全く、乗りこなすこともなく。
「はぁ……っ、はぁ……! な、なんで!? こ、来ないでくださいよ……っ!」
マカジキ漁港。湖を回遊する巨大な“船”。無数のコンテナと一本の高い白磁の塔で構成されたメガフロートの片隅で、私は必死に逃げていた。
小脇に抱えた金庫が重い。肌に彫り込まれたばかりの入れ墨がまだ少しズキズキと痛い。
汚れた作業服の上から着させられた紫色のジャケットが、銃の代わりに吊るされた鎖が、薄いお腹に当たってとてもじゃないけど走りにくい。
「なっ、なんでぇ……!? 私、この荷物を運んでくれって言われただけなのに……!」
痛む肺からげほりと大きく咳をして、近くにあったコンテナの陰に身を隠す。飛び込んだ勢いのままアスファルトで固められた甲板を擦り、長ズボンの膝小僧がザリザリと破ける音がする。
「はぁ、はぁ…………。に、逃げなきゃ、また追ってきちゃ──」
ガツン。腹立たしげにバットで空きコンテナを叩いて回る乱暴な打撃音。
息を整えるまもなく、聞くからに粗野な男の人の声が、コンテナヤードに響き渡る。
「おい、ガキはどこいった!!」
恐る恐るコンテナの陰から顔を出すと、若くて背の高い無法者がバットを片手にのそりと歩みを進めている。
U社の中ではそうそう見ない焦げ茶色のコートと左腕の赤いスカーフは、きっと隣のT社から……それも裏路地からやってきた悪漢に違いない。
苛立ち混じりに舌打ちした彼は血だらけのバットであたりを威嚇しながら、コンテナ積み下ろし作業中の
「おいコラシカトしてんじゃねえ! こっちにガキが一匹逃げて来たはずだ! そいつがどこに行ったか見たのかっつったんだよ!」
「ひっ……! が、ガキ!?」
可哀想にも背の高いチンピラに絡まれた仲仕さんは、ヘルメットごと頭を揺らされる。
ちっと舌打ち。腹立たしげに眉間にしわを寄せて、手にしたバットを仲仕さんの足元へと振り下ろす。
ガツン。アスファルトを欠けさせるほどの振り下ろしと同時、もう一度とばかりに叫んだ。
「金庫だよ! 可愛らしいシールでデコった金庫を抱えたガキが走ってきただろ!」
「……! し、知らない! 彼女に関わらせないでくれ!」
シールでデコった金庫。その言葉を聞いて、仲仕さんは顔を真っ青にしながら首を振る。
目の前でバットを振りかぶる男の人よりも重大で凶悪な──恰もまったく別の命の危険があるようなそぶりで、半狂乱になりながら否認する仲仕さん。そんな彼を悪漢は思い切り突き飛ばすと、硬いコンテナにぶつかった衝撃でカエルが潰れるような悲鳴が聞こえた。
「やっぱりなんか知ってんだな!? どこ行ったか吐きやがれ!」
続けて打撃、苦悶の声。バットで肉と骨を叩き潰す音が響き渡る様を直視することも出来ず、コンテナの陰で身を縮こめる。
なんで。小さく零れる疑問に答えてくれる人なんておらず、当然。皆。それを疑問だとすら思わない。
飛び散る血の音、呻き声すら上げられなくなったヒト。ほんのわずかな間に奪い取られた一人の作業員の人生から眼を逸らし、「なんで」ともう一つ呟いた。
「……ったく、もうだんまりかよ」
からん。男は割れたヘルメットを放り捨て、ひしゃげた頭蓋を見下ろす。
頬にこびりついた血を太く日焼けした指で拭い、頭を完全に潰そうとバットを振り上げ──そこで小さく首を振って、腕を下ろす。
「……あの金庫の中に共鳴叉の一つでも入っていれば御の字なんだ。現状保存ボックスでもあれば、中身がちんけな
まるで自分に言い聞かせるみたいに呟く悪漢には、少しでも善いものであるようにと自分の好意を正当化するような声色で満ちている。
そんな女々しい呟きに、自然と奥歯がギシリと軋んだ。
──そんな事で。
ふつ、と。胸の奥がざわつく。ほんのりと鎖で熱されたお腹の奥から、むかむかと激情が沸き上がる。
