白い犬   作:一条 秋

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 今回から前後編「病床の夢」に入ります。
 よろしくお願いします。


病床の夢編
45 病床の夢 前編


 11月25日木曜日午後0時40分。

 昼食を終えた光秋は、一息つこうと藤原隊の待機室へ向かう。

「あぁ加藤、お前に手紙が来てたぞ」

―手紙?誰からだ?―「ありがとうございます……」

 部屋に入るや椅子に座っている小田一尉に茶封筒を差し出され、首を傾げつつそれを受け取ると、テーブルを挟んで小田の向いに座り、宛名を見る。

―『藤原隊 白い犬様』?―「一尉、これって!?……」

 書かれている宛名に驚きの声を上げつつ、小田を見据える。

「とりあえず開けてみろ」

「はい……」

 戸惑いつつも、微笑を浮かべた小田に言われた通りに封筒を開けると、中から三つに折られた便箋を取り出す。

「?」

 封筒をテーブルに置いて便箋を開くと、それを読み始める。

―『拝啓 白い犬様 先日の護送任務の際は、危ないところを助けていただきありがとうございました』……―「これって……この間の警官の方ですか?」

 最後に書かれている「村山 花」という名前こそ知らないが、一通り読んだ内容から、光秋は手紙の送り主を察する。

「そう。ついでに言うと女性の方な」

「!」

 小田の説明を聞くと再び手紙を一見し、ゆっくりと小田に視線を戻す。

「護送任務の翌日、お前が三佐と外で訓練してる時に電話があってな。是非お礼を言いたいって。でも時間がないから手紙にするんで、お前の名前を教えてくれってな」

「それで、なんで『白い犬』なんです?」

 小田の説明に返しつつ、光秋は封筒の宛名を再見する。

「俺がその名前で出すように頼んだからだよ」

「またなんで?」

「理由はいろいろあるが、一番の理由は、通り名の方がかっこいいと思ったからだ」

「……なんか、竹田二尉みたいなこと言いますね」

「そう言うな。それに無暗に名前を知られない方が、お前にとっても都合がいいだろう。有名になり過ぎてストーカー気質のファンが付くよりはな」

「まぁ……」―確かにな……それに『加藤光秋』という具体的な人間よりも、『白い犬』というニコイチとセットで……ニコイチを通して見られる存在の方が、みんなの夢も膨らむし、人知れず戦うっていうのは悪くない、か……―

 小田に曖昧に応じつつも、満更でもないと自覚しつつそう思う。

 と、

「?」

光秋は小田が微笑みを浮かべ続けていることに気付く。

「どうした?」

 その視線に気付いたのか、小田が訊いてくる。

「いえ、一尉が嬉しそうな顔をするので、どうしたのかと……」

「そりゃあ、部下が……仲間が感謝されてるんだ。嬉しくなるさ」

「仲間……ですか……」

 その言葉に、光秋はどう返していいか困ってしまう。

「……でも、前はこの時のことで怒ってたんじゃ?」

「怒ったのは、あくまで命令違反に対してだ。それはそれで問題だが、他人(ひと)の命を救おうとしたことは、それだけで称賛ものだ……」

 そこまで言って小田は、光秋から視線を逸らすと右頬を掻く。

「まぁなんだ、要するに……次はもう少し利口にやれ……さーて、トイレトイレ……」

 言うと小田は席を立ち、呟きながら部屋を出ていく。

 ドアに消える小田の背中を見送りつつ、光秋は先程言われたことを思い出す。

―『他人の命を救おうとしたことは、それだけで称賛ものだ』、か……やり方に多少問題があったとはいえ、やろうとしたこと自体は、やっぱり間違ってはいなかったんだ。それこそ、次はもう少し利口にやればいいんだ!―

 その認識は、先日から胸の内に引っ掛かっていたものを解消してくれる。

「……そんじゃま、僕もそろそろ行くか」

 すっきりした心境で気持ちを切り替えると、手紙を戻した封筒をカバンに仕舞い、午後の訓練に向かう。

 

 12月4日土曜日。

「…………!」

 携帯電話のアラーム音に目を覚ました光秋は、音を止めると画面の時計を見る。

―6時……起きなきゃ……―

 眠気を残しつつもそう思うと、掛け布団ごと上体を起こす。

 と、

「……?」

体中に薄っすらと痛みを覚える。

―なんだ?……風邪かな?……―

 痛みの具合や鉛が付いた様に重い体の感覚からそう推測する。

「……でも、休むわけには……」

 仕事のことを思いながらそう呟くと、動く度に軋む様に痛む体をベッドから下ろし、着替えや朝食といった出勤の準備をする。

 その間にも体の痛みや重さは治まらず、喉の痛みまで感じ始める。

―やっぱり休むか?……でも、それ程でもない様な……行くだけ行って、ダメだったら帰らせてもらうか……―「ゲッフ!……ゲッフ!……」

 咳き込みながらそう思うと、光秋はトレーニング以外の準備を済ませ、カバンを右肩に斜め掛けして京都支部へ向かう。

 

