白い犬   作:一条 秋

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36 京都観光の中で

 京都支部の正門前に着くと、光秋は門を背に、視線を右側に向けて伊部二尉を待つ。

 8時55分。

「ごめん。待った?」

白のワイシャツに水色のロングスカートを着、左肩に小さいカバンを提げ、長髪を後ろに束ねた伊部が、速足で駆け寄ってくる。

―あの格好は…………!―

 その服装に光秋は、白い半袖のワイシャツに赤チェックのロングスカートを着、髪を広げた綾の姿を、一瞬だが伊部に重なって見る。

「…………」

「……加藤くん?」

「……!あ、いえ、今来たところです」

 伊部の声で我に返った光秋は、すぐにそう応じる。

「……じゃあ、行きましょうか」

「うん……?」

伊部が首を傾げつつも応じると、2人は最寄りのバス停へ向かう。

「そういえば加藤くん、髪切った?」

「はい。昨日…………」

 

 バス停に着いて少しして、目的の市バスが来る。光秋と伊部はそれに乗り込んで、後部右側の席に並んで座る。

走り出した車内には光秋たちを含めて5人しかおらず、光秋と伊部以外は前側の席に着いている。

―そういえば、バスも久しぶりだな……―

窓側で外の景色に目をやりながら、カバンを膝の上に置く光秋は不意にそう思う。

「…………そういえば」

「はい?」

 伊部が呟く様に言い、光秋は左に顔を向ける。

「昨日電話した後で思ったんだけど……私、一昨日どうやって帰ったっけ?」

「覚えてないんですか?」

光秋は少し驚きながら訊き返す。

「駅に加藤くんと小田一尉と一緒に降りたところまでは覚えてるんだけど、そこから家までの記憶が曖昧で……」

「話だけ聞いてると、『あり得ない帰宅』みたいですね」

「なにそれ?」

「どうやって帰ったのかわからないのに家にいるっていう、怪談とか都市伝説ですよ」

「ふーん?……て、それはいいんだよ。まさか本当に不思議なことが起こったわけじゃないだろうし……確か、誰かと一緒に帰った気がするんだけど……一尉だっけ?」

「僕です」

「加藤くん?」

伊部が意外そうな顔をする。

「でも、私の寮の場所なんて……」

「教えてもらいながら行きました。たぶん、そのことを忘れてるんでしょう」―ついでに、おぶっていったことも忘れてるのか?―

伊部の話す様子から、光秋はそう推測する。

「そうだったんだ。ありがとね」

「いえ」―……礼なら一昨日言われましたよ―

伊部の礼に応じながら、光秋は別れ際のことを思い出す。

 

 しばらくして、

(次は、金閣寺前)

というアナウンスが流れると、伊部がボタンを押してバスを停め、光秋と伊部は金閣寺前のバス停に降りる。

「こっち」

と言う伊部の後を追って、光秋は左側に向かい、少しして左に伸びる横断歩道を通って反対側に渡り、正面にある緩やかな坂を上っていく。

 柵付きの狭い歩道を進むと、正面右側に密集して生える木々に挟まれた砂利敷きの道が見えてくる。

―どっかで見たような……―

その光景に、光秋は若干の既視感を覚える。

 生垣手前の横断歩道を渡ってその道に入ると、道脇に生える木々や生垣、正面に建つ門といった景色に、光秋は再び既視感を覚え、

―……!そうだ、中学の修学旅行で来たな―

と、その正体を思い出す。

 門の左隣にある券売所でそれぞれ入場券であるお札を買ってパンフレットをもらい、左端にある入場門から中へ入る。

 少し進むと、池を挟んで建つ特徴的な金色の建物が見え、2人は左に曲がって拝観地に入り、その左端に移動して池を挟んで建つ金閣を眺める。

「……」

 快晴の下で金色に輝く建物を見ながら、光秋は移動の際に近くを通った右隣の20人程の集団を見やる。

―通りかかった時に聞こえた声、日本語じゃなかったよな。いや、僕の耳だから、どっかの訛りがそう聞こえただけかもしれないが、どうも団体さんみたいだし……朝鮮、いや、中国人かな?こっちでも中国は景気がいいみたいだし……―

耳に自信がなく、中国語の知識など皆無だが、ニュースで知った経済状況と自分と大して変わらない黄色系の顔つきから、一人遊び感覚でそう判断する。

 と、

「ほんと、いつ観てもきれいだねぇ」

伊部が建物を見ながら言う。

「えぇ……ただ僕は、どっちかっていうと銀閣の方が好きなんですよね」

「そうなの?」

「えぇ。金閣はどうも派手すぎて性に合わないというか……銀閣は質素で落ち着いた感じがあって、そっちの方が僕も落ち着きます」

「ふーん……確かにね。こっちはあんまり落ち着かないかも」

光秋の返答に、伊部は一層金閣を注視して言う。

「そうだ。いい機会だし、もっといろいろ教えてくれない?」

「いろいろって、なんです?」

「例えば…………アヤって誰?」

「…………!?」

 すぐには何を言われたのかわからず、束の間呆然した後、光秋は伊部を見る。

「……」

伊部の方も光秋に顔を向け、2つの目で凝視している。

「……いや…………何のことを――」

「恍けないの!」

ぎこちない返答を遮る様に、伊部はまじまじと光秋を見る。

「今まで言わなかったけど、私、昨日のこと切れ切れだけど記憶してるんだよ。黒い空間で黒い奴にやられそうになった時、意識が遠くなって、遠くから加藤くんの声で、アヤ、アヤって…………私、この夏の記憶が殆どないんだけど、それと何か関係あるの?」

