【完結】祥子が自分だけの世界に逃げ込むお話   作:紫陽花の季節に会いましょう

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2話:ここから消えて

 睦が消えてしまった。

 

 恐らくその時に、この心も一緒に砕け散ったんだと思う。

 睦じゃないムツミがそこにいると分かった時、祥子はもうどうしていいか分からなくなった。ただ自分は明確に選択を誤ったのだと悟る。

 睦に幸せになってほしかった。睦と幸せになりたかった。あり得たかもしれない未来に想いを馳せ、どうしようもない現実に絶望する。

 

「ムーコってば、やめてよこんなところでさー。昨日だって散々楽しんだくせに」

「………にゃむは、ただ泣いてただけ」

「一回グーで殴るよ?」

「その分は今日のレッスンでお返しする」

 

 睦とにゃむのやり取りを見て、悟る。

 

 ーーああ、もう睦はわたくしの睦ではなくなったのね。

 

 その事実に耐え切れず、トイレに行くふりをして胃の中のものを全部吐き出す作業をする。涙も、胃液も、鼻水も、すべて出し切っても心の膿は出し切れず、じくじくと胸の辺りに巣食っている。

 睦の顔をした別人が、祥子に執着しないお人形が、そこに佇んで他の人と触れ合う姿に吐き気がする。けれど、あの子を壊した自分にそんな嫉妬心を抱く権利はない。その罪悪感がより一層祥子を苦しめた。

 

 苦しい。

 苦しい。

 苦しい。

 

 初音との生活は悪いものではない。だが彼女は祥子を知らない。祥子の弱さを知らない。祥子の過去を知らない。CRYCHICを……知らない。

 初音に見せられるのは"これから"の豊川祥子であり、"これまで"の豊川祥子ではない。燈たちと袂を分かった今、それが共有できるのは睦だけの筈だった。

 

 もう誰にも頼れない。

 もう誰にも望めない。

 もう誰にも縋れない。

 もう誰にも理解されない。

 もう誰とも分かり合えない。

 

 だとすれば自分でやるしかない。勝負から降りる選択肢はとうの昔に消え去って、この道を歩き続けるしかなくなっている。理想の生き方も理想の関係もその全てが霧散し、今歩いているのは理想とは程遠い醜くて暗く穢い道だった。

 心が壊れるのは別にいい。

 けれど、それがAve_Mujicaに影響してはいけない。にゃむにも、海鈴にも、初音にも、ムツミにも、迷惑はかけられない。祥子は彼女たちの神で箱庭の守護者なのだから。

 

「深く、深く、潜りたい」

 

 目を閉じてあの空間に逃げ込む。祥子は自分の逃げ癖に自覚があったけれど、こればかりは許して欲しかった。寧ろこれは逃げないための措置なのだから。

 今度はどんな責任からも逃げずに運命に立ち向かう。そのために、立ち向かうための準備をするために、この空間は必要だった。

 

「…………………ぁ」

 

 ピアノを挟んで森と湖は分たれる。そんな森の方にはお墓が立ち並んでいる。

 一つはお母様。もう一つはお父様……これは、優しいお父様という意味でのお墓。そしてもう一つの名前に気づいた時、祥子は妙に納得してしまった。

 

 ーーむつみのおはか

 

 睦はここにいる。ここで眠っている。ならばと思い、祥子は指で指示してもう一つ小さな墓標を出現させた。

 

 ーーわたくしのおはか

 

(これでずっと一緒。わたくしと睦は一緒、ここで一緒、ずーっとずっと一緒。いっしょ、いっしょ。わたくしは睦を抱えて生きていく)

 

 愛おしそうに墓石を撫でる祥子。

 だが次第に目からは大粒の涙が零れ落ち、呼吸も上手くできなくなっていく。同時に、本音がこぼれ落ちていった。

 

「睦……むつみ……わたくしは……わたくしは……どうやって生きていけばいいのでしょうか……。貴方を失って、貴方をこんな風にしてしまって、どんな顔で生きていけばいいのでしょうか……」

 

 墓石に縋り付くようにして泣き崩れる祥子に、誰も答えてはくれない。

 

「消えて、しまいたい……」

 

 ぽつりと溢すその言葉。

 この本音を実行に移すことはない。それは祥子ーーAve_Mujicaの神の意志に反する。神と人の意思が反している場合、祥子は神の意思を優先しなくてはならない。

 まるで睦のようですわね、と自嘲する。神の祥子と人の祥子。2つの人格がいて、それぞれに別々の意思を持っている。ただ睦と違うのは、神祥子は人祥子の"あるべき"を偶像化させているだけの人格ということだ。そこにモーティスと睦のような互助関係は存在しない。

 

 ーー神は、神を信じない人を救わない。

 

 戻ろう。

 弱い自分、悲しみに沈んだ自分、消えてしまいたい自分はここに置き去りにしていくべきだ。ここは全てを吐き出せる場所で、全てを投げ出せる場所。無責任な自分に絶対に必要な場所。