 体全体を引きずる様に歩いて京都支部の本舎に着くと、光秋はエレベーターに乗り込み、背中を壁に預けて地下に下りる。

―……やっぱり厳しいかな?―

 思いつつ、痛む脚を擦る。

 地下1階に着くと、動きが鈍くなっている足なりに速く藤原隊の待機室へ向かう。

「おはようございます……」

 喉に響かない程度の声で挨拶しながら部屋に入ると、先に来ていた藤原三佐が広げている新聞を下ろして顔を出す。

「おぉ。おはよう」

 返事を聞きながら、光秋はテーブルを挟んで藤原の向いの席に腰を下ろす。

「どうした?顔色が優れんが」

「ちょっと、風邪ひいたみたいで……ゲッフ!ゲッフ!」

 藤原の問いに、左手で口を覆って咳をしながら答える。

「……なので、今日の訓練は休ませてください」

「了解したが、そもそも来て大丈夫なのか?」

「やれるだけやってみます……それに、ここにいた方が上杉さんにもすぐに診てもらえるし……ゲッフ!」

「ウム……とりあえず、無理はするな。後で全員に説明するが、今月は空軍との演習が入ってるからな。お前がいないと話にならん」

「はい……」―演習?……この間伊部さんが頼みに行ったやつか?……―

 喉が痛まないよう短く応じつつ、光秋は先週のことを思い出す。

 

 しばらくして、小田一尉と伊部二尉が部屋に入ってくる。

「「おはようございます」」

「おぉ。おはよう」

「おはようございます……」

 2人の挨拶に、藤原と光秋はそれぞれ返す。が、藤原の声に比べて光秋の声は擦れる様であり、体調の悪さが表れている。

 それを感じてか、伊部が心配そうな顔で訊いてくる。

「光秋くん、元気なさそうだけど大丈夫?」

「風邪ひいたみたいで、今日は無理のない範囲で頑張ります……ちょっと失礼……」

 鼻声で応じると、光秋は足元のカバンからポケットティシュを出して洟をかむ。

「ほんとに無理するなよ」

「はい……」

 小田に応じると、使った紙をズボンのポケットに仕舞う。

 

 午前8時。

「うーっす」

 寝むそうな顔をした竹田二尉が部屋に入ってくると、藤原はテーブルに着いている一同を見回して言う。

「よし、皆揃ったな。早速だが、先日話していた演習の件で連絡がある」

 その間に、竹田は光秋の右隣に座る。

 と、

「ゲッフ!ゲッフ!……」

直後に光秋は左手で口を覆いながら咳をする。

「なんだ、風邪か?」

「えぇ……やっちゃったみたいで……ゲッフ!」

竹田に擦れた声で応じつつ、また咳をする。

 それを見つつ、藤原はカバンからメモを取り出して説明を始める。

「えー、日程は12月22日の午前9時、場所は春にニコイチの飛行試験をやった演習場、相手は空軍の古谷大尉のチー――」

「ゲッフ!ゲッフ!……」

 藤原の言葉を遮る様に、光秋はひと際大きな咳をし、息が少し荒くなる。

「ちょっと、大丈夫?顔もなんか赤いけど」

 言いながら、光秋の正面に座っている伊部が右手を額に付けてくる。

「かなり熱いじゃない!今日はもう帰った方が……」

 言いながら、伊部は心配そうな顔を藤原に向ける。

「ウム。確かにな……」

 顔全体に朱が注した光秋を見つつ、藤原も表情を曇らせる。

「よし。上官として命令する。体調が回復するまで自宅療養しろ」

「はい……」―命令ならいいか?……―

 擦れた声で藤原に返しつつ、光秋は鈍くなり始めた頭で少し考える。

「その前に、上杉さんの所に寄っていっていいですか?」

「構わんが、今いるか?」

 光秋の申し出に、藤原は左手首の腕時計を見ながら不安げな顔をする。

「ちょっと待ってください……」

 それに応じる様に竹田はズボンのポケットから携帯電話を取り出し、上杉に掛ける。

「あ、上杉?お前今医療棟いる?……加藤が風邪ひいたみたいでさ、今帰るように言われたんだけど、その前に診てもらいたいんだってよ。大丈夫か?……ん。わかった。じゃあ今からよこすから、待っててくれ。じゃ……いつもの診察室にいるから、真っ直ぐ来てくれってよ」

「ありがとうございます……ゲッフ!」

 竹田の説明に、光秋は咳をしながら応じる。

「それじゃあ、僕は今日これで……」

 言いながら、光秋は席を立って足元のカバンを右肩に斜め掛けする。

「医療棟まで送っていった方がいいんじゃないか?」

 やや足元が心許ない光秋を見て、伊部の左隣に座る小田が言う。

「それじゃあ、私行きます」

 応じながら、伊部は席を立って光秋の許に歩み寄る。

「大丈夫ですよ……ゲッフ!」

「いいから。さ、行こう」

 伊部に促されて、光秋は医療棟へ向かう。

 