「…………それは……機密になるので、僕からは何も……」

「昨日、タッカー中尉と純君には話してたでしょう?」

「!」

 伊部にそう返されて、光秋はその時のことを思い出す。

―あの時、少し考えた顔をしてたのはこのためか?だとしたら…………女って怖!―

「それなら、私にも話してくれていいでしょう?心配しなくても、ちゃんと黙っておくから」

「…………それなら……」

 伊部にそう続けられると、光秋は半ば諦める様に言う。

「ただ……僕の方も上手く説明できる自信はありません……自分の中の整理が付き切っていないところがあるんで……」

「いいよ。話して」

「…………では」

 言うと光秋は、金閣の方に顔を向ける。

「……二尉、『蜂の巣』で負傷した後、別の病院に移されましたよね」

「うん」

「原因は、検査で潜在エスパーであることが判り、そこで超能力を人為的に引き出す実験に参加することになったから」

「詳しいね?」

「戸松教授に教えてもらいました」

言いながら、3カ月程前に会った頭の薄い髭を蓄えたメガネの白衣を思い出す。

「7月に入ってすぐ、僕は上杉さんと竹田二尉、タッカー中尉の4人で、ちょうどESOの研究施設の近くで買い物をしてたんです。昼食を摂ってたら突然施設の一部が爆発して、そこから僕の前に現れたのが綾でした……言い換えれば、伊部二尉、あなただったんです」

「?」

「……超能力を引き出す際に行った脳への電気刺激、その結果生まれた二尉のもう一つの人格、それが綾です」

 言うと光秋は再び伊部に顔を向け、2人は顔を合わせる。

「なんでもサイコキノとして目覚めたはいいけど、代償に『伊部法子』としての記憶が封じられてしまったそうで、知能は赤ん坊並みでした。なぜだか僕に懐いて、教授によると知的刺激を与えることで伊部二尉に戻るのだと聞いて、僕はあいつの……そう、教育係になったんです。それが、僕と綾の関係、と言いましょうか……」