 ここから戻れば、祥子は神でいられる。ここは神が作ってくれた聖域で、弱い祥子の隠れ家なのだから。

 

 だから、にゃむが来てしまっては困るのだ。

 

◇◆◇

 

「……サキ、コ」

「………………。にゃむ」

「え、う、うん」

「帰りましょう。貴方がここにいるという事は、まだ事務所ですわね? そろそろオフィスも閉まる頃です」

「え」

 

 祥子はにゃむの手を取ると、そのまま森に向かって歩き出した。にゃむはなすがままだったが、途中で気づいて手を振り解く。

 

「ちょっと!」

「……どうかしまして?」

 

 その不機嫌そうな祥子を見て、ひどく安心する自分がいる。ああ、ここにいるのは紛れもなく豊川祥子だ。それも、人間の豊川祥子だ。

 常に余裕がなさそうで、必死で、もがいて足掻いて、誰よりも苦しそうで、誰よりも悩んできたAve_Mujicaのリーダー。消えてしまったと思っていた、あの強がりな女の子だ。

 

「ここ、どこなのさ。説明くらいあっても良いんじゃない?」

「必要ありません。貴方がここにいる事自体が異常なのです。お見送りはいたしますので、ついてきてください」

「いや気になるでしょ。ここ凄くない? めっちゃ静かっていうか、めっちゃ暗いし。夢の中?」

 

 わざとらしく話を引き延ばそうとするにゃむを見て、祥子は苛立ちを隠そうともしなかった。

 

「なにをしに来たのですか」

「しーらない。眠ってる祥子に触れて、気づいたらここに居た。ていうかサキコのその感じ、久しぶりに見た気がする。そっちの方がいいよ、なんか安心する」

「……て」

「なんか気ぃ張って神様やってるみたいだけどさ、もうちょっと肩の力を抜くというかさ。もうちょっと曝け出してくれても」

「やめ、て……」

 

 にゃむは思わずぎょっとした。

 祥子の顔が歪んで、既に泣きそうな顔になっていたから。本当に心の底から苦しいと主張するように。

 

「これ以上、わたくしを人間にしようとしないで」

 

 そこに居たのは……とても弱々しいただの女の子だった。

 生まれの関係上実は一歳差のある少女が、自分の弟たちより更に幼く見える。出会った頃より不安定な女の子だと思っていたが、今は更に薄氷の上に立っているような気がして、にゃむは思わず祥子に手を伸ばし……。

 

「消えて」

「………え?」

「ここから消えて!」

 

 叫び声と共に、視界が暗転する。

 

 暗転。

 

 暗転。

 

 暗転。

 

 気づくとそこは、事務所の一室。思わず周囲を見渡す。すぐ隣には、すやすやと可愛らしい寝息を立てて眠る豊川祥子の姿があった。

 先ほどの光景を思い出す。

 最後に見たのは必死に、傷つけられたくないと必死に叫ぶ幼子の姿だった。

 

「サキコ……あんた……」

 

 幼子のように眠る祥子を前に、にゃむはなにも言えなくなった。再び祥子に触れて目を閉じるが、待てども待てどもあの世界は現れない。

 いや、なんとなくは理解している。にゃむはあの世界に拒絶されたのだ。豊川祥子に拒絶されれば、もうあの世界には入ることができない。なんとなくそんな想像が頭をよぎった。

 仕方ないので祥子を起こすことにした。何度か肩を叩き耳元で声をかけてあげると、うぅと呻き声を上げたのち祥子は目を覚ました。

 

「………………にゃむ?」

「はいそうでーすにゃむちです。さっきはよくも叩き出してくれたじゃん」

 

 開口1番に嫌味を言ってやったのだが、祥子は何事もなかったかのような表情で、

 

「なんのことです?」

 

 と言い放った。

 すっとぼけているようには見えない。本当にあの夢の中での出来事を覚えていないような様子だった。

 

「サキコ、あんた大丈夫?」

 

 具体性も何もない言葉。あの夢の中の祥子なら少し不機嫌になりそうな物言い。

 だが目の前の少女ーー神様は何も思わない。不機嫌にもならず、誤魔化そうともせず、ただ笑顔を作って言った。

 

「よく分かりませんが、どうもありがとう。にゃむ。さぁ、帰りますわよ」

 

 完璧な表情。

 完璧な態度。

 完璧な受け答え。

 神様でいることを選んだ少女の覚悟の結果。にゃむにとって都合のいい神様、豊川祥子。

 だがそれを見てやはりにゃむはこう思うのだった。

 

(ああ………気持ち悪い………)

 

◇◆◇

 

 Ave_Mujicaのツアーが決まった。前回のツアーがあんな結果になったから開催出来ないのではないかと危惧されてもいたが、豊川祥子の手腕によって実現の運びとなる。

 それに合わせて練習量も増え、各仕事内容もAve_Mujicaに注力するものへとシフトしていった。

 

 現在ムジカの顔は女優として活躍中の若葉睦と、活動休止をせずに存続することとなったsumimiの三角初華だ。だがその状況で更に、世間の注目はAve_Mujicaのリーダー:豊川祥子へと集まるようになった。