 伊部に付き添われて医療棟の前まで来ると、光秋は足を止める。

「ありがとうございます。後は……」

「そう?……じゃあ、後で連絡して」

「はい……それじゃあ……」

 伊部に一礼すると、光秋は医療棟の玄関をくぐってエレベーターに乗り込む。

「はぁ…………」

 吐息を漏らしながら今朝よりも重く感じるようになった体を壁に預け、ドアが開くと動かす度に痛む足で上杉の診察室へ向かう。

 診察室の前に着くとドアを2回ノックし、

「どーぞー」

ドア越しの上杉の返事を聞いて中に入る。

「おぉ、待ってたぞ風邪ひき」

「お願いします」

 白衣姿で椅子に座る上杉に応じつつ、光秋はカバンを置いて制帽をその上に置き、上杉の前の丸椅子に腰を下ろす。

「じゃあ、まずこれ脇に挟んで」

「……体温計ですか?」

「あぁ」

 上杉の返事を聞きつつ、上着とワイシャツのボタンを外して渡された体温計を左脇に挟む。

 その間に上杉は光秋の額に右手を当て、しばし目をつむって集中すると、机の上のカルテにボールペンを走らせる。

 体温計が鳴ると、それを脇から出して上杉に差し出す。

「38度5分。触診の結果を考えても、確実に風邪だな。とりあえず薬出しとくから、家に帰って安静にしてろ。水分と栄養補給もしっかりな」

「はい……ありがとうございます……」

 体温計を受け取ってカルテになにか書きながら言う上杉に、光秋は鼻声で礼を言い、服装を整えると診察室を後にする。

 

 エレベーターで1階に下りると、光秋は受付前の長椅子に座り、次々と出てくる洟をかみながら呼び出しを待つ。

―……(あお)くなってきたな……異物を出そうと頑張ってはいるんだ……―

 若干ぼうっとする頭でそんなことを思いながら、何枚目かの洟をかんだティシュを丸めて上着のポケットに入れる。

 名前を呼ばれて会計と薬の受け取りを済ませると、重い体を引きずって寮へ戻る。

―……寮って、こんなに遠かったっけな?―

 いつも通りの道を歩いているのに妙に遠く感じることに疑問を覚えつつ、やっとの思いで寮の自室に着く。

―……体洗った方がいいか?……いいか……―

 カバンを置いて浴室で手洗いとうがいをしながらぼんやりと考えると、先程受け取った薬が入った紙袋をカバンから出して机の上に置き、上着から出した携帯電話とカプセルをベッドの枕元に置く。

 制服から青チェックのパジャマに着替えると、枕元にティシュの箱を、ベッドの足元にゴミ箱を置き、ベッドに掛けた梯子を上って布団の上に尻を着く。

―とりあえず……寝よう……―

 力一杯に洟をかみ、使った紙をゴミ箱に捨てながら断じると、メガネを携帯電話のそばに置き、掛け布団を被って横になり、いくらもせずに寝入ってしまう。

 

 制服を着た光秋は、いつもと同じ道を歩いて京都支部に向かう。

―光秋くん。足元に気を付けて―

―?……足元?……―

 何処からか聞こえた伊部の声に歩を止めると、足元を見下ろす。

―!?―

 そこには何人もの人間が白い巨大な足に踏み潰され、噴き出た大量の血が辺りを真っ赤に染めている光景が広がっている。

―…………!―

 束の間言葉を失っていると、自分がニコイチのコクピットで操縦席に座っていることに気付く。

 と、

―!?―

ニコイチの右手が勝手に動き出し、一杯に開いた掌を惨状から逃げ惑う人だかりに伸ばす。

―やめろ!―

 言うや光秋は意識を集中し、右手の動きを止めようとする。が、右手は動きを鈍らせることなく人だかりに向かう。

―こ、この!―

 さらに意識を集中させつつ左右の操縦桿をデタラメに動かしてみるが、手は一向に止まらず、ついに人だかりの1人を掴んで持ち上げる。

 その手の中で激しくもがく白い半袖のワイシャツに赤いロングスカートを着、黒く長い髪を広げた人を見た時、光秋は言葉を失う。

―綾!?……―

 そして、

―!―

ニコイチの手に徐々に力が加わり、手の中の綾を握り潰そうとする。

―!……―

 その感触は光秋自身の右手に伝わり、柔らかな体に徐々に力が掛かる感覚に焦りを覚えつつも、それを何とか止めようとニコイチの右手に渾身の念を送り、左右の操縦桿を激しく振り回す。

 が、直後、

―!…………―

モニター越しにグシャッという音が響き渡り、同時に光秋の右手に柔らかいものが潰れる感触が伝わる。

―……―

 恐る恐るモニターを見ると、今度はいつも通り素直に光秋の意思に反応したニコイチの右手が、ゆっくりと手を開きながらその掌を示す。

―…………―

 冴える様な赤一色に染まった掌から赤い欠片がいくつか落ち、それを追って光秋は顔を下ろし、肉片が浮かぶ血溜まりを挟んで肩から上と腰から下に分かれた綾の体を見る。

 と、口の両端から血を流し、苦痛に歪んだ表情で固まった綾と目が合う。

―うぁぁぁぁぁ!―

 