「……私の、もう一つの人格?…………」

「要はそういうことですね」

「…………」

「…………」

光秋が言い切ると、2人の間に沈黙が広がる。

 しばらくして伊部が、

「……解った……その、完全に理解したってわけじゃないけど、要点はなんとかね」

と、やや歯切れ悪く言う。

「……少々荒唐無稽かもしれませんが、事実です」

「昨日のことに比べたら、充分ありそうだけどね」

―確かに。異界から殺し屋ロボットが来るより、実験の所為で多重人格者になるって方がまだありか……―

微笑みを浮かべて応じる伊部に、光秋も共感しつつそう思う。

「……じゃあ、とりあえず進もうか。せっかく来たんだし。歩きながら他にも教えて」

「……はい」

伊部の言葉に光秋は応じ、2人は拝観地から通路に戻って順路通りに進む。

 池の縁に沿って歩き、金閣の脇を通り、緩やかな石敷きの階段を上っていく。

 その間にも、光秋は左隣に並んで歩く伊部と綾のことについて話す。

「そのアヤって人、サイコキノって言ってたけど、レベルは?」

「7です」

「けっこう高いね」

「えぇ。それから、レベルは確認してませんが、テレパスでもあります」

「そう……加藤くんは教育係だって言ってたけど、具体的になにしてたの?」

「基本的に、教授の用意したマニュアルに従って、読み書きや初歩的な算数を教えてました。たまに竹田二尉や横尾中尉たちと出掛けたりもしました」

「フミも知ってたの?」

「馴染みでは竹田二尉と上杉さん、タッカー中尉、横尾中尉が知ってます。ときどき手助けしてもらったこともあるし。ただ、藤原三佐と小田一尉は知らないはずです」

「そう……で、昨日私の気が遠くなってる間に、またアヤが出てきたってこと?」

「そういうことになりますね。僕も綾だって気付いた時は、少し驚きました。でもそのおかげで黒い奴を倒せて、またこっちに戻ってくることができたんです」

「……じゃあ、私が今生きてるのも、加藤くんとアヤのおかげ、か……」

「いえ、()()()()()ですよ。諦めかけた僕を奮い立たせて、勝つチャンスをくれたんですから……」

言うと光秋は顔を右に向け、金閣が目立つ下の景色を見る。

 しばらく歩いて庭園部分を過ぎ、出口門をくぐって階段を下りていると、

「あそこでなにか食べよう」

「はい。少し小腹も空いたし」

左前の小店を見ながらの伊部の提案に、光秋も視線を追いながら合意する。

 階段を下り切って少し歩き、左にある砂利敷きの休憩用広場に入る。小店の受付に歩み寄ると、2人はメニュー表を見る。

「……じゃあ、ソフトクリームの抹茶を。加藤くんは?」

「じゃあ……茶団子1つ」

「はい」

店員が応じるとそれぞれが料金を払い、少しして注文の品を受け取ると、2人は振り返って右側のベンチに座る。

―……入場料もそうだが、ここは僕がまとめて持つべきだったか?いや、言ったところで、前みたいに『上官に奢るなんて』って言われるのがオチか―

串に刺さった3つの団子の内の1つを食べつつ、左隣の伊部に意識を向けながら、光秋はそんなことを思う。

 と、

「…………!」

目の前を小店の方に向かって並んで横切る白色系の男女が目に入り、その手と手が繋がれていることに気付く。

―カップル……恋人か……―

その認識が、光秋に温かな気分を抱かせる。

「……どうしたの?」

「!」

 伊部に呼び掛けられて、光秋は我に帰る。

「いや……あの人たち見てたら、気分がよくなって……」

「?……」

光秋に言われて伊部も視線を追うと、小店の前に立つ2人を見る。

「……恋人、ですかね?」

「……みたいね」

注文を済ませて空席を探す2人を見ながら、光秋と伊部は言う。

「あぁいうの、好きなんですよね。見てるとほっとするっていうか……」

「そう……そういえば、加藤くんとアヤ……ちゃんって、どういう関係だったの?」

呟く様に言いながら2つ目の団子を口に入れる光秋に、伊部がソフトクリームを舐めながら問う。

「どういうって、さっきも言った通り、教育係とその教え子――」

「そういうことじゃなくて……その……」

光秋の言葉を遮る様に言うと、伊部は戸惑う素振りを見せつつ、自分たちと反対側のベンチに座る先程の白色系の2人に目をやる。

―あぁ、そういうことか―「……さっき、僕の中で整理が付き切っていないところがあると言いましたよね……二尉の訊きたいことが正にそれです。ただ、二尉が感じている様な、あんな感じではないと思いますよ」

伊部の視線を追って前方の2人を見ながら答える。

「そう……」

「……なんでしょうね、あの関係は?恋人じゃあない。ある種の兄妹かと言えば、それより近かった気がします。親子……でもないでしょうね。もっとも、事実上の親といえる戸松教授は、綾にとってはせいぜい掛かり付けの先生くらいの認識しかなかったようですが……」

「そう……難しいんだ?」

「えぇ」―……?待てよ……ひょっとして二尉、事実関係のことを気にしてるんじゃないのか?もしそうなら……うん。いい機会だし、ここは誤解を招かないようにはっきり言っとこう―「……その、二尉」

「ん?」

「……どういう関係だったかはともかく、事実はありませんでしたので……安心してください?……」

言ってみて、光秋は少し気恥ずかしくなる。

「事実?…………あぁ、そういうこと」

―この言い方……僕の考え過ぎだったか……ますます恥ずかしい……―

「加藤くんとアヤちゃんがいたのって、私が意識取り戻した後にニコイチで下りた、あの小屋だよね?」

「はい」

 答えながら光秋は、綾との家であった今はない白い小屋を思い出す。

「あそこに、2人っきりで住んでたの?」

「2人きりというか、えぇ。ときどき教授や二尉たちや、日用品の補給も来ましたけど、原則2人だけです」

「それで事実はなし、か……」

「本当ですよ!」

「……フフッ」

「?」

光秋が少し強く言うと、伊部が口元を微笑ませる。

「……何か?」

「うんうん。加藤くんがムキになってるのが、少し可笑しくて」

「……」

「別に、加藤くんの言葉を疑ってるわけじゃないよ。若い子が異性と2人でいてなにもなになんて、すごいなーって」

「僕にも、それくらいの自制はあります。なにより『異性と2人』と言っても、綾は僕といた殆どの時間、精神的には子供、それも幼児くらいだったんですよ。いくらなんでもあるわけ……なにより、伊部二尉の体でもあるんですから」―……言いすぎたか?―

