【完結】祥子が自分だけの世界に逃げ込むお話 作:紫陽花の季節に会いましょう
神祥子リトライ!シリーズは2作目なので、こちらは3作目になります。よろしく!
ーーいつから"そこ"があったのか、自分でも分からない。
"そこ"に居ることを不思議に思ったことも、特別意識したこともなく、ただ"そこ"でピアノを弾いていた。
風がそよぐ。少し湿った風。静寂の湖面を揺らし、運ばれてきた波が足元を濡らす。小川からの流水が小さな滝を作って湖に流れ込む。不思議と足は冷たくなくて、ペダルの感覚も違和感なく鮮明。
木と土の香り。
幼い頃に訪れた避暑地を彷彿とさせる、どこまでも広がる森。湖からの風がひと撫でする度、木々は厳かに静かに合唱する。
日の光はあまり差さない。どこか曇ったまま、鉛色の空はただそこにある。けれどそれでいい。この空間に日の光なんて似合わないし、必要なかった。ただそこは静かで、自分以外誰もいない空間。ピアノのみが寄り添い、睦むことができる空間。
「〜〜〜〜♪ 〜〜〜〜♪」
鼻歌を歌い、ピアノでメロディーを作る。かつて作っていた陽だまりのようなメロディではなく、どこか悲しくて静かで切なくて、仄かに燈るメロディ。
今の旋律はよかった。
指で指示を出すと、影色の少女がやってきて五線譜のみが描かれた数枚の紙が出現する。彼女に礼を言いつつそれらを譜面台に並べていきそのまま鍵盤に触れる。先程のメロディを反芻するように、一つ一つ丁寧に音符を置いていく。何もなかった五線譜に黒いオタマジャクシ達が飛び込んでいく。
「〜〜〜〜♪」
1時間もしないうちに、主旋律とピアノパートが完成する。あとはそこに肉付けしていくだけ。
それから1時間ほどで、何もなかった譜面は総譜へと変わった。達成感はない。ただ思いついたものをメモするかのように、彼女はひたすらに曲を作り続けていく。
ここは何もない世界。
何もなくて、居心地の良い世界。
誰もいない。誰も自分を傷つけようとする者のいない。誰も自分を揺さぶろうとする者のいない。そんな世界。
ふと周囲を見渡すと、鉛色の空の端が広くなっているように見えた。まだ森の奥も、湖の向こう側も行ったことがないけれど、ここで曲を作り続けるのならば行く必要があるのだろうなとも思った。
「それは、また次の機会に」
そろそろ時間だろう。
グランドピアノの屋根を下ろし、シルクの布を鍵盤に被せて鍵盤蓋を下ろす。少し長居し過ぎた。そろそろ初音あたりが心配して声をかけてくる頃かもしれない。
目を閉じて、意識を浮上させる。
大丈夫、そんなに深く潜ってはいないはず。
予想通り意識はすぐに浮上し、目を覚ますとそこは……。
「あ、サキコやっと起きた」
「………………………にゃむ、ですの?」
「いやアタシ以外の誰に見えるわけ? そろそろ撮影再開するってさ」
「……そう。直ぐに身支度を整えますので、先に向かっていてください」
「……………」
何か言いたげなにゃむの視線を意図的に無視して、祥子は鏡面台に向かう。驚くほど顔色がいい。目の下のクマもない。一時期に比べると非常に健康的で健全な生活が出来ている。
体としてはアレで睡眠をとっているのだから、非常に有難い話である。すんと澄ました自分の顔。口元に人差し指を持って行き、口角を吊り上げるように引っ張る。問題ない。今日も完璧な"かみさま人形"だ。
「アンタさ……」
「あら? まだいらしたのですか? ムツミが先に待っているかと思いますので、2人で先に詰めておいて頂けますと」
「ーーーーッ!」
祥子の言葉を遮るようににゃむはツカツカと鏡面台へ乱暴に進んでいき、祥子の腕を掴む。脈を測るかのように、白磁の人形の如き腕の細い血管に親指を押し付けた。
その顔は憎々しげであり、尚且つ恐れを帯びていた。人間じゃないものをみるかのような視線は心外であったが、今の祥子にはなんの気持ちも湧いてこない。
「何か?」
「ーーーーッ!? その目やめてよ。今のアンタ、本当に人間か疑わしくなる」
「人間ではなく神になると宣言したはずですが」
少し前までの苛立ちと焦りを内包した声ではなく純粋に疑問符を浮かべる祥子を見て、やはりにゃむは顔を歪めた。精巧な白磁の人形、プログラムされた会話パターン、組み上げられた人工のナニカと会話している気分になる。
「さきちゃんー! にゃむちゃん! そろそろ時間……あれ、どうしたの2人とも」
「初華、すみません今参りますわ。ほらにゃむ、行きますわよ」
「アタシはーーッ! ……わかった、行くってば」
