喫茶『猫柳』は、そもそも人間は訪れにくい店なのだ。
表通りから少し離れた路地にあるという点もそうだが、そもそもただの人間にはあること自体を認知できない。
それは、姉さんがケルベロスとしての力で、店の存在自体を揺らがせており半分くらいこの世じゃないところにあるから……らしい。
仮に認知できたとしても、ひどく印象に残りづらく、記憶するのが難しい。店の中に入ろうという意思を抱こうとすると、さらに困難だ。
もちろん、人間の中で時折『猫柳』に訪れることができる人もいるが、その多くは店を出ると、『猫柳』のことを忘れてしまう。
故に、この店に自分の力で入ってくる――――もしくは、その店主である姉さんの知り合いとなると、姉さんやユウヒのような人外であるのは、まあ当然と言える。
しかし、『人魚』。なるほど、『人魚』か……。
「僕、天使ユウヒ。幸太郎の守護天使だよ! よろしくね」
「天使さん、ですか? 本物?」
「ふっふっふっ、いかにも。しかもつい先日地上に降臨したばかりです。敬っていーよ」
「おもろ。さっきまでぼんやりした顔で操り人形になっとったお間抜けがよく言うわ」
「何か言った、ケルベロス?」
「聞えへんかったならもう一回言ったるわ。超間抜けで馬鹿らしゅうて笑えたわ。ありがとな」
「ちょっと悪口増やしたろてめー!」
俺の隣には正気に戻ったユウヒ。五分くらいはLENAの言葉に全て反応して言うことを聞くマシーンだったが、俺が神の力を使って軽くチョップしたら元通りに姉さんと喧嘩をできるようになった。
それでいいのか?
ちなみに俺の対面には申し訳なさそうな顔をしたLENAと、少し離れたところに椅子を引っ張って来た姉さんが座っている。
LENAはユウヒと姉さんの言い合いを不思議そうに見ていたが、しばらくすると自分の用件を思い出したのか、恐る恐ると言った様子で切り出した。
「あ、あの、今日篝様のお力をお借りするために来たのは……」
ちょっと待って。
「あー、篝様ってのはやめてくれないですか? できれば普通に呼んで欲しいです」
こう、すごく身体をかきむしりたくなるので。
すると、LENAは不思議そうに小さく首を傾げた。
「でも現人神様ですよね?」
「そうですけど、そう偉いもんでもないです。竜宮さんみたいな有名人に呼ばれるとなおさらソワソワしますよ」
「でも、篝様もわたしのことを竜宮さんと呼ばれてますし……」
「しかし……」
いやまあそれはそうなんだけども、こう、何と呼べばいいのかわからないというか。
「別に普通にあだ名とかで呼べばいいじゃん。LENA……だとあれだし、普段呼ばれてるようなのはないの?」
もごもご言っている俺を見かねたようにユウヒが助け舟を出してくれた。
すると、LENAが手を合わせて「名案です」と言うかのように目を輝かせる。
「あ、でしたら『セナ』と呼んでください。お父様にもそう呼ばれてるので。あと、話し方も普通にしてくださるとうれしいです」
ふんわりと柔らかく微笑むLENA。その笑顔はカリスマと呼ばれるアイドル歌手にしては随分と幼く見えた。
「……わかったよ。セナ、これからはそう呼ばせてもらう」
その笑顔に俺も肩の力を抜かれたのか、自然と名前を呼ぶことができた。
LENAは……いや、セナは俺の言葉に安心したようにまた柔らかくほんわかと微笑んだ。
「はい、よろしくおねがいします、せんぱい」
「せんぱい?」
「せんぱいは高校二年生ですよね? わたし、高校一年生なので、せんぱいです」
「学校も違うのに?」
「おかしいんですか?」
「いや、まあ、うーん。おかしくはない、か?」
セナの名前、ミドルネームあったからな。日本語はうまいけど、海外住みも長いのかもしれない。だとしたらちょっと常識もズレてそうだ。
まあ別段呼び方にこだわるタイプでもないし、なんだっていいや。
「それで、セナちゃんの相談事はさっき僕にかけちゃったあれのこと?」
さらっと自分もセナのことをあだ名で呼びつつユウヒが尋ねると、セナは小さく頷いた。
「はい。どうにも、制御できないときがあって」
「あれ、人魚の力なの? それにしては強い能力というか……
「あ、いえ洗脳ではないんです。その、なんていうか――」