他人が大事にしている金庫を盗んで、それをまた売り払って大金を得ていいはずがない。他の人の大事な命を無残に奪っていいはずがないのに。
キヴォトスでは考えることすら悍ましい禁忌を容易く成しておきながら、人を殺す重みから目をそらすような。そんなことは。
ぎゅっ、と。しゃがみ込んだお腹に当たる鉄の重みを感じつつ、衝動と共に立ち上がった。
「…………あの」
「あ゛ぁ? なんだてめえ今忙しいってわかんねえのかこのクソ……」
言葉が止まる。見開かれた紫の瞳、傷だらけの頬。眩しすぎるほどの陽光に照らされて、私の方を振り向いた彼の黒茶色の髪が色めいて乱反射する。
コンテナの陰に金庫を置いたまま、じゃらりと纏わりついた鎖を抱きかかえるように。ただ一人、バットを手にした暴漢の前に姿を現す。
てめえ。彼が口を開くより先、ほんの少しの情動に突き動かされた舌鋒が若い男の人へと飛んでいった。
「ひ、人を殺すより……金庫を盗もうとするより。普通にお肉が食べたかったら、毎日漁船で真面目に働いたら……良いじゃないですか? えっと……そ、それこそ日常
紫色の眼が細まる。バットがへし折れんばかりに握りしめられる。
「────っ。黙れよ、クソガキ」
震える唇。小さく俯いた男は、まるで濡れぼそり飢えた野良犬かのよう。
怒りを通り越した人をも殺せそうな程の視線を受けたのに、私はどこか可笑しくなって噴き出した。
「……ふふ。こんな子供でも分かるのに……お兄さん、頭悪いんじゃないですか」
「テメェ。いま……今なんつった!!」
その瞬間。激昂した男の人は、バットを手に踏み込んだ。ほんのわずか数メートルを一息で駆け抜け、逆袈裟懸けに振り上げる。
私は咄嗟に銃を撃とうとして、腕を前に。確かな重みにじゃらりと鈍い音が混じる。
「ひゃっ──ぁ、あれっ!?」
違和感。目を落とす。いつものように放たれるはずの弾丸も、銃も。それとは似つかない冷たさで置き換えられている。
いつも手放さなかったはずのショットガンは既に無く、代わりに力なく垂れ下がるのは重い鎖。引き金のかわりに握っていたのは、列車を繋ぐための鋼鉄のフック。
反動の代わりとばかりに鋼の鎖がバットで押し返される衝撃を受けて、ようやく、「そっか」と口先だけで呟けた。
そこからすぐに、もう一撃。思い切り振り下ろされたバットが硬いフックを叩き落とす。
じんと痺れる感触が腕を伝ったかと思うと、悪漢の靴先が私のお腹にめり込んだ。
「ぁいたぁ……っ!?」
大きく体勢を崩され、アスファルトに突き飛ばされた刹那。好機とばかりに、彼はバットを振り翳す。
高く南中した太陽を背に大きな影を落とす男は、普通に向かい合ったときよりももっと大きく感じられる。殺意にも似た怒気で肩を震わせる彼の表情は暗く陰って、見上げることも難しい。
──いつもこうだ。
ぐっと歯を食いしばり、じくじく痛む刺青だらけの腕を掲げる。少しでも顔を守る様に肩を縮める。
──いつも言葉が多くて、毒舌で。変に地雷を踏んじゃって。
そうして、いつも人を怒らせる。いつもいらない喧嘩ばかりを買ってしまう。
「……い、いや。今回ばかりは、勝手に襲ってきたんじゃ……」
「んだァ!?」
ひっ。耳をつんざく怒声と、バットを打ち下ろす風切り音。すぐ直後にやってくるだろう痛みに前もって耐えるように、硬くぎゅっと目を瞑った。
「アオバ!」
声が響く。ごうと風が一つ巻き起こる。バットで叩かれるよりも強く、自動車か戦車でも正面衝突したかのような風圧が私の頬を撫でてくる。
恐る恐る瞼を起こした私の目の前で、短く血に汚れた金色の髪が舞う。私と同じ紫色のジャケットが風になびく。
続けて一打。私と男の間に立ちふさがった彼が焦げ茶色のコートに拳を叩きつけるや否や、あんなに怖かった悪漢はコンテナヤードを越えてどこか遠くの裏路地へと吹き飛んでいった。