祥子の無感情な顔を見て暖簾に腕押しなことを悟ったにゃむは、一旦諦めて楽屋から出た。
その後の撮影、表面上はとても和やかだ。初華はいつも通り祥子の隣をキープして満遍の笑みで撮影に臨んでいる。海鈴も睦も、祥子もいつも通り。このあまりにいつも通りな状況は側から見れば望ましいのかもしれない。それでも、
「……………気持ち悪い」
にゃむはそう呟く。
(ウイコは気付けない。舞い上がり過ぎてて何も気付けてない。ウミコにソレを期待するのは無駄だ。ムジカのメンバーで1番そういうのに疎い。ムーコは……)
「祥、髪、跳ねてる」
「あら、本当ですの? 少しお待ちくださいな」
「私、手鏡持ってる」
「いえお構いなく。……本当ですわね、先程の仮眠で変な寝方でもしたのでしょうか」
差し出した手鏡は行き場を失い、睦は無言でそれを引っ込める。祥子は一瞬そんな睦を見たが、何も言わずに自身の手鏡に視線を落とした。その表情からは見事に何も読み取ることができない。
(ムーコは……サキコとの距離が開いた。おかげでお互いに踏み込めなくなってる。少なくともムーコ自身にそのつもりはないんだろうけど、問題はサキコ。明らかに意図的にムーコを避けてる)
かつての睦のようだ、とすら思う。完璧な笑顔を撮影では見せてくれたし、常に穏やかな表情でメンバーに接してくれる。
この状況は確かに都合がいい。
だが、かつての睦の如く祥子の本心が何一つ読み取れない。にゃむにとって無害だと思っていた睦はにゃむを狂わせる規格外の化け物だった。故に、祥子とて何一つ油断はできない。
いやそんなことよりも、にゃむは既に豊川祥子という人間のパーソナリティを知っている。故にこの状態はあまりにも薄気味悪いのだ。分かりやすく余裕がない表情をしていれば幾らでも手の打ちようはある。色んな衝突はあったが、既にムジカしかないにゃむにとって祥子の存在は必要不可欠だ。一丁前に仲間意識も多少はある。だというのに……。
(変な仮面被ってるなよ豊川祥子……。突破口すら見えてこないじゃんか)
にゃむの苛立ちは溜まっていく。その発散先も突破口も見えないままで、暗い迷路の中に1人閉じ込められたような感覚。
だが今のにゃむは1人ではない。ある程度相談できる人もいる。故に行動は早かった。
「ムーコ、ちょっといい?」
帰り際、既に支度を終えていた睦に声をかける。一瞬祥子の動きが止まった気がしたが、直ぐに初華と共に楽屋を出て行った。
「なに?」
「話がある」
「直ぐ終わる?」
「おわんない。そこのカフェで話そ」
夕日を落ちる先、にゃむが指差したのは密談に最適な高めの喫茶店だった。睦は無表情のままコクリと頷く。その様子もまた、気に食わない。
睦は無言で先を歩く。にゃむは色々話しかけるが、何にも反応がない。少なくとも自分とこの少女には以前よりも繋がりーーそれこそ肉体的な繋がりすらあるというのに、そんなもの意味がないと主張しているかの如く、彼女は歩く速度を落とそうとしなかった。
「祥のこと?」
「……わかってたの? 前に悪ふざけした時から、アンタ達ギスギスしてるからてっきり気づいてないのかと」
「アレはにゃむが悪い。私は睦の記憶を持っているから、祥のことが当然大切」
「化け物め……」
「そんな化け物に泣かされている憐れな子猫は、何が不満?」
思いっきり顔を歪めるにゃむと、相変わらず無表情な睦。だが今はそんなことに執着してる場合じゃない。にゃむは表情を戻し、頼んでおいたアセロラジュースを飲み干してから切り出した。
「今のサキコ、どう思う?」
「私は避けられている。睦が消滅してから、私は一度も祥と2人で話していない」
「……その穴埋めをするようにアタシを滅茶苦茶にしてくれやがってると」
「他にもいるから、にゃむに負担は強いてない」
「ーーーーッ! アンタなんか! ……あぁもう! 全然話進まない! 結論から言うけど、今のサキコが本気で怖い。気に食わないより先に怖いが来る。あの時、モーティスに出逢った時とまるで同じ」
忘れもしないあのマスカレード。にゃむの自信を粉々に破壊し、演技まで奪ったあの破壊的なまでの演技力。その時感じた得もしれぬ恐怖感。アレに近しい何かが、にゃむを蝕んでいる。
「………」
「アンタさ。アタシや他のファンをサキコの代わりにしてるくらいだったらさ、さっさとサキコに踏み込んでくれない? 普通に迷惑だよ」
睨みつけ、言いたいことをぶつける。睦はそんな言葉を受けて暫く考え込んでいた。少しだけ眉尻が上がったことを見逃してはいない。