「!…………」

 ハッとした光秋は目を見開き、白い天井を視界に入れる。

―…………夢、かぁ…………―

 見慣れた天井と周囲の壁、布団を被ってベッドで横たわっている自分を把握して、状況を理解しつつ安堵の息を漏らす。

―酷い夢だ……―

 思いつつ、右手を布団から出して掌を見る。

「……」

 血で汚れてもいなければ人を握り潰した感触もない掌にほっとしつつ、力を抜いて右手を額に載せる。

 と、

―汗かいたな……―

未だ熱が引かない額がじっとりと濡れていることに気付き、合わせて体中が汗ばんでいるのを感じる。

―着替えなきゃ……―

 思いつつ、重い体を億劫そうに起し、梯子を伝ってベッドから下りる。

 パジャマの上を脱ぎ、多量の汗が染み込んだシャツを脱ぐと、脱いだシャツで額や体に残っている汗を拭き取る。それを洗濯機に入れると、箪笥から新しいシャツを出して着替える。

―……そういえば今何時だ?―

 パジャマを着ながらそう思うと、枕元のメガネを掛け、連絡の有無の確認も兼ねて携帯電話を取って画面を開く。

 11時半を示す時計を確認しつつ、メールが1件来ているのを見てそれを開く。

―伊部さん?―

『検査の結果どうでしたか?具合が落ち着いたらいつでもいいので電話ください。待ってます。』

―これいつ来た?……9時半……そういえば、後で連絡してって言われてたな―

 別れ際の言葉を思い出し、光秋は伊部に電話を掛けようとする。

―11時半……ま、『いつでもいい』っていってるし、いいか―

 時間を気にしつつもメールの言葉を優先し、通話ボタンを押す。

「……」

(もしもし?)

「あ、伊部さん?加藤です」

 鼻声を出しながら、光秋は左耳に当てた電話越しに応じる。

「今メール見たんですが……時間大丈夫ですか?」

(うん。大丈夫)

「すみません……帰ってからずっと寝てて」

(うんうん気にしないで。それより、具合どう?)

「今朝よりはいくらか……いや、あんまり変わらないですね……でも薬貰ったんで、お昼の後に飲めば、少しは楽になるかと」

(そう……ねぇ、よかったらこれから行こうか?)

「え!?」

 伊部の突然の申し出に、光秋は驚きの声を上げる。

「いいですよわざわざ……仕事だってあるし……そもそも伊部さん、僕の寮の場所知らないでしょう?」

(そんなの三佐に訊けばすぐ分かるし、支部からそんないに遠くじゃないんでしょう?)

「まぁ……伊部さんの寮に比べれば近いですけど……」

(それに仕事だって、急いでやらなきゃいけないものもないし、お昼ご飯買って行くから)

「でも……部屋は散らかってるし……僕パジャマですし……」

(病人がそんなこと気にしてるんじゃないの。とにかく、今から三佐に許可と道訊いて行くから。待っててね)

「あ……」

 光秋の返事を待たず、伊部の方から電話が切られる。

―伊部さんも強引だな……が、確かに病人が気を遣うもんでもないか……ここは伊部さんの好意に甘えさせてもうらうかな……もっともそれを言ったら、伊部さん、いや、藤原隊のみんなにはいつも甘えてる気もするが……―

 少しは調子が戻ってきた頭でそんなことを考えつつ、光秋は押し入れから灰色のセーターを出してそれを羽織り、ベッドに入って脚に布団を掛け、上体を起こした姿勢で伊部を待つことにする。

 

 午後0時。

―……伊部さん、遅いな―

 携帯電話で時刻を確認しつつ、光秋は一向に来る気配のない伊部を心配する。

―やっぱり、抜けられなかったのかな?それともなにかあったか?……―

 と、

「……!」

携帯電話が振動し、光秋はすぐに電話に出る。伊部からだ。

「もしもし?」

(あ、光秋くん?……)

 電話越しに、伊部の若干狼狽を含んだ声が響く。

「……やっぱり、ダメでしたか?」

(うんうん。仕事の方はちゃんと三佐に許可取ってきたから問題ないの。ただ……光秋くんの寮の場所がわからなくて……)

「?……三佐に訊かなかったんですか?」

(そうじゃなくて、教えてもらった道を進んでるんだけど、どうしても寮が見付からなくって……大通りから路地に入って少し行った所にあるって訊いたんだけど……)

―あぁ、なるほど……―「あぁ、確かに見つけ難いかもしれませんね……伊部さん、今どこにいますか?」

(表通り、支部寄りかな。もう一度教えてもらった道を試すところだけど)

「……じゃあ、僕が迎えに行きましょうか?」

(え、いいよ。まだ具合悪いんでしょう)

「そうですが……ゲッフ!……」

(ほら……)

「……でも、このままじゃ伊部さん寮に着かないし、そうしないと僕もお昼食べられないし……」

(そうだけど……)

「路地の入り口――橋の手前の本屋と弁当屋の間で待ってます。わかりますか?」

(うん。今向ってるとこ)

「じゃあ、そこで待っててください。今から行きます」

(うん……ごめんね。無理しないで)

「すぐそこですから……それじゃあ、後で」

 伊部の申し訳ない声に応じて電話を切ると、重い体をベッドから下ろす。

―この格好は……いいか。路地までだし―

 人目を気にする必要がないと判断すると、光秋はセーターのポケットに携帯電話とカプセル、鍵を入れ、押し入れから出した厚手の茶色いコートを羽織り、裸足で制靴を履いて伊部の元へ向かう。

