【完結】潜誠の盾:元“処刑人”のボディーガード。シングルマザーを守る 作:冬蜂
朝6時。ロンドン・ヒースロー空港。
空気がまだ、眠っていた。
ヒースローの国際線ターミナルは、朝6時の光にすべてを洗われる前の、一瞬の静けさをまとっている。
チャールズ・“チャット”・フィンリーは、その静けさが好きだった。
ガラス張りの天井――高く、透き通るようなアーチの向こうで、空が白みはじめている。夜と朝の継ぎ目。
その微妙なグラデーションが、照明の下にある空間に、ほんの少しだけ現実味を取り戻させる。
彼の姿は、この空港の朝の空気のなかで、どこか場違いなほど際立っていた。
スーツはぴたりと体に沿い、歩くたびにリズムを刻むように揺れる。
整った所作と沈着な空気をまとい、ただそこに立っているだけで舞台の中心のように見えた。
グレイッシュなブルーグリーンの瞳は、朝の光を受けてひそやかに輝いている。
深く彫られた顔立ちは、アラン・ドロンを思わせる輪郭。
エリザベス・テイラーのような品を帯びた目元と口元。
あまりに整っていて、偶然では説明のつかない顔だった。
金に染めた髪は、光を浴びて高級な絹糸のように反射していた。
だが、彼はその美しさを誇示せず、どこか飄々としていた。
自分の印象を測るような気配はなく、むしろ他人の目をすり抜ける術すら心得ているように見える。
それでも、人は二度見した。
何かを見逃してはいけない気がして、ただ、もう一度振り返る。
そのときだった。
目の前を歩いていた親子の足元で、小さなぬいぐるみがころんと転がった。
ベージュ色の、少しくたびれたクマのぬいぐるみ。
それを落としたのは、母親に手を引かれていた小さな女の子だった。
チャットはすぐに立ち止まり、スーツの膝をほんのわずかに折って、そのクマを拾い上げた。
軽く埃を払うように手で撫で、少女に追いつくと彼女の前にそっと差し出す。
「おっと、お姫さま。
大事なお連れを置いてきちゃうところだったね」
チャットはそっとぬいぐるみを持ち上げ、笑みをたたえて差し出した。
「この子、君がいないと旅に出られないって――
どうやら、とても忠実な騎士らしい」
少女が目をぱちくりとし、クマを抱きしめる。
そしてチャットの顔を見上げ、はっとしたように目を見開いた。
頬が、ほんのりと桃色に染まる。
少女は恥ずかしそうに目を逸らすと、母親の足元にぴたりと身を寄せた。
クマのぬいぐるみを胸に抱え、ちらちらとチャットを見上げては、またすぐに視線を落とす。
その様子に気づいた母親が立ち止まり、チャットに向き直る。
「まあ……ありがとうございます。
この子、本当にこのクマが大好きで……」
チャットはくしゃっと柔らかく笑った。
ワイシャツの袖口を直すような何気ない仕草が、どこか舞台上の貴公子めいて見える。
「どういたしまして」
チャットは微笑んで少女に軽くうなずくと、母親に目を向けた。
「きっと彼女には、ちゃんと果たすべき役目があるんですよ。
……王国の守り神を無事に届けるという、大切な使命です」
母親が少し驚いたように目を丸くしてから、ふっと笑みをこぼした。
「まぁ、あなた……俳優か何かですか?」
「俳優に見えましたか?」
少しだけ肩をすくめて笑う。
「残念ながら違います。
ただの、旅先で台詞回しが止まらなくなる男です。
多少、演出にこだわりがあるだけで」
チャットは軽くウィンクした。
母親は肩を揺らして笑い、赤ん坊を抱え直した。
「ニューヨークにいる夫に会いに行くんです。
この子たちの父親で」
赤ん坊は眠っているのか、母親の胸にすやすやと顔を預けている。
少女もその手を母親の服にそっと添え、チャットを一瞬見上げて――すぐにまた視線を落とした。
「ニューヨークへ? それは素敵な旅ですね」
チャットは赤ん坊にちらりと目をやり、やわらかな調子で言葉を添える。
「王さまも、王女さまと小さな天使の帰りを心待ちにしているはずです」
チャットは軽く頭を下げると、再び歩き出した。
その背を、少女がじっと見つめる。
しばらくして、少女が母親の服の裾を引いた。
「ねえ、ママ。あのおじさん……王子様みたいだった」
母親が目を細めるようにして笑いながら、娘の髪を撫でた。
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