【完結】潜誠の盾:元“処刑人”のボディーガード。シングルマザーを守る 作:冬蜂
ジョージはリビングに戻り、冷蔵庫を開けた。
水のボトルを取り出し、キャップをねじる。
無言で口をつけ、喉を通る冷たさを確認する。
そのとき。耳が、何かを拾った。
ガレージから、車の音。
エンジンの低い振動。日産・ローグ。
ヘッドライトの光が窓越しに揺れ、室内を切り取るように照らした。
ボトルをキッチンカウンターに置く。数秒。
ドアが開いた。
ナンシーだった。
視線を向けた瞬間、違和感が走る。
眉間がわずかに動いた。
頬のあざ。
うっすらと腫れ、青黒く変色している。
新しい傷――殴られた跡。
言葉はなかった。
ただ、冷凍庫を開け、保冷剤を取り出す。
タオルで包み、手渡した。
「……どうした?」
ナンシーは視線を落とした。
「……別に」
そのまま、ジョージの横をすり抜けていく。
保冷剤を頬に押し当てながら、冷蔵庫からウォッカのボトルを引き出した。
グラスは使わない。
キャップをひねり、そのまま喉へ流し込む。
ジョージは動かなかった。
「……飲みすぎだ」
苦笑。
ナンシーはさらに一口、煽る。
「放っといて」
かすかに震える声。
沈黙が、キッチンを包んだ。
だが、長くは続かない。
笑った。
短く、乾いた音。
「……バカみたい」
ぽつりと、落ちた。
「全部……最初から分かってたのに」
ジョージは視線を向ける。
ナンシーの手が震え、ボトルがテーブルに打ちつけられた。
肩が、小刻みに揺れる。
涙を拭こうとするが、間に合わない。
指先で乱暴に目元をこする。
「最初から分かってた……
あんな金、受け取るべきじゃなかった。でも……
どうしようもなかった……ジムを続けたくて……」
声が崩れる。
言葉の狭間に、息が混じる。
抑えきれないものが、ひび割れてこぼれていた。
ジョージは黙っていた。
「……でも、もう客は減る一方。
あの男のせいで……出資者?
違う、支配者よ……
好き勝手に振る舞って、私のことも――」
言葉を切った。
目を閉じ、かぶりを振る。
「もうやだ……」
そこで、何かが壊れた。
ナンシーは、力を抜いた。
ゆっくりと、重力に従うように、ジョージの方へ寄ってくる。
抱きつくでも、手を伸ばすでもない。
ただ、倒れるように。
ジョージは、一瞬迷った。
動けば支えられた。
だが、動かなかった。
そのまま、受け止めた。
ナンシーの額が、肩に触れる。
湿った髪が首筋にかすかに触れた。
濡れたシャツ越しに、震えが伝わる。
泣き濡れた肌の匂い。呼吸の熱。
ジョージは、息をひとつ吐いた。
軽い。
だが、背負ってきた重さは――そうではなかった。
ナンシーは泣いていた。
肩を震わせ、音を立てずに、ただ静かに。
しばらくして、嗚咽が収まっていく。
涙が乾き、呼吸が落ち着いてくる。
「……」
ジョージはそっと、ナンシーの肩を揺らす。
「ナンシー」
返事はなかった。
視線を向ける。
――おかしい。
寄りかかっていただけの身体が、完全に預けられている。
呼吸は深く、重さが増している。
――寝たか。
ジョージは、深く短く息を吐いた。
言葉はひとつ。
「……仕方ねぇな」
気配を崩さぬよう、体をわずかに沈める。
右腕をナンシーの背に回し、左手で膝裏を探る。
ゆっくりと持ち上げた。
重さはなかった。
けれど、力の抜けた身体には輪郭がなかった。
崩れものを抱えるような、柔らかくも不穏な手応え。
一歩踏み出す。
床のきしみを避け、足音を殺す。
呼吸が浅くなりすぎないように整えながら、
ジョージは、慎重にソファへと歩を進めた。
膝をつく。
動きを止め、重心を下ろす。
そのままナンシーを預ける。
クッションが静かに受け止めた。
彼女の腕がわずかに動く。反射か、記憶か。
ブランケットを手に取り、肩から胸まで覆う。
生きている。そう感じるだけの、微かな熱が残っていた。
終わったはずだった。
だが――
ナンシーの指先が、シャツの裾をつかんだ。
眠ったまま、確かに、握った。
反射でも、無意識でもなかった。
何かを失わないように、掴む動きだった。
「……トム」
かすれた声が落ちた。
空気に混じって消えていくような、か細い響き。
だが、そのひと言は、しがみつくような強さを持っていた。
ジョージはしばらく動かなかった。
視線だけを、そっと下げる。
指が、自分の服を離そうとしない。
そっと、手を重ねた。
冷えていた。
汗と涙に濡れた肌。夜の湿度が絡んだ指。
自分の掌が、わずかに反応した。
震えた。
刹那。
制御の届かない領域が、微かに揺れた。
自覚する前に、指先が動いていた。
ジョージは、すぐに息を整えた。
呼吸を深く。
震えは、手のひらに押し込んだ。
力を込め、指をそっと外す。
ブランケットの端を整え、肩までかけ直す。
無言で立ち上がる。
振り返らない。
余計な視線も言葉もない。
ただ、背中の奥に残った感触だけが、
確かに“何か”を刻んでいた。
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