30秒ほど経った頃、睦は再び無表情で言い放った。
「……にゃむ。今日はメソッド演技についてもっと深く教えてあげる。21時に私の家」
「ーーーーッ! ……わか、った……」
八つ当たりじゃん。とか思いながらも、にゃむは必死に睦に食らいついていくしかない。演技のレッスン料としてこの少女に良いようにされてしまうとしても。にゃむはもう、若葉睦から目を離すことなど出来ないのだから。
(もうほぼ枕でしょこんなの……)
芸能界はえずかとこばい。
そう溢すにゃむは、今日も見知った誰かの代わりを求める化け物によって貪られる。何の感情もなく自分を貪る化け物も、そんな化け物に期待してしまっている自分も……まだ、嫌いになれそうになかった。
◇◆◇
「アタシ、ムーコと付き合ってんだよね」
「そうですか」
試すような表情と口調。
文庫本から目を離してにゃむを観察すると、確かにその首元に赤い噛み跡が見えた。それを確認し、祥子は再び視線を落とす。カフカの名作『変身』。既に8割を読み終えていた。
「撮影に差し支えないように隠して頂ければ問題ありません。豊川系列のコンシーラーのサンプルが余っていますので、それを好きに使ってくださいな」
「………それだけ?」
「他に何か?」
「アンタとムーコは幼馴染でしょ? それも、多分ただの幼馴染じゃない」
何が言いたいのか全く分からないという顔をする祥子。そんな表情を見て、更に苛立ちを募らせるにゃむ。
「……ムーコはアンタの半身でしょうが」
「えぇ。わたくしにとって睦は半身。とてもとても大切な存在です。片時も離れずにそばにいたいと思っておりますわ」
その慈しむような表情に絶句する。そんな半身が目の前の女と情事に及んでいると暴露されて、出てくる表情がソレだなんて正常じゃない。
それはもう……。
「アンタ、嫉妬とかしないわけ!?」
「何をです?」
「アタシにだよ! アンタにとってムーコは、若葉睦はその程度なの!?」
「にゃむ、声が大きいです」
「ちょっと前、アンタの目の前でムーコと触れ合った時があったよね。キスしたとか、あれこれしたとか、平然と惚気話をして……アンタは嫉妬も辛さも隠そうとすらしなかった。澄ました顔でトイレまで行って吐いてた! なのにこれは何? アンタ、本当に豊川祥子?」
ソファに触る祥子に詰め寄り、顔と顔が触れそうな距離で睨みつける。睦の言っていた悪ふざけとはこの事だ。祥子が嫉妬するか、試してみたかった。
その結果は言ったとおり。やったことを後悔するくらい、豊川祥子の若葉睦への執着は凄まじかった。嘔吐を繰り返すほどにショックを受けていた祥子と今の祥子がイコールで結びつかない。
今だって目の前の少女は動揺一つせずにゃむを見つめている。睨んでいるのではなくただ見つめている。それがあまりに人間離れしていて、怖くて、畏ろしくて、恐ろしい。
「貴方にとって、今の状況はこれ以上なく都合が良いはずです。これ以上わたくしに何を望むというのです?」
「ーーーーッ!」
「ねぇにゃむ。Ave_Mujicaにあと必要なものは何かしら? 偽りの箱庭が続くのはあと何年? わたくし、それまでは何でもする覚悟ですのよ」
「……………な、に……いっ、て……」
祥子の雰囲気に気圧されて何も言えなくなりつつあるにゃむを見て祥子は一度息を吐き、目を瞑った。
「……………少し仮眠を取ります。深く潜るので、起こさないで頂けますと助かります。あれでしたら先に帰っていていただいて結構ですわ」
そう言って祥子はソファに身を預けて目を閉じる。逃げるのか、などと言うつもりはない。寧ろ見逃されたのはこちらの方。にゃむは彼女の隣にへたりと座り込む。
人形のような女の子だ。当初睦とは違うタイプと思っていたが、段々と祥子も睦に近づいている気がする。覗き込めばそこには際限ない闇が広がっているような気がして、祥子の瞳の奥を覗き込むことをずっと恐れている。
「寝顔は……可愛いんだよね……」
恐るべき速度で眠りについた我らが神の頬を人差し指で突いてみる。起きない。本当に深く眠っているようだ。
「お疲れ様です。おや、豊川さんは仮眠中ですか。今日はこの後予定もないのですから、ご帰宅いただいて構いませんのに」
「ウミコ……」
「困った人ですね。気がつけば仕事をしている。最近の作曲速度・脚本執筆速度は異常です。その割に顔色は良いので、一応休めてはいるみたいですが」
