【完結】潜誠の盾:元“処刑人”のボディーガード。シングルマザーを守る 作:冬蜂
男の手元が下がる。
その刃先が、ほんの数センチだけ少女の首元から離れた。
その瞬間、チャットが一歩で間合いを詰める。
迷いも、言葉もない。
左手で男の手首をひねり上げ、ナイフを落とさせた。
同時に右肘を首筋に当て、体ごと押し下げる。
片膝で脚を刈り、男の身体を床に沈めた。
「おっと、今のはちょっと劇的だったかもな」
呟くように言いながらも、動きは容赦なかった。
男の片腕を背中側へ回し、もう片方も抑え込む。
制圧。完了。
「落ち着けって。
手荒な真似は、俺もあんまり好きじゃないんだよ」
男の体重が抜けたのを確認してから、チャットはようやく視線を少女に向けた。
「……大丈夫。もう離れていい」
震えながらも硬直していた少女の手を、彼はそっと引きはがした。
その目線を下げ、できる限り穏やかに声をかける。
男の身体を警備に渡すと、静かにその場から離れた。
「よく頑張ったね。えらいよ。
……さ、あっちに行こう。
お姫様は、ここじゃなくて明るいところにいなきゃ」
少女が無言で頷く。彼女の手を引いて、チャットは母親の方へとゆっくり歩き出した。
母親が少女の名前を呼び、2人は抱き合った。
——その背にあるのは、すでに降ろされた静かな緊張と、
ほんの一瞬だけの、切り裂くような鋭さだった。
「おい、あんたッ!」
そのとたん、警備員たちが雪崩のように近づいてきた。
拳銃を収めぬまま、一人がチャットの目前まで詰め寄る。
「一体何者だ。IDを見せろ、今すぐに!」
「ええ、もちろん。
ちょっと今は、紳士的なヒーローごっこをしてたんでね」
チャットはポケットからカードケースをひらひらと取り出し、渡すでもなく指先でつまんだまま見せる。
口元には笑み。だが、目は笑っていない。
別の係官が少女たちを保護し、すぐさま無線で報告を入れる。
空気はまだ張り詰めている。
数人が男の身柄を確保し、きつく拘束していた。
「正式な許可があるのか?
勝手な介入は重罪だぞ」
「それはごもっとも。
でも、ルールブックには“目の前で少女が殺されそうなときの最善策”までは書いてない」
チャットは両手を上げて降参のポーズを取った。
だが、その仕草もどこか芝居がかっていて、苛立った警備員の一人が声を荒げる。
「ふざけるな。
君の発言はすべて記録されている。
上に通報する」
「了解。怒鳴るのもいいけど、先に一杯のコーヒーくらいどうだい?
君ら、今すごく顔が怖い」
「ふざけるなって言ってるんだ!」
チャットはそこでようやく息をつき、真面目な声色に切り替えた。
背筋を伸ばし、淡々と告げる。
「……ΩRM。俺は民間の護衛会社の副社長だ。
今回の渡航任務中に偶発的に起きた事案として、必要があれば報告を出す。
正式な抗議や問い合わせは、社の担当に。
記録番号も出せる」
一瞬、相手の目がわずかに動いた。
ΩRMの名前に反応したらしい。
「ふざけてるようで、俺はちゃんと“落とし前”もつける人間なんでね。
ほら、名刺も出すよ。
印刷が趣味でね、地味に質感にもこだわってる」
彼はすっと名刺を差し出すと、またあの軽い口調に戻った。
「怒られるのは慣れてるけど、できれば怒る前に一言――
“ありがとう”って言われたかったなァ〜。
まあ、図々しいかもしれないけどさ」
警備員に囲まれながら歩き出そうとしたそのとき、不意に背後から声が飛んだ。
「ちょっと待ってください……!」
振り返ると、あの母親だった。
少女の手をしっかりと握りしめて、追いかけてくる。
警備のひとりが止めようとしたが、チャットが片手を上げて制した。
彼女は息を整え、チャットの前で一礼するように胸に手を当てた。
「本当に、ありがとうございました……。
あなたがいなかったら、娘は……」
その言葉に重ねるように、少女がチャットの前に出てくる。
瞳には、先ほどまでの恐怖の名残と、今ようやく芽生えた安心の光が混じっていた。
「……あの。ありがとうございました」
チャットは微笑み、しゃがんで目線を少女に合わせた。
「こちらこそ。よく頑張ったね、君は」
少女は口元を噛んで、ほんの少しだけ逡巡した。
だが意を決したように、チャットの目をまっすぐ見上げて、言った。
「また、会えますか?」
一拍の沈黙のあと――
チャットはくしゃりと笑った。
いつものような芝居がかった笑みではなく、素のままの、どこかあたたかい表情だった。
「会えるかどうかは、風と星に聞いてくれ。
でもね――君が笑っていれば、どこかでちゃんと伝わるはずだからさ」
少女はその言葉に微かに目を見開き、それから小さく、けれど確かに頷いた。
警備員の1人が、咳払いで促す。
チャットは立ち上がり、母娘にもう一度軽く手を振って、警備の誘導に従った。
簡素なドアの向こう、仮設の個室に入る直前。
チャットは一度だけ、肩越しにあの少女たちの姿を振り返った。
そして、ドアが閉まると同時に――
口には出さず、内心でひとつ、乾いた皮肉を転がす。
(……朝一の便に、乗り遅れちまったな。
ま、今の騒ぎじゃ、どの便も数時間は飛ばないけどさ)
頭を軽く振って、椅子に身を預けた。
陽はまだ昇りきっておらず、外はじっとりとした静けさを湛えていた。
けれどその中に、確かに“何かを救えた”実感だけが、小さく灯っていた。
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