【完結】潜誠の盾:元“処刑人”のボディーガード。シングルマザーを守る   作:冬蜂

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【番外編】ヴィンセント・モロー④:応答、なし

 次の日、ジョージは黙って単独索敵任務に出かけた。

 任務とはいえ、誰にも何も告げず、まるで風のように姿を消した。

 荷物も最小限。ヘルメットを脇に抱えたまま、薄く砂をかぶった背中が遠ざかっていった。

 

 ヴィンセントは、それを見送ることができなかった。

 気がついた時は、すでに遠かった。

 走って一声かけてもよかったが、それが何故かできなかった。

 

 そして、そのまま──通信が、途絶えた。

 

 1日目、2日目。まだ想定内だ。

 あいつのことだ。いつものように、静かに、確実に戻ってくる。

 ……そう思い込んで、笑ってみせた。

 

 3日目。笑えなくなった。

 4日目。夜中、ふと無線に手が伸びていた。

 誰もいない天幕の中で、「応答しろ、ウガジン」と低く呟いていた。

 誰にも聞かれていないのに、声が震えていた。

 

 5日目。

 食事も喉を通らず、地図の上にピンを並べて、可能性を潰していく。

 今どこにいる? 動けなくなったか? それとも──もう戻れないのか?

 

 ジョージは、あの日から少しだけ変わった。

 少しだけ、“人間”に戻ってきた。

 だからこそ、今またいなくなったことが、たまらなく恐ろしかった。

 

 あのまま冷たいままでいたら、割り切れた。

 でも、コーヒーを差し出してきた男が、老婆にヘルメットを脱いだ男が、あの一言を呟いた男が──今も、どこかで血を流して倒れているかもしれない。

 

 それを考えた途端、

 ヴィンセントの中で何かが凍りついた。

 

 「……くそが……ジョージ……」

 

 誰もいない部屋で吐き捨てた声が、砂埃の中に溶けていった。

 

 

 7日目の朝。

 太陽は変わらず東の空を昇っていたが、キャンプには重い沈黙が漂っていた。

 ラジオの雑音も、朝の点呼も、乾いた風にさらわれて、どこか遠くで鳴っているようだった。

 

 誰もが悟っていた。

 ――もう、戻らないだろう。

 

 索敵隊は夜を徹して探索を続けたが、痕跡ひとつ見つからなかった。

 指揮官は「作戦継続」とだけ言ったが、その口調すら、もはや形だけだった。

 あの男が7日間、何の信号も出さず、何の足跡も残さないなど――あり得ない。

 

 希望は、もうとっくに底を尽きていた。

 

 ……だが。

 

 そのとき、誰かが双眼鏡を落とす音がした。

 そして、ざわめきの中、ひとりの新兵が叫んだ。

 

 「ウ、ウガジンだ……!」

 

 兵たちの視線が、一斉に地平の先へと向く。

 陽炎が揺れる砂漠の向こう――

 影がひとつ、ふらりと立っていた。

 

 まるで、砂塵に紛れた幽霊のようだった。

 

 誰よりも先に動いたのは、ヴィンセントだった。

 走ったというより、突き飛ばされるように身体が勝手に動いた。

 息を切らして近づくほどに、その「帰還者」の状態が、はっきり見えてくる。

 

 皮膚は焼けただれ、乾いた血で布が肌に貼りついていた。

 ほぼ裸同然。右肩は完全に脱臼し、骨が浮き出ていた。

 頬はこけ、瞼は腫れ、足取りはとにかく不安定だった。

 

 それでも――歩いていた。

 

 帰還のサインも、無線も、叫びもない。

 ただ、生きて、足で、自分の意志で戻ってきた。

 

 ヴィンセントが駆け寄り、ついにその体を受け止めたとき、

 腕に触れた感触は、あまりに軽く、異様なほど冷たかった。

 

 「……お前……」

 

