白い犬   作:一条 秋

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115 姉妹との休日

 翌朝。すっかり日が昇った頃に起きた光秋と伊部姉妹は、一緒の布団から出ることを多少惜しみながらもベッドを下り、トーストとコーヒーを用意して遅い朝食を始める。

 

「…………すごい体験でしたね。昨日の夜」

 

 コタツにもぐってトーストをかじりながら、光秋は未だ夢見心地の残る顔で昨夜のことを振り返る。

 

「だねぇ…………隣の人に怒られちゃったけど……」

「ハハァ……」

 

 深く頷く綾に対し、法子は壁を見やりながら不安を浮かべ、光秋はコーヒーを飲みながら苦笑を漏らす。

 

「大丈夫かな?なにかあったら光秋くんが……」

「まぁ、あれから静かにしてた……少なくとも大きな音は立てなかったし、大丈夫でしょう。なにか言われたら、また謝っておきますよ」

 

 ちびちびとコーヒーを飲みながら申し訳なさそうにする法子に、光秋は努めて前向きに応じる。

 

「それも含めて、昨日は本当に楽しかった」

「……そうだね。でも……」

 

 残っていたコーヒーを飲み干してしみじみと呟く光秋に頷きながら、法子は再度壁を見る。

 

「それで光秋くんがご近所トラブルに巻き込まれるかもっていうのは、なんかねぇ……私は今日帰るからいいようなものの――あっ」

 

 言ってから、このタイミングにおいてその話題は言うべきではなかったとハッとする。

 

「「…………」」

 

 そんな法子の危惧を表すかのように、起床以降おおむねほのぼのとしていた“三人”の間に、重い気まずさが漂う。

 しかしそれも十数秒程のことで、光秋は食べ終わった食器を片付けながら言う。

 

「だからこそ、帰るまでの残り時間を楽しいものにしましょうよ。もちろん近所迷惑にならない範囲でね」

 

 最後の方は冗談気味に微笑んで言うと、重ねた食器を台所の水盤に持っていく。

 

「…………そうだねっ」

 

 それに応えるために笑みを浮かべると、法子も台所に向かう。

 

「あぁ、いいですよ。洗い物くらい僕一人で。というか、2人並ぶと狭いし」

「それもそうか。じゃあ、着替えたりして待ってるよ」

 

 言いながら、法子は居間に戻る。

 光秋も皿洗いを終えて居間のドアを開けると、着替えを済ませた伊部姉妹がコタツに入って待っていた。

 

「すみません。僕も着替えちゃいますね」

 

 言うと光秋は服を持って脱衣所へ向かい、そこで素早く着替えを済ませて戻ってくる。

 ひと心地ついたと感じながらコタツに入ると、伊部姉妹を見ながら問う。

 

「それで、これからどうしましょうか?」

「そうだなぁ…………とりあえず、テレビでも観る?」

 

 応じると、法子は机の上のリモコンを取り、テレビの電源を入れた。

 

 

 

 

 点けた時にたまたま流れていたバラエティー番組をぼんやりと眺め、それに飽きた光秋が積んである本を1冊取って読みだすと綾も1冊借りて読み始め、静かで穏やかな時間がしばらく続いた。

 切りのいいところで本を閉じた光秋が時計を見ると、すでに12時を過ぎていた。

 

「もうお昼か……昼飯どうします?」

「もうそんな?」

 

 訊ねる光秋に、綾は本から顔を離して時計を見やる。

 

「なにか食べたいものがあれば、私が作るけど?」

「と言っても、そんなに腹減ってないんですよね。ほら、朝が遅かったから……」

 

 訊き返す法子に困った顔でそう返しながらも、光秋はどうしたものかと考えてみる。

 

「…………ちょっと、出てみますか?それで腹が空けば帰ってきてから食べればいいし、行った先でいい店を見付けたら入ってみればいい。どうです?」

「……そうしようか。帰る時間までずっと家の中にいるのもどうかなって思ってたとこだし。ご近所案内してよ……あたしもそれがいい」

「それじゃあ……」

 

 法子と綾の返事を聞くと、光秋は財布の中身を確認し、コートを羽織って外に出る。

 すぐに伊部姉妹も出てくるとドアに鍵をかけ、手を繋いで歩き出す。

 