そう言いながら眠る祥子にブランケットをかける海鈴。片腕っぷりが板についてきたらしい。
「何か問題ありそうな言い方じゃん」
「表面上はありませんが、この方は全て自分1人で抱え込む性質を持ってますので。立希さんやどなたかに相談した形跡もないですし」
「サキコの前のバンド、CRYCHICだっけ? それ絡みの問題?」
「CRYCHICは紆余曲折の末、円満解決を迎えたと聞いています。少なくとも立希さん含め現MyGO!!!!!メンバーはそう思っているとのことで」
祥子1人がそれに執着しているか、それともまた別の問題なのか。
とにかく最近の豊川祥子はどうにも気持ちが悪い。あまりにも完璧すぎて、あまりにもにゃむ達にとって都合が良すぎる。悪く言えば張り合いがない。そこまで考えて、自分はあのツンケンしていた頃の祥子を結構気に入っていたのだと思い直す。あの頃はまだ互いの本音をある程度見せ合っていた気がする。
「ヤキモチですか」
「は?」
「豊川さんに本音を話してもらえない事への、過去の自分へのヤキモチ。もしくは若葉さんへの」
「ウミコって本当に人の心が分からないよねー。アタシは別に……」
「傷つきますね。私は、豊川さんの本音を知りたいと思っていますよ。まぁ豊川さんに限らずバンドメンバー全員の、でしょうか」
「……そ」
「私は帰りますね。祐天寺さんも明日の仕事に差し障りのないよう」
「わかってまーす。お疲れウミコ」
テキトーな返事をして、再び祥子の頬を触る。子供のような寝顔だったが、やはりどこか翳がある。にゃむは祥子のこういうところは嫌いじゃない。ただ漫然と引っ張っていくリーダーよりは、こうして何かに苦悩しながら手を差し出してくるリーダーの方が好ましい。
(あー、やめやめ。なんかアタシがサキコのことめっちゃ好きみたいじゃん。こんなとこういこに見られたら命が……あれ)
暗転。
暗転。
暗転。
視界がぐるりと切り替わる。
初めは停電でも起きたのかと思った。
けれど違う、この空気感、この音、この匂い……ここは外だ。野外だ。それも……どこか森のような……。
「な、に……ここ」
どこまでも淀んだ灰色の空。暗く深い森。土の匂いと木の匂い。落ち着く香りなのに、どこか不安になるのはこの空間がどこまで続いているか分からないからだ。
「舞台のセット……じゃない。これ、本物だ。え、じゃあ何ここ……どこ!?」
周囲を見渡す。一面の森。だが微かに自然の音とは異なる音が紛れ込んでくる。
これは……ピアノ……?
にゃむはこのピアノに聞き覚えがあった。この音色、この捌き方、速度……そして楽曲。間違いなく豊川祥子の音だ。
「サキコー? いるの?」
どれくらい歩いただろう。
"そこ"は、一枚の絵画だった。
湖面に反射した少女の姿を見て顔を上げると、湖に似つかわしくない大きなグランドピアノが設置されていることにまず驚く。ピアノに音色を、声を吹き込む儚く美しい女の子。そんな周囲はあまりにも空想染みていて、自分は夢でも見ているのだろうか、と思わず爪で腕に痛みを与える。
「〜〜〜〜〜〜♪」
少女の唄う主旋律に合わせて、凄まじい速度でピアノが奏でられていく。それだけでなく、少女の周囲で五線譜と音符が飛び交い、譜面台に置かれた楽譜へと飛び込んでいく。
幻想的。彼女の優しい歌声も相まってそう感じる。普段なら初華が唄う筈のパートを祥子が1人で唄う。勿論歌詞も何もない鼻唄。けれど、どうしてか胸を打つ。あるはずのない歌詞がにゃむの心を震わせる。
呼吸を忘れた。
それに気付いて酸素を吸い込む。そうしてようやく、自分が今どこにいるのかという疑問に立ち向かう必要があることを思い出す。
にゃむの存在に気づかずにピアノを弾き続ける彼女を置いて、ピアノの周囲を探る。
鉛色の空と、暗い森と、静かな湖。ただそれだけ。だがそんな湖と森の境界線に、少しだけ大きな石が積み上げられていることに気付く。ふと気になって近づいた。
あと5メートル。
あと3メートル。
あと1メートル。
「ひぃっ! こ、れ……」
それに近づき、それの正体に気づいた瞬間……にゃむは小さな悲鳴をあげた。3つの石には子供のような文字で、
ーーおかあさまのおはか
ーーおとうさまのおはか
ーーむつみのおはか
と書かれていた。
それだけでも驚愕なのに、さらに隣の石には……。
ーーわたくしのおはか
「にゃむ……? どうしてここに?」
そう不思議そうに呟く少女ーー豊川祥子の瞳は、底が見えないほど何処までも深く深く果てしない闇が広がっていた。