最後の一言に光秋は軽い後悔を覚え、それを誤魔化すつもりで最後の団子を食べる。

「そっか……ありがとう」

「…………」

伊部のお礼に、光秋は返事に困ってしまう。

 と、

「……でもね……私、そんなにきれいじゃなにから……」

少し俯きながら、伊部はささやく様に言う。

「……?あの、それは……」

「……士官学校にいた頃、好きな人がいてね……」

―?……あぁ、なるほど―「……そうなんですか」―その人となぁ……―

伊部の言いたいことを察し、顔を見やりながら、

―そりゃあ、二尉なら人は来るよな……―

と、光秋は心底納得する。

「……加藤くんの夢を、壊しちゃったかな?」

からかう様な、しかし僅かながらの申しわけなさを含む微笑を向けると、伊部はソフトクリームを頬張る。

「いいえ、気にせず。僕だって、そんなきれいな人間でもなければ、そこまで子供でもありませんよ」

右手の親指と人さし指で弄ぶ串を見ながら、光秋はそう返す。

「でも、そんなこと話しちゃっていいんですか?僕なんかに」

「さっきから訊いたり教えてもらったりだから、少しはこっちのことも言わないと、フェアじゃないでしょう?」

「そうですか?」

「前に加藤くんがそうしたじゃない」

「?……あぁ」

言われて光秋は、ESOに入る直前、伊部と昼食時にした身の上話を思い出す。

「だから、私も教えたの……ただ、誰にも話さないでよ」

「話しませんよ、こんなこと……あぁそうそう。二尉も綾のことは……」

「話さないよ。少なくともフミたち以外にはね」

「お願いします」

言うと光秋は、ベンチを立って左側のゴミ箱に串を捨てに行く。

 戻ってきた光秋が座り直すと、

「……ところで、アヤちゃんは加藤くんのことなんて呼んでたの?」

と、伊部がソフトクリームを舐めながら訊いてくる。

「初めの内は『光秋』と。ただ途中から、『アキ』と呼んでました」

「『アキ』?……あだ名?」

「えぇ。たぶん、『光秋』の『秋』の字からなんでしょうが」

「……アヤちゃんはあだ名で呼んでたか」

「?」

伊部は光秋が辛うじて聞き取れるくらいの声でささやく。

「……二尉?」

「……なら、私も今から『光秋くん』って呼ばせてよ」

「え?」

 唐突な申し出にに、光秋は面喰う。

「もちろん、今みたいなプライベートや、2人だけの時だけど」

「……構いませんが、唐突になぜ?」

「ん?……アヤちゃんに負けたくないから、かな?」

「!?…………」

「なーんてね!親睦を深めるためだよ。だから、光秋くんも私のこと、『二尉』って呼ぶのはやめて」

―早速使ってる……―「いや、でもそれは……やっぱり仕事柄、上下関係は大事にしないと……」

「仕事の時はいいんだよ。私が言ってるのは私生活でのこと」

「はぁ……いやでも、やっぱり上官や先輩に向かってそんな口の利き方は……」

「会ってすぐの頃は、『伊部さん』って呼んでくれてたじゃない」

伊部は口を尖らせる。

「あの時は、まだESOに入る前でしたから……」

「それに、本人がいいって言ってるならいいじゃない」

「……まぁ……」

「試しにここで、私のこと『二尉』を付けずに呼んでみて」

「はい…………伊部……さん?」

「やればできるじゃなの!」

言いながら、伊部は光秋に笑みを向ける。

―いいのか?……まぁ、本人がいいって言うんなら、いいか!―

そう思って割り切ると、光秋も伊部に微笑みを返す。

 ソフトクリームを食べ終わると、伊部はベンチを立ってコーンの包み紙を左のゴミ箱に捨て、それを見て光秋も立ち上がる。

「じゃあ、行きますか」

「うん」

言うと2人は並んで歩き出し、休憩用広場を出て左に進み、さらに左折して入ってきた道を戻る。

 と、

「ひったくりよぉ!」

「「!」」

女の叫び声に、光秋と伊部は背後を振り向き、手提げ鞄を左脇に抱えた黒い上着を羽織った男が自分たちの方へ突進してくるのを見る。

「!」

「二尉!」

伊部が左肩のカバンを放って男に向かって駆け出し、一瞬遅れて光秋もそれを追う。

「女が!退けぇ!」

叫ぶと男は右手に持った小型のナイフを距離を詰めた伊部に突き出す。

―避けて!―

という光秋の声は声にならず、ナイフの先端が伊部の身に迫る。

 が、

「!」

「!?…………」

一瞬後に伊部は右に避けてナイフをかわし、直後に男の鼻に左突きを入れ、まともに喰らった男は後ろに崩れ落ちる。

「?…………」

あまりのことに、光秋は束の間何が起こったのか解らなくなる。

 と、

「光秋くん!」

「あ!はい」

「警察に電話」

「はい」

伊部の指示で我に帰ると、ズボンの左ポケットから携帯電話を取り出し、言われた通り警察に通報すると、伊部が落としたカバンを拾って伊部の許に歩み寄る。

「……」

ナイフと鞄を取り上げられ、寺の関係者や経営スタッフらしき数人の男に囲まれ、座り込んで項垂れているひったくり犯と、何度も頭を下げながら礼を言う鞄の持ち主である女性、両腕を胸の前で組んで男に警戒の目を向ける左隣の伊部を見比べながら、光秋は、

「……すごいですね」

と、思わず感想を漏らす。

「三佐から指導を受けたのは自分だけだと思った?」

警戒の態度を維持しつつも、伊部は口元を微笑ませて応じる。

「なるほど……あぁ、カバン」

「ありがと」

納得の声を呟くと、光秋はカバンを伊部に渡す。

 直後に遠くからサイレンの音が響き始めたかと思うと、すぐにパトカー1台が砂利道の入り口前に着き、それから降りた若い男の警官3人がひったくり犯を囲む人々の許に駆け寄ってくる。