「さて、どこに行ったものか……」

「どっかおすすめのお店とかないの?」

「案内してと言われておいてなんですけど、僕もこの辺そこまで詳しいわけじゃないですからね。せいぜい寮と駅の最短コースくらいで。その間にある食べ物屋といったらラーメンくらいだけど、そういうのとも違うような…………」

 

 会話を重ねながらも、“三人”は光秋先導の下にあてどなく街を歩いていく。

 

「…………」

「…………?」

 

 しばらく行くと綾が立ち止まり、光秋もつられて止まる。

 

「どうした?」

「あそこ」

 

 答えながら、綾は路地の一角を指さす。光秋が指先を追って見ると、小じんまりした喫茶店らしき店があった。

 

「……あんな所にあるもんなんだな」

 

 浮かんできた感想をぼんやりと呟くと、綾が手を引いてくる。

 

「入ってみようよ」

「あそこでいいのか?」

「うん。入ってみたい」

「法子さんは?」

「私もいいよ」

「じゃあ」

 

 “二人”の賛成を得ると、光秋は路地に入り、少し行った先にある店のドアに手を伸ばす。くすんだ丸ノブを回すと、小気味いいベルの()が迎えてくれる。

 

「いらっしゃいませ。何名様で?」

 

 カウンターの向こうに佇む白いものが目立つ店主の問いに、光秋は伊部姉妹を見て、少し迷いながらも答える。

 

「……2人です」

「では、そちらのテーブル席にどうぞ」

 

 言いながら店主は近くの席を示し、“三人”はそこに腰を下ろす。

 

「その…………ごめん」

「なにが?」

「いや……さっき『2人』って……」

「あぁ……」

 

 椅子に座るや言い辛そうに告げる光秋に、綾は言いたいことを察して少し呆れる。

 

「気にしなくていいよ。あたしたちもわかってるから」

「…………助かる」

 

 本当に気にした様子もなくそう言ってくれる綾に、これ以上伊部姉妹に対する申し訳なさを引きずっていても仕方ないと感じた光秋は、意識して気を取り直すとテーブル脇のメニュー表を取って伊部姉妹に見せる。

 

「それで、なににする?」

「うーん…………」

 

 うなりながら綾がページをめくっていくと、デザートの項目で手が止まる。

 

「……じゃあ、これと、あとカフェラテにしよ」

「……パンケーキか」

 

 綾が指さしたメニュー名を見て、光秋は自分の腹に意識を向ける。そこそこ歩いたものの空腹はあまり感じず、いつもならもう少し軽いものか、あるいは飲み物だけにする塩梅だ。

 が、この時に限っては、綾が指さしたその料理を無性に食べたいと感じた。

 

「じゃあ、僕もそれと、あとコーヒーを」

 

 自分の頼む分も決めると、呼び鈴を鳴らして店主に注文を告げる。

 一礼した店主が奥に消えると、改めて店の中を見回してみる。テーブル席が4つとカウンター席が並ぶ店内に客は自分たちしかおらず、コーヒーの香りを乗せたほどよい静けさがあった。

 

「……個人営……でしょうか?」

「お店の雰囲気を見ると、そんな感じだね。昨日渋谷で入ったチェーン店も悪くないけど、こういう質素な感じもいいかもね」

 

 周りを眺めながらぼんやりと告げる光秋に、法子も好奇心の目を辺りに向けながら返す。

 少しして店主が戻ってくると、運んできた料理をテーブルに並べていく。

 

「コーヒーは?」

「あ、僕です」

「こちらカフェラテになります」

 

 光秋、伊部姉妹の順にカップを置くと、店主は再びカウンターの奥へ去っていく。

 

「うわぁ、美味しそう!」

 

 感動の声を上げると、法子は携帯電話で自分の分のパンケーキを撮影する。

 

「春菜さんに送るんですか?」

「うん。その時、せっかく東京に来たのに顔合わせなかったことも謝ろうかなぁって」

 

 言うと法子は携帯電話を戻し、見事なキツネ色の生地にバターを塗って付属のハチミツを垂らしていく。

 

「…………なるほど」―僕も、後で一言言っといた方がいいだろうか……?―

 

 自分もハチミツを垂らして応じながら、光秋は親友を独占してしまったことに対する姉貴分への罪悪感を覚えた。

 もっとも、それも数秒のことだった。

 

「さぁ、食べよう」

「だな。いただきます」

 

