【完結】潜誠の盾:元“処刑人”のボディーガード。シングルマザーを守る 作:冬蜂
パンケーキの甘さが、まだ舌の奥に残っていた。
ナンシーは子どもたちの身支度をしながら、どこか上の空だった。
あの背中と、焼きたての温もりが、頭の隅にまとわりついて離れない。
ジョージは食卓に何も言わず、ただ手を動かしていた。
朝食を作り終えると、リッジラインのキーを取り、玄関を出た。
「周辺の様子を見てくる」
低く、それだけ。
今もまだ戻らない。
ふとした瞬間、違和感が刺す。
バッグがない。
視線を巡らせる。
定位置のフックにも、ソファの脇にもない。
――ああ。
ローグの後部座席に置いたままだ。
ナンシーは無言で立ち、キッチンを抜ける。
ガレージへ通じるドアを開けると、ほんのわずかに冷たい空気が頬をなぞった。
薄暗い空間。
コンクリートに滲む油の痕と、うっすらと湿った匂い。
ローグへと歩を進める。
ドアハンドルに指をかけかけて――止まった。
感覚が、何かを捉えた。
運転席のボディに目を凝らす。
違う。
あの傷が、ない。
フロントからリアにかけて、深く抉られていたはずの線。
昨日、自分で確認していた傷跡が、跡形もなく消えている。
――まさか。
思い当たる人物は一人だけだった。
ジョージ。
彼ならやる。言わず、見せず、痕跡も残さずに。
修理か、カモフラージュか。それはわからない。
ただ、確かにそこにあった痛みの痕が、今はもうない。
ナンシーは、ボディに手を当てた。
金属の冷たさの中に、ごく微かに残るぬくもり。
その向こうに、彼の無言の手仕事が透けて見えるようだった。
かすかに笑った。喉の奥で、小さく。
そのとき。
家の中から足音。小さく、弾む音。
「ママー! おはよう!」
リリーの声が跳ねる。
続いて、ジェシカ。まだ眠たそうな目で、ゆっくりと歩いてくる。
「おはよう、リリー。ジェシカ」
ナンシーは自然な声で応じ、ガレージを後にした。
が――
「……え?」
リリーがリビングに入った瞬間、ぴたりと足を止めた。
「すごーい!」
テーブルの上を見て、目がまんまるになる。
パンケーキ。ベリー。バター。
シンプルだが、どこか温かい、誰かの気配が残る朝食。
「ジョージィーが言ってたパンケーキだ!!」
リリーは駆けて、椅子に飛び乗った。
「ふわふわ!」と声を弾ませる。
ジェシカも足を止めた。
だが、視線は皿ではなく、ナンシーの顔を見ていた。
目線が、頬に落ちる。
ナンシーの心臓が一拍、遅れた。
――しまった。
昨夜、冷やしたはずだった。
だが、腫れはまだ残っていた。
うっすらと青黒い痕が、頬に浮いている。
「……ママ、それ」
ジェシカの声が静かに刺さる。
「転んだのよ」
ナンシーは軽く笑ってみせた。
だが、ジェシカの目は冷めていた。
「嘘だよね」
「嘘じゃないわ」
「そんな転び方しない。
……殴られたみたいじゃん」
リリーが手を止めた。
不安そうに、母と姉の顔を見比べる。
「ママ、いたいの……?」
「大丈夫よ、リリー」
ナンシーは柔らかく微笑んだが、ジェシカは引かなかった。
「誰かにやられたんでしょ。言ってよ」
「……だから、違うってば」
「本当のこと言って!」
声が強くなる。
空気がピンと張る。
リリーがびくっと肩をすくめた。
「お姉ちゃん……」
「ママが嘘ついてるの!」
「ジェシカ……やめなさい」
ナンシーの声が硬くなる前に、ジェシカが食い下がる。
「じゃあなんでジョージがいるの?
ボディーガードなんて必要あるの?」
ナンシーの呼吸が止まった。
喉の奥に、説明しきれない現実がひっかかる。
「……それは……」
「なにか隠してるんでしょ?
ずっと思ってた」
ジェシカの目は、怒りと怯えが混じっていた。
ナンシーは言葉を飲み込んだ。
キングスリーの名を出せば、すべてが瓦解する気がした。
そのとき――
玄関のドアが、静かに開いた。
ジョージが帰ってきた。
無言で一歩踏み入るその気配に、場の空気が一変する。
ナンシーとジェシカがそちらを見る。
リリーだけが、無垢な笑顔で彼を見上げた。
「ジョージィー! パンケーキおいしいよ!」
一瞬。
ジョージの目が、わずかに細められた。
リリーに向けられたそれは、かすかな微笑のようでもあった。
だが、ナンシーとジェシカに視線が移った瞬間、彼の表情はもとに戻る。
硬質な無表情。
整えられた戦闘モードの顔。
「……何かあったか」
そのひと言が、朝の静けさを裂いた。
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