「この財布の中身を、ぜんぶ使ってやろう」
少年は、河川敷で拾った財布を眺めて、そう決意する。
十二月も半ば、吐く息が白くなるような寒さの夜十時。暗い決意を固めた少年を咎めようとする者は、辺りには一人もいなかった。
『人に優しくしておきなさい。きっといつか、やってよかったと思えるから』
六年前。少年が十歳だった頃に、父から掛けられた言葉だった。
単身赴任先へと一人向かっていった父の背中を見送りながら、いつか再会する日に胸を張りたいと少年は強く思った。
少年は、父の言葉をさっそく実行していった。
十一歳の時に、担任の先生が持ってる重そうな荷物を持ってあげた。
その先生は少年を見ると、いつも荷物を押しつけてくるようになった。
十三歳の時に、友達のラブレターを代筆してあげた。
見事に意中の相手への告白に成功した友達はその日から、少年と下校してくれなくなった。
十五歳の時に、町内会の同級生のゴミ拾い当番を代わってあげた。
そのうち同級生は、自分の番になると当然のように少年にゴミ袋を押しつけるようになった。
「父さんの嘘つき」
人に優しくしても、返ってくるのはせいぜい形式ばったお礼の挨拶ぐらいだ。
続けていく内に優しさは当たり前になり、最後には相手にとって利用できることに成り下がる。
「人に優しくしてよかったなんてちっとも思えないよ、俺」
十六歳になった少年の心中には、単身赴任から未だに戻ってこない父への反抗心が少しずつ、
だが着実に膨らんでいた。
膨らんだ気持ちが破裂したのは、財布を拾った時だった。
十五歳の時に押し付けられてからもずっと続けている、町内会によるゴミ拾いの当番。寒空の下でブルブル震えながら巡回コースの河川敷を歩いている途中、ふと雑草の中に見つけたのだ。闇にまぎれて消えてしまいそうな、黒色の財布を。
その財布を目にした時、少年は一瞬だけ既視感を抱いた。しかし、そんな些細な感覚を気にかけるより先に、彼の体は動いていた。自分の胸ポケットの中に、その財布を突っ込んでいたのだ。
コートの下に脂汗がじっとり滲むのを感じながら、少年は辺りを見回す。
寒空の下でわざわざ夜の河原に足を運ぶような人間は、少年以外には見当たらなかった。
「これはきっと、千載一遇のチャンスだ」
少年は、そう確信した。
「人に優しくするのはもう、やめにしよう。これからは、自分が人を利用してやるんだ」
少年はこの日、はじめて父の言葉に逆らうことを決める。
その手始めとして、この拾った財布の中身を全て使ってやろうと、決意を固めたのだった。
「財布の中身、どこで使おうかな……」
少し悩んだ末に、少年は近所のコンビニに行くことにした。
少年は人生でコンビニに、入ったことがない。
あまり豊かではない家計をやりくりするために、少年の母がコンビニ禁止令を出したからだ。
だからこそ、ここ以上にふさわしい場所はないと思った。これは、家族の言葉に逆らう第一歩なのだから。
「いらっしゃいませー」
入ると同時に、店員から掛けられるハッキリした声。店内に流れる、流行りのJPOP。レジ前で湯気を立てるおでんから漂う、香ばしい出汁の匂い。
始めて味わうコンビニの店内は、少年の心臓をワクワクと高鳴らせた。
(自分のためだけに生きるって、こんなに楽しいんだな……)
やっぱり自分はそう生きるべきなんだ、と自分の考えに確信を得ながら少年はレジに向かう。
買うべきものは、もう決まっていた。
「いらっしゃいませー」
「あ、あの‼︎ に、肉まんを、ください‼︎」
緊張で声を変に上ずらせつつも、なんとか注文を口にする。
肉まんは、コンビニに行くと決めた時に少年の脳裏に真っ先によぎったものであった。
数多の学生が、気軽に購入する食べ物。コンビニ前で友人とダベリながらそれを頬張る光景は、現代日本における冬の風物詩。しかしその光景は、コンビニに入れなかった少年にとっては遠巻きに見つめることしかできなかった光景でもあった。
それが今は、こんなにも近くにある。今もレジ横でホカホカと温められているあの饅頭にかぶりついたら、一体どんな味がするんだろう。
じゅるりと、口の中にヨダレが湧いてきた時だった。
「肉まんですね。ひとつでよろしいですか?」
「え……?いや、えっと……」
店員に問われて、少年は言葉に詰まる。とりあえず1個にしようか、それとも贅沢に2個も頼んでしまおうか。
しばし悩んでから、根本的なことに気づいた。
(この財布……中にいくら入っているんだろう……)
拾った時は早くこの場を離れなきゃという一心だったため、中身に関してはノータッチだった。
(ど、どうしよう……もしも、全然お金が入ってなかったら……変に思われる、かも……)
急に湧き出てきた疑問に背中を汗ビッショリにしながら、少年は拾った財布を取り出し、恐る恐る開いた。
(せめて、肉まん1個分ぐらいは、入ってますように……‼︎)
結論から言えば、少年の不安は全くの杞憂だった。
財布の中にはぎっしりと、一万円札が詰まっていたからだ。