体中に巻き付いた鎖を小気味よく鳴らし、ごしゃりと到底人が出していい音ではない音を響かせて。
その下手人は、私を守ってくれた青年は、「アオバ」と安堵したかのような呟きを零した。
「兄弟姉妹への暴言と暴行未遂は……程度を問わない殴打2発と視界内からの消滅が妥当だったな。……まあお前が望むって言うなら、今から追いかけてもう一発くらい殴ってもいいけど」
どうする。入れ墨の彫られた肌を露出させながら細い腕の筋肉を盛り上がらせる青年に、私は小さく首を振る。
その様を見て震えが収まらないと見たのか背をかがめる青年へ、もう一つ首を振って尋ねることにした。
「ま、末弟さん……なんで? 今東の方にいるんじゃ」
見上げる。伸びた影が私の顔にかかる。他人行儀な呼び方はやめろよと苦笑する金髪のお兄さんは、いたずらっぽく零す。
「兄貴に呼ばれたんだよ。日も当たらない鴻園の仕事がひと段落したなら、海でバカンスでも楽しんで来いってさ」
「ば、バカンス……。ご、ごめんなさい。そんな、休みのときに」
私だって誰だって、休みの時くらいは人と関わりたくないだろうに。
ひとりでに俯く目線を受けて、末弟さんは慌てたように顔を背けた。
「……冗談だ。ほんとはな、例の裏切り者を探す人手が足りないって訳なんだよ。ほら、南部の兄弟達は黒仮面の野郎に兄貴姉貴たち皆纏めて殺されてしまったらしいだろ?」
「あっ、……そ、そうなんですね」
「はぁ……。まあそいつに復讐するのは僕の役目じゃない。南部から姉貴が独り、そいつを探して件の噂に聞く“図書館”へ旅立ったって聞いたからな」
溜息。末弟さんは手帳くらいのサイズの帳簿を私に見せて、「仕返し帳簿くらい読んでおけよ」と暗に示す。
びっしりと項目と誰か人名の書かれた帳面をちらりと上目に見て、目を伏せる。
生徒手帳もマニュアルも、一通り読んだって頭に入らない。結局何度かやって、必死に書きつけたメモと睨めっこしながらやったら、なんだか徐々に出来るような気がしてくる。ハイランダーでもどこでも、結局その繰り返し。
「ええっと、それじゃあ……ホントにバカンスで……?」
いやなことを思い出しそうになるいつもの癖を打ち切り、尋ねる。末弟さんは静かに、そんなわけないだろと首を振った。
「クィークェグ」
ぽつり。つぶやかれたのは、一人の女の人の名前。
キヴォトスでもこの都市でもどこでも、まったく聞き覚えのない奇妙な響き。
クィークェグ。憎悪すら籠めた低く冷たい声でもう一度繰り返す。
「…………僕たち家族を裏切ったあの女を殺す。中指の絆を投げ捨てたあのクソアマに、僕たちの恨みの深さを思い知らせてやる。
髪の毛を引っ掴んで四肢を捥ぎ背骨を真逆に圧し折って、全身の皮を引き裂き筋肉一本一本から切迫結びのロープに作り替えて。そうして夕日の赤より目立つ赤色で刻み殺すんだ」
「……えっ?」
「だから、僕らを裏切ったことを後悔させてもさせ足りないほど痛めつけて殺すんだよ。無口な大男だって、この前入ってきた金髪の新入りだって、誰だって僕と同じことをする。当然だろ?」
何度聞いても、聞き間違いではない。
裏切られたら悲しいけれど、それも結局諦めてばかりだったから。仕返しをしようにも出来ないし、したとしても人を殺すほどの仕返しなんて考えたこともなかったから。
「あ、あの……殺すって、その。あの……末兄さんも?」
恐る恐る尋ねる。頭に浮かぶのは、この金庫を任せてくれた末兄さんのこと。
裏路地で私を拾ってくれて、入れ墨を入れた時には盛大に祝ってくれた、あの明るい赤紫染めの男の人のこと。
だけど、末弟さんは顔色一つも変えずに返すだけ。
「ああ、きっとな。俺たち中指の家族は、家族の輪から逃げた奴を金輪際許さない。……そんなの当然だろ」
「こんな……可愛いシールが好きな末兄さんでも」