 互いに食べる準備が整うや、綾に頷いて光秋は手を合わせ、初めにコーヒーを少しすする。ブラック独特の苦みが口の中に広がると、ナイフでパンケーキを切り分け、フォークに刺した一切れに皿の中に垂れたハチミツを追加で付けて口に運ぶ。

 

「…………!思った以上にいけますね」

 

 コーヒーの苦みで強調されたハチミツ、そしてパンケーキそのものの甘さは、予想以上に自分好みのものだった。

 

「本当!すごく美味しいっ!」

 

 綾も感動の声を上げて次々とパンケーキを口に運び、その様子に光秋はハチミツやパンケーキのそれともまたひと味違う、胸の辺りに感じる甘さに頬を緩めた。

 

―いいな、こういうの。一緒に美味いもの食って、『美味い』って気持ちを共有して、そんな時間を一緒に過ごす。例えそれが、傍から見ればどれ程些細で、ありふれた、なんの変哲もない光景だったとしても―

 

 浮かんできた想いをしみじみと噛み締めながら、コーヒーを一口飲む。

 

「…………そういえば」

「ん?」

 

 カップを置きながらなんとなしに呟くと、綾が顔を向けてくる。

 

「パンケーキとホットケーキって、なにが違うんだろう?」

「さぁ?どっちも美味しいからいいんじゃない?」

「それもそっか」

 

 言った光秋自身が他愛無いと思えるような会話を交えながら、“三人”はパンケーキと、パンケーキを食べることを通じて共に過ごすこの時間を堪能した。

 

 

 

 

 パンケーキを食べ終えた“三人”は店を出ると、来た道を辿って寮へと戻った。

 

「美味しかったね。さっきのお店」

「ですね。歩いて行ける距離にあんなとこがあったなんて……出てみて正解でした」

 

 コタツにもぐって寝そべる法子に、光秋は軽い感謝さえ覚えながら頷く。

 

「こういうのを、『犬も歩けば棒に当たる』っていうんだっけ」

「まぁ、あながち間違ってないかな……?」

 

 十中八九自分の異名を受けて言っている綾に、光秋も少し可笑しくなって笑って返す。

 それから少しして充分に温まると、光秋はコタツを出て机に歩み寄り、その上のノートを取って戻ってくる。横尾ノートと、その内容を自分なりに整理・考察したノートだ。

 

「それ、前に言ってたフミのお父さんの?」

「はい。なんか触りたくなっちゃって」

 

 顔を上げて訊いてくる法子に、“三人”だけの時に悪いと思いながらも誘惑に負けてしまった光秋は、軽い申し訳なさを抱きながら頷く。

 

「寝ててもいいですよ。なんだったらテレビでも点けて」

「……ちょっと見せて」

 

 言いながらリモコンを差し出す光秋だったが、綾は構わず横尾ノートの一冊をパラパラとめくっていく。

 

「…………横尾さんのお父さん、字汚いね」

「はっきり言うな、お前さんは……」

 

 いの一番に出てきた感想に、自分もそう思ったことがある光秋は思わず苦笑いを浮かべてしまった。

 

「まぁ確かに。僕もすらすら読めるようになるには、少し時間がかかったけどな」

 

 横尾ノートを読み始めた時のことを思い出して、何カ月と経っていないはずなのにしみじみと懐かしさを感じた。

 

「こっちがアキのノート?」

 

 ひと通り目を通した横尾ノートを返すと、綾はその手で光秋のノートを取って開く。

 

「へー、こっちもいろいろ書いてあるね」

「まぁな。“次の人”について知りたい。それが僕の…………強いて言うなら趣味だからな。気付けばいつもけっこう書き込んでる」

「それで?研究の程はどうですか?」

「んー…………ぼちぼち……いや、全然……かな?」

 

 冗談半分の声で法子が訊いてくると、光秋は表情を曇らせて視線を下げる。

 

「全然?」

「あぁ。暇さえあれば、僕なりにいろいろ勉強してるつもりだけど…………いまいち付いてこないっていうか……昨日のケンカのこととか、ね……」

 

 脳裏に過るのは、昨日の昼の口論。それを通じて伊部姉妹の気持ちを察してやれなかったと知った時の後悔だった。

 

