【完結】潜誠の盾:元“処刑人”のボディーガード。シングルマザーを守る 作:冬蜂
少し時間が流れていた。
ターミナルの天井はすっかり明るくなり、白い光が床のタイルを均一に照らしていた。あれから小1時間。
チャットは手荷物検査レーンに並びながら、腕時計に視線を落とした。
まだ余裕はある。
彼はそう思いながら、前方の列を緩やかに進む足音のリズムに合わせて体重を移す。
長い列の数人先――あの少女と母親の姿があった。
赤ん坊を抱えた母親が、係員の案内に軽く会釈し、少女はクマのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめている。
チャットは心の中で「王国の騎士、しっかり任務中」とでも書き添えながら、列を一歩進めた。
その時だった。
低い怒鳴り声が、列の右手奥から割って入ってきた。
最初は単なる言い争いかと思った。
係員と乗客のトラブルなど、空港では日常茶飯事だ。
だがその声は異様に大きく、そして言葉が引っかかる。
「……爆弾だ! 本当だ、俺は見た! 飛行機に……仕掛けられてる!」
その瞬間、空気の密度が変わった。
振り向く者、ざわめく者、歩みを止める者――列全体が一瞬で凍りつく。
チャットも視線を向けた。
そこにいたのは、中年の男。
上着は汗で濡れ、髪は乱れている。
目の焦点が定まらず、何かに追い立てられるように言葉を吐き続けていた。
係員が静止しようと手を伸ばすが、男は突き飛ばして進もうとする。
周囲に緊張が走る。
係員の無線が入る。
警備員の姿が複数、視界の端に現れた。
「やめろって……!
本当にあるんだよ! 俺は知ってるんだ!」
チャットの隣の乗客が小さく息を呑む音が聞こえた。
その男の視線が、ふいに列の中へと泳いで――止まる。
あの少女だった。
母親の手を握っていた小さな手が、思わずきゅっと強くなる。
男が動いた。駆けるように、列を割って入り込もうとする。
そして、銀色の刃が光った。
男は一気に距離を詰め、列の隙間から少女に手を伸ばした。
母親の悲鳴と、何人かのどよめきが同時に上がる。
次の瞬間には、少女の細い手首が男の手に掴まれていた。
「来るな! 近づくなよ!」
怒鳴り声が響く。
男は少女を半歩引き寄せ、彼女の身体を盾にするように立ち塞がった。
刃物――折りたたみ式のナイフが、ちらりと陽の光を受けて鈍く光る。
刃先は、はっきりと見えた。長くはない。
だが刺すには十分すぎる。
少女は声を出していなかった。
ただ、目を大きく見開いたまま動けずにいる。
くまのぬいぐるみは、もう彼女の手から落ちていた。
「警備を呼んだんだろ!
あいつらはグルだ、分かってるんだ……!」
男は何かに取り憑かれたように叫びながら、手元のナイフをわざとらしく振るわせた。
視線は焦点が合っておらず、どこか現実と噛み合っていない。
周囲はすでに制止されていた。誰もが息を呑み、動けない。
警備員が近づこうとすれば、それが刺激になるのは明らかだった。
チャットは動かなかった。
いや、まだ動かないでいた。
彼はじっと男を見つめた。
動作の乱れ。
呼吸の浅さ。
声の揺れ。
視線の動き。
手元の力の入れ方。
足の開き方。
――“やる気”はない。だが、“引けない”。
チャットはゆっくりと、足を一歩だけ動かした。
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