金庫に張り付けられたシールに触れ、指の腹で撫でる。顔と雰囲気が怖いゲヘナの生徒さんにもかわいい趣味を持ってる人はいる。ふざけてばかりの幹部2人組だって、お堅い眼帯の監察官にだって。
人を外見で怖がったり舐めたりしちゃいけない。可愛らしい趣味をしている人は、年頃に優しい人が多かった。
──だから、きっと。ホントのところじゃ優しいはずの末兄さんも、人を殺すのに躊躇いがない人だなんて。何かの間違いだって。
その様子を見咎めたのか、青年は顔を顰めながら苦言を呈した。
「……あのなぁアオバ。いくら家族って言ってもな、兄貴の趣味を変に言うもんじゃない。多様性を無視してはいけないって帳簿にも書いてある」
「ぇっ、いや、そんなことは」
慌てて手を振った私に、末弟さんはじとりと視線を向ける。
そのまま数秒何かを考えたのか、彼は一つため息と共に吐き出した。
「…………お前の優しさは、末妹たちの中でも飛び抜けてるけどさ」
こういう物言いのときは、大抵は怒られが発生する時。少しだけ褒めるふりをして、そこから本題の説教に続くパターン。
「僕たち中指は……別に簡単なお使いばかりをこなすだけの集まりでもなければ、都度パーティを開いて踊ったりカジノに興じるだけのチンピラでもないんだ」
ほら。これだ。
俯いた私の肩に手を置く彼の視線は、まるでわがままな妹を諭すかのようで。
「家族と義理のために、同じ中指の家族のためならなんだってやる。そういう思い切りの良さが大事なんだよ……わかるか?」
じろり。射抜く。私に期待が上乗せされる。
わかりました。小さく頷いたのを見た末弟さんは良しとばかりに頷き返す。それで話はおしまいとばかりに、私が小脇に抱えた金庫を受け取ろうとする。
「ほら、持ってやるよ。重いだろそれ」
だけど、それって。
「…………で、でも……だからって、人を」
目を瞑る。言わないと。指に力が入る。筋肉の無い細い腕が固く金庫を抱きしめる。ギラギラと輝く太陽が刺青に照り返し、ちかちかと瞼の裏に影を送る。
「ん。どうした?」
「いえ……何でもないです」
言い淀む。心配そうな末弟さんの声で、はっと気付いて首を振った。
「ん……ああ。そういうことか。兄貴に直々に任されたおつかいだもんな。僕が代わりに運んだりしちゃ、お前のためにならないよな」
それだけ言って、彼の男らしい骨ばった腕が金庫から離れる。ずしり、と重さを増したように感じられる。
勝手に勘違いされて、勝手に上乗せられた期待が肩を少しずつ重くする。
……別に、持ってもらうくらい良いと思うけど。別に、金庫を自分だけでしっかり抱えて輸送しようって思うほど責任感が強いわけではないけれど。
──本当に言いたかったのは、違うこと。
……そもそも人から預かったものをキチンと運ぶなんて当たり前だし。そんな当然のこと、改めて考えることすらなかったんだし。
──だけど指摘するほど、出来るほどの人じゃない。気軽に暴力を振るって、気軽に人を殺してしまえるような人は、何より怖い。
……喋っても喋らなくても。いつ地雷を踏んで怒られが発生するか、わからない。
「アオバ。気負ってるのはわかるけど……力を抜けよ。僕は別に、多少のことじゃ兄貴に告げ口なんてしやしないから」
多少のこと。それって、金庫を奪われる以外にどんな軽いことがあるんだろう。
「さっきの奴は俺たちがキッチリ落とし前を付けさせるからな。……ったく、次見たら福笑いができるくらいには顔面をぐちゃぐちゃに刻んでやらないと……」
そんなこと、しなくていいのに。荷物を狙ってくるなら、追い返してやるくらいで十分だと思うのに。
「ああ、もしかしてもっとキッチリ復讐してしておきたい感じか? 任せとけ、そういうのに詳しいヤツが南部中指の兄弟にいるから……」
──だからあなたは、人が嫌いなんでしょう?
