試験が終わったあとの日曜日は、誰もが開放的になりホグワーツ中の空気が軽かった。
長い緊張から解き放たれたせいか、城の中を流れる時間そのものが、どこか浮き足立っているように感じられる。窓から差し込む光はすでに初夏の気配を含み、石壁に落ちる影は優しく、頬を撫でる風は心地良い。
修了式までは、あと少し。
それだけで、すべてが少しだけ特別に見えた。
そんな朝、身支度を整えたリリスは、ふと顔を上げて窓の外へと視線を向けた。
そこに広がっているのは、空ではなく、静かに揺れる湖の内側だ。けれどその水の世界にも、地上から差し込んだ光は確かに届いていて、ゆらゆらと揺れながら、淡く優しい輝きで満たしていた。
その光景をしばらく見つめていたリリスは、やがて何かを思いついたように、ふっと口元を緩める。
「ねえ、今日は外で食べない? とっても日差しが暖かそうで……きっと心地良いわ!」
その声音は軽やかに弾み、彼女にしては珍しい無邪気な遊び心を覗かせていた。
提案というよりも、楽しい未来をそっと覗き見るような響きにアニエスはぱっと目を輝かせ、すぐに頷く。
「素敵ですわ、ぜひそうしましょう!」
その弾む声に、マリアも遅れて頷いた。
「う、うん……いいね……外、気持ちよさそう……」
三人の間で何の迷いもなく決まる。
あまりにも自然なその流れに、三人は思わず顔を見合わせてくすくすと楽しそうに笑った。
朝の大広間は、いつもより少しだけざわついていた。試験が終わった解放感が、あちこちに軽やかな声となって散っている。その中で三人は籠を持ち、なるべく目立たないように──けれど楽しげに動き回っていた。
サンドイッチをいくつか。スコーンに、小さなジャムタルトとクッキー。紅茶の入ったポットも忘れずに。
こっそりと籠の中へ納めていくたびに、ほんの少しの背徳感が胸をくすぐり、そのくすぐったささえもまた、楽しかった。
「こ、これ……本当に持ち出して、大丈夫?」
マリアが小声で囁くと、アニエスが悪戯っぽく笑い、ぱちんとウインクをした。
「少しくらいなら問題ありませんわ。きっと誰も気づきませんもの」
「気づいても、きっと見逃してくれるわ」
「そ、そうよね……」
リリスが穏やかに言うと、マリアはほっとしたように微笑んだ。
その笑みはまだどこか遠慮がちで、控えめだったが、以前に比べればずっと自然で無理のないものへと変わっていた。
マリアにとって、リリスの隣は──アニエスのすぐ隣に並ぶ、静かに身を預けられる場所だった。
籠を抱え直しながら、マリアはそっと視線をリリスへ流す。それは何気ない仕草のようでいて、確かめるような──いや、確かめてもらうような動きだった。
ぱちりと目が合う。
その瞬間、リリスは優しく目を細めて微笑み、マリアもはにかむように笑う。
マリアの笑みには、頼ることを覚え始めた者だけが滲ませる、微かな甘えの色が宿っていた。
籠を抱え、三人はそっと大広間を抜け出す。
背後に残るざわめきが遠ざかるにつれて、胸の奥に広がるのは軽やかに弾む自由だった。
大きな樫の扉を押し開け──外へ出た瞬間、視界が一気に開ける。
校庭の芝生は青々と柔らかく、どこまでも続いていた。さわやかな風が吹くたびに、その表面がさざ波のように揺れ、太陽の光を受けて銀色にきらめく。空は高く澄み、薄い雲がゆっくりと流れている。
そのすべてが今日という一日を祝福し、最高の休日を演出しているようであった。
「……綺麗」
ほう、と感嘆と共にこぼれたマリアの呟きは風の中に溶けていった。
その声に、リリスは静かに頷いた。
穏やかな日差し、木々の囁き、小鳥の囀り──こんな日は、何かをするためではなく、ただここにいるだけで満たされる。
けれど直射日光はやや強く、程よく枝を広げた一本の木が影を落としている場所を見つけると、三人の足は自然とそちらに向いた。木の根元でリリスは籠を置き、鞄から羊皮紙を取り出す。杖を軽く振ると、それはすぐに形を変え、柔らかな布地へと変わる。
三人はその上に腰を下ろした。芝の匂いと、初夏の空気とわずかに湿った土の気配が混ざり合い、どこまでも穏やかな心地良さを作り出している。
籠を開けると、甘い香りと、焼き菓子の温もりがふわりと広がった。
「食べましょうか」
「ええ!」
サンドイッチを手に取り、スコーンにジャムを塗り、紅茶を注ぐ。
湯気がゆらゆらと立ち上り、空へと溶けていく。
「やっぱり外で食べると、いつもより美味しく感じますわね」
「うん……なんだか、特別……」
「同じものなのに、不思議ね」
そう言いながら、リリスは紅茶に口をつけた。すっかり慣れたホグワーツの味が、舌の上に静かに広がり、ゆっくりと身体の奥へと落ちていく。
小さく息を吐く。今日は外で食べよう、そう思いついたのはきっとこの開放感がそうさせたのだ。
リリスは最高の成績を収めるために、毎朝早くから予習をし、夜遅くまで復習をしていた。まだ試験の結果は届かないが、どの科目も学年一だろう、と自負できるほどの手ごたえはある。
マールヴォロに言われた言葉が呪いとなって自分を苛んだわけではないが──より、真剣に取り組む一因になったのは間違いない。
青々とした外の空気を胸いっぱいに吸い込んだリリスは、ふう、と残っていた何かを吐き出すように息をついた。
しばらくは、ただ穏やかな時間が流れていた。
話題を振るのはアニエスがほとんどだったが、リリスもマリアも無口なわけではない。