 

 少々頼りない足で約束の場所に着くと、光秋は左右を見回して伊部を探す。

 と、

「お待たせ」

左から制服姿に左肩にカバンを提げ、右手に大き目のビニール袋を持った伊部が速足で寄ってくる。

「いえ、今来たところ――ゲッフ!ゲッフ!……行きましょう……」

「うん」

 伊部の返事を聞くと、光秋は伊部を伴って来た道を戻る。

 真っ直ぐの道を突き当たりまで進み、右に曲がってすぐの所で止まると、光秋は後ろの伊部を見る。

「ここです、僕の寮」

「あ、ここかぁ」

 光秋が指した2階建て4部屋の寮を見て、伊部はようやく合点がいった様な顔をする。

「この辺何度も通ったけど、全然わからなかった」

「まぁ、確かに慣れてないと気付き難いかもしれませんね……隠れ家みたいで面白い――ゲッフ!ゲッフ!……早く入りましょうか……」

「そうだね」

 伊部が応じると、光秋はドアの鍵を開け、2人は中に入る。

 居間に進むと、光秋はコートを脱いで押し入れに戻し、ベッドの梯子を片付けて、ベッドの下から茶色いチェック柄の布団が掛かったコタツを引き出す。

「入っててください……僕ちょっと」

 コタツの電源を入れながら言うと、光秋は風呂場に行ってうがいと手洗いをする。

「几帳面だね」

「風邪ひいてるのもあるんで……」

 廊下を背にしてコタツに入る伊部に応じつつ、光秋は暖房に設定したエアコンを入れ、自分も伊部の左前からコタツに入る。

「まぁね……さ、ご飯にしよう。私が迷ってたせいで遅くなっちゃったし」

 言いながら、伊部はビニール袋をコタツの上に置き、中からチューブ容器のゼリーや紙カップのヨーグルト、スポーツドリンクのペットボトルなどを取り出す。

「そんなこと……それより、本当に仕事の方大丈夫なんですか?」

 伊部からゼリーのチューブを渡されながら、光秋は未だに気になっていたことを訊く。

「大丈夫。三佐に許可とって、午後から休ませてもらうことになったから。それに、三佐が言ってたよ。『加藤がいないとウチの戦力が低下するから、しっかり看病してやれ』って」

「それは……」

 チューブを片手に藤原の口調を真似て言った伊部の言葉に、光秋はありがたさと申し訳なさを覚える。

「あと一尉が、『加藤は大事な主力だから、ちゃんと看てやれ』って」

「はぁ……」

 伊部に返しつつ、光秋は喜ぶべきか迷った顔でチューブのゼリーを吸う。

「……ところで、二尉はなんて?」

「『女の先輩に看病なんて羨ましいな』って」

「はは……」

 竹田らしい言葉に納得の苦笑いを浮かべつつ、光秋はまた一口ゼリーを吸う。

「……みんなに、そんなふうに期待してもらって、それでこのザマっていうのは……少し、情けないです……」

 俯いて思わず言うと、光秋はチューブに残ったゼリーを一気に吸い切る。

「そんなことないよ。風邪くらいみんなひくし、光秋くんこっちに来てからいろいろあったから、疲れが出たんだよ」

言いながら、伊部はゼリーを吸い切った光秋にプラスチックのスプーンを載せたヨーグルトのカップを差し出す。

「それは……まぁ、そうでしょうね……夏の一時(いっとき)こそ比較的穏やかでしたけど、こっちに来てからはしょっちゅう問題……主に戦闘に巻き込まれて……」

 差し出されたヨーグルトを一口食べつつ、光秋は脳裏にNPやサン教、DDとの戦闘、先日の護送の際の襲撃を浮かべる。

「そう。そんな状況で今まで一生懸命やってきたんだから、偶には風邪くらいひくよ」

「……そう……そうですね」

 伊部の言葉に納得した様子で返すと、光秋はヨーグルトを早々と平らげ、手を伸ばして机の上の薬の袋を取り、説明書を読むと伊部から渡されたスポーツドリンクで2錠の薬を一度に流し込む。

 そのまま残りのスポーツドリンクも飲み干すと、

「少し寝ます……その前にちょっと……」

光秋はコタツを出て風呂場に向かい、そこで歯を磨く。

 用を足して居間に戻ると、伊部がベッドを見上げながら訊いてくる。

「このベッド、どうやって上がるの?」

「普段は梯子を使うんですが、今はコタツあるから……」

「退かそうか?」

「いえ」―あんまり気は進まないが……―「ちょっとすみません」

 言うと光秋は羽織っていたセーターを隅に退かしている椅子の背もたれに掛け、コタツを踏み台にして素早くベッドの上に這い上がる。

「少し寝ますんで、好きにしててください……鍵は冷蔵庫の所に掛かってますし、テレビはイヤホンが付いてるんで」

「了解。私も一息入れさせてもうらうね」

「それじゃあ、お休みなさい」

「お休み」

 伊部の返事を聞くと、光秋はメガネ等を枕元に置き、右半身を下にして伊部に背を向ける形で横になる。

「…………」

 風邪薬のせいか、いくらもせずに寝入ってしまう。

 