ぐるぐると回る思考に、女の人の綺麗な声が混じった。本能的な嫌悪感と共に目を瞑ると、外から語り掛けられる言葉が徐々に聞こえるようになってくる。
瞬き。ねじ切れて曲がってしまいそうなストレスの中で、私を心配そうに見つめる青年が見える。
出来るだけ私を励まそうとしてくれる、決定的に勘違いしているけれど素朴な人間性が見えてくる。
「えっとな。だからな、アオバ。僕が見ているからとか重く考えるなよ。しっかりやりきって、兄貴を喜ばせてやれ。お前だって中指の兄弟姉妹なんだからさ」
「……えと、あの。なんで私に、言うんですか」
口をついて、言葉が漏れる。尋ねてはいけないんだろう思いが、残してはならない文字とは違った形でこぼれていく。
言ってしまった。はっと後悔するより先に、末弟さんを仰ぎ見る。
金髪の彼はきょとんと瞳を見開き、続いて私に手を伸ばした。
このまま叩かれるか、張り倒されるか。容易く人を殴れるような人が、こんなことを聞いた私にどんな仕打ちをしてくるか。
こんな時においても嫌な想像ばかり。絶対に怒られるような未来ばかりに期待して。痛みを少しでも逃すよう瞼を閉じて。
ぎゅっと強張らせた頭に、期待外れの掌が乗せられた。
「そりゃあ……お前はまだまだ弱いからな。思い切りぶちかませばいいってところでもブレーキをかけてしまう癖がある。まるで、昔の僕みた────」
そこまで言って、末弟さんは固く唇を食いしばった。呆気にとられる私から目をそらすよう、ぽんと掌が数度。私の髪を叩く。
「と、とにかく。お前は危なっかしいんだよ。そんな末妹がいたら助けたくなるのも当然だろ。まず目の前で困ってんだから。困ってるやつを助けるのは当たり前なんだから」
その言葉は、どうにも。根本的に擦れ違っているのに。
不意に。思わず。言葉が先走る。
「……へへ。そんなに、頼りないですか」
末弟さんの掌が離れる。ふんと鼻を鳴らした彼は、あくまでぶっきらぼうに呟いて。
「ったりまえだろ。2年は早い」
ああ、でも。
気恥ずかしげに頬をかきながら、末弟さんはぽつりと口を綻ばせた。
「……さっきはよく逃げなかったな。あのままこっそり逃げてチンピラ風情に舐められたままよりは、よっぽど良い。偉いぞ」
「……誰が。チンピラ風情だって」
その時。潮風が一つ、甲高く啼いた。
ざり。嵐の前の静寂のように、ぼろぼろのコートを纏った男が現れる。
ざり。破けた服に折れかけのバット。血で薄汚れた身体に目線を隠す髪の毛。亡霊にもよく似て淀んだ瞳。
傷だらけの顔に更に大きく傷を作った男は、見覚えのあるバットを片手に瀕死の身体を無理矢理歩ませる。
「…………性懲りようもねえ狂犬だな」
じゃらりと鎖を握りしめた末弟さんが飛びかかるや否や、暴漢は合わせるようにバットを振るった。
刹那。ごいんと数度金属の打ち合わされる音。男の身体を包み込むように吹き出す紫色の燐光が、末弟さんの拳を絡めて弾き返す。
うめき声とともに吹き飛ぶ末弟さんに向けてバットを数度振り下ろし、頑丈なコンテナを破壊した反動で大きく飛び退く。コンテナを突き抜けて小麦粉にまみれた、末弟さんの拳が空を切る。
「ちっ。強化施術でも隠していたのか? 確か72条3項あたりの……」
舌打ち交じりに手帳を開いた青年に向けて、悪漢は怒声を迸らせながらまた奔った。
「ちったあ黙れよクソったれ! てめえも!! クソガキも!! うるせえんだよ頭ん中で!!」
バットが振るわれる。鎖と、拳がぶつかりあう。紫色の燐光が恰もミレニアム製のバリアかのように纏わりついたチンピラを尻目に、末弟さんは手帳を閉じて蹴りを入れる。
「……よし。未確認の強化施術で中指を脅かすようなのは死ぬまで殴って良いってさ! よかったなアオバ、お前の恨みは綺麗さっぱり清算出来るぞ!」
「……何が死ぬまでだ、舐めやがって!!」