「えっ……」
そのあまりの額に、少年の思考は一瞬フリーズして。
その手の中からポトリと、財布が落下した。
「あ、わっ……‼︎」
チャリーン‼︎ 小気味いい音を立てて、財布に詰まっていた小銭がばら撒かれた。
「あわわっ……‼︎スイマセン、すいませんっ‼︎」
ほとんど反射で出た謝罪だった。次の瞬間に少年はしゃがみこんで、落ちた小銭をせっせと集め始めていた。
(……あれ?そもそも、この小銭……拾わなくて、いいよな。お札は沢山あるんだから……)
百円玉を三枚ほど拾ったあたりで、そんな考えが少年の頭をよぎった。
さっきから緊張で失敗ばかりして、自分の顔が真っ赤になっているのは見なくても分かる。さいわい万札はいっぱいあるのだから、こんな小銭は無視してさっさと支払って立ち去るのが賢い選択だろう。
自分はもう、自分のことだけを考えて生きると決めたのだから。
(……こんな小銭、ほっとけばいい。ほっとけばいい、のに……)
しかし、ストップをかけようとする頭の中とは裏腹に、少年の手はヒョイヒョイと一円玉や五円玉を集めていた。もう落とさないように、一枚一枚を丁寧に。
(こんなに沢山の、お札や小銭……たぶん、この財布の持ち主は仕事をいっぱい頑張ったんだよな。どれだけ、頑張ったんだろう……)
手を動かしながらも止まらない彼の思考はやがて、顔も分からない財布の持ち主に思いを巡らせる。
(そんな人の財布を俺は、今から……それで、いいのかな……頑張ったりなんか、全然してないのに……)
さっきまであった胸の高鳴りは、嘘のように消えていた。代わりにあるのは、ズキズキとした胸の痛み。これからの自分は人を利用する側になると、決めたばっかりなのに。
(そうだ……俺はもう、人に優しくなんかしない……利用する側になるんだ‼︎ だから、この財布だって、俺のために使ってやるん……え?)
ポトリ。
全ての小銭を拾った少年の目の前に、財布が落ちてきた。
少年のものではない。拾った財布でも、ない。
(じゃあ、誰の……っ)
視線を上げて、気がつく。
「ありがとうございましたー」
店員に見送られて今まさにコンビニを出ようとしている青年の、ズボンのポッケが破けていることに。
出入口の自動ドアは閉まりつつある。いま声をかけなければ、彼がこの財布に気がつくことはないだろう。そうなれば少年は、2個目の財布を手に入れることができる。
(いま、声をかけなければ……あの人がいくら後悔しても、もう遅いんだ……)
青年がこれから浮かべるであろう表情を、少年は脳裏に浮かべる。目の前にいる人間の顔を想像するのは、あまりに簡単だった。
最初はポケットが破れているのに気がついて、それから顔の血の気が引いていくのだろう。地団駄を踏みしめたり、パニックで叫んだりするのかもしれない。
その感情の原因の一端を担っているのは間違いなく、自分なのだ。
(…………………おぇっ)
想像したら愉快になると思ったのに、現実は真逆だった。嫌いなものを無理やり飲み込んだような、喉奥に尾を引く嫌悪感。あまりにも不愉快なその気持ちを止める方法は、一つだけしか思いつかなかった。
「……あの‼︎すいません‼︎」
少年は大きな声を上げて、自動ドアの向こうに消えかけている青年を呼び止めた。
「本当に、ありがとうございます」
通りすがりの青年はそう言って頭を下げてから、コンビニを後にした。
結局、少年も彼に続いて、コンビニを後にした。
次に行くのは当然、交番。まだひとつ、落とし主の元を離れた財布が手元にあるのだから。
(結局……人を利用なんてできないんだな、俺……)
自分の性分を自覚して苦笑いが出るが、心の中はいつになくスッキリと晴れ渡っていた。
『人に優しくしておきなさい。きっといつか、やってよかったと思えるから』
父の言葉が、脳裏にフラッシュバックする。
(これでよかったとはまだ、思えないけれど……これからも、人に優しくしよう)
その第一歩として、まずはこの財布を届けるのだ。
交番の前に着いた少年は拾った財布を取り出しながら、改めて決意をする。
「すいませーん‼︎ 財布を拾ったんですけれ、ど……」
交番に入ると、少年は見覚えのある姿が交番の中にあることに気がつく。
「……父さん⁉︎」
「おう、お前か。久しぶりだな」
まさか交番で再会するなどと思わず、変に上ずった声が出た。
「ど、どうしてここに……」
「いやぁ、仕事の関係で何日かこっちに戻ってくることになってな。せっかくだから、少し驚かせようと思って」
「お、驚いたけど、そっちじゃなくて‼︎ どうして、交番に⁉︎」
なにか事件に巻き込まれたのかと顔を青くする少年に、少年の父は笑って返す。
「あぁそれなんだよ、お前にも聞いて欲しいんだが……お?」
そこで彼は、少年が持っているその財布に気がついた。
「おぉ、それは俺の財布じゃないか。お前が拾ってくれてたのか? 落としたことに気がついて、慌ててここに駆け込んできたんだよ」