「
「! せんぱい、わかるんですか?」
ぱちくりと目を瞬かせるセナ。
「元は人魚……マーメイドじゃなくて、セイレーンの力って聞くけどな。でも欧州では割とそこらへんの習合が起きてるらしいからな」
俺は直接人魚にあったのはこれが初めてなので、正確にそこらへんがわかるわけではないんだけども。
「まあとりあえずセナの『人魚』のルーツは、日本の方ではなさそうかな」
「へー、日本にも人魚がいるんだ」
俺の呟きをラスクをかじりつつ拾い上げたのはユウヒだった。
「まあな。一番古い記録だと619年の日本書紀の記録に人魚らしい記述がある。『人でも魚でもないもの』が釣り上げられたとも、『人に似たもの』が釣り上げられたととも。ただ、これは山椒魚である可能性が高いらしいが……。明確に『人魚』って言葉が出たのはもう少し後、937年の『和名類聚抄』だな。さらに、それ以降になると明確に人魚が打ち上げられた、人魚を捕まえたなんて伝承まで残っているんだ」
1247年、津軽の海に「死人のような大魚」が流れてきたという伝承。
秋田の洲崎遺跡から見つかった木簡には、僧侶らしき人が人魚を「凶兆だ」と殺すように指示をしたという話が書かれているらしい。
江戸時代の薬学者、貝原益軒の『大和本草』には驚くことに人魚の血に血止めの作用があるとの記述がある。
沖縄の方では、『ザン』という名前で人魚が知られている。
ザンは自分たちを捕まえた漁師に、「自分を逃がせば大切なことを教える」「このあと津波が来る。逃げろ」と言ったそうだ。そして、言葉通りに津波が来た。
「そこあたりからわかるように、日本の人魚は凶兆の証って色合いが強い。海の化身で、人魚の言葉を信じなかった愚かな人間たちは死んでしまう」
「めっちゃ早口だけど、幸太郎ってこういう話好きなの?」
「しっ、言わんとき」
こういう人魚の明確な伝承が残ってるのは面白いよなぁ。確かに人魚が存在したんだと思わされるし。
なんなら、日本では人魚のミイラが保存されていたりもするし。
全長30センチほどの人魚のミイラは、土佐の海で漁網にかかった人魚だったらしく、当時の商人に取引された結果回りまわって寺に納められたそうだ。
まあ、それは捏造で、猿のミイラを加工したものだったらしいんだが。残念。
「他で言うと、不老長寿の証でもあるな」
「あー、八尾比丘尼やったっけ?」
「そうそう。姉さんよく知ってるな」
「まー、ちょっとな。たまたま聞いたことあったんや」
これは日本で知られている一番有名な人魚の伝承だろう。
旦那が持ち帰った人魚の肉を、そうとは知らずに口にしてしまい、不老長寿になってしまった女の話である。
彼女は何度も旦那と死に別れたり、家族に置いていかれたりした挙句尼僧になり、全国各地を巡ったとか。
「八尾比丘尼はとにかく全国の各地に伝承が残っていて、明確に足跡をたどることは難しいんだが、それでも驚くべきことに最低800年は生きたと言われているんだ」
「へー、人間にしてはちょっと長く生きてるね」
「そうだねぇ。人間にしては頑張ったんやね」
反応が悪いな……この人外どもめ……。
「言っておくけど、普通の人間はどんなに頑張っても100年くらいがギリだからな」
「短いよねぇ。や、僕は人間のそういうところも好きだけど」
「うちとしては気合入れて、せめて300年くらいは生きててほしいんやけどなぁ」
「まあ、気持ちは理解できる。瞬きの間過ぎてね、100年」
寿命の感覚が違いすぎる。これだから数百年くらい平気で生きる人外はさあ。
……っと、しまった、セナがめっちゃぽかーんとした顔でこっちを見てる。
こういう語りになると熱が入ってしまうのは俺の悪い癖だ。反省しよう。
とりあえず一つ咳ばらいをすると、セナに向き直る。
「でも、セナはそういう日本的な人魚じゃなさそうだな。魅了って言うと、やっぱり欧州的人魚の特徴だから」
「そうなんですか?」
こてんと首をかしげるセナ。
「うん。さっき言った通り日本の人魚は凶兆と不老の証だけど、欧州の方では魔性のイメージなんだよ」
航海者をその美貌で惹きつけ、この世のものとは思えない歌声で縛り付け、最後には海に引きずり込んでしまう半人半魚の人外。