蹴りの一撃でコンテナを数個吹き飛ばし、返す刀とばかりに男はバットで末弟さんを空高く打ち上げる。
飛んでいく先はコンテナヤードの端。黒い針葉樹の材木がそのまんまの姿で捨て置かれた材木場。途中から圧し折れたバットを放り捨てながら、獣が吠えた。
「俺は、まだ……まだ、死んでやるわけにはいかねえんだよ……!」
折れたバットの代わりに、壊れたコンテナの中に積み込まれていた小麦袋を手に取る。
紫色の光を迸らせながらまっすぐ一直線にコンテナヤードを駆け抜ける。
「お前が! 代わりに死んじまえ!!」
ピシリ。ソニックブームとともに、鏡が割れるような音が響き渡る。一跳びで積み上げられた材木を飛び越えた悪漢はずしりと小麦粉の詰まった大きな袋を振りかざし、空から落下してきたばかりの末弟さんへ向けて叩きつけた。
「──っ、まっ、末弟さん!!」
はっと我に返ると同時。私は立ち並ぶ壊れたコンテナの間を必死に駆け出した。
任された大事な金庫を置き去りにして、重たい鎖で走りにくい脚を動かす。
いつも、いつも。動くのが遅いって怒られる。
いつも、いつだって。こういう非常事態にはテンパってしまう。思考を放棄して、他人事のようにみてしまう。
よくないことだ。いつか1年生の時に怒られた記憶がこだまする。
「…………知らねえだろうが。テメエらは! 俺たちのことなんざ!!」
息を枯らしてアスファルトを踏みしめた。悪漢は何度も、何度も、絶叫しながら死体袋を振り下ろした。
「マットの兄貴には、少しでもマシなメシ食って貰わねえといけねえんだ! いつまでも腐った油でギトギトのフィッシュアンドチップスじゃ示しがつかねえ!」
ぐちゃり。倒れた末弟さんに叩きつけられる衝撃が、少し離れた私の方まで伝わる。
「デッドラビッツの野郎どもにも! 狼の没落パブにも!! クソッタレのアダムスファミリーと殴り合うしか出来ねえ俺達に、普通に色があって普通に24時間生きられる生活なんて残っちゃいねえ!」
ぐちゃり。袋から血が滴る。誰のものともわからない血が、キラキラと赤黒く色めいて陽光を散らす。
「なにより……このまま場末で腐ってちゃ、■■■■■に合わせる顔がねえ!!」
──そんなことで。
ふつふつと湧き上がる激情が、怒りが、私の脚を突き動かす。
盲目的に袋を打ち付けている男には、それ以外のことなんてなんにも目に入ってすらいない。
……そんなことで。
「だから、お前らが! お前らの持ってる普通って奴を! ちったあ俺にわけてくれてもいいだろ!!」
そんなことで、私が。末弟さんが。末兄さんの大事な金庫が、突然襲われなくちゃいけないのか。そんな身勝手な理由で、私を褒めてくれた人が傷つかなきゃいけないのか。
歩く。詰め寄る。走り出す。
一歩一歩と、鎖が軽くなっていく気がした。
「偉そうに色づきやがって! あんなクソみてえな裏路地のことなんざ、なんにも知らねえガキどもが!!」
「────知らないですよ、そんなこと!!」
どん。思い切り、悪漢を突き飛ばす。死体か何かでも詰まったような袋を潰し、握った腕を拉いだ瞬間、まるで私の力じゃないみたいに膂力が溢れてくる。
小さく呻き声を上げて吹き飛んだ男を、そのまんま乗り伏せて、馬乗りになって。
激情でぐじゃぐじゃになった視界のままに喉を涸らす。
「す、好き勝手に自分の都合ばっかり話して! わたっ、私が! なんの心配もわだかまりもない子供だって馬鹿にして!!」
襟元を掴んで、胸板を叩く。アスファルトに男の後頭部を打ち付ける。
「私はっ、こんな、こんなところ来たくて来たわけじゃないのに! もっと変なところで迷子になって!! 先生も誰も見知った人がいないって言うのに、誰も助けてくれなくって!!」
唾を飛ばし、涙を飛ばし、彼が吐き出した血だけが返ってくる。