 しばらくして、光秋はゆっくりと目を開ける。

―……今度は、変な夢見なかったな……―

 覚め切っていない頭でぼんやりとそう思うと、仰向けの体を左に向け、枕元の携帯電話を開いて時刻を確認する。

―2時半……だいぶ寝ちゃったな……―

 思いながら電話を戻すと、再び仰向けになる。

 と、

「……?」

額になにかが貼り付いているのを感じ、右手でその辺りを触れてみる。

―……あぁ、熱冷ましのシート……伊部さんが貼ってくれたか…………―

 布の様な感触と額に伝わる冷たさからなにかを察し、ぼんやりとそう思うと、光秋は再び寝入ってしまう。

 

 またしばらくして、光秋は再び目を開ける。

―……いかん。また寝ちゃったか―

 覚め切らない頭でそう思うと、ゆっくりと上体を起こし、ベッドの下を見る。

―伊部さんがいない……帰ったのか?―

 コタツが仕舞われていることと、ベッドに梯子が掛かっていることからそう思うと、光秋は背中が濡れているのを感じる。

―また汗かいたな……そうだ。水摂とらないと……―

 詰まり気味の鼻を勢いよくかみながらそう思うと、メガネを掛け、ベッドを下りて冷蔵庫を開け、先程伊部が買ってくれていた2リットルのスポーツドリンクのペットボトルを出し、台所の棚から出したコップ一杯に注いだそれを一口に飲み干す。

―……汗かいたか、薬が効いたのか、少し楽になったな―

 一連の動きを通して、体が今朝より軽く感じる。

―……今何時だ?―

 ペットボトルを冷蔵庫に戻しながらそう思うと、枕元の携帯電話を開く。

―3時か……寝過ぎもよくないし、本でも読むか―

 そう思うとベッドの梯子を退け、風呂場へ行って口を漱いで顔を洗う。濡れた顔を拭くと椅子の背もたれのセーターを羽織り、そのポケットに電話とカプセルを入れ、ベッドの下からコタツを出して電源を入れ、本棚から出した文庫本を持ってその中に足を入れる。

―鍵がない……てことは、伊部さんまた戻ってくるな―

 冷蔵庫の扉のフックに掛けてある寮の鍵がないのを見てそう察すると、本を読み始める。

 

 しばらくして、

「…………!」

ドアの鍵が開く音が響き、光秋は読んでいた本を閉じてカーテン越しにドアの方を向く。

 廊下を歩く音が数回響くと、

「あ、起きた?」

カーテンを除けて黒いコートを羽織った伊部が顔を出す。

「……買い物に行ってたんですか?」

「うん。あと寮に戻って着替えてきた」

 諸々の物が入ったビニール袋を見ながら訊く光秋に、伊部はポケットから出した部屋の鍵を冷蔵庫のフックに掛けながら応じると、買ってきた物を冷蔵庫に詰めていく。

「……いろいろ買ってきてくれたみたいですが、そんなにあっても僕食べ切れませんよ。ただでさえ最近自炊しない上に、今風邪ですし」

 スポーツドリンクやヨーグルトなどと一緒に冷蔵庫に詰め込まれていく野菜や卵、調味料などを見て、光秋はそれらの処理に困ってしまう。

「いいの。私も今日はこっちで食べてくから」

「え!?……」

 予想外の伊部の返事に、思わず驚きの声を上げる。

「それって……伊部さんが作るってことですか?」

「もちろん」

「いいんですか?この間も御馳走してもらったばっかりなのに」

「この間は私の誕生日祝いでしょう。今回は光秋くんの看病。全然違うんだから、気にしなくていいの」

 言い切ると、伊部は空になったビニール袋を片付け、コートを脱いでそのフードを壁に備え付けてあるフックに掛け、風呂場に行って手を洗うと、コタツに青いジーンズを履いた足を入れる。

「ふーう……コタツあったかい……」

 灰色のセーターを着た上体をコタツに寄せながら、伊部は小声で呟く。

「……!それ」

 前屈みになってテーブルに顔を寄せた伊部の後頭部を見て、光秋は伊部の髪がいつものゴムではなく、赤いフリルの付いた物で束ねられていることに気付く。

「あぁうん。誕生日に光秋くんがくれたシュシュ。寮に帰った時に、せっかくだから着けてきたの……似合う?」

「えぇ。とても」

「ありがとう」

 光秋の現状での精一杯の力強い返事に、伊部は嬉しそうに応じる。同時に光秋も、

―早速使ってくれたか!しかし、やっぱりよく似合う!―

と、伊部の微笑みを見て自分も嬉しくなる。

 が、一方で、

「……」

伊部の顔を近くでよく見た光秋は、先程の夢のことを思い出してしまい、僅かだが気分が後退するのを感じる。

「……どうしたの?」

 そのことが顔に出たのか、伊部が少し心配した顔で訊いてくる。

「いえ、ちょっと思い出しちゃって……伊部さんに電話する前に見た、嫌な夢を……」

「夢?……どんな夢?」

「……細かい所は忘れちゃいましたが……そう、ニコイチを上手く制御できずに、他人を傷付けてしまう夢です」

 言葉を選びながら、夢の概要だけが伝わるように慎重に答える。

 夢の大部分を忘れてしまったのは本当のことであるが、ニコイチで人を踏み潰し、綾を握り潰し、綾の死体と目が合って絶叫したことは鮮明に憶えており、その部分――特に綾に関する部分――は言ってはならない気がしたから、伊部の前で言う勇気がなかったからである。