「あぁいう経験をするたび、自分はつくづく“今の人”なんだと実感するというか……“次の人”というものを知ったからこそ、そういうものについて深く学ぼうとすればするほど、自分の中の“今の人”の部分に敏感になるというか…………」

 

 気付けば、ここ最近よく抱く自分自身への不満が口を突いて出ていた。

 

「前に読んだ小説だかに、『学べば学ぶほど、目指すものから遠くなっていく』って、確かそんな一文があった気がしたけど、正に今の状況がそうかもしれませんね」

 

 言うと、光秋は自嘲を浮かべる。

 

「またなんとも自虐的だねぇ……でも、ちょっとわかるかも」

 

 そんな光秋の様子を法子が言い現わす一方、綾は憤ったような顔を浮かべて共感を示す。

 

「年末にさ、調べたいことがあるって言ったの覚えてる?『どうすれば平和になるか』って」

「あぁ。法子さんの部屋でな」

「アキが引っ越しってからさ、法子に近所の図書館に連れてってもらって参考になりそうな本を読んだり、ネット見たり、あたしなりにいろいろ調べてみたんだよ。でも、調べれば調べるほど、あたしが思ってたのとなんか違うなって、そう思うことが増えるようになった」

「……どういうことだ?」

 

 今度は綾が視線を下げる中、光秋は綾への心配と、調べた結果への興味を織り交ぜて訊ねる。

 

「……調べ始める前はさ、武器をなくせば、戦うって気持ちをなくせば平和になるんじゃないかって、そんなふうに考えてたんだよ。でも調べれば調べるほど、平和を維持するには武器が必要だって、そういう考えをたくさん知っちゃってさ」

「あぁ……」

 

 綾が何を観聴(みき)きしてきたのか具体的なことは知らない光秋だが、普段の仕事で武器、あるいは攻撃性のある超能力を扱い、それによって事件を解決してきた身には、わからない理屈ではなかった。

 

「むしろ、武器をなくしたからこそ周りの国に狙われて、その結果戦争になってしまったって……そういう歴史もあるって知ったら、なんかさ…………」

 

 視線どころか顔まで下がり、ついに綾は虚ろな表情を浮かべてコタツに突っ伏す。

 

「なるほどな」

 

 それをしげしげと眺め、先程の自分と同じか、よく似た気分を抱いているのだろう綾に深く頷きながら、光秋は言った。

 

「でも、それでも調べることをまだやめてないんだろう?」

「え?……あ、うん……」

 

 そっと投げかけられた問いに、綾は一瞬戸惑いながらも顔を上げて頷く。

 

「僕も同じさ。自分の“今の人”っぷりをいくら見せつけられても、それでも“次の人”って夢を追い続けずにはいられない。追えば追うほど遠くなるとわかっていても、それで苦しむと理解していても、今現在、目の前の現実に満足できないから、別の何かを求めてやまない……そんなところがさ」

 

 言葉を重ねるごとに、光秋自身下向き気味だった顔が少しずつ上へと向いていく。

 

「…………そう、だね。そうだっ」

 

 束の間光秋の言ったことを吟味すると、綾は快活な笑顔を浮かべて深く頷いてくれた。

 

「ていうか、アキに励まされちゃったよー」

「それはよかった。こっちに来てから、どうにも謝るようなことばっかしてきたからな」

 

 ふざけ半分で拗ねる綾に、光秋は少しでもためになることができたと喜ぶ。

 そして、意識を法子へ向ける。

 

「法子さんも、ありがとうございました。綾に付き合ってくれて」

「別に。私にとっても勉強になってたしね。というか、光秋くんは綾の保護者かなにか?」

「そういうわけじゃないですけど……なんというか、綾に関連することなら、僕もお礼の一つくらい言うべきかなって。もちろん、法子さんの場合もですけど。なんか、そうした方がいいかなって思ったから……」

「…………そっか」

 

 法子はそれ以上なにも言わず、ただ黙って頷いた。

 その無言の首肯が、光秋には百の言葉を用いた返答以上に「分かってくれている」という感触を抱かせてくれた。

 と、伊部姉妹は急にコタツから出て、光秋の後ろに回り込む。

 

「どうしました?」

「別に。ちょっと暑くなって」

 

 応じながら光秋の後ろに座ると、姉妹は背中を寄せてくる。

 

―あぁ、これは……―

 

 互いに背中を預けた体勢に、伊部家で過ごしたひと時を思い出した光秋は、

 