人の情欲を掻き立て、乱して、誑かす。それが海外における『人魚』だ。
セナは『人魚』のハーフらしいから、そうした側面を引き継いでいるんだろう。
そのせいでさっきユウヒに話しかけた時に、意図せずに船乗りを誑かした『魅了』の力が発動してしまった……ってところか。
「魔性と、魅了……」
あ、まずい。セナがちょっとしょんぼりしている。
そうだよな、あんまり言われて嬉しくはないよな。ええと、こういう時は……。
「と言っても『人魚』にもいろいろいるよ。アンデルセンの『人魚姫』の人魚は優しいし!」
「でも、あれって、最後には泡になっちゃいます、よね……」
「あ、あー。で、でも、他にも人間に友好的な伝承もあるし! 現代に生きてる人魚はどれも人間に優しいって話だよ。だから、そのだな……」
「人間だって色んな人がおる。人魚だってそう。やろ、幸太郎?」
「そ、そうだ。うん。そういうことだ」
しどろもどろに言葉を重ねる俺に、姉さんが助け舟を出してくれる。
「実際、セナのご両親は仲良くやってたんやろ?」
「……はい!」
姉さんが微笑みつつセナに問いかけると、セナは嬉しそうにうなずいた。
目だけで姉さんにありがとうと伝えると、姉さんの犬耳がぴょこぴょこと動いた。
「セナちゃんのご両親ってどんな人だったの? 片方は人魚なんだよね?」
「はい。母が『人魚』で、父は普通の人間です。母は最期までとても幸せそうで、そんな母を父は愛していたようでした」
「そっか。いいお母さんだったんだね」
最期、と言うことは亡くなっていたのか。ちょっと悲しいことを思い出せてしまっただろうか。
まずったな、申し訳ない。
「あ、母のことはもう受け止められてるのでそう申し訳なさそうにしないでください、せんぱい。もう二年も前の話ですし」
「……いや、俺は別に、勘違いだろう」
「あ、うそつきみっけ」
「幸太郎は割と感情が顔に出るんよねぇ」
うるさいうるさい。当たり前に俺の感情を見透かすな。
俺の態度にくす、と小さくセナは笑い、だがその後に少し表情を暗くした。
「でも、『魅了』のことだけは、わたしにはどうしようもなくて」
セナがきゅっと唇を結ぶと目を伏せる。長いまつげが震え、身体もまた何かをこらえるように震える。
でも、やがて意を決したように顔を上げた。
「わたしが、しばらく芸能活動を休止しているのはしっていますか?」
「うん。知ってるよ。僕が見た時は、『学業に集中するため』ってなってたけど」
「そうですね。ちょうど受験の時期でもあったので、嘘ではないんですが、それだけではないんです」
そう言えばユウヒが「LENAは今休止中」とか言ってたな。この言いぶりだと、本当は『魅了』絡みのあれこれってところか。
「わたし、幼いころから『魅了』の力があったわけじゃないんです。むしろ、母の影響は薄くて自分はほとんど人間だと思っていました。水中で呼吸はできませんし、足だって人間のものです。母は人間の足と、人魚の足とを変化させられていましたが、わたしにはできません」
たはは、と指を付き合わせてセナが照れたように笑った。
「でも、それが三か月前のライブで急に『魅了』の力が目覚めてしまったんです。でも、それを制御できなくて、当時わたしの歌を聞いていたファンの皆さんが、一瞬変な風に熱狂してしまって……」
さっきのユウヒみたいになった、か。確かにああいうのが観客全員にかかったらかなり問題だろうな。
たぶんステージと距離があっただろうから、ユウヒほど強くはかからなかったんだろうが、それでも大変なのには変わらないだろう。
あ、でもでも!とセナが今度はにっこりとした笑みを浮かべて言葉を続ける。
「ファンのみなさんが怪我する前に、スタッフさんが上手く抑えてくれたので、大事にはならなかったんですよ? ただ――」
ほんの一瞬、セナの瞳が揺らいだ。
「いつまでも、こんな風に休んでいるわけにもいかないので、何とか制御できるようになりたいんです」
「つまり、その魅了を抑えることが僕たちへの依頼ってこと?」
「はい。そうなります」
いま一瞬何かを言いかけてやめたような気がしたが、気のせい……か?