聞き上手なリリスに乗せられ、話題はころころと変わり、尽きることがなかった。
特別なことはない。ただ、食べて、笑って、他愛のない言葉を話す──それだけで充分だ。
「もうすぐ一年が終わりますのね」
「ええ。あっという間だったわ」
「わ、私……最初はすごく不安で……でも……今は、た、楽しいって思える……」
マリアが大切な秘密をそっと差し出すように笑う。その笑顔にはいつもの遠慮や焦りはなく、とても愛らしい優しい笑顔だった。
リリスはその表情を見つめながら、静かに頷く。
「来年は、きっともっと楽しいわ」
「そうですわね!」
アニエスも明るく頷く。そして、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、リリスの弟さんは、来年入学なさるのですよね?」
その目に宿る期待は、隠そうとしても隠しきれないほど素直なもので、リリスは小さく微笑んだ。
「ええ、そうよ。トムっていうの。覚えてるかしら? トムはとっても賢くて……素晴らしい弟よ」
その言葉には、自然と滲み出る誇らしさがあった。
「もちろん覚えてますわ。以前お会いしたときも、とても優しくて……素敵な方でしたわ」
アニエスはぽっと頬を赤く染めた。
その色と声音に、リリスの中で何かが静かに引っかかる。ほんの一瞬だけ目を細め──それから少しだけ悪戯っぽく笑った。
「アニエス、トムが好きなの?」
その問いは軽やかで何気なかったが、マリアは驚いて目を開きアニエスを見る。
アニエスは手にしていたサンドイッチを思わず強く掴み──その拍子に、挟まれていたハムがぴょん、と飛び出した。
「あっ……!」
アニエスは慌ててハムを押し戻しながら、顔を真っ赤にして視線を泳がせる。
サンドイッチを持っていない方の手が、落ち着かないまま髪先へと伸びて──くるくると指に絡めては、ほどき、また絡める。
「え、ええと……そ、そういうわけでは……まだ、よく知りませんし……ただ、その、とても優しくて……その……ハンサムな方でしたので……」
「ふふ……」
しどろもどろになりながらも気持ちを素直に表現し言葉を紡ぐアニエスの様子は、あまりにも愛らしくてつい、リリスは小さく笑ってしまった。
トムが好かれること自体は、嬉しい。けれど──。
トムがアニエスの隣にいる姿は、どうしても想像ができなかった。
考えようとすると、どこかで引っかかる。形にならない違和感が、静かに胸の奥に残る。
それは拒絶ではない。彼女達を見下しているわけでもない。ただ──隣に並ばないだろうことは、間違いなく事実だった。
「……本当に素敵な方でしたわ」
「ええ、そうね」
アニエスがうっとりとした様子で小さく付け足すと、リリスは浮かんだ考えを一切表に出さず頷いた。
話題はやがて自然と別の方向へ流れていき、しばらくして、マリアが少しだけためらいながら口を開いた。
「リリス……あの、夏休み、もしよかったら……私の家に、あ、遊びに来ない……?」
その声は小さく震えていたが、確かな勇気と願いが込められていた。
リリスは一瞬目を丸くし、それから嬉しそうに微笑む。
「まあ、いいの?」
「う、うん……来てくれたら……嬉しい……」
「それでしたら、わたくしの家にもぜひいらしてくださいな! 三人でパジャマパーティーなんて、いかがです?」
「あ……いいね……す、すごく楽しそう……!」
「わたくし、お揃いのパジャマを用意しますわ!」
次々に広がっていく計画に、マリアの声が少しずつ明るくなっていく。
リリスは紅茶を口に運びながら、その様子を眺めていた。二人の声が重なり、笑いが弾け、未来の話が軽やかに形を取っていく。
「ええ、もちろん。楽しみだわ」
その言葉は、心からのものだった。
本当に、嬉しい。
けれど同時に、その喜びをどこか遠くから見ている自分がいることも、リリスはよく知っていた。
彼女達の好意はまっすぐで、温かくて、何の裏もない。だからこそ美しく──だからこそ、少し力を込めれば壊れてしまいそうでもある。
来年、トムがここに来る。
そのとき、すべては少しずつ変わっていくだろう。
今よりも広がる関係。交わる視線。増えていく繋がり。
そして、自分はその中心で、静かにそれらを編み込み形にし、選び取っていく。
ゴーント家の価値を上げるために。
トムの未来の為に。
利用できるものはすべて利用する、愛情も、友情も、絆も。全て。
その思考は冷たいものではない。けれど、温かさだけだと綺麗事を言うつもりもない。
優しさと計算が溶け合った、確固たる静かな意志。
それでも──。
目の前で笑うアニエスとマリアの姿は、やはり愛おしいと思う。
その笑い声に、心が少しだけほどけるものまた、確かな事実だった。
完全に寄り添うことはできない。彼女達はそう思っても、本当の親友にはなれない。どうしても心からの信頼を向けることが出来ない。
けれど──離れることは、望んでいない。
リリスはそっとカップを置いた。
目の前では、アニエスとマリアがまだ楽しげに笑っている。
その光景は、優しく包まれるような安らぎがあった。
春の風がもう一度、芝生を揺らした。
「リリスは何色が好きですか?」
「え? そうねえ、パジャマなら、白か水色かしら」
三人の笑い声が、芝生の上を軽やかに転がっていく。
それはあまりにも柔らかく、あまりに穏やかで──儚く美しかった。