「そうですか」

 

と応じただけで、すぐに横尾ノートの読み取りに集中する。

 伊部姉妹は特に話しかけることもなく背中を寄せ続け、エアコンの風音くらいしかない静かな時間が過ぎた。

 電車の発車時刻や東京駅までの移動時間を考えると、この時間が今回の訪問で“三人”一緒に過ごせる最後のひと時となる。それにしては随分と質素で賑わいのない過ごし方だったが、光秋はむしろその静かで落ち着いた雰囲気が好きだった。何より伊部姉妹の実感を背中全体で感じられることが、掛け替えのない至福だった。

 

―いいな、こういうの。好きな人のすぐそばで、好きなことをする。あちこち遊び回るのもいいが、こうやって落ち着いて、特別意識せずに同じ場所で、同じ時を過ごすのも、また…………―

 

 ふと後ろに目をやると、伊部姉妹もこちらを振り向いていた。

 不意に合った視線に「可笑しいっ!」と言わんばかりに微笑む伊部姉妹を見て、光秋は“二人”も同じ――少なくとも近しい気持ちを抱いてくれていると感じて、ノートに筆を走らせながらも思わず頬が緩んだ。

 

 

 

 

「…………そろそろ行くよ」

 

 それまで光秋に預けていた背中を離して言うと、法子は立ち上がって荷物の点検を始める。

 

「じゃあ、僕も」

 

 それに頷くと光秋もノートを片付け、財布と携帯電話を用意する。

 それぞれ準備を整えると、“三人”は光秋の部屋を出る。

 

「持ちます」

「ありがとう」

 

 光秋の申し出に素直に応じると、法子は旅行カバンを渡し、駅へ向かう。

 太陽はすでにビルの合間に沈みつつあり、どこからともなく肌寒い夜風が吹いてくる。

 そんな中を“三人”は手を繋ぎ、互いに寄り添い合って駅のホームまで歩いて行った。

 電車に乗ると空いている席に並んで座り、揺られながら肩を寄せ合って窓の景色を眺める。

 何度か乗り継ぎをして東京駅に着くと、今日も人の波が激しく行き交う構内を一層強く手を握り合いながら進んでいく。

 そうして気付けば、新幹線乗り場の改札機の前に着いていた。

 

「……忘れ物はありませんか?」

「このタイミングでそれを訊く?」

「いや……」

 

 笑いながら訊き返してくる法子に、自身もそう思った光秋は頭を掻く。

 と、法子は笑顔を消し、光秋の目を真っ直ぐ見つめて言ってくる。

 

「また、会いに来るよ」

「…………」

 

 言わずもがなな質問の裏にあった本心を察しているその言葉に、光秋は見透かされたことへの照れ臭さを感じながらも、わかってもらえたことがやはり嬉しかった。

 

「はい。僕も約束はできないけど、こっちからも京都に行けるように頑張ってみます」

「うん。楽しみにしてる!」

 

 何の見通しもない、しかし言わずにはいられなかった言葉に、綾が楽しそうに頷いてくれた。

 

「…………それじゃあ、行くね」

 

 名残惜しそうにそう告げたのは、法子か、綾か、珍しく光秋には判別できなかった。あるいは、伊部姉妹“二人”の言葉だったのかもしれない。

 

「…………はい」

 

 後ろ髪を引っこ抜かれるかというくらい強く引かれる思いを抱きながらも、光秋は頷き、改札機へ向かう伊部姉妹の背中を見送ろうとする。

 しかし、直後、

 

「――ちょっ、ちょっと待ってください!」

 

3歩と離れない内に叫ぶや、振り返った伊部姉妹を強く抱き締めていた。

 

「ちょっ!光秋くん!」

「すみませんっ。少しだけ、もう少しだけですから」

 

 戸惑う法子に詫びながらも、光秋は回した腕に一層力を込める。

 衆人環視の中での抱き着きに、好奇の目を向けてくる者、初々しい光景に微笑みを浮かべる者、露骨に嫉妬の籠った目を向けてくる者、視界の端にすら入れることなく忙しそうに通り過ぎていく者、様々な視線が四方から向けられるものの、そのいずれも光秋の関知することではなかった。