「……でも、しょせん夢ですから」

「そうだね。光秋くんなら、そんなことにはならない」

「……」

 気まずさを誤魔化そうと独り言として言った言葉に伊部が期待を込めた声で応じ、束の間応答に困る。

「……テレビでも観ますか?夕飯にもまだ早いし」

「そうだね」

 伊部の返事を聞くと、光秋はコタツから出てテレビを点けに行く。

 

 午後4時50分。

「さてと。そろそろ作るね」

 机の上の時計で時間を確認した伊部はコタツから出て立ち上がり、居間と廊下を仕切るカーテンの裏に消える。

「お願いします……」

 カーテン越しに応じると、光秋は溜まっていた洟を一気にかむ。

 少しして、詰まり気味の光秋の鼻でもわかる醬油風味の匂いが広がってくる。

 それから少しして、

「できたよ」

カーテンが開かれると、伊部がうどんの入ったどんぶりを光秋の前に置く。

「ありがとうございます」

「先食べてて」

「いただきます」

 伊部が箸が入ったコップを置きながら言うと、光秋は両手を合わせて台所に立つ伊部を見ながら言い、うどんを食べ始める。

 菜っ葉やニンジン、長ネギなどの野菜を大量に入れた具はいかにも滋養の塊であり、醬油と溶き卵を含んだスープは麺によく合い、味も上等なものである。

 何口かうどんをすすっていると、伊部も右手に鍋を、左手に箸が入ったコップを持って居間に入り、台拭きを挟んで鍋をテーブルに置き、コップも置いてコタツに入る。

 光秋が鍋の中身を見ると、自分が食べているのと同じうどんでる。

「……すみません。どんぶり1つしかなくて」

「いいよ。洗い物が少なくて済むし」

 言いながら、伊部は冷蔵庫からスポーツドリンクを出して自分のコップに注ぎ、光秋の許にペットボトルを差し出すと、鍋に箸を入れてうどんを食べ始める。

―…………まぁ、もともと独り身だし、しょうがないか―

スポーツドリンクを注ぎながらそう思うと、光秋も再びうどんをすする。

 スポーツドリンクを飲みながらうどんを食べ終わると、光秋は風邪薬を出し、コップに残ったスポーツドリンクでそれを口に流し込む。

「ごちそうさまです」

「お粗末さま。思ったより食欲はあるみたいだね」

「えぇ。もともと食べる気はありましたし、こういう時こそ、ちゃんと食べなきゃって」

「そうだね。顔色も昼間よりだいぶよくなってきたし」

「そうですか?……そう言えば、体もだいぶ楽になった気が……薬飲んだし、汗もかきましたからね」

「だね」

 光秋との会話を交わしつつ、伊部は食べ終わった食器を重ねて台所に運び、水盤で皿洗いを始める。

―……これじゃあ姉というより、お母さんだな……病人がそんなこと言ってもしょうがないか―

 皿洗いをする伊部を眺めながらそう思うと、光秋は風呂場に行って歯を磨く。

 磨き終えるとコタツに入り、先程読んでいた文庫本を再び読み始める。

 少しして皿洗いを終えた伊部もコタツに入ってくると、

「僕、そろそろ風呂に入らせてもらいます」

それを見た光秋は本を机の上に置いて言う。

「もう?」

 机の上の6時15分を指している時計を見ながら、伊部は意外そうに言う。

「休みの日は、いつもこれくらいに入りますが」

「でも、風邪ひいてる時にお風呂は……」

「シャワー浴びるだけです。どの道汗かいたから着替えないといけないし」

「それなら、私が拭いてあげるけど」

「!」

 伊部の突然の提案に、光秋は一瞬心臓を跳ね上げる。

「いいですよ!……それに、拭くんじゃなくて流さないとスッキリしないし。すぐに終わらせますから」

 慌てて言いながら額のシートを剥がしてゴミ箱に入れ、コタツを出て下着とパジャマの着替えを用意し、羽織っていたセーターを椅子の背もたれに掛けて廊下に出る。

 カーテンを閉めると、素早く着ている物を脱いで洗剤と一緒に洗濯機に入れ、フタを閉めて回し始めた洗濯機の上に着替えを置くと、速足で風呂場に入る。

―寒い!どの道とっとと終わらせた方がいいなー

 風呂場の寒さに震え上がると、光秋はメガネを外してバスタブの角に置き、シャワーを持って熱さを調整したお湯を頭から浴びる。左手で浴びている箇所を擦りながら体中を浴び終えると、風呂場に掛かっているタオルで体を拭き、蛇口でメガネを軽く水洗いして風呂場を出る。

