【完結】潜誠の盾:元“処刑人”のボディーガード。シングルマザーを守る 作:冬蜂
6年前。
ジョージ22歳。
その声は、遠かった。
掘立て小屋の向こう。
女が押し倒される音。くぐもった叫び。
衣擦れ。3人の靴音。何かが倒れる音。
だが、ジョージは立っていた。
ただそこに、無言で、無表情で。
背を壁に預け、小さなスキットルを持ったまま、月を見ていた。
金属製の蓋はすでに開いていた。
中のウイスキーはぬるく、舌に馴染まなかった。
だが彼は、ゆっくりと、それを口に含んだ。
飲み下しても、熱さも酔いも感じなかった。
死んだような目で、誰かの声が闇に消えていくのを聞いていた。
(……どうでもいい)
その考えが、最初に浮かんだ。
誰が傷つこうと、誰が壊れようと、
この世界では“よくあること”だ。
何度も見た。
泣き叫ぶ子供。殴られる女。崩れる家。
兵士の口笛。上官の無視。
(それが何だ。俺には関係ない)
心が、砂のように乾いていた。
感じる力を、ずっと前に置いてきた。
同情も、怒りも、今の自分には関係のない感情だった。
誰かが助けを求めていた。
だが、ジョージは助けてほしいと思ったことがない。
誰も助けてくれなかったあの頃。
だから、自分も誰も助けない。
ただそれだけだった。
やがて、音が途切れ、代わりに鋭い怒声が飛んだ。
重い足音。打撃音。怒号。
誰かが倒れる気配。
──ヴィンセントだ。
ジョージはただ、ウィスキーをもう一口、口に含んだ。
けれど酔えなかった。
(収まったか)
それだけ思って、彼は壁を離れた。
冷えた夜気が頬に当たる。
誰も死ななかった。
なら、それでいい。
……本気で、そう思っていた。
◇
砂の上を踏みしめる重い足音。
ヴィンセントが、190センチの大柄な体が、地響きのように迫ってくる。
「……てめぇ、今の何だった?」
その声には、いつもの茶目っ気も、冗談もなかった。
黒曜石のような瞳が、褐色の肌が、月明かりに鈍く光る。
ジョージは黙っていた。だが、その沈黙が最悪だった。
「おい、答えろジョージ。
お前、あの女が襲われてたのを知っていたよな?」
間を置いて、ジョージは絞り出すように呟いた。
「……間に合ったろ。お前が」
その瞬間、空気が爆ぜた。
ヴィンセントの足が、壁際にあった工具箱を蹴り飛ばした。
金属が爆音を立てて地面を転がる。
その音に、ジョージの肩がピクリと揺れる。
「間に合った……だと……?」
低く唸るような声。
ヴィンセントの足音が、一歩、また一歩と近づいてくる。
その全身から怒気が染み出し、夜の温度すら変わったように感じた。
「てめぇッ!!」
言葉より先に、ジョージの胸倉が掴まれる。
159センチの小柄な身体は軽々と上がった。
背中が壁に叩きつけられる音。乾いた風が吹き抜けた。
ジョージは抵抗しなかった。
顔をそむけもしない。見返しもしない。
ただ、相手の怒りを眺めるように、無表情のままだった。
「見てたな、ジョージ……。
見て、何もしなかったな……?」
ヴィンセントの目が血走っていた。
まるで、戦場で死んだ仲間の遺体でも見たかのような顔だった。
「何か言えよ。何か反応してみせろ……!
人間なら、感情の一つぐらい、顔に出せるはずだろッ!」
ジョージは口を開いた。
「……あれは、よくあることだろ」
その瞬間、空気が変わった。
言ってはいけない言葉を、言った。
ジョージはそれをわかっていなかった。
あるいは、わかっていて、わざとだったのかもしれない。
拳が振り上げられる。
鈍い音を残して、ヴィンセントの拳がジョージの頬を打った。
手加減はされていた。だが、重さは残った。
口の端が切れ、血の味が広がる。
ジョージの顔がわずかに傾いた。
それでも表情は変わらない。
それを見て、ヴィンセントは、ゆっくりと拳を握り直した。
「目の前で、人間が壊されかけてて……
何も思わなかったって?」
その声には、怒鳴り声のような勢いはなかった。
けれど、沈殿した怒気が重く響く。
「だったら、お前は……あのクソ野郎と同じ穴のムジナだよ。
──いや、違う。
お前はそれでも味方だと思われてたぶん、もっと残酷だ」
ジョージは何も言わなかった。
ただ、目を伏せている。
「……なんで、何も言わねぇんだよ……」
ヴィンセントの声がかすれた。
喉の奥が詰まり、ひとつ、荒い息が漏れる。
「なんでだよ……
なんで、お前が、あの時……
黙って見てたんだよ……!」
声が震えた。
怒っているはずなのに、涙が滲む。
「俺は……
お前は、違うと思ってたんだ。
どれだけ無口でも、どれだけ冷たく見えても──
ああいう“線”だけは、越えねぇって……
信じてたんだよ……!」
ヴィンセントの拳がほどけた。
彼は、壁に手をついて顔を伏せた。
その肩が、僅かに震えていた。
「弟みてぇに思ってた。
何度も助けられた。
だから、信じてたんだよ……」
ジョージは視線を上げることができなかった。
その場に立ち尽くすしかなかった。
「……でも、お前は……
目を逸らした。
咎めもしなかった。
まるで“関係ねぇ”って顔で、力はあるのに、ただ黙って見てた……!」
ヴィンセントの声が、かすれた嗚咽に変わる。
怒りはもうどこにもなかった。
残っていたのは、ただひとつ──信じていた人間を失ったという痛みだけだった。
「……お前が黙るたびに、
俺の中の何かが……壊れてくんだよ……」
その言葉のあと、しばらく沈黙が続いた。
夜の空気が、砂の上を撫でる音だけが残る。
ジョージは動かなかった。
いや、動けなかった。
そのとき、ヴィンセントが俯いていた顔を上げた。
涙に濡れた目が、月明かりをぼやかしていた。
「……黙っているなら──テメェも、地獄に堕ちろ!!」
叫びというより、魂の咆哮だった。
その言葉が、ジョージの胸を突き刺す。
ジョージは、無言のまま立っていた。
ただ、拳の熱と、滲んだ声だけが、胸の奥に残っていた。
何かが違う。
熱がある。音がある。
静かな夜の中で、心の奥がきしむような音が、確かに響いた。
まるで、鉄扉の向こうから何かが殴り返してきたような──
ずっと閉ざしていた感情が、内側から拳を叩きつけているような感覚。
(ヴィンセントが……泣いた……?)
信じられなかった。
信じたくなかった。
あれほど強かった男が。
誰よりも陽気で、誰よりもタフで、
誰よりも“折れない”と思っていた男が──
自分のために、泣いた。
怒られたことでも、殴られたことでもなかった。
その涙だけが、ジョージの中に、何かを深く突き刺した。
ひどく、冷たいものが胸に広がる。
けれど、それは痛みじゃない。
もっと、わけのわからない“震え”だった。
(俺は──あの人を……壊したのか)
その実感が、遅れてやってきた。
氷のように固まっていた感情の壁に、
ヒビが入る音が、耳の奥で鳴った気がした。
ジョージは頬を押さえなかった。
血の味も気にしなかった。
ただ、ヴィンセントの背中を、初めて“怖い”と思った。
「この人を、二度と裏切りたくない」と思ってしまった自分が、怖かった。
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