 今はただ、腕の中の伊部姉妹の実感を少しでも長く感じていたかった。その為に、持てる全ての感覚を動員していた。

 伊部姉妹の方も最初の戸惑い以降、抵抗や拒否の態度は示さず、むしろ自分たちの腕を光秋の体に回してきた。

 

―あぁ、“二人”も同じか―

 

 今でも同じ気持ちでいてくれることが、光秋にはひたすらに嬉しかった。

 それでも、伊部姉妹――特に法子はまだ冷静だった。回してきた腕を解くと、光秋の体をそっと押して離す。

 

「今度こそ行くね。さすがに乗り遅れちゃう」

「はい……すみません。最後にワガママやっちゃって」

 

 その言葉に頷くと、光秋は自分の意思で法子から離れ、改札機を通るのを静かに見ていた。

 最後に振り返って手を振る伊部姉妹に、こちらも手を振って応じると、それっきり前を見て速足になった“二人”の背中を見えなくなるまで見送った。

 

「…………!?」

 

 直後にようやく様々な目で見られていることに気付いた光秋は、さっきまでの自分の行動に顔を赤くしながら、逃げるように改札機前から立ち去った。

 

―僕って奴は!我ながらこんな場所で何てことを…………―

 

 今更ながら、自分のしたことが恥ずかしくなってくる。

 もっとも羞恥に悶えたのも数秒のことで、すぐに伊部姉妹がいなくなったことへの実感に胸が一杯になる。

 

―法子さんも綾も、もう行っちゃったんだよな…………―

 

 そう思うと、左側が妙に寒く感じる。ついさっきまでそこを埋めていたはずの温もりが、ごっそり欠けてしまったような。

 それに合わせるように、研修や桜たちとの人間関係、自分が出動した事件の数々と、東京に来てからの大変だった思い出が次々と浮かんできて、それらは先のことへの不安を思い起こさせた。

 

―明日からまた、これまでのような――あるいはこれまで以上に大変な事態に遭うかもしれない。次に会う時――が、来るんだろうか?―

 

 思いながら、数分前まで伊部姉妹と繋いでいた左手を見る。

 

―…………否、『だろうか?』じゃない。()()()()んだ。それこそ異動の時に言ったじゃないか。DDシリーズの大群と戦うことになってもまた会うって。今回はそれが叶ったんだ。一つ一つのことをこなし続けて、その機会を得た。だったら次だって、その次だってやってやるさ!―

 

 見つめていた左手を強く握り、そこに伊部姉妹の体温の残りを感じ取ると、胸の中にそう宣言した。

 

「…………さて、帰るか」

 

 それで少しは気が楽になると、顔を上げてしっかりと前を向き、さっきよりはいくらか軽くなった足取りで寮へ向かった。

 

 

 

 

 翌日――3月28日月曜日。

 伊部姉妹と別れてからの初仕事に多少不安があった光秋だったが、いざ待機室の机に座れば、体はここ数週間の内に馴染んだ習慣のままに動いてくれた。

 

―始まる前はちゃんとやれるかと思ったが……いやはや、便利なもんだな―

 

 ひと休みに近くの自動販売機で買ってきた緑茶を飲みながら、滞りなく平常業務を片付けていく自分の体に心底感心する。

 と、ポケットに入れていた携帯電話が振動する。画面を開くと、涼からだった。

 

「もしもし?」

(光秋さんですか?変な時間にかけてすみません。私の方が今くらししか連絡できる時間がなくて)

「いや、いいよ。ちょうどひと休みしてたとこだから。で、どうした?」

(その…………4月16日って、空いてますか?)

「4月16日?」

 

 心なしか強張った涼の声を不思議に思いながらも、光秋は手帳を開いて言われた日の予定を確認する。

 

「あぁ。今んとこ空いてるけど」

(!よかったぁ……)

 

 心底安堵した声を漏らすと、涼はひと呼吸置いて言ってくる。

 

(実はその日、私が入っているグループのコンサートがありまして、よかったら来ていただけませんか?)

「コンサート?グループって?」

(大学の軽音楽部の)

「あぁ。そういや前にそんなこと言ってたな」

 

 言われて光秋は、研修期間中に菫も交えて訪れたデパートでそんな会話をしたことを思い出す。

 

「なるほど、そのコンサートってわけか…………わかった。行かせてもらうよ」

 

 もともと予定がなく、涼が歌っている姿にも興味があったことから、電話越しに頷いた。

 

(本当ですかっ!)

