトレちゃんしか居ない」
あの時、あと少し頑張れたのはトレーナーの応援が確かに耳に聞こえたからだ。
世界が震えていると思えるほどの大歓声の中で聞こえたその声は、トランセンドに大きな力をくれた。
後のURAで数多のライバル相手に勝ち星を決められたのは、あの時本当の意味でトレーナーを信頼できるようになったからなのは言うまでもない。
「だからトレちゃん、トレちゃんの人生を私にちょうだい?」
これが最後の告白だ。
正真正銘、最後の想い。
言われたトレーナーは悩み、頭をぶんぶんと振り回し、ひとしきり暴れまわった後自分の中で答えが出たのだろう。
「分かった、分かったよ根負けだ、悪かった! 俺が悪かったよ」
腹を決めたトレーナー。
その表情はトランセンドが大好きな強い意志を持った時のトレーナーの顔だ。
「頼むトランセンド。こんな俺だけど、お前だけしか居ないんだ。俺と付き合ってくれ」
「ふふっ。いいよ、トレちゃん」
そう言って抱き着くトランセンド。
抱きしめたときの感触が、匂いが、温かさが、いつもと同じで少し違う。
全部が相手の物で、全部が自分の物だという幸福が全身を包む。
「いろんなことを間違えてさ、怒って泣いて、それよりたくさん笑って好きになって、そうやってゆっくり走っていこうよ」
「そうだな。それがいい」
そうして二人は、晴れて恋人になった。
四年と少し、ゆっくりと時間を重ね合わせた二人の道は、まだ始まったばかりである。
――後日談というか、今回のオチ。
翌日元から予定していた昼からの遊びを終えたトレーナーは、タキオンのトレーナーと共に近所の居酒屋で二人で酒を飲んでいた。
酒が入れば当然、今日なんだか様子がおかしかったトレーナーに対してタキトレからの追及が入るのはおかしな話ではない。
ある程度つつかれればトレーナーは少しだらしない笑みを浮かべながら昨日の話をこぼしてしまっていた。
「改めてだけど、それにしてもやっとお前らが付き合うなんてなぁ」
「やっとってなんだよ」
「俺も先輩も担当バと付き合ってたからさ、いつお前がこっち側に来るか心配だったんだよ」
こっち側、とはつまり付き合っている側という事だろう。
だとすれば目の前の彼も担当バと付き合っていることになる。
トランセンドが持ってきていたあのデータには実はかなりの暗数が存在する事をここでトレーナーはようやく理解できていた。
「マジかよ!?」
「マジマジ。彼女は大切にしてやれよ」
「なんだよお開きみたいな言い方して──って!?」
タキトレと視線が合わないことに違和感を覚え彼の視線の先――自分の背後に対して顔を向けてみれば、そこにいるのは微笑みを携えたトランセンドだ。
「なんでいるんだよトランセンド!?」
驚きから突っ込みを入れるトレーナーだが、トランセンドは久々にあったタキトレに対して挨拶をしており、そんなトレーナーの言葉は軽く流されてしまっている。
ふと時計を見てみればかなり時間が経っており、そろそろ帰らなければいけない時間帯だ。
「トレちゃん昨日もあんなに飲んでたのに今日もそんなに飲んだら明日に響くんだから帰るよ」
「お前が呼んだのか?」
「そりゃね。お前が動けないと俺に仕事来るし」
そういってトランセンドとのトーク画面を見せるタキトレ。
どうやら随分と前からいろいろと今回の事に向けて用意していたらしい。
いつが休みだの趣味はなんだの、ちらりと見えたトーク履歴にトレーナーは深く考える事を諦める。
「また改めてご挨拶に来ます」
「良いよ気にしないで。雪が降ってるみたいだし、風邪には気をつけて」
「はーい」
そうしてトレーナーはトランセンドに体を預けながら店を出る。
同じタイミングで誰かが店内に入って来たのかタキトレと何やら話をしているのが聞こえるが、酔いが回りすぎて何を話しているのかはよく分からない。
トランセンドが一瞬だけ話をしたので、おそらくは知り合いの誰かなのだろうという事くらいしかトレーナーには分からない。
そうして軽く雪が降る街の中をトランセンドに体を少し預けながら、手を繋いで歩く二人。
「……なぁトランセンド」
「なぁにトレちゃん」
昨日よりは随分と意識もはっきりとしてきた。
寒さに酔いが少し冷めてしまったのだろう。
だがトレーナーは努めて自分が酔っ払いであると精一杯自分自身に言い聞かせる。
そうしなければ恥ずかしくて本心もまともに口にできないから。
「…………好きだ」
「ふふっ」
たった三文字に込められた想いが、吐き出した言葉と共に白い息に乗って空へ舞う。
トランセンドはその言葉を少しだけ驚いたような表情を見せた後、優しい笑顔で包み込むように受け止めた。
「私も好きだよ。トレちゃん」
返された言葉にトレーナーは静かに繋いでいた手に力を強くする。
確かに繋がれた手の温かさがいまのトレーナーにとっての精一杯で、トランセンドはそんな彼と共に同じ家へと帰るのであった。
【設定】
トレーナー
湿度高め陰湿お兄さん。
いまの年齢は二十六くらい?
初めて会った時にトランセンドの走りに見惚れ、共にデビュー戦を戦い初勝利を収めた時に恋心を自覚した。
良くも悪くも良識があり、トランセンドが現役の頃は全力で恋心を隠していた。
だが卒業後やたらと連絡を取ってくるトランセンドを前にして、手を出してもそろそろ許されるんじゃないかとどこかで思っていた。
危機感を持って欲しくて大人が子供を騙す映画を見せてみたが、まるで効果がなかった。
トランセンド
恋心を自覚したのは二年のレース終了後、負けたトランセンドの横でただ隣に座って泣き止むまで待ってくれた時。
それ以降アタックし続けていたがあまり効果がなく、今回最後になっても構わないとまで意気込んで事前に色々と準備をしてから挑んだ。
付き合ってからはデレデレになったトレーナーと毎日二人楽しく暮らしている。
タキトレ
学生時代にタキオンと付き合い、なし崩し的にそのまま婚姻まで決めたトレーナー。
トランセンドから前もって恋愛相談をされており、二人が付き合うために色々と裏で動いた。
飲み会終わりに拾いに来てくれたタキオンと飲み直し、次の日潰れて学園には有給申請を出した。