【完結】潜誠の盾:元“処刑人”のボディーガード。シングルマザーを守る 作:冬蜂
バンはただ揺れていた。
軋む鉄骨。
床に転がった鼻血が乾き、鉄と汗と埃の匂いにまみれていく。
どこかで誰かが怒鳴っていたが、遠くて、意味はなかった。
目を開けていても、闇しかなかった。
閉じても、変わらなかった。
喉の奥が引きつって、息を飲み込むたびに痛んだ。
汗が背中を伝っているのに、体は冷たくて震えが止まらない。
歯がカチカチと鳴るのを止められず、舌の先を何度も噛んだ。
腹が差し込むように痛く、吐き気が込み上げては飲み込まれた。
鼻水と涙と唾液がごちゃ混ぜになって、顔の半分を濡らした。
そして――そこに、声が生まれた。
『……怖い?』
少年と同じ高さの、幼い声だった。
だが、なぜか自分のものではないと、はっきり分かった。
暗闇の中、もうひとりの自分がこちらを見ていた。
同じ顔。
血の跡も、埃まみれの髪も、まったく同じ。
ただ、目だけが違った。
まるで何も映していない鏡のように、感情のない光をたたえていた。
少年は答えなかった。喉が焼けたまま動かない。
『ここ、冷たいね』
“ソレ”は言った。
声は震えていなかった。
強がっていたわけでもなかった。
『……泣いたら、また殴られるよ?』
少年はいやだと小さく首を振った。
『じゃあ、泣かなくていいよ』
ソレはそう言って、少年の横に同じく寝転がった。
癖のある髪は重力に引かれ地面に流れ、一部は目にも掛かっていた。
少年もソレも気にしなかった。
鏡写しのようなソレと顔が向き合う。
息がかかってきそうなほど、近かった。
時間は、そこで止まった。
どれくらい、そこにいたかは分からない。
永遠にも似た沈黙が続いたあと、少年はぽつりと口をひらいた。
実際は開く口すら塞がれているが、開いたように思えた。
「……兄さん、死んだ」
『うん、知ってる』
「母さんも、父さんも……」
『死んだね』
「帰れない?」
『うん、帰れない』
「これから、ぼく……どうなるの?」
『ひどいことされるよ』
ひとつも否定はなかった。
正しさの仮面をかぶった嘘も、救いの芝居もない。
ただ、剥き出しの現実が並べられた。
それが、なぜか心地よかった。
真実だけが、もう信じられるものだった。
「怖い」
『だったら、黙っていなよ。
そうすれば、あとはぼくが持って行ってあげるから』
「何を?」
『きみの感情。ぜんぶ。
ぼくが持っていってあげる。
きみはただ、黙って生き残ることだけを考えていればいい』
「……そうすると、ぼくはぼくで無くなるの?」
ソレは少し微笑んだ。
『答えは、イエスでノー。
きみはぼくで、ぼくはきみ。
でも……これからのことを思えば、それでいいじゃない』
その瞬間、少年は悟った。
――この子は、感じないのだ。
恐怖も、悲しみも、痛みも。
全部、代わりに引き受けてくれている。
だから自分は、ここにいられる。
「……ずっと、いてくれる?」
『うん。きみが必要な限り、どこへでも』
「名前……あるの?」
しばらく沈黙があった。
それから、ソレはまたふっと笑ったように見えた。
『名前なんか、要る?
ぼくはきみの“誰でもない部分”だから』
そのとき、バンが急停車した。
鉄の床が軋み、扉が開いた。
袋の口が解かれ、冷たい外気が頬をかすめる。
もう震えはなかった。だが、その黒い瞳は、何も映していなかった。
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