 弱冠15歳で商業バンドの総指揮を行い、作曲・演出・脚本を手掛ける豊川グループのご令嬢。本人も見目麗しく、かつ音楽業界屈指のキーボーディストとして圧巻のパフォーマンスを魅せている。一時期は世間のバッシングの対象ともなっており、良くも悪くも注目の途切れない少女だった。

 

 必然、本人への取材やモデルの撮影と言った依頼が舞い込むが、祥子はそれを拒否していた。Ave_Mujicaの世界観を保つため、神である祥子だけはその神秘のヴェールを脱ぐわけにはいかない。

 世間の声は賛否両論で、圧倒的才能に絶賛する者もいれば、お高くとまった我儘姫のバンドごっこと非難する者もいる。事務所には定期的に誹謗中傷の手紙も送られてきており、その対応は悩みの種ともなっていた。

 

「さきちゃんのこと悪く言うやつは許さない……」

「初華、貴方アイドルがしてはいけない顔をしてますわよ」

「豊川さんは平気そうですね」

「ええ、まぁ、Ave_Mujicaの話題作りにもなりますし。日常で害を与えられたら少しセーブするようにしますが」

「……………」

 

 本気で何も感じていないような回答を受けて海鈴は押し黙った。その回答ではまるで……。

 

(やはり、豊川さんはヘイトコントロールをしている。注目を集めるような動きはこの為ですか。恐らく他のメンバーを守る為なのでしょうが……)

 

「襲われたりしたら、よくない」

「その時は記者の皆様が良い記事を書いてくれることを期待しますわ」

 

 あまりにも自分を顧みない言動に初華は限界を迎えていた。

 

「さきちゃん!!! そういうのやめて! 私心配だよ、さきちゃんがもし……もし……う、うぁ、ぁぁ」

 

 嗚咽を漏らす初華を見て祥子は素早く立ち上がり、彼女の肩を抱く。

 

「ごめんなさい初華。わたくしが悪かったですわ。今後は少し気をつけるようにいたしますわね」

「う、うん! 約束だよ?」

「ええ、勿論」

 

 初華の頬に手を添えて頷く祥子。初華の瞳はとろんとしていて、祥子の異常性に全く気付けていない。海鈴は内心危機感を募らせる。

 豊川祥子は自分の生き死にに全く興味がない。

 それはAve_Mujicaの神としては理想的な姿なのかもしれない。けれど海鈴はAve_Mujicaをそんなバンドにするつもりはなかった。残りの人生をベットしたのだ。そんなバンドに誘ってくれた祥子に対してある程度の情もある。他3人と違って、Ave_Mujicaを失えば何も残らない海鈴はこの状況を非常に恐ろしく思っている。

 

「と、いうことで、なんとかなりませんかね」

「ちょっと……もう乗らないんだけど」

「おや、3個が限界でしたか」

「早く退けてくんない? ……で、祥子がなんだって?」

 

 頭に3つもの紙パックを置かれてそろそろ苛立ちの溜まっていた立希は鬱陶しそうに海鈴に尋ねた。

 

「最近絶好調です」

「へー、良いことじゃん」

「ええ。バンドとしては良い流れです。ですが、豊川さん本人の話で言うとそうでもない」

「……………どう言う意味?」

「最近の豊川さん、人間じゃないんですよ」

 

 一瞬の静寂。立希は海鈴の言ったことが理解できなかった。

 

「人間らしさがまるっきり欠落している。時折見せる表情は全て作り物。アンドロイドを見ている気分です」

「残念ながらちょっと前の海鈴もそんな感じだったけど」

「ですが豊川さんがそんな人じゃないことを立希さんならご存知でしょう? 私はあの人の極端なまでの不器用さは、困ったことに嫌いじゃなかったんです」

 

 海鈴がそんなこと言うなんて、と立希は目を丸くする。だが海鈴は至って真剣だ。せっかく自分の居場所になれそうな場所になりつつあるのに、肝心の創設者が人間じゃなくなりつつある今、偽りの永遠は海鈴にとって居心地が良い場所ではなくなりかねない。

 

「協力してください立希さん。はっきり言って今の豊川さんは異常です。私は……なんとかして差し上げたいと思っています」

「……………わかった。私も思うところがあるし、協力はする。他のメンバーにも相談するけどいい?」

「願ってもないことです」

 

 立希は即座にMyGO!!!!!グループにメッセージを打った。同時に、海鈴にも一通のメッセージが届く。

 

「サキコのことで、話がある」

 

 それは、海鈴と睦とにゃむの3人グループだった。自分たちだけの世界に入りがちな初華と祥子を除いた謎グループ。このトークを使ったことはあまりなかったが、珍しく動くこととなった。

 ムツミの反応はなかったが、海鈴は即返信する。にゃむも何かしら今の現状に違和感を抱いているのだと知って少しだけ安心した。

 

「では今日の放課後」

 

 祥子の外の世界で、物語が動き出そうとしていた。

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