【完結】潜誠の盾:元“処刑人”のボディーガード。シングルマザーを守る 作:冬蜂
次の日、ジョージは黙って単独索敵任務に出かけた。
任務とはいえ、誰にも何も告げず、まるで風のように姿を消した。
荷物も最小限。ヘルメットを脇に抱えたまま、薄く砂をかぶった背中が遠ざかっていった。
ヴィンセントは、それを見送ることができなかった。
気がついた時は、すでに遠かった。
走って一声かけてもよかったが、それが何故かできなかった。
そして、そのまま──通信が、途絶えた。
1日目、2日目。まだ想定内だ。
あいつのことだ。いつものように、静かに、確実に戻ってくる。
……そう思い込んで、笑ってみせた。
3日目。笑えなくなった。
4日目。夜中、ふと無線に手が伸びていた。
誰もいない天幕の中で、「応答しろ、ウガジン」と低く呟いていた。
誰にも聞かれていないのに、声が震えていた。
5日目。
食事も喉を通らず、地図の上にピンを並べて、可能性を潰していく。
今どこにいる? 動けなくなったか? それとも──もう戻れないのか?
ジョージは、あの日から少しだけ変わった。
少しだけ、“人間”に戻ってきた。
だからこそ、今またいなくなったことが、たまらなく恐ろしかった。
あのまま冷たいままでいたら、割り切れた。
でも、コーヒーを差し出してきた男が、老婆にヘルメットを脱いだ男が、あの一言を呟いた男が──今も、どこかで血を流して倒れているかもしれない。
それを考えた途端、
ヴィンセントの中で何かが凍りついた。
「……くそが……ジョージ……」
誰もいない部屋で吐き捨てた声が、砂埃の中に溶けていった。
◇
7日目の朝。
太陽は変わらず東の空を昇っていたが、キャンプには重い沈黙が漂っていた。
ラジオの雑音も、朝の点呼も、乾いた風にさらわれて、どこか遠くで鳴っているようだった。
誰もが悟っていた。
――もう、戻らないだろう。
索敵隊は夜を徹して探索を続けたが、痕跡ひとつ見つからなかった。
指揮官は「作戦継続」とだけ言ったが、その口調すら、もはや形だけだった。
あの男が7日間、何の信号も出さず、何の足跡も残さないなど――あり得ない。
希望は、もうとっくに底を尽きていた。
……だが。
そのとき、誰かが双眼鏡を落とす音がした。
そして、ざわめきの中、ひとりの新兵が叫んだ。
「ウ、ウガジンだ……!」
兵たちの視線が、一斉に地平の先へと向く。
陽炎が揺れる砂漠の向こう――
影がひとつ、ふらりと立っていた。
まるで、砂塵に紛れた幽霊のようだった。
誰よりも先に動いたのは、ヴィンセントだった。
走ったというより、突き飛ばされるように身体が勝手に動いた。
息を切らして近づくほどに、その「帰還者」の状態が、はっきり見えてくる。
皮膚は焼けただれ、乾いた血で布が肌に貼りついていた。
ほぼ裸同然。右肩は完全に脱臼し、骨が浮き出ていた。
頬はこけ、瞼は腫れ、足取りはとにかく不安定だった。
それでも――歩いていた。
帰還のサインも、無線も、叫びもない。
ただ、生きて、足で、自分の意志で戻ってきた。
ヴィンセントが駆け寄り、ついにその体を受け止めたとき、
腕に触れた感触は、あまりに軽く、異様なほど冷たかった。
「……お前……」
声にならない。
叫びでも、叱責でも、感謝でもなかった。
ただ、喉から漏れたのは――呆然とした魂の呻きだった。
ジョージの黒い瞳が、ぼんやりとヴィンセントを捉える。
焦点は合っていなかった。けれど、微かに唇が動いた。
「……ヴィ……」
名前を呼ぼうとしたのだろう。
だが、喉が裂けたように空回りし、声にはならなかった。
「いい、しゃべんな。……もう何も言うな。いいから、黙ってろ」
ヴィンセントは震える声でそう言いながら、抱きかかえる。
その体は、汗と血と……焼けた肉の匂いがした。
「メディック!! 医療テントへ、すぐだ! そこ、どけ!!」
怒鳴り声が響く。
兵たちが咄嗟に道を開ける中、ヴィンセントは歯を食いしばりながら、彼を運んだ。
ジョージの胸が、ごく微かに上下していた。
それだけが、唯一の“生”の証明だった。
――でも、それで十分だった。
あの男は、帰ってきた。
痛みも、拷問も、死の誘惑を越えて。
何一つ語らず、情報も送らず、ただ任務だけを握りしめて、歩いて戻ってきた。
◇
医療テントの中は、薬品と乾いた血の匂いが漂っていた。
ジョージは担架の上に横たわったまま、右肩に簡易スリングを巻かれ、酸素マスクを外されたばかりだった。
それでも意識は戻っていた。
焦点は鈍いが、彼の目は──明らかに「今」を見ていた。
その前に立つのは、軍医と上官、そしてヴィンセント。
「敵に捕まっていたのか?」
低く投げかけられた問いに、ジョージは、力なくうなずいた。
「……こちらの情報は話したか?」
数秒の間のあと、ジョージは首を横に振った。
その動きはわずかだったが、はっきりと“否”を示していた。
ヴィンセントが息を吐きかけた、その時だった。
ジョージが、ゆっくりと左手を持ち上げた。
指先は腫れ上がり、爪がなかった。
それでも、空を切るように何度も動かす。震える手で、何かを――示している。
最初は誰も気づかなかった。
だが、彼は諦めなかった。
焦点の合わない瞳で、一点を見つめながら、繰り返す。
――紙と、ペンだ。
「……おい、紙とペン! 誰か、今すぐ!」
ヴィンセントが怒鳴るように叫び、看護兵が慌てて駆け出した。
戻ってきたその手から紙束とボールペンをひったくるように受け取ると、ジョージの左手に押し込む。
ジョージは、一拍だけ間を置いた。
そして、ペンを握った――指でつまむのではなく、拳で包むように。
まるで、刃物を扱う兵士のように。
痛みが走っても、腫れた関節が引きつっても、その手を解こうとはしなかった。
次の瞬間、すでに紙の上に線が走っていた。
呼吸は浅い。顔は青白い。
だが、手だけは止まらない。
左手の拳が、小刻みに紙を叩くように、ひたすら情報を刻みつける。
書き殴るのではない。
記録するでもない。
それは、“残す”という行為だった。
地図、座標、人数、装備、交信頻度、略語、特徴、村の構成──
一枚、また一枚。
紙が足りなくなるたび、ヴィンセントが手渡す。
言葉は発せられない。
でも、そこにある文字は、命を削って得た証言だった。
軍医が止めようとするのを、ヴィンセントが手で制す。
「書かせてやれ……今しかない」
静かに呟いたその声は、怒りでも焦りでもなく、敬意だった。
ジョージは、壊れそうな体で、
何度もペン先を走らせた。
まるで、「帰ってきた意味」を、そこに刻みつけているかのように。
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