ヒノエ島、腐った創世樹の根の底――
裂けた地を縫うように這い昇る黒煙のうねり。
その中心、雷のごとき咆哮とともに、それは姿を現した。
大龍――
三つの首を持つ、最強の厄災。
水を司る中央の首、火を撒く左首、そして大地すら砕く右首。
その鱗は刃も通さぬ黒鉄の如し。
一歩踏み出すごとに地は崩れ、空は悲鳴を上げる。
「……来よったか」
断崖の上、サクナヒメはひとり立っていた。
その背に翻るのは、母・トヨハナより受け継いだ羽衣。
その手に構えるは、かつて父・タケリビと共に戦を切り抜けた、星魂剣を鍛ち直した、手鎌と鍬。
それは、神でも持ち得ぬ伝説の武器。鍬で打ち込み、鎌で断つ。
戦と稲作、両輪を担う者のみが使いこなせる神器。
「この島の米を、田を、仲間を……焼かせはせぬ!」
羽衣が、風を裂いて舞う。
大龍の左首――紅蓮の火龍が咆哮した。
刹那、空を焦がす炎柱が断崖ごと襲う。
だが、サクナは微動だにしなかった。
羽衣が広がる。薄絹のごときそれは、まるで鏡のように炎を跳ね返す。
「甘いわ!」
跳ね返った熱流を盾に、サクナは飛ぶ。
鍬を逆手に構え、炎の中から一直線に火龍の顔面へ――!
ガァァン!!
鈍く響く衝撃。
鍬は確かに龍鱗を打った――だが、欠片一つ落ちない。
「……やっぱり硬いのお……!」
怒り狂った火龍が首を振る。
その牙がかすめた瞬間、羽衣が自動で巻き付き、軌道を逸らす。
「流石母上の羽衣、頼りになるわいっ!」
今度は左手の鎌を抜く。
鍬で打ち、鎌で断つ――それが、この武器の極意。
大地が揺れる。今度は右の土龍が動いた。
「ぬぅっ……!」
土龍が吠えると、崖の斜面が崩れ、無数の岩槍が飛び出す。
「ならば、上じゃ!」
地形そのものを操る一撃に、サクナは羽衣を束ねて足場を作り、空中を駆ける。
羽衣を一気に天へ伸ばし、風を裂いて舞い上がる。
そのまま旋回し、中央の首――水龍の額を目がけて急降下。
「喰らえぃッ!!」
鍬を構え、腰を捻る。反動を全身に乗せ、一閃――
神速の踏み込みから放たれる渾身の斬撃が、まっすぐ中央の水の首へと打ち込まれる。
ギィィインッ!!
響いたのは、金属音ではない。
鋼をも超えた、鱗の音。
手応えはあった。だが――切れていない。
「ち……っ!」
確かに斬ったはずの一撃は、表皮を掠めただけ。
剣から鍬と鎌に鍛ち直された星魂の神具でさえ、その鱗を“ほんの僅かに欠けさせる”のが、やっとだった。
全体重を込めた渾身の一太刀。肉に届かず、骨にも届かず。
神の刃で裂けたのは――表層の皮だけ。
(なんじゃあの硬さ……まるで山そのものではないか!)
対して嵐のように襲い来るあちらの攻撃は、その一撃一撃が、全て必殺。
対処を誤れば、一瞬の内に炎に焼かれ、大地に貫かれ、津波に呑まれるだろう。
灼熱の閃光が空を切り裂き、地面ごと焼き払った。
地獄の火柱。神話に語られる“天火”そのもの。
火の神の息吹ですら、生ぬるく思える業火が、サクナに迫る。
「ぬうぅっ!!」
羽衣が展開し、火焔を受け止める。
母より授かった神衣が、神気の膜を広げ、爆炎の奔流を逸らす。
だが――熱は、通す。
皮膚が焼け、髪が焦げる。血が泡立ち、肺がひりつく。
(耐えられんことはない……だが――)
右の首が、大地を踏み抜いた。
地割れが走り、地面が砕け、
――いや、“地形”そのものが敵の手に変わったかのように、襲い来る。
無数の岩塊が地面から噴き上がる。
そのすべてが、弾丸の速度で飛ぶ“殺意”だった。
跳んだ。跳ぶしかなかった。
空に逃れる、ただそれだけで精一杯だった――が。
「う、ぐっ!」
中央の水の首が、口を開いた。
――ゴォオオオッ!!
圧倒的な水流。川が逆巻くような奔流が、空中の彼女を押し流す。
「くっ、羽衣よ――!」
瞬時に羽衣を伸ばす。
近くの岩へ巻きつけようとする――
しかし、間に合わなかった。
右の首が土塊を吐き出す。それは、ただの泥ではない。
神気を帯びた砕岩が、意思を持って飛んできたかのような破壊だった。
狙った巨岩が、砕ける。羽衣の着地先が、粉砕される。
そのまま、サクナの身体は宙を舞い、山肌に叩きつけられた。
「がはっ……!」
肺から空気が漏れ、視界が白く弾ける。
鎌も鍬も手からすべり落ち、地に転がった。
大龍が三つ首をもたげ、じりじりと迫ってくる。
(ダメじゃ……手も足も出ん……)
岩肌に這いつくばりながら、サクナは顔を上げた。
全身が痺れて動かない。羽衣も既に裂け、守りの力も薄れつつある。
――ここで、終わるのか?
