【完結】潜誠の盾:元“処刑人”のボディーガード。シングルマザーを守る 作:冬蜂
浴室の床に、男がうずくまっていた。
湯気が空気を鈍らせ、匂いと湿気が肌にまとわりつく。
裸の背中が震えていた。
泥と血の筋が皮膚にこびりついたまま。
拳で顔を覆い、身を固めている。
そこにあるのは兵士ではなかった。
怯えきった、ただの人間だった。
ピーターは言葉を失っていた。
目の前の男に、どう声をかけていいかもわからず。
ただ、そこにあるものの重さだけが圧を持って迫っていた。
「ピーター! 何今の音?!」
慌ただしくマルタが飛び込んでくる。
その背後に、見慣れない男がいた。
黒人、スーツ姿。だが、只者ではない。
上質な濃紺のジャケットは前を留めず、裾がわずかに乱れていた。
ネクタイも少し曲がっている。
革靴には土埃。額に汗。肩がかすかに上下していた。
だが、背筋は折れていない。
短く刈り込まれた髪と、芯の詰まった体幹。
ただ立っているだけで、空間が静まる。
ピーターは本能的に半歩、後退した。
「……誰だ?」
その問いに、男が一礼した。
「ヴィンセント・モローと申します。
彼……ジョージは、うちの大切な社員です。今、駆けつけました」
低く、かすれた声。
走ってきた直後の息づかい。
だが言葉には威圧もなく、礼節と責任だけがにじんでいた。
ヴィンセントは、ためらいなく膝をついた。
湯気の向こう、震える男――ジョージの前に。
「社員?」
「ええ。ボディーガード専門の会社です。
ΩRM――身辺保護や危機対応を専門にしてます」
そう言って、彼はジョージの肩にそっと手を置いた。
その背は丸まり、まるで幼児のようにうずくまっていた。
額に濡れた黒髪。顔を隠す拳。
むき出しの体には、生傷と泥と、過去が貼りついていた。
ジョージ。
あの、冷静無比な男が――。
ヴィンセントの中で、何かが軋んだ。
だが、顔には出さない。
支える側に立つと決めた以上、感情は後回しだ。
似た光景は、戦場で何度も見てきた。
魂を置き去りにし、帰還だけが終わった兵士たちを。
ヴィンセントは声を落とす。
低く、確かに、届くように。
「ジョージ……聞こえるか?
俺だ。
ヴィンセントだ。
お前の相棒だ。
迎えに来た」
次の瞬間だった。
ジョージが突然、跳ね起きた。
虚ろな目。焦点の合わない視線。
反射のように、左腕が振り抜かれた。
ヴィンセントは即応した。
その拳を片手で止める。腕の力は重く、鋭かった。
まだ、戦場が肉体に残っている。
「ジョージ、やめろ!」
硬直。
だが、再び肩が動いた。もう一撃を繰り出そうとする。
ヴィンセントはその腕を包み込むように押さえた。
「落ち着け。
俺だ、ジョージ。
ここは安全だ。
戦いは終わった。
誰もお前を傷つけたりしない」
声が、届いた。
動きが止まる。
だが、目はまだ戻らない。
わななく口元から、声が漏れる。
「違う……違う……!
僕は、ジョージなんかじゃない……!」
荒れた息とともに、声が続く。
「僕は――
その名は、ヴィンセントにとって初めて聞くものだった。
眉がわずかに動いた。
だが、それだけ。
肩に手を添え、静かに、押し出すように言った。
「ジョージ……聞いてくれ。
お前の名前が、なんだろうと関係ない。
俺には、お前が“ジョージ”なんだ。
俺の相棒で、ΩRMの仲間で……
生きて帰ってきた、お前だ」
ジョージの目が、揺れた。
まだ焦点は合っていない。
だが、その耳は、ヴィンセントの声を確かに拾っていた。
「戻ってこい、ジョージ。
なぁ、もういい。
終わったんだ。
お前はもう、あの場所にはいない」
「……ヴィ、ン……ト……」
搾り出すような声。
視線が、ほんの僅かに、動いた。
「……ヴィンセント……?」
その瞬間、ヴィンセントは、口元だけで笑った。
「そうだ。おかえり」
浴室には、湯の滴る音だけが静かに残った。
ジョージは震える左手で、顔を覆った。
その指の隙間から、かすれた声が漏れる。
「……すまない」
ヴィンセントは黙ってその言葉を受け止めた。
しばしの沈黙のあと、少しだけ声を低くして言った。
「やっと戻ってきやがったか。バカヤロウ」
それは、怒りでも慰めでもない。
ただ、生きて帰った男に向けた――胸の奥からこぼれる言葉だった。
ヴィンセントは手を伸ばし、濡れた髪に触れた。
くしゃりと、撫でる。
「もう大丈夫だ。
あとは任せろ。俺がついてる」
ジョージは顔を隠したまま、小さく息を吐いた。
ようやく、深く、肺の底から空気を吐くことができた。
浴室の外では、マルタがバスタオルを抱えたまま立ち尽くしていた。
ピーターはただ静かに、それを見守っていた。
何も言わず、何も問わず。
ただ、戻ってきた男を迎えるように。
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