バベルの塔。その地下に広がる未知の領域──“ダンジョン”。
リムル=テンペストは、今、その入り口に立っていた。
周囲には冒険者たちが行き交い、ギルド職員の呼び声や、装備品の擦れる音、軽い口笛や怒鳴り声が飛び交っている。まるで戦場の前線のような、殺気と熱気が混じった空気が流れていた。
リムルは軽く息をつき、隣に立つ神──ヘスティアをちらりと見る。
「……あれがダンジョンの入り口、か。想像より……ずっと“生きてる”感じがするな」
「そうだよ。ボクも最初見たときはびっくりしたもん。あそこから下が、全部“迷宮”なんだからね」
その声音には、ほんの少しの誇らしさと、微かな緊張が混じっていた。
「リムル、初めてのダンジョンだけど……本当に一人で大丈夫?」
「俺、こう見えて結構慎重なんだよ。無茶はしないつもり」
リムルは苦笑して言いながら、腰の短剣にそっと手をやる。
ヘスティアに本当の力を見せるつもりはない。だからこそ、“普通の冒険者”としてこの世界でやっていくためには、制限された自分の力で、どこまでやれるかを知る必要があった。
《補足:第一階層における魔物の出現率は標準範囲。主にゴブリンおよびコボルトが出現。個体の戦闘能力は低いものの、連携や囲みに注意》
心の中で響く、シエルの冷静な声。心強いが、同時に緊張感も走る。
「了解。魔石の位置、敵の行動パターン、逐次解析頼むよ」
《承知しました》
「じゃあ……行ってくる」
「……うん。ボク、待ってるからね。絶対、無事に帰ってきて」
ヘスティアの祈るような声に、リムルは軽く手を振り、足を踏み出す。
その背に、女神の視線が静かに注がれていた。
◆
バベルの内部。魔力障壁を通過し、階段を下りていくと、空気ががらりと変わる。
ひんやりとした魔素に満ちた空間。淡く光る壁。どこからともなく聞こえる風のようなうなり。
それは、まるで“世界そのものが生きている”ような錯覚を覚える空間だった。
──ダンジョン第一階層。
「……異常な環境だな。空気に魔力が浸透してる」
《解析結果:空間そのものが自己再生構造を持ち、外部からの物理的影響を受けにくい。魔素は高度に安定しており、感知による追跡に注意が必要》
「自己修復機能か。面白いな……」
リムルはしゃがみ込み、足元の石を軽く指先で撫でる。
すると、壁の一部からわずかに魔素が集まり、傷を覆うように石が再生し始めた。
まるで肉体の細胞のように、ダンジョンは自らを“治癒”する。
「魔生物じゃん、これ……」
《正確には“異空間型自己生成構造体”。ただし詳細は不明。創造主不在》
「まぁ、それも調べる価値はあるな」
警戒を強めつつ、リムルはゆっくりと通路を進む。
そして数分も経たぬうちに──魔物の気配を察知した。
《接近中。ゴブリン2体、コボルト1体。左側通路から進行中。接敵まで約12秒》
「了解。先に動く」
リムルは静かに短剣を抜き、呼吸を整える。
心を無にして──足を踏み出した。
瞬間、風が鳴る。床を蹴り、通路の影から現れたゴブリンの背後に回り込む。
短剣が弧を描き、咽喉を一閃。血飛沫をあげる間もなく、ゴブリンは崩れ落ちた。
すかさず旋回。飛びかかってきたコボルトに向けて手をかざす。
「《風刃》──」
音もなく、鋭利な風の刃が放たれ、コボルトの脚を切断。苦悶の声を上げた隙に、リムルは無音で間合いを詰める。
──短剣が、再び命を断つ。
三体目のゴブリンが叫びながら迫るが、既に勝負は決していた。
後方に下がると見せかけて跳躍し、頭上から真っ直ぐに降下。
「ふんっ……!」
全体重を乗せた蹴りが、ゴブリンの頭を砕いた。
静寂。
《全個体撃破を確認。被弾なし。魔石回収を推奨》
リムルは短く息を吐き、倒れた魔物の胸部から光る魔石を摘出していく。
「……今のところ、想定通り。これなら問題なく金稼ぎできそうだな」
《周囲に魔物反応なし。現在位置は安全圏と推定》
「OK、少し休憩するか」
背中を壁に預け、リムルは水筒を取り出して一口。
ダンジョン内の空気は重く、呼吸を深くしないと酸素が薄く感じる。
だが、リムルにとってはそれすらも“心地よい刺激”だった。
異世界での戦いに慣れた身体。封印された力の一部でも、この程度の魔物には十分すぎる。
「……とはいえ、調子に乗らないようにしないとね」
リムルは天井を見上げ、薄暗い空間のその先に思いを馳せた。
この世界において、自分はまだ“新参者”だ。
無闇に力を晒せば、敵も注目も集まる。それは神々の干渉を誘いかねない。
今は、静かに。確実に、地に足をつけて生きる。
「……なあ、シエル」
《はい、リムル様》
「この世界の“深層”って、どれだけヤバいんだろうな。想像できる?」
《推測困難。現時点の情報では、階層が深くなるごとに空間構造および魔素圧力が指数関数的に増加している可能性あり。通常冒険者の到達限界は50階層前後》
「……つまり、俺ならもっと行ける可能性もある、と」
《はい。戦闘能力、反応速度、環境適応値ともに既存冒険者と比較し、著しく高水準です》
「だろうな。……でも、今は急がないさ」
リムルはゆっくりと立ち上がり、再び短剣を構えた。
「さ、もう少し潜ってみようか」
《了解。警戒モード継続》
そのまま、再び闇の通路へと踏み出していく。
リムル=テンペスト。かつて魔王と呼ばれた者は、今、“新人冒険者”として、一歩一歩を踏みしめていた。
それが、やがてオラリオ全体に波紋を広げることになるとは──まだ誰も知る由もなかった。