サクナヒメ、神にしてヒノエ島の守護者。
自ら鍬を振るい、田を耕し、民を支えた。
笑って、生きて、闘ってきた。
そのすべてが、今、この一瞬で――
「……っあ、ああああ……!」
全てを破壊しようと、三つの口が開かれる。
火、水、土。天地すべてを呑み込む、神の力すら超えた破滅の吐息が、目の前に迫っていた。
身体は動かない。
羽衣は裂けた。
武器は、遠い。
それでも、大龍の三つの首はなおも動いていた。
空が割れ、地がうねる。
世界の理そのものが、彼の呼吸に巻き込まれていた。
「……く、そぉっ……!」
地を這うようにサクナが呻いた。
骨が折れ、内臓が潰れかけ、目もまともに見えていない。
「哀れな神よ。この大龍に傷を付けたことを誇りながら、死ぬがよい!」
――ヒノエの田んぼを守るって、みんなと笑って米を食うって、
ただ、それだけのために、ここまで来たのに――!
「お願いじゃ……! 」
裂けた羽衣の端を、サクナは握りしめた。
その手からは、すでに血が滴っている。
でも、祈るように。叫ぶように。願うように。
「羽衣よ……!わしの命を捧げる!今、この時だけ、わしに力を与えよ!」
風が止まった。
裂けた羽衣が、まるで意思を持ったかのように震え始める。
――カッ。
サクナの胸に、熱が走った。
それはまるで、母から直接触れられたような、あたたかく、けれど痛烈な光。
次の瞬間――
「っ……ぐ、ああああああああッッ!!」
焼けた羽衣が、サクナの身体に巻きつく。
焼け落ちたはずの絹が、燃える金糸となって全身を貫き、
皮膚を裂き、骨の芯にまで力を流し込む。
魂から、直接力を引きずり出す。
それは祝福ではない。
呪いに近い“加護”だった。
――命の代償に、力を得る。
その力は一時の奇跡。
終われば、サクナの生命は、もう戻らない。
全身が燃えているようだった。
視界が真っ白に染まり、息をするたびに肺が灼けた。
「が、は……っ、あぁ、ああぁあ……!」
でも――
足が、動いた。
倒れていた身体が、起き上がる。
その足取りは、まるで羽が生えたかのように軽く、鋭く、速い。
サクナは、地を蹴った。
その動きは、すでに“神”をも超えていた。
斜めに振るわれた鍬の一撃。
迫りくる土砂が裂け、大龍の土の首が悲鳴を上げた。
「らぁあああああッ!!」
ズドン!!
山が崩れたような衝撃と共に鍬を振り下ろし、鱗が砕け、肉が裂ける。
地が揺れ、天が鳴る。
サクナの姿は、もう見えない。
速すぎて、誰の目にも映らない。
火の首へ。
尾から駆け上がり、
鍬で叩き、鎌で断ち切る。
「わしの田んぼに手ェ出した報いじゃァァアアア!!」
爆炎が弾け、火の首が地に叩き落とされた。
赤き災厄が、沈黙する。
そして――中央の首、水の主が、動く。
怒りと痛みが、鋭い意思に変わる。
目が光り、天が割れる。
大龍、二首を損傷。
その瞳に、冷酷な意思が宿る。
――ゴアアアアアアアアアア!!
海が、天から落ちてきた。島を丸ごと押し流す、終末の波。
その奔流は、すべてを“過去”にする。
けれど、サクナは微動だにしなかった。
「わしは――サクナヒメ!!
ヤナト八百万の神族にして、ヒノエの守り神じゃ!!」
羽衣を掲げ、跳躍。
魂を燃やし、命を差し出し、ただ一点へ突き進む。
「すべてッ!! 刈り取ってくれるわァァァァアアアッ!!」
水の首が迫る。口が開く。
吐息の瞬間――
サクナの命が、燃え尽きた。
羽衣が全てを喰らい、星魂剣が、最後の輝きを放つ。
――閃光。一閃。
空が裂けた。
水の首が、斜めに断たれる。
咆哮はない。
大地も、空も、ただ――静かだった。
倒れる巨体。引いていく水。
取り戻された空。
サクナは、ゆっくりと地に降りた。
足元がふらつく。
力が抜ける。
心臓の音すら、遠くなる。
「……やった、か……?」
その呟きと共に、
サクナの身体が、崩れ落ちた。
そして、その瞬間――
“未来”という言葉が、
彼女の手から、静かに、零れ落ちた。