 それを見るや、

「この人です!」

と、伊部はひったくり犯を指し示し、警官の1人が応じると、男の前に屈んで手錠を取り出す。

「……」

男は俯いたまま黙って両手を差し出し、手錠がはまる電子音が2回鳴ると、そのまま警官2人にパトカーの方へ連行される。

 その間にもう1人の警官は、伊部や光秋、被害者の女性など、関係者から簡単に事情を訊き、少し遅れてパトカーに乗り込み、再びサイレンを響かせて去っていく。

「……なんか、気分悪くなっちゃったわね」

「まぁ……」

 パトカーを見送りながらの伊部の呟きに、光秋は曖昧な返事をする。

―あそこはやっぱり、僕が頑張るべきじゃなかったか?なんか終始伊部さんの付き人みたいな立ち位置で…………―

「……とりあえず、動いてお腹も空いたし、お昼にしよう」

「……あ!はい」

少し遅れて伊部に応じると、光秋は後を追って金閣寺の敷地を出る。

 伊部に連れられて坂の右側の歩道を下りて行き、坂の下側の土産屋、その2階にある軽食屋に入り、隅の方のテーブルにカバンを下ろして向かい合って座る。

「……私は、カレーにしようかな。光秋くんは?」

メニューを差し出しながら訊いてくる伊部に、光秋はそれを受け取って目を通す。

「……じゃあ、チャーハンで」

「チャーハンね」

伊部が応じたちょうどその時、私服の上にエプロンを掛けた女の店員が盆に載せた水を運んで来る。

「すみません。カレー1つと、チャーハン1つ」

店員が水を置き終わるや、伊部は光秋から取ったメニューを見ながら注文をする。

 注文を聞いた店員が去っていくのを見ながら、光秋は先程のことを思い返す。

―……やっぱり、あそこでは僕が前に出るべきじゃなかったか?伊部さんが先に出たとはいえ……これじゃあ、何のために藤原三佐の指導を受けてきたのか…………あの時と、何にも変わってないんじゃないか?…………―

不良に絡まれた時と、家の前で黒服たちに囲まれた時、その時自分は何もできなかった悔しさを思い出す。

―……問題は、伊部さんを先に行かせちゃったことなんだよなぁ…………―

 と、

「……光秋くん?」

「……あ!はい?」

伊部に話しかけられ、光秋は我に帰る。

「どうしたの?暗い顔でぼーっとして」

「いえ、なんでも」

「そう?……」

首を傾げながらも、伊部は話を続ける。

「そういえば、アヤちゃんってテレパスでもあったんだよね?」

「はい。もっとも、念力の方に気を取られてて、気付いたのはかなり後になってからですが……レベルがわからないと言ったのは、そもそも測定する時間がなかったからです」

「気付いた時には、もう私に戻っちゃったのね?」

「えぇ…………」

応じつつ、光秋はニコイチのコクピットで、腕の中の綾が伊部に戻った時のことを思い出す。

 と、店員が注文の品を運んできたので、2人は食事を始める。

 右手に持ったスプーンでチャーハンを口に運びながら、光秋は綾が伊部に戻る前に行った体験を思い出す。

―精神感応、ていうのか?綾は、僕に自分を見せてくれた。もしかしたら、いや、おそらく綾も、僕のことを見たんだろう。もともとそのためにやったことでもある。この体験も整理し切れてないことの一つだが、留めておく価値のあることなのは確かだ……とりあえず、さっきのことでくよくよするのはもうよそう。過ぎたことだ。次気を付ければいい―

 と、伊部がカレーを食べる手を止め、光秋を見る。

「光秋くん」

「はい?」

「無理に訊き出そうってわけじゃないけど、悩んでることがあったら、遠慮なんかしないで私に言いなさいよ」

「?……はい、ありがとうございます……?」

「そんな首傾げることじゃないでしょう。私と光秋くんは今や秘密を共有する、ある意味共犯関係なんだし」

「共犯って……」―他に言い方ないんですか?―

「それに、私にとって光秋くんは、部下で、後輩で、同僚で、あと…………」

「……弟分、ですか?」

言葉が詰まった伊部に、光秋は思い付いたことを言ってみる。

「そう!弟分なんだから……だから、何かあったら私に言いなさい」

「……はい」

静かに応じると、伊部の気持ちに光秋は少し気分がよくなる。

 食事を終え、カバンを提げてそれぞれ会計を済ませて店を出ると、バス停に向かいながら、伊部は光秋に訊く。

「今何時?」

「12時10分です」

光秋は左手の腕時計を見ながら応じる。

「お昼早かったからなぁ…………ねぇ、せっかくだし、もう1か所どっか行かない?」

「もう1か所?」

伊部の提案に、光秋は訊き返す。

「嫌?それとも、この後用事ある?」

「いいえ、いいですよ。ところで、どこ行きます?」

「そうねぇ…………下鴨神社はどう?」

「しもがも神社?」―知らないなー

「知らない?」

「えぇ。どこです?」

「光秋くんの寮のそばの、川の下流にあるんだけど……森があって気持ちいいよ」

「じゃあ、そこで」―森?どんな場所なんだ?―

思いつつ、光秋は伊部を追って来た時と反対方向のバス停へ向かう。

 

