【完結】潜誠の盾:元“処刑人”のボディーガード。シングルマザーを守る   作:冬蜂

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094:“ソレ”が生まれた日

 バンはただ揺れていた。

 

 軋む鉄骨。

 床に転がった鼻血が乾き、鉄と汗と埃の匂いにまみれていく。

 

 どこかで誰かが怒鳴っていたが、遠くて、意味はなかった。

 目を開けていても、闇しかなかった。

 閉じても、変わらなかった。

 

 喉の奥が引きつって、息を飲み込むたびに痛んだ。

 汗が背中を伝っているのに、体は冷たくて震えが止まらない。

 歯がカチカチと鳴るのを止められず、舌の先を何度も噛んだ。

 腹が差し込むように痛く、吐き気が込み上げては飲み込まれた。

 鼻水と涙と唾液がごちゃ混ぜになって、顔の半分を濡らした。

 

 そして――そこに、声が生まれた。

 

『……怖い?』

 

 少年と同じ高さの、幼い声だった。

 だが、なぜか自分のものではないと、はっきり分かった。

 

 暗闇の中、もうひとりの自分がこちらを見ていた。

 同じ顔。

 血の跡も、埃まみれの髪も、まったく同じ。

 

 ただ、目だけが違った。

 まるで何も映していない鏡のように、感情のない光をたたえていた。

 

 少年は答えなかった。喉が焼けたまま動かない。

 

『ここ、冷たいね』

 

 “ソレ”は言った。

 声は震えていなかった。

 強がっていたわけでもなかった。

 

『……泣いたら、また殴られるよ?』

 

 少年はいやだと小さく首を振った。

 

『じゃあ、泣かなくていいよ』

 

 ソレはそう言って、少年の横に同じく寝転がった。

 癖のある髪は重力に引かれ地面に流れ、一部は目にも掛かっていた。

 

 少年もソレも気にしなかった。

 鏡写しのようなソレと顔が向き合う。

 息がかかってきそうなほど、近かった。

 

 時間は、そこで止まった。

 

 どれくらい、そこにいたかは分からない。

 

 永遠にも似た沈黙が続いたあと、少年はぽつりと口をひらいた。

 実際は開く口すら塞がれているが、開いたように思えた。

 

「……兄さん、死んだ」

 

『うん、知ってる』

 

「母さんも、父さんも……」

 

『死んだね』

 

「帰れない?」

 

『うん、帰れない』

 

「これから、ぼく……どうなるの?」

 

『ひどいことされるよ』

 

 ひとつも否定はなかった。

 正しさの仮面をかぶった嘘も、救いの芝居もない。

 ただ、剥き出しの現実が並べられた。

 

 それが、なぜか心地よかった。

 真実だけが、もう信じられるものだった。

 

「怖い」

 

『だったら、黙っていなよ。

 そうすれば、あとはぼくが持って行ってあげるから』

 

「何を?」

 

『きみの感情。ぜんぶ。

 ぼくが持っていってあげる。

 きみはただ、黙って生き残ることだけを考えていればいい』

 

「……そうすると、ぼくはぼくで無くなるの?」

 

 ソレは少し微笑んだ。

 

『答えは、イエスでノー。

 きみはぼくで、ぼくはきみ。

 でも……これからのことを思えば、それでいいじゃない』

 

 その瞬間、少年は悟った。

 

 ――この子は、感じないのだ。

 恐怖も、悲しみも、痛みも。

 全部、代わりに引き受けてくれている。

 

 だから自分は、ここにいられる。

 

「……ずっと、いてくれる?」

 

『うん。きみが必要な限り、どこへでも』

 

「名前……あるの?」

 

 しばらく沈黙があった。

 それから、ソレはまたふっと笑ったように見えた。

 

『名前なんか、要る?

 ぼくはきみの“誰でもない部分”だから』

 

 そのとき、バンが急停車した。

 鉄の床が軋み、扉が開いた。

 袋の口が解かれ、冷たい外気が頬をかすめる。

 

 もう震えはなかった。だが、その黒い瞳は、何も映していなかった。

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