「ッ!!」

 

 直後に返ってきた涼の大声に、慌てて携帯電話を耳から離す。

 

「あ、あぁ……ホント、ホント……」

(…………すみません)

 

 恐る恐る耳を当て直して応じる光秋に、さっきと打って変わって小さな謝罪が返ってきた。

 

「それで、コンサートって何処に行けばいいんだ?」

(後で会場の地図を送ります。チケットも一緒に)

「本格的だな。まぁ、楽しみにしてるよ」

(ありがとうございます。では、私はこれで。お仕事頑張ってくださいっ)

「あぁ。ありがとう」

 

 応じると、涼の方から電話は切れた。

 ソレをポケットに戻すと、光秋は涼の顔を思い浮かべながら呟く。

 

「なんか、面白いことになってきたな。涼さんのコンサートか……」

 

 元来音楽関係のイベントにはあまり興味が湧かないものの、相手が涼となれば話は別だった。今からステージの上で歌っている姿を想像して、思わず口元が緩む。

 

―楽しみだなぁ…………楽しみ、か……―

 

 深く考えずに口の中に呟いたその言葉が、昨日までの伊部姉妹と過ごした時間を思い起こさせる。

 

―法子さんや綾と過ごしたあの時間も、確かに楽しいものだった。なんなら胸を張ってそう言えるくらいだ。でも今、涼さんのコンサートを楽しみにしてるのも確かだ。もちろん、それぞれでまた意味合いは変わってくるだろうが……―

 

 そこまで考えると、昨日の東京駅の帰りと対になるかのように、異動後の「楽しい」、「面白い」と感じた思い出が次々と浮かんでくる。

 

―例えば研修期間に涼さんとあちこち歩いた時、あの時も確かに楽しかった。その後菫さんたちと合流した時だって、桜さんや菊さんとのギクシャクがあったとはいえ、あれはあれで面白い時間だった。それに、春菜さんに元気づけてもらった時だって…………―

 

 脳裏にその時の光景が一つ過るたびに、喝を入れたとはいえ昨日からどこか低温気味だった胸が、少しずつ熱くなってくる。

 そこに伊部姉妹と過ごしたこの2日少々の思い出も加わった時、光秋は唐突に思った。

 

―もしかして……僕が本当に守りたいのは、“これ”なんじゃないか?―

 

 瞬間、法子に綾、涼、桜、菫、菊、曽我と、こちら側に来てから深い関わりを持つようになった人たちの顔が浮かんでくる。

 

―自分の身近な人たちを……その人たちと一緒に過ごす時間――“日常”こそを守りたい。それが、僕のやりたいこと……―

 

 同時に、年末に伊部母と交わした会話、そこで抱いた気持ちを思い出す。

 

―目の前の人を一人でも多く守りたいって、あの想いは今でも変わらない。実際、この前の催眠能力者通り魔事件の時も、人質にされた親子を助けたいって思ったのも確かだ。そもそも桜さんや涼さんにしたって、最初はそういう気持ちから始まった気がする―

 

 思いつつ、新年祝賀パーティー襲撃事件のことを思い出す。

 

「なんと言うかな…………要は優先順位というか、最終的な足場をどこに置くかってことか」

 

 声に出すことで、自分の中の想いが纏まっていく感じがした。

 

「…………さてとね」

 

 胸の中に感触を得たところで残っていたお茶を飲み切ると、一言呟いて気持ちを切り替える。

 

―そういう気持ちが自分の中にあるとわかったなら、それらしいこともしてみるかね―

 

 胸の中に告げると、予てから考えていたこと、その手順の確認をするために、藤岡主任の部屋へ向かった。

 

 

 

 

 その後、出動要請が出ることもなく、本部内で何らかのトラブルが発生することもなく淡々と時間は過ぎ、気付けば日は傾き始め、窓の外は朱色が目立つ頃となっていた。

 桜、菫、菊の3人が待機室にやってきたのは、そんな時間だった。

 

「おっす」

「あぁ、桜さんたち。学校帰りか」

 

 3人を代表するような桜の挨拶に、光秋はペンを走らせていた書類から一旦顔を上げて、制服姿の少女たちを見ながら応じる。

 

「何書いてたんですか?」

「ん?予てから、スフィンクスと摸擬戦をやりたいと思っててさ。その申請書類」

 

