【完結】潜誠の盾:元“処刑人”のボディーガード。シングルマザーを守る 作:冬蜂
医療機器の微かな電子音が、静まり返った病室に断続的に響いていた。
白い天井。
消毒液の匂い。
薄く開けられた窓の隙間から、夜風がわずかにカーテンを揺らしている。
ベッドの上、ジョージ・ウガジンは身じろぎひとつせず、静かに眠っていた。
だが、その表情は穏やかではない。
眉間にはうっすらと皺が寄り、薄く閉じられたまぶたの奥で、何かと闘うように、彼の意識は夢の底を漂っていた。
◇
空気はひどく重かった。
鉄の扉の軋む音が耳に残っている。
どこかで聞いたことのある声が、部屋の外から近づいてくる。
ジョージ――いや、そのときの彼にとって、まだ“ジョージ”という名は存在しなかった。
ただ、「的居誠」という過去だけが、かろうじて自分のものとして残っていた。
部屋は薄暗く、寒い。
金属の椅子の上で膝を抱え、彼は自分の体温だけを頼りに、小さく小さく身を縮めていた。
視線は下。
何も見たくなかった。
誰とも目を合わせたくなかった。
だが、男は来た。
冷えた靴音。無表情の声。
「お前の名前は、今日から変わる」
少年は、その言葉を聞いた瞬間、かすかに眉を寄せた。
“変わる”というより、“失う”のだと――そんな実感が、胸の奥ににじんだ。
だが、それを言葉にする気力もなかった。
差し出されたリストには、どれも知らない名前が並んでいた。
“使い捨ての人生”を支える、無個性な英字の羅列。
少年はそれをじっと見つめていたが、しばらくして顔を上げた。
「……ここに、“ウガジン”って、ないの?」
不意の問いに、男が少し眉を動かす。
「……ウガジン?」
少年は静かに頷いた。
ほんの少しの間、言葉を探してから、ぽつりと続ける。
「昔、日本にいたころ……兄さんと神社に行ったことがあって。
そこに“宇賀神さま”っていう、ヘビで顔だけが人間の神さまがいて……
よく、そこで遊んでた。
覚えてるの、そこだけ」
言葉はたどたどしく、だが不思議とはっきりしていた。
目を合わせないまま、少年は続けた。
少年は静かに頷いた。
そして、かすれた声で言った。
「その名前がいい……“ウガジン”が、いい」
男は一瞬だけ黙り込んだ。
その名は――リストにはなかった。
本来なら却下するべきだ。予定外はリスクになる。
だが次の瞬間、男は書類の余白に「UGAJIN」と書きながら、静かに考える。
(……日本語っぽい苗字は、本来なら避けたほうがいい。
だが、“ウガジン”は珍しい。英語圏の人間には読めないし、発音も難しい。
ルーツを曖昧にするには……むしろ、都合がいいかもしれない)
マニュアルには書かれていない判断だったが、それでも男は頷いた。
目の前の少年が、初めて「自分の意思で口にした言葉」を、そう簡単に却下する気にはなれなかった。
「……わかった。“ウガジン”にしよう」
少年の顔が、わずかにだけ動いた。
嬉しそうでもなく、安堵でもなく――ただ、確認するように。
それでも、それが彼にとって「選んだ」という事実だけは、確かにそこにあった。
問い返されることもなく、次に求められたのは、ファーストネームだった。
少年は渡された紙を見つめた。
アルファベットの羅列。
英語の名前が、整然と並んでいる。
どれも見慣れない。
どれも、自分のものではない。
――なのに、不意に目が止まった。
「GEORGE」
男が理由を問うと、少年はほんのわずかに口元を動かし、答えた。
「……
記憶の底に、ほんの短い、笑っていた時間があった。
テレビの前で、母の膝にもたれながら見たあのキャラクター。
丸くて、どこかとぼけた顔の猿。
毎回ドジを踏んで、でも最後には誰かに許される。
小さな自分が、それを見て笑っていた記憶。
もう二度と戻らない時間。
だが、それが――最後に残った“好きだったもの”だった。
「……ジョージ・ウガジン」
その名前が口にされたとき、少年は目を伏せた。
それはもう自分のものだった。
与えられたのではない。自分で選んだのだと、かろうじて言える形で。
男の声が、記録のように響いた。
「今日から、お前の名前はジョージ・ウガジンだ」
少年――いや、ジョージは、何も言わずにうなずいた。
それが、終わりであり、始まりだった。
彼は泣いていなかった。
ただ、もう“的居誠”ではなかった。
その名は、名前とともに、家族とともに、海の底に葬られた。
夢の中。
ミラーの向こう側にいた男が、扉の前でふと立ち止まる。
最後に見たその背中のことを、ジョージはなぜか今でも忘れられない。
「……せめて、名前だけは、お前が選んだものだからな」
かすかに残るその声だけが、夢の底で何度も繰り返された。
その声が遠ざかっていく。
鉄の扉の向こうへ、名を奪った男とともに。
代わりに、別の音が近づいてきた。
ピッ、ピッ――規則的な機械の音。
風がカーテンを揺らし、薬品の匂いが鼻をかすめる。
(……ここは、どこだ)
まぶたの裏が白く光る。
身体は重く、手足が遠い。
それでも指先がわずかに動いた。
何かが皮膚に貼りついている。チューブ。冷たい素材。
目を開ける。
滲む天井。光。ノイズ。
(名前は……)
“的居誠”という響きが一瞬浮かび、すぐに沈む。
代わりに、かすかに唇が動いた。
「……ジョージ」
それだけが、今の彼に残された輪郭だった。
視界の端で、誰かの影が揺れた。
顔は見えない。気配だけが、かすかに残る。
見えなくても、わかった。2人分の気配。
ジョージは、ゆっくり瞬きをした。
焦点が少しずつ合ってくる。
「ヴィン……セント……?
チャット……」
2人は笑った。
「おかえり。“ジョージ・ウガジン”」
あなたの年代と性別を教えてください。(読者の傾向を知りたい)
-
~20代男性
-
30~50代男性
-
60代~男性
-
~20代女性
-
30~50代女性
-
60代~女性