【完結】潜誠の盾:元“処刑人”のボディーガード。シングルマザーを守る 作:冬蜂
チャットは、まばたきもせずに男を見ていた。
身体の揺れ――薬物の作用だ。
交感神経だけがむき出しで走っている。
汗は額だけでなく、背中までにじんでいる。
恐怖と混濁。
刃物の握り方は、躊躇いと焦りが混ざっている。
“刺す”というより、“見せている”だけ。
それでも、次に何かが動けば、少女の肌が最初に切られる。
そういう距離だった。
チャットの視線が、男の足元から手元へ、そして視線の焦点へと順に辿る。
男は“現実”にいない。
自分の叫びと、何かの妄想の中でしか生きていない。
その中に引きずり込まれれば終わる。
こちらが“現実”を取り戻させなければ。
すぐ近くで、安全柵を越えようとする警備官の姿があった。
チャットはそちらに半歩だけ身体を向け、素早く声を低く、しかしよく通る音で言った。
「ちょっと待った。
ナイフと銃とパニックが同じ場所に揃うと、だいたいロクなことにならない。
……経験談だ」
チャットは静かに手を上げ、警備の視線を一身に受ける。
「今そっちの手が動いたら、その子が一番先に血を見る。
だから、できればそのカッコいいポーズは一旦下げてほしい。
撃つ練習より、黙って見てる練習のほうが難しいってのは、わかってるけどね」
視線をそらさず、ポケットからカードケースを半分だけ見せる。
「身分?
……まあ、言いたいことはあるけど、今言ってもあんまりドラマチックじゃない。
後で文句を言いたいなら、紙とペンを持って待っててくれ。
俺、きれいに謝るからさ」
少しだけ口元で笑い、視線を男の方へと滑らせる。
「でも、今必要なのはそれじゃない。
“誰も刺されないために、あと数分だけ黙ってくれ”。それだけでいいんだ」
少し男の方に歩み寄った。
「……なあ、君」
チャットの声は、まるで友人との会話の続きを拾うかのように柔らかかった。
威圧でも、哀れみでもない。
ただ、隣に立てる人間の距離で、言葉を差し出した。
「爆弾の話、嘘だとは思ってない。
信じるべきかどうか、正直まだ決めかねてるくらいだ」
チャットは少しだけ首を傾け、男の視線のずれ方を測る。
「ただ一つだけ、どうしても引っかかるんだよ
……その子に、刃を向けてる理由は、なんだ?」
男は黙っていた。
だが、わずかに肩が揺れた。反応はある。
チャットは一歩だけ、重心を静かに前に移す。
両手ははっきり見える位置。
何も持っていないことを、黙って示す。
「怖いんだろ。誰が敵で、誰が味方かわからない。
誰も信じられなくて、誰かを掴んでないと、今にも落ちそうなんだ」
男の目がちらりと動く。チャットの声に、かすかに焦点が引かれはじめる。
「でも、俺は違う。
俺は話しに来た。
ただそれだけ。
お前の話を聞いてもらうためには、まず“誰かを傷つけてない”って記録が必要なんだ。
なあ、まずはそれから始めよう。
武器を下ろす。
それだけで、世界の見え方がちょっと変わる」
チャットは、語尾を急がなかった。
一音一音を、息で包むようにして置いていった。
「誰も撃たないし、誰も逃げない。
君が、その子の手を離してくれたら――俺は、すぐそこにいる」
沈黙が、ふたたび落ちた。
だが、今度は張り詰めたものではなかった。
男の手元が、ほんのわずかに下がった。
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