でも今は普通に笑ってるし、俺の見間違いか。
「そっか。だってさ、幸太郎、どうする? ……幸太郎、何ぼーっとしてるの?」
「へ? ああ。力を貸すのは問題ないよ。できることは多くないかもしれないけど、それでもいいのなら」
「はい! よろしくおねがいします、せんぱい!」
ぺこーっとセナが頭を下げる。
「とりあえず依頼に当たってセナの方から俺らの方に注文とかあるか? やりたくないこととか、このくらいの期間をかけて魅了を制御できるようになりたいとか」
「ええと、可能なら十日以内とかにある程度の成果が出ると嬉しい……かもです」
「十日か……」
ちょっとシビアな日数だが、やれなくはない……か?
いやこういうのはセナの練習あるのみってところもあるし、俺らがどうサポートするかだな。
「でも、そうなると人魚の『魅了』のことから調べたくなるなぁ」
「どういうこと?」
「『魅了』が暴走した原因だよ。今まで使えなかったのに急に使えるようになったって、何らかの理由があるって考える方が普通だ」
もし『魅了』の暴走に何らかの理由があるなら、その問題に対する対策をすることが一番の近道だ。
「セナはなんで急に『魅了』が使えるようになったのか心当たりがあったりするか?」
「その、なんていうか、ない……わけでは、ないんですが……むしろ、答えはわかってるというか……」
「わかってるのか? 何が原因なんだ?」
なんか急にセナがもじもじして、目を伏せてしまった。視線を机の上でうろちょろさせつつ、一瞬顔を上げて、俺と目が合うと顔を真っ赤にして、また目を伏せる。
「い、いわなきゃ、だめですか?」
「うん? まあ、教えて貰えると俺としても助かるけど」
「わ、わかり、まし、た」
真っ赤な顔のまま目を伏せているセナが、蚊の鳴くような声でぽつりとつぶやいた。
「そ、その、人魚における、は、発情期……のようなものらしくて……」
ごうっと俺の両隣からすごい圧が生まれる。
「幸太郎、最低だね」
「死んだほうがええで」
「今の俺が悪いか? なあ、半分くらい事故じゃないか?」
「あんだけ恥ずかしがってたんだから察するべきでしょ。セナちゃんがかわいそうだよ」
「はあ、うちの育て方が悪かったんやろね……。この子、時々ちょー鈍いから」
自分も止めなかったくせに、ユウヒはセナに抱き着いて俺をジトーっと睨んでくる。
姉さんも姉さんでこめかみを抑えつつ、大げさにため息をついていた。
「やっぱ二人って仲良いんじゃないの?」
「は? 乳デカケルベロスと仲良かった瞬間とか一ミリもないけど?」
「そうやよ幸太郎。このペチャパイ天使とうちが仲いいとか背筋が凍ることやめてほしいわ」
「二人の情緒どうなってんだよ」
こういう時にも声合わせて否定してんじゃないよ。