 バス停に着いた光秋と伊部は、しばらくしてやって来たバスに乗り込み、右後方の2人席に並んで座る。

 しばらくバスに揺られ、光秋の寮の近くにある川を過ぎ、さらに進んで「下鴨神社前」というバス停で降りる。

「こっち」

先導する伊部に続いて、光秋は2車線道路脇の左の歩道を進んで行く。

 と、

「……光秋くん、アヤちゃんと一緒にいた時、ずっとあの小屋にいたの?」

伊部が訊いてくる。

「いえ。ときどきこんなふうに、2人で町を散策することはありましたよ。教授の所に検査に行った時の寄り道だったり、それを目的に出て来たり」

「そう。じゃあその時、どこか名所に行ったりしたんだ」

「いえ、そういうんじゃなくて……僕が知ってる所を2人でぶらつくだけで、今日みたいな名所巡りはしませんでした」

「しなかったの?ただ歩いてただけ?」

伊部は意外そうな顔をする。

「歩いてただけというわけでは。食事したり、買い物したり…………ただ、僕としては何処に行くかってよりも、綾と一緒にあちこち回れるってこと自体が楽しくて……」

「……そっか」

応じると、伊部はそれ以上言わずに歩を進め、光秋もそれに続く。

 しばらく歩くと左に鬱蒼とした森が見え始め、少し進んで左に曲がると、森の間に伸びる幅の広い砂利道の前に着く。

 舗装路から左に曲がってその砂利道に入ると、光秋は顔を上に向け、木々の葉で空が覆われているのを見る。

―……涼しい?……日が当たらないせいか?―

季節以上に涼しく感じる気温に、そんなことを思う。

「夏に来ればちょうどいいんだけど…この時期はちょっとねぇ……夏になったらまた来る?」

「いいですね」

伊部の誘いに、光秋は気のある返事をする。。

 砂利道を右側に寄ってしばらく進み、小川に掛かる小さい橋を渡ると、朱色の柱が目立つ大きな門が正面に建つ広場に出る。

そのまま門に向かって歩き続ける伊部に、

「伊部さん。ちょっと」

と、光秋は声を掛け、

「入る前に、手ぇ洗っておきましょうよ」

と、右側に建つ手洗所を見ながら言う。

「そうだね。作法だし」

伊部も同意すると、2人は手洗所に歩み寄り、置いてある杓子に水を入れ、それを両手に流す。

 光秋が杓子の水を左手に移し、それで口を漱いでいると、

「口も?」

伊部が意外そうな様子で問う。

「……確か、口も漱がなくちゃいけないって」

口の中の水を出した光秋が答え、伊部もそれに倣って口を漱ぐ。杓子を戻し、ハンカチで手を拭きながら門をくぐる。

 入ってすぐ正面にある舞台を眺めつつ右に迂回し、もう1つ門をくぐって拝殿に入ると、光秋は十二支の字が書かれた暖簾を掛けた小さな社が左右端と中央に並んでいるのを見る。

―なんだ?―

「自分の干支の所にお参りするの」

首を傾げているところに伊部が教えてくれると、光秋は「未」と書かれた暖簾が掛かっている社の賽銭箱に十円玉を入れ、拍手を2回打って手を合わせ、軽く頭を下げる。

 伊部も別の社で同じことを済ませると、2人並んで中央に並ぶ社の後ろにある本神社の拝殿にお参りする。

 光秋は賽銭箱に十円玉を入れ、拍手を打って頭を下げると、左隣で同じことをしている伊部がそれを解くのに合わせて参りの姿勢を解く。

 振り返って門に向かいながら、伊部は光秋に訊いてくる。

「なにお願いした?」

「なにも。僕、あぁいうのにあんまり頼らない奴なんで」

「そう……」

光秋の返事に、伊部は少しつまらなそうな顔をする。

「お参りは、その神様への挨拶って考えがありますから……そう言う伊部さんは?」

「私はね――」

「あ、やっぱりいいです」

「なんでよ!」

言葉を遮られて、伊部は不満そうな顔をする。

「こういうのって、他人(ひと)に言うと効果がなくなるって聞いたことがあるんで……だから、言わない方がいいです」

「そうなの?」

光秋の説明を聞きながら、2人は門をくぐる。

 光秋が真っ直ぐもう1つの門に向かおうとすると、

「こっち」

「?……」

伊部が右に曲がり、光秋もなぜかと思いつつその後に続く。

 真っ直ぐ歩いて鳥居をくぐり、さらに歩いて神社の敷地から出、路地を通って2車線の道路に出ると、

「…………!」

光秋は左側に先程降りたバス停を見つける。

「こっちから来た方が近かったんじゃ?……」

「そうなんだけど……せっかくだし、森林浴にもなったでしょう?」

「まぁ……ま、面白かったしな」

伊部に説明に、光秋は納得を返す。

「ところで、今何時?」

「……2時です」

 伊部の質問に、光秋は左手首の腕時計を見ながら応じる。

「2時か…………せっかくついでに、ちょっと京都駅行ってみない?」

「かまいませんよ」

光秋が応じると、2人は最寄りのバス停に寄ってバスを待つ。

 

 しばらくして、2人は来たバスに乗り込み、最後尾の長椅子の右側に並んで座る。

 通路側に座る光秋がやや混んでいる車内を見ていると、

「……そういえば」

と、窓側に座る伊部が話し掛けてくる。

「はい?」

「京都駅テロ事件の時、光秋くん怒ったけど、あれもアヤちゃん絡み?」

「……はい」

言いながら、光秋は初の予知出動で向かった京都駅でNPに叫んだこと、そうする原因となった綾との京都駅での記憶を思い出す。

「やっぱり、デジャブじゃなかったか……」

―そんなふうに返したなぁ…………―

伊部の漏らした呟きに、光秋は事件後の会話を思い出す。

 

