【完結】潜誠の盾:元“処刑人”のボディーガード。シングルマザーを守る 作:冬蜂
朝の陽ざしが、キッチンの棚を斜めに照らしていた。
マルタが湯を沸かしていると、リビングのほうで新聞の紙音と、低く驚いた声が響いた。
「……おい、マルタ」
声の調子に、彼女はふと手を止めた。
「何?」
「見ろよ、これ……間違いねぇ。あの子だ」
ピーターはダイニングの椅子に腰かけたまま、新聞の一面を指差していた。
その先には、見慣れた顔――あの夜、自分たちの風呂で震えていた、小柄な男の写真。
《ビーンズヒーロー、命をかけた救出劇》
《元軍人、銃を使わず未成年を救出――ジョージ・ウガジン氏、現在も集中治療中》
記事の中には、彼が誘拐された少女を救出したこと。
爆発した際には少年と少女をかばい、銃を使わず脱出したこと。
その後、自分が囮になり敵を引きつけ、その後崖下に転落しながらも、奇跡的に生還したこと。
今も病院で意識が戻らないこと――
そして、その行為を称える声がSNSで急速に広がっていることが、簡潔に綴られていた。
マルタは椅子に腰を下ろし、新聞を覗き込む。
「……ジョージ」
彼女の声は、どこか遠くを見るように静かだった。
ピーターがコーヒーを一口すすった。
「間違いねぇ。顔つきも、目の奥も……あの時のまんまだ」
マルタはゆっくりと新聞に手を添える。
インクの匂いと活字のかたちが、昨夜の出来事をもう一度、現実に変えていく。
「まだ……意識が戻ってないのね」
「ああ。でも、生きてる。
記事には、そう書いてある」
ピーターは一瞬だけ目を伏せ、再び記事に目をやる。
「銃を持ってたのに、撃たなかった……
……自分の身体で、子どもを守ったってよ」
マルタの瞳が、ほんの少し潤んだ。
けれど、それを拭くことなく、ただ新聞を見つめ続けた。
「……怖かったのね。
あの夜、あんなに震えて……
あの子、自分が壊れるくらい、誰かを守ったのね」
ピーターは新聞をゆっくりとたたみ、テーブルの上に置いた。
その動きには、どこか慎重な、畏敬に近い所作があった。
「人間、壊れるほどの何かを背負った時だけ……あんな目になるんだな」
マルタは紅茶のカップを彼の横に置き、少しだけ微笑んだ。
「また、来てくれるかしら。元気になったら」
ピーターはしばらく窓の外を見ていたが、小さく頷いた。
「来るさ。無言で礼を言いにくるタイプだ。
その時ゃ、またワッフル焼いてやろうぜ」
ふたりのあいだに、言葉のいらない静寂が落ちた。
窓の外、風が木々を揺らし、陽が差し込んでくる。
その柔らかさが、新聞の活字を少しだけ温めていた。
◇
――1ヶ月半後
12月半ばの午後。
街路樹はすっかり葉を落とし、枝だけが空に突き出ていた。
風は冷たく、どこか湿った雪の匂いを運んでくる。
舗道には霜が降り、踏むたびに靴底が細かく鳴った。
白いサバーバンが、霜に縁どられた通りをゆっくりと曲がり、一軒の家の前で止まった。
エンジン音が消えると、風が木と家の隙間を縫う音だけが残る。
運転席から降りたヴィンセントが、助手席のドアを開けた。
中から現れたジョージは、グレーのトレンチコートの襟を立て、風を受けながらゆっくりと立ち上がった。
足元はレザーのブーツ。
表情に陰は残るが、その背筋はまっすぐだった。
その姿は、以前よりもやや痩せて見えたが、立っているだけで空気に“意志”のようなものをにじませていた。
まだ万全ではない。
だが今日ここに来たのは、誰かに言われたからではない。
自分の意思で、恩を返すために。
門の前で立ち止まり、深く息を吸う。
ヴィンセントがちらりと横目で見た。
「行くか?」
ジョージは無言で頷き、ゆっくりと歩き出した。
玄関のチャイムを押す前に、扉が開いた。
ピーターが、剪定ばさみを片手に立っていた。
その目が、ジョージを捉える。
一瞬、何かを測るような沈黙。
そして、口角がほんのわずか、上がった。
「遅ぇぞ」
そのひと言に、ジョージはかすかに眉を動かした。
「……はい。すみません」
ピーターは剪定ばさみを適当に脇に置き、扉を大きく開けた。
「上がれ。ワッフルは、焼いてある」
◇
ダイニングのテーブルには、暖かい紅茶と、焼き立てのストロープワッフル。
バターがわずかに溶け、香ばしい香りが漂っていた。
マルタはエプロン姿のまま、穏やかな笑みをたたえていた。
「よかった。来てくれて。
ずっと待ってたのよ」
ジョージは少しだけ、視線を落とした。
そして、椅子に腰を下ろし、ゆっくりと頭を下げる。
「あの時は、本当にありがとうございました。
助けていただいたのに、お礼も言えず……」
マルタがそっと、彼のカップに紅茶を注ぐ。
「お礼なんていらないのよ。助けられる人を助けただけ。
でも……来てくれたことが、一番嬉しいわ」
その言葉に、ジョージは一瞬だけ息を止めるような間を挟んだ。
そして、小さく、目を伏せて頷いた。
ピーターは新聞の切り抜きが貼られた冷蔵庫をちらりと見やった。
「お前の顔、ずっとここに貼ってあったんだぜ。
この家で、ずっと見張ってた」
ジョージは、それに気づいていた。
リビングから見える冷蔵庫に、自分の名前と顔がある。
活字の中の自分が、ここで、静かに生き続けていたのだと。
彼はほんのわずかに、口元を動かした。
「……照れますね、そういうの」
ピーターが鼻を鳴らすように笑った。
「いいだろ。たまには、誰かに見守られてるってやつも」
ヴィンセントが紅茶をすする音が、部屋に柔らかく響く。
日差しが、ゆるやかにカーテン越しに差し込んでいた。
ジョージはストロープワッフルを手に取り、しばらく見つめたあと――
静かにひと口、かじった。
甘さが、喉を通った。
あの夜は感じなかった“味”が、いま、確かに口の中に広がっていた。
マルタが穏やかに言った。
「……ね、美味しいでしょ?」
ジョージは、わずかに目を細めて頷いた。
「はい。とても」
「潜誠の盾~グレナン家編~」はこれにて完結となる。
長い間お付き合いいただき、心より感謝申し上げる。
もしほんの少しでも誰かの心に残っていたのであれば、作家として冥利に尽きる。
21時には次回作のワンシーンを公開予定する。
もう少しお付き合いただける方がおりましたら。
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