 メガネや髪を拭こうと着替えを置いた洗濯機の前に向かうと、

―……しまった!バスタオル忘れた―

ハッとしつつ束の間狼狽すると、渋々カーテン越しに居間の方を見る。

―やむを得んか……―「伊部さん」

「なに?」

 カーテン越しに伊部が応じる。

「すいませんが、そっちに掛かってるバスタオル取ってください」

「バスタオル?どこ?」

「壁のフックに掛かってるやつです。テレビの前の」

「あぁ、あったあった」

「ありがとうございます」

 言いながら、光秋はカーテンの端から右手を差し出し、伊部が差し出しだバスタオルを受け取って手を引っ込める。

―……よく考えたら、伊部さんからすれば布一枚隔てた向こうにすっぽんぽんがいるわけだよな。危ない危ない―

 思いつつ、受け取ったバスタオルを首に掛け、水気を拭き取ったメガネを掛けると、髪を軽く拭き、体中の細かな水気を拭き取る。

 下着の上下を履き、水色のチェック柄のパジャマを着て頭にバスタオルを被ると、カーテンを開ける。

「どうも失礼しました」

「うんうん。どうだったお風呂?」

「シャワーだけなんでなんとも。治ったらちゃんと入りますさ」

 伊部と話しつつ、光秋はある程度髪を拭いてバスタオルを壁のフックに掛かっているハンガーに掛け、押し入れからドライアーを出して髪を乾かすと、椅子の背もたれのセーターを羽織り、冷蔵庫から目薬が入った袋を出し、コタツに入って3つある内の1つを左目に注す。

「それ、いつも注してるの?」

 コタツの上の袋と光秋が持っている目薬を見ながら伊部が訊く。

「はい。眼圧を下げるんだって。小学校……3、4年の頃からずっとですかね」

「毎日?」

「えぇ。朝晩2回」

「ふーん……やっぱり、大変なんだ」

「まぁ……」

 伊部との会話を交わしつつ、光秋は2つ目の目薬を注す。

 その間に洗濯が終わり、光秋はコタツから出て大窓の前のハンガーラックに置いてある洗濯かごを取りに行く。

「私がやるけど」

「いいですよこれくらい。大した量じゃないし」―さすがに女の人に下着見られるのも嫌だしね―

 そう思いながら伊部の申し出を断ると、光秋はかごを持って洗濯機の前に向かい、中の洗濯物をかごに移してラックの前に運ぶと、下着類が伊部の目に付かないことを意識して竿の中央に来るように干し、他の物はその両脇に干して全体が密集するように掛けていく。

 全て掛け終えるとコタツに入り、3つ目の目薬も注すと、3つの目薬を袋に入れて冷蔵庫に仕舞う。

「そういえば、熱はどう?」

 コタツに入り直す光秋を見ながら伊部が訊く。

「だいぶ下がったと思いますよ。そんなに熱くないし」

 応じつつ、光秋は額に手を当てて熱さを確かめる。

「そう……念のため体温計で計っとく?」

「いえ、この部屋体温計ないんです。持ってきてないんで」

「そう……じゃあ」

「?……!」

 言うや伊部は右手を伸ばして光秋の額に触れ、光秋は心臓を跳ね上げる。

「うーん……確かに、私とそんなに変わらないかな?」

 左手を自分の額に当てて熱さを比べつつ、伊部は首を傾げながら言う。

「えぇ……まぁ……」

 伊部が手を離すのを見つつ、光秋は若干動揺を浮かべた顔でそれだけ言う。

 と、ベランダに通じる大窓が光秋の視界の端に入り、閉まっているカーテンの隙間からすっかり暗くなった外が見える。机の上の時計に目をやると、7時を指している。

「ところで、そろそろ帰らなくていいんですか?」

「え?まだ7時だよ?」

「でも、外すっかり暗いですし、遅くならないうちに帰った方が」

「でも光秋くん……」

「僕のことなら大丈夫です。体調もだいぶよくなってきたし、後は寝るだけですから。それより伊部さんこそ、半日近く風邪ひきと一緒にいたんですから、伝染(うつ)らないように早く帰って休んだ方がいいですよ」

「そんなに(やわ)じゃないよ……でも、本人がいいって言うならね。それに、季節的にも油断はできないか……わかった。今日はこれで帰るね」

 言うと伊部はコタツから出、壁のフックに掛けてあったコートを羽織って玄関へ向かう。光秋もその後を追う。

 玄関で靴を履くと、伊部は振り返る。

「一応、明日も来るから」

「何時頃です?」

「うーん、遅くても10時には来るかな。呼び鈴鳴らすから」

「わかりました。ありがとうございました」

「じゃあ、お大事に」

「はい。帰り気を付けてください」

 言いながら光秋は頭を下げ、伊部はドアを開けて外に出る。

 ドアが閉まると、光秋は鍵を掛けて居間へ向かう。

―来てくれたのにこっちから帰れって、追い出したみたいで失礼だったかな?……でもま、さっき言ったことも確かだし、明日も来るって言ってるし、いいか―

 一瞬迷ったもののすぐに断じると、コタツに入って机の上の文庫本を取る。

 と、

「……伊部さんが来た、か…………」

伊部が座っていた所を見て感慨を覚えながら呟くと、光秋は本に視線を落とし、8時半頃に就寝する。

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