 京都駅の正面側に着くと、2人は特に目的があるわけでもなく、辺りを散策する。

 駅周囲のビル街を巡ってみたり、光秋の希望で書店に入ってみたり、駅の中をふらついたり、構内の商店を見て回ったりしていると、

「…………!」

光秋は、夏は綾と腰掛け、先月にはニコイチ越しに怒声を響かせた柵の近くに来ていることに気付く。

「…………」

左隣を歩く伊部を意識しながらも、光秋は誘われる様に構外に出、柵のそばに歩み寄ってしまう。

「…………」

 左前にある柵をしばらく見つめていると、

「……疲れたし、ちょっと座らない?」

「……そうしますか」

伊部の誘いに応じると、2人並んで柵に腰を下ろす。

 正面の路上には所々色違いの箇所があり、

―ニコイチが下りた時のヒビを舗装したのか……―

そう光秋は解釈する。

「…………アヤちゃんとも、こうして?」

「……えぇ」

 左隣に座る伊部に、光秋は遠くを見る目で応じる。

「……服を買いに来たんですよ。ここの服屋に。その時は、タッカー中尉と竹田二尉と、上杉さんと、横尾中尉が一緒でした……」

「そう……」

「…………服買った後、さっきみたいにその辺散策して、で、2人でここで休んだんです……夏だから、熱かったなぁ……」

呟きながら光秋は、綾が柵に手を触れて熱がったことを思い出す。

「そう……大事な、思い出の場所、か……」

「えぇ……」

「……だから、あぁもなるか……」

―……事件の時のことを、思い出してるのか?―

視線を上に向ける伊部に、光秋は路上の色違い部分を見ながらそう思う。

「……前に、三佐に格闘戦の指導を頼んだ時、夏の出来事がきっかけだって話したよね?……その出来事って、アヤちゃんのこと?」

「……えぇ」

 伊部の質問に、光秋は静かに返す。

「……どんなことだったの?」

訊いていいのか迷っている様子の伊部に、光秋は2つの記憶を思い出しながら答える。

「……こうして京都駅の周辺を散策して何日か後、戸松教授の所に定期検査に行って、その帰りに、喫茶店の外の席でお茶してたんです。そしたら、柄の悪い人たちに絡まれて、その時僕は、大したことができなくて……」

「……そう」

「もう1つ。綾が伊部さんに戻る少し前、タッカー中尉たちと出掛ける予定があって、家の前で待ってたんです。そうしたら、今度はタカ派の陸軍の部隊に取り囲まれて、中尉たちが来てくれなかったら、もう少しで綾を盗られるところでした」

「そんなことが?」

「えぇ……言い訳をすれば、どちらも僕にとって不利な状況だったんですよ。一方は戦闘のプロで、ざっと20人はいて、おまけに全員拳銃持ってましたし。もう一方も5人いて、内1人はサイコキノでしたし……」

「それは……確かに不利ね……」

「……で、綾とのことを実のあるものにしたいと考えた時、もっと生身での能力を高めるべきだと思ったんです」

「なるほどね……ところで、その時アヤちゃんはどうしてたの?陸軍の方はEジャマーがあっただろうから、結局不利なままだろうけど、一応高レベルのサイコキノなんだし、不良くらいどうにかできたんじゃ?」

「不良の時は、僕が止めたんです。そういうふうに力を使うのは、ダメだろうって思ってたから。もっともその後、怒った相手を僕が空手で迎えてしまったんで、説得力がなくなってしまいましたが……」

「それは、アヤちゃんを守るためにやったんだから、正当防衛でしょう。光秋くんは間違ってないよ!」

「ありがとうございます。それもそうなんですが……陸軍の時は、綾気絶してて」

「気絶?」

「テレパスでもあるって言いましたよね。それを確かめてみようってことになって、僕を相手に、精神感応、ていうんですか?それをやってみたんですけど、その時、気を失っちゃって……」

「精神感応……慣れなかったり、深く繋がりすぎると、そういうこともあるって聞いたことはあるけど……何したの?」

「僕は、超能力に関しては全くなんで、専門的なことは解りませんが……感じたままを言うなら、お互いを見た、としか……」

「『お互いを見た』?」

「テレパシーを試みてすぐ、でもないかな?時間の感覚が飛んでた気がするんで……とにかく、確かすぐに、綾の視点から見た、というか、感じたとしか思えない感覚が、僕の中に流れ込んできたんです。それで、これは綾の生まれてから今日までの記憶なんじゃないかって」

「……記憶が、流れ込んできた……?」

「記憶だけじゃなく、その時感じたこと、感想とか、感情なんかも感じた気がします。で、僕が綾を感じたんなら、綾も僕を感じたんじゃないか、て。だからお互いを見た……感じたって。気を失ってたのは、それが原因じゃないか?って……」

「…………」

 一連の説明に、伊部は難しい顔をしながら首を捻る。

「……すみません、僕の説明が下手で」

「そういうことじゃないんだけど……んーん……」

「……なんだかんだ言って、主観的なことですからね……完全に伝えるっていうのは、難しいから…………」

呟く様に言うと、光秋は再び遠くを見る目を正面に向ける。

 

 しばらくして、

「……そういえば、今何時?」

「もうすぐ5時ですね」

伊部の問いに、光秋は左手首の腕時計を見ながら応じる。

「5時か……どっか食べに行く?」

「そうですね……昼が早かったし」

光秋は腹の空き具合を窺いながら返す。

「どこかにいい所ありますか?」

「バス降りた方の地下に、レストラン街があるけど」

「じゃあ、そこで」

「なに食べるかは、見て決めればいいか」

「えぇ」

応じると光秋は柵から立ち上がり、駅の正面側へ歩き出し、伊部もそれに続く。

 