 机に歩み寄りながら訊いてくる菊に、光秋は机の上の書類を示しながら答える。

 

「スフィンクスって、あの合軍のオッサンがいるとこだろう?この前光秋を囮に使った」

「まぁ、そうだけど……そういう言い方はやめなさい」

 

 憎々しそうに言う桜に、光秋は自分を慕ってくれているのだろうとは思いつつも、そっと注意した。

 

「そもそも、なんでそこと摸擬戦なんて」

「それなんだがな……」

 

 菫の質問に、光秋は少女3人をそれぞれ見やり、前から考えていたことを語る。

 

「君たちも知っているだろうが、昨今のNP、ZCの抗争ではメガボディが積極的に使われている。実際僕が主任になってからは、関わった事件で必ずと言っていい程出てきただろう?」

「まぁね」

 

 桜が応じ、菫と菊も頷いて返す。

 菊の顔色がどこか優れなかったが、また先日の独走を思い出して罪悪感を抱いているのだろうと察した光秋は、敢えて触れずに話を続ける。

 

「そうなると、僕ら加藤隊の対メガボディ戦への練度をもっと上げたいと思ってね」

「あ、だからスフィンクスなんですね。あそこはメガボディ戦を研究してる部隊だから」

「その通り」

 

 先を察して告げた菫に、光秋は首肯で応じる。

 

「僕らにとってはいい練習相手だろうし、それに向こうにとっても、超能力者との戦闘、特に対ZC戦の参考になるだろう。なにより、対DDシリーズ戦の参考にもなるってことだ」

「DDシリーズって、あの黒いロボットの?」

「一応、福山主任はそれを目標にメガボディの研究をしているらしい」

 

 おまけ程度に付け加えた一言に桜が首を傾げるのを見て、光秋は以前本人がそう言っていたのを思い出しながら答える。

 

「もっとも、福山主任なら本当にやりそうな気がするけどな。そうなってくれたら、僕ももう少し楽ができていいんだけど」

 

 これもついでのつもりで仕事面における順位の高い願望を呟くと、少女たち、特に桜が不満そうな顔を浮かべる。

 

「あんな奴ら、アタシらのチームワークで充分倒せるじゃん。それだけじゃ物足りないっての?」

「別にそこまでは言ってないよ。ただ負担が減るならそれに越したことはないってだけで。それに、確かに今は僕らの力だけで何とか対処できてるけど、今後もそうとは限らないだろう?」

「……新型が出てくる……とか?」

「あるいは、僕らの知らない戦法を使ってくるとか。実際、すでに違う型が2種類確認されてるわけだし、初めは1機ずつしか出てこなかったのが、この前一度に3機も出てきたりしたし。まだまだイメージを固定するのは早いかもな」

 

 菊に応じながら、光秋は秋田で初めてナイガーに遭遇した時、工場地帯の戦闘で初めて3機同時に現れて連携をとられた時のことを思い出す。

 

「もちろん、君らとのチームワークだって蔑ろにするつもりはないよ。そういう部分の強化も含めての摸擬戦計画なわけだし」

 

 言いながら、机の上の書類を叩いて示す。

 

「とりあえず必要なことはひと通り書き終わったし、出してくるかな」

 

 最後に書類を走査して書き漏らしや誤記がないのを確認すると、立ち上がって窓口へ向かう。

 

「アタシらも行っていい?」

 

 桜が言いながら、菊と菫も後に続く。

 

「いいけど、書類出してくるだけだぞ?……あ、ならその足で摸擬戦行くか?」

「それはイヤです!」

「じゃあ今日はやめとくか」

 

 即答で拒否する菊に、光秋は軽く笑って返した。

 その様子を見て、菫が控えめに訊いてくる。

 

「なんて言うか……今日の光秋さん、調子よさそうですね。その……このお休みになにかありました?」

「「…………」」

 

 菊と桜もどこか緊張した様子で聞き入り、それに首を傾げながらも、光秋は感じているままを素直に語った。

 

「そうだなぁ……あったと言えばあったな。少なくとも、僕にとってこの週末はいい時間だったよっ」

 

 午前中の涼との会話をきっかけに抱いた想い、そして法子と綾の顔を思い浮かべながら、胸を張って言った。




 今回で「伊部姉妹東京再開編」は終了です。
 次回からも引き続きよろしくお願い致します!

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