 声にならない。

 叫びでも、叱責でも、感謝でもなかった。

 ただ、喉から漏れたのは――呆然とした魂の呻きだった。

 

 ジョージの黒い瞳が、ぼんやりとヴィンセントを捉える。

 焦点は合っていなかった。けれど、微かに唇が動いた。

 

 「……ヴィ……」

 

 名前を呼ぼうとしたのだろう。

 だが、喉が裂けたように空回りし、声にはならなかった。

 

 「いい、しゃべんな。……もう何も言うな。いいから、黙ってろ」

 

 ヴィンセントは震える声でそう言いながら、抱きかかえる。

 その体は、汗と血と……焼けた肉の匂いがした。

 

 「メディック!! 医療テントへ、すぐだ! そこ、どけ!!」

 

 怒鳴り声が響く。

 兵たちが咄嗟に道を開ける中、ヴィンセントは歯を食いしばりながら、彼を運んだ。

 

 ジョージの胸が、ごく微かに上下していた。

 それだけが、唯一の“生”の証明だった。

 

 ――でも、それで十分だった。

 あの男は、帰ってきた。

 痛みも、拷問も、死の誘惑を越えて。

 

 何一つ語らず、情報も送らず、ただ任務だけを握りしめて、歩いて戻ってきた。

 

 

 医療テントの中は、薬品と乾いた血の匂いが漂っていた。

 

 ジョージは担架の上に横たわったまま、右肩に簡易スリングを巻かれ、酸素マスクを外されたばかりだった。

 それでも意識は戻っていた。

 焦点は鈍いが、彼の目は──明らかに「今」を見ていた。

 

 その前に立つのは、軍医と上官、そしてヴィンセント。

 

「敵に捕まっていたのか?」

 低く投げかけられた問いに、ジョージは、力なくうなずいた。

 

「……こちらの情報は話したか?」

 

 数秒の間のあと、ジョージは首を横に振った。

 その動きはわずかだったが、はっきりと“否”を示していた。

 

 ヴィンセントが息を吐きかけた、その時だった。

 

 ジョージが、ゆっくりと左手を持ち上げた。

 指先は腫れ上がり、爪がなかった。

 それでも、空を切るように何度も動かす。震える手で、何かを――示している。

 

 最初は誰も気づかなかった。

 だが、彼は諦めなかった。

 焦点の合わない瞳で、一点を見つめながら、繰り返す。

 ――紙と、ペンだ。

 

「……おい、紙とペン! 誰か、今すぐ!」

 

 ヴィンセントが怒鳴るように叫び、看護兵が慌てて駆け出した。

 戻ってきたその手から紙束とボールペンをひったくるように受け取ると、ジョージの左手に押し込む。

 

 ジョージは、一拍だけ間を置いた。

 

 そして、ペンを握った――指でつまむのではなく、拳で包むように。

 まるで、刃物を扱う兵士のように。

 痛みが走っても、腫れた関節が引きつっても、その手を解こうとはしなかった。

 

 次の瞬間、すでに紙の上に線が走っていた。

 

 呼吸は浅い。顔は青白い。

 だが、手だけは止まらない。

 左手の拳が、小刻みに紙を叩くように、ひたすら情報を刻みつける。

 

 書き殴るのではない。

 記録するでもない。

 それは、“残す”という行為だった。

 

 地図、座標、人数、装備、交信頻度、略語、特徴、村の構成──

 一枚、また一枚。

 紙が足りなくなるたび、ヴィンセントが手渡す。

 

 言葉は発せられない。

 でも、そこにある文字は、命を削って得た証言だった。

 

 軍医が止めようとするのを、ヴィンセントが手で制す。

 

 「書かせてやれ……今しかない」

 

 静かに呟いたその声は、怒りでも焦りでもなく、敬意だった。

 

 ジョージは、壊れそうな体で、

 何度もペン先を走らせた。

 

 まるで、「帰ってきた意味」を、そこに刻みつけているかのように。

 

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