 駅構内を通って正面側に出、地下に下りた光秋と伊部は、しばらくレストラン街を見て回ると、結局パスタ屋に入って向かい合って座り、それぞれ注文をする。

 注文の品が来るのを待っていると、

「……でも、ちょっと羨ましい」

伊部がコップの水を飲みながら呟く様に言う。

「なにがです?」

「光秋くんとアヤちゃんの関係がどうだったにしろ、好きではあったんでしょう?」

「……えぇ、まぁ……」

「光秋くん曰くの、『お互いを感じた』って。好きな人とそんなに深く繋がれるなんてね……」

「……まぁ……」

伊部の言葉に、光秋は返事に困る。

 直後に注文の品が運ばれ、2人は食事を始める。

 右手に持ったフォークにミートソースを巻き付けながら、光秋はカルボナーラを口に運ぶ伊部に目をやる。

―……『深く繋がる』……どうだろうか?感じたのは確かだ。でも、本当はもっと多くのことが入って来たんじゃないのか?特に印象的な部分だけが記憶に残ったんじゃないのか?……それに……―

光秋は、昨日神モドキと会った時の綾を思い出す。

―『アキが可哀そう!』…………いや、そうじゃないよ綾。僕は寧ろ、今の状況を望んでいた。可哀そうなんかじゃない…………互いを感じ合えても、尚も考えに齟齬が生まれる…………人間って、そんな便利でもなければ、利口でもないからな…………僕は特に……―

 

 食事を終えると、光秋と伊部は地上に上がる。日はだいぶ傾いており、空は暗くなっている。

「……今日は、この辺にしますか?」

「そうね……明日からまた仕事だし、そろそろ帰って休んだ方がいいかも」

空を見ながら言う光秋に伊部が応じると、2人は最寄りの地下通路の階段を下り、それぞれ駅までの切符を買って地下鉄のホームに下りる。

 電車を待っている間、光秋は左隣の伊部を見やりながら声を掛ける。

「伊部さん」

「なに?」

「さっき、僕のことを羨ましいって言ってましたけど、そうでもないかもしれません」

「?……どういうこと?」

「深く繋がり合えても、やっぱり別の人間である以上、相手のことを完全に解るのは無理かもしれないってことです。現に昨日、そういう齟齬の場面に遭って……」

「そうなの?」

「えぇ…………それに、繋がったのは綾の力によるのであって、僕はなにもしてません」―……結局、無取り柄か…………!―

 と、光秋は不意に思い付いたことを言う。

「そういえば、綾の記憶がときどき出てくるようなこと言ってましたよね?」

「え?うん。記憶っていうか、それこそ既視感みたいなものだけど?」

「案外伊部さんの方が、綾と繋がってるんじゃないですか?体は共有してたんだし。自分の中に強く意識を向けたら、案外話し掛けてきたりして」

「えぇ?…………」

 光秋の半分は思い付きに、伊部は微笑を浮かべながらも試しとばかりに両目を固く閉じ、呼吸を落ち着かせてみる。

「…………」

それを光秋は期待半分、面白半分で見る。

「…………ダメだね。自分の中からはなにも聞こえてこない」

「そうですか……」―そりゃあ、そう上手くいかないよな……―

目を開けて首を振って言う伊部に、光秋は静かにそう返す。

 と、ホームに電車が入ってきて、開いたドアから2人はそれに乗り込む。時間上帰宅ラッシュなのか、車内はかなり混んでおり、2人は並んでドアの近くの吊革を掴む。

 しばらくして、電車は伊部が降りる駅に着く。

「いろいろあったけど、今日は楽しかった。また明日ね」

「はい。また明日……」

何人かに混じって下車する伊部に光秋がそう返すと、ドアが閉まり、電車は再び走り出す。

 少しして次の駅に着くと、光秋は人波に混ざって下車し、改札を通って地上に出、真っ直ぐ寮へ向かう。日は完全に落ち、空はすっかり暗くなっている。

 自室に着いた光秋は、荷物の整理や入浴等を済ませ、青い寝巻に着替えると、椅子に座って長考に入る。

―………確かに、今日は楽しかった。が、自分の無能さを改めて自覚させられた日でもあるなぁ……格闘技は未熟、ニコイチはあくまで他力、相手のことをわかり切れる力もない、ないない尽くしだ…………それが僕だというのならそうだが、このままじゃ僕の肩身が狭い。なにか他人(ひと)に誇れるものはないだろうか?…………いや、やめておこう。格闘技は練習を続ければ上達してくる。やがては取り柄にもなるだろう。それより今何時だ?……―

思いつつ、机の上の時計を見る。

―8時50分かぁ……明日早いし、今日はさんざん騒いだし……寝るか―

思うと光秋は、用を足しに椅子から立ち上がる。

 

 10月5日火曜日午前8時。

 ESOの緑服一式を着、右肩に灰色のカバンを斜め掛けした光秋は、いつも通りに京都支部に出勤する。

―この間まで忙しくて、それで2日休みだから、リズム狂うな……―

などと考えながら、支部の正門をくぐろうとすると、

「光秋くーん!」

「!」

左から呼び掛けられて顔を向けると、制服姿の伊部と小田一尉が近づいてくるのを見る。

「おはようございます」

「「おはよう」」

伊部と小田が同時に返すと、3人は小田を中心に横に並んで本舎へ向かう。

 小田の右隣を歩きながら、光秋は、

―さて、今日も訓練頑張るか!―

と、気持ちを切り替える。




 今回で合同演習編は終了です。
 次回をお楽しみに!
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