あれは今年の、まだ桜の花びらが舞う季節のことだった。
「そこの。これを職員室の麻呂の机まで運んでおくでおじゃる」
運悪く綾小路につかまった俺は、教材がギッシリ詰まったダンボールを職員室まで運ぶように命令されてしまった。ダンボールを試しに持ってみるが運動音痴で非力な俺が気軽に運べる重量ではなかった。だからといって無視するわけにもいかない。成績は大事だ。
仕方なくダンボールを抱え、廊下を歩く。
蟹股、プルプル震える腕、額ににじむ汗。
誰がどう見ても辛そうな風体だろう俺に、しかし誰一人「手伝おうか?」と声をかけてはくれない。社交性のない俺には友人なんていない。顔見知りはいても、結局は誰も彼も他人なんだ。
そんな時
「●●君、大丈夫?」
声をかけてくれたのが同じクラスの川神一子だった。
「か、川神さん!?」
「なんか辛そうだけど、代わりに運んであげよっか?」
「あ、いや……重いし。女の子には任せられないよ」
女の子より貧弱な俺は、突然声を掛けられて気が動転していた。
咄嗟に口から出た薄っすぺらな見栄に自己嫌悪する。失言だ。
「大丈夫大丈夫、アタシ鍛えてるからね!任せてよ」
そんな俺の後悔をよそに、川神さんは気にした様子もなく俺の手からダンボールを奪い取る。俺が必死に抱えていたダンボールは、まるで重さなどないかのように軽々と彼女の手の中に収まった。
「ね?平気でしょ?」
そう言って自慢げに笑う彼女を見た瞬間、俺の心臓がドクリと跳ねた。顔が熱くて息が詰まる。胸の奥が苦しい。恥ずかしいとか、照れくさいとか、そんな感情とは別の……もっと劇的で重要でどうしようもない感情が湧き上がってくる。この気持ちは……。
「それじゃぁね~」
届け先も聞かずに走り去る川神さん。彼女を呼び止めることも忘れ、ただ呆然とその後ろ姿を見送った。思考が空回りし、現状を正しく整理できず、頭の中はぐちゃぐちゃだった。でもドクドクと激しく脈打つ心臓の音を聞きながら……これが自分の初恋なんだと自覚した。
何でもない出来事。
きっと川神さんだって覚えていないような些細なやりとり。
それでもそんな些細なやりとりで、俺は彼女に恋をしたんだ。
それから何度となく告白しようと決心し。
何度となくシミュレーションを行った。
筋トレも始めて、少しでも川神さんに相応しい男になろうと努力した。
でも、それでも……。
結局できたのは、風間ファミリーの中で楽しそうに笑う川神さんを遠くから眺めることだけだった。
いや、逆だ。
眺めていたら何も言い出せなくなった。
だから、
「一子は俺の女だから皆、手ェ出すなよ」
その日が来るべくして来た時も、大きな驚きはなかった。
「おめでとうございます、ワン子ちゃん」
「ありがとう委員長」
髪を下ろした川神さんの笑顔は天使みたいに可愛くて、そしてとても幸せそうだった。
「川神さん……」
元から敵うはずのない相手だったんだとわかっている。
言うなれば脇役が主人公を差し置いてヒロインと結ばれる……それぐらい無茶な話。
それでも
「畜生、俺の初恋……」
好きだったんだ、真剣に。