「銃も誰かに盗まれて、誰も彼も私の事なんて見てくれなくって! みんな、みんな、私みたいな子に気をかけてくれなくって──でもっ!!」
拳を振り上げる。どこにも行き場所のない、誰にもいえない感情が、じくじくと痛む入れ墨を伝った。
「唯一助けてくれた末兄さんに、末弟さんたちに、少しでも手助けしたいって思うのって! 別に普通の事じゃないですか!!」
胸板を殴る。誰かに聞いてほしい、答えてほしい。そんな思いだけで、一つ。
げほりと何処か肋の折れる感触。肺腑の潰れる手触り。
「私だって! 末弟さんや末兄さんが、なんだか危なくて、怖くって、いつ期待を裏切られるかってビクビクしてるのに!! だけど、頑張ってやることだけはやらなくちゃって!!」
「それが、そんなに悪いことなんですか!? あなたなんかに襲われなきゃいけないくらい、いけないことなんですか!?」
何かを言おうとした悪漢の顎へ、自然と拳が吸い込まれていった。
ただのそれきり。顎が砕けて、肉が裂ける。酷く出血が滲んでいく。
「わ、私が、何をしたっていうんですか…………ねぇっ!」
ごしゃり。もう一つ拳を叩きつけて、肩で息をするように空を仰いだ。
誰かの大事な人であったんだろう人に乗り伏せて、誰かの痛みを刻み込んで。
荒く息を吐く。過呼吸になるほど息を吸う。
仰いだ空には雲一つない蒼天。じりじりと炙るような日差しを降り注がせながら、ゆったりと白い鱗雲が流れていく。
生ぬるい潮風が頬を撫でて、じめりと汗ばむ熱気が首筋を浸す。
……あ。
嚥下した唾。混じる鉄の味。酸欠で朦朧とする目を寄せる。じくじく痛む入れ墨。
内側から震える二の腕を抑え。添えた掌をゆっくりと手首に伝わせれば、熱された鎖と大きなフックが軋む。
ぬちゃりと嫌な感触を返す指で拳をなぞる。無理な力に裂けた皮膚が痛みを返す。小刻みに震える手は別の生き物かのように、硬くこわばった拳が血塗られた鈍器を離してくれない。
「こんな、こと」
誰に? 先生に、それとも周りのみんなから?
そんなこと。
その時。ぽん、と肩に手が置かれる。
振り向くとそこには、満面の笑みの末弟さんがいた。
「──良い顔だ。流石、僕たちの妹だな」
血で汚れた顔。端正な顔立ちが大きく歪み、腫れ上がった頬の下で口角を上げる。
背中を押すように肩を押し、くたばれとばかりに中指を突き立てて。
ただ。それだけで。私の怒りを承認してくれる。
私が叩き伏せてぐちゃぐちゃにした誰かの人生を。
私が乗り伏せて殴りつけた誰かの生命を。
私達の敵だって言い切ってくれる。どうしようもなかった敵だと断じてくれる。
どんなに不格好でも無様でも、私が抱いた苛立ちは、別に隠したりしなくて良いんだって。そのままやり返して良いんだって。
「へへ……えへへ」
思わず。自然に。喉が鳴る。
面白いことじゃないはずなのに、誰にとっても悪いことなはずなのに。
なぜだか、今が一番。この世で一番の笑いが溢れていった。
「えへ、へへへっ! はははっ!!」
三日月に歪んだ口元から。心の底から。
どうしょうもなくなっちゃった、どうでもよくなった私が一人承認される証左。
「さっ最初から、こうしてれば良かったんだぁ……っ!」
みんなが褒めて、みんなが怒ってくれるここでなら。
思い切り、蹴りつける。頭をつなぎとめる首が曲がり、胴をくの字にして、材木場に放置された黒い木々へとぶち当たる。
がらがらと崩れ去っていく大樹の成れの果て。誰がが切ってきて、誰かが乾かしている最中だろう、そうして誰かに届けられるのだろう努力の結晶を、まるきり形無しにしてもいいんだって。
鋼鉄のフックを鈍く煌めかせ。何十トンと知れない列車すらも繋ぎ止める、古い形の連結鎖を握りしめ。
振り翳す。振り下ろす。ただそれだけで、夜も眠れないほど悩んでいたことなんか、もはやどうでもよくなって。
青葉の茂る大木は、ただの一打で圧し折れた。