【完結】潜誠の盾:元“処刑人”のボディーガード。シングルマザーを守る 作:冬蜂
090:そして、プロローグへ
山の奥で、爆音が一つ、腹の底を鳴らした。
低く、重く、火薬かガスか――とにかく自然の音ではない。
場所は第3分岐のさらに先、廃教会の近辺。
その瞬間、焚き火の前にいたハンクの目が細くなった。
「……今の、何だ」
猟師歴40年の直感が即座に告げていた。
雷じゃねえ、木が倒れた音でもない。
人の仕業だ――それも、ろくでもない種類の。
ハンクは黙って腰を上げる。
レミントンの猟銃を持ち上げ、手慣れた動きで装填を確認。
安全装置を外す。銃身を肩に掛けた瞬間、また来た。
金属が砕けるような、派手な破砕音。
近い。今度は舗装路の方だ。
重い車体が、崖にぶつかり、岩肌を滑り落ちた音。
ハンクは一度だけ、頭上の風を読んだ。
鼻腔に入るのは、鉄とオイル、それから……血。
微かだが、獣とは違う臭いが混ざっていた。
「……立て続けってのは、ろくなことがねえ」
懐中電灯もランタンも不要だった。
夜目はまだ利く。足の裏が道を覚えている。
この山には、4つ足より危険な“人間”が出る。
レミントンの重さを確かめながら、ハンクは森へ踏み出した。
爆音の残響と地鳴りの位置で、行き先はもう決まっていた。
――第3分岐、崖沿い。
「さて……次は、どんな面をしていやがる」
落ち葉が一枚、かすかに音を立てた。
それが闇に消えたハンクの、唯一の痕跡だった。
◇
舗装路に這い上がったジョージの姿は、人ではなかった。
泥と血で染まった全身。腕は垂れ下がり、歩くたびに揺れていた。
まるで地獄の底から這い出した亡者。
頭の裂傷から流れた血が、左の頬を伝い、顔の半分を塗り潰していた。
血は眼窩にも流れ込み、左目の視界を滲ませる。
光の輪郭が溶けていく。
赤茶けたフィルター越しに見る夜は、死者の景色に近かった。
右目はまだ現実を捉えていた。が、焦点は合っていない。
何を見ているかも、自分では分からない。
それでも、足だけが前に出た。
“生きる”という機能だけが、かろうじて残っていた。
不規則な歩み。
帰る場所も、行く先も持たず、闇の中をただ彷徨う。
それはもはや、人の形をした抜け殻だった。
1台の車が近づいてきた。
白いセダン。ハイビームが彼の姿を正面から照らす。
その光にさらされた瞬間、血と泥が浮き彫りになる。
頬に乾いた血。ぶら下がった腕。
顔に、表情の影はなかった。
運転席の女は、悲鳴の代わりにブレーキを踏みかけ――
次の瞬間、判断を変えてアクセルを踏み込んだ。
タイヤが水を弾き、白い影は夜に逃げ去る。
ジョージは反応を示さなかった。
視線も動かず、口も開かず、ただ歩く。
続いて来たのはピックアップ。
減速。窓が開き、中年の男が顔を出す。
「おい、大丈夫か?」
ジョージは返さない。
身体は止まったが、反応はない。首がわずかに傾いただけだった。
男はスマホを取り出す。
画面には「圏外」。舌打ちと共に窓を閉じ、無言で車を発進させる。
去っていく赤いテールランプが、後ろめたさのように震えていた。
3台目はSUV。中から若者たちの笑い声。
助手席の男が叫ぶ。
「ゾンビかよ! いい仮装だな、兄ちゃん!」
ビール缶が投げ捨てられる。
空き缶が地面を転がる音だけが、静けさを裂いた。
ジョージは反応しない。拾わず、避けず、蹴りもしない。
ただ、通り過ぎた。
静寂が戻る。
山の風が吹く。冷えた空気が頬を撫でる。
だが、そこに痛みも、感情もなかった。
怒りも、悔しさも、恐怖も、とうに削ぎ落ちていた。
残っていたのは――冷えた使命感だけ。
こんな夜は、かつてもあった。
誰にも届かず、誰にも見つけられず、心だけが死んでいく夜。
記憶の底に沈んでいたその感覚と、今が重なる。
だが――今夜は違う。
焦りが、肺の奥にじわりと広がっていた。
もしこのまま心臓が止まれば、ヴィンセントには自動通知が届く。
最低限の保険は仕込んである。あいつなら、動いてくれる。
だが、それでいいはずがなかった。
任せて終わる話じゃない。
自分の手で、ケリをつけなければならない。
ナンシーが危ない。ジェシカが、リリーが。
あの男の手に触れられるには、あまりにも無防備すぎる。
命を落とすことは怖くない。
だが、今はまだ、終われない。
ジョージは目を閉じる。
口内に広がる血の味。
短く息を吹き込む。それすら、自分のものではないような遠さがあった。
それでも、足は前に出る。
膝はきしみ、全身が悲鳴を上げても、前へ。
濡れたアスファルトに残るのは、血混じりの泥。
それは足跡というより、生の残滓だった。
ジョージは滲むように夜に溶けながら、ひとつ、またひとつと、歩を進めた。
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