【完結】祥子が自分だけの世界に逃げ込むお話 作:紫陽花の季節に会いましょう
生きてく。生きてる。
ただ息を吸って吐くだけをそうなのだと言うのならば、自分はまだ生きている。
生きてく。生きてる。
幸せを求めて日々を暮らすことをそうなのだと言うのならば、自分はもう死んでいる。
生きてく。生きてる。
全部を拾い集めようとして、本当に大事なものを見失い見落とし諦めてしまった自分は、やはり死んでいるのだろうか。
誰も彼も周りの人たちは死に向かってしまって、自分は1人砂漠に取り残されたみたいに孤独だった。1人になると色んなことを考える。それを紛らわすために仕事をする。生活をする。生きることは忘れることで、けれどこの気持ちを忘れたくない自分はきっと生きるのには向いていないのだろう。人間には向いていないのだろう。
「人間に、なりたい」
そう叫んだ思い出も遥か彼方。自分はまだ過去に生きている。弱い自分のまま生きていくには、これくらいのスペースがあれば充分だった。
湖の水を掬い上げると、水面が綺羅綺羅して手招きをする。何も感じたくなくて、祥子は湖にゆっくりと浸かっていく。
仰向けにゆったりと泳ぐ。オフィーリアに見えるだろうか。最近『ハムレット』を読み返したのを思い出した。だとしたらここには緑色が足りない。あの子の瞳と同じ緑色が。
そうして念じると、水草が周囲に咲き始める。あの子の色があるだけで、祥子は安心して眠ることができそうだった。
ーー水葬。
その言葉に沿うように、祥子は胸の前で手を組んで眠る。昔はあれだけ恐ろしいと感じてきたオフィーリアの姿も、今こうして重ねてみると悪くない気がした。今なら溺死を肯定できる。
深く深く思考が沈んでいく。
何も考えたくない。
ただ、睦に会いたかった。このまま沈んでいけば、睦に会えるだろうか。お母様に会えるだろうか。
それがいけない事だと分かっていても、祥子は止めようとはしなかった。まだ、神の自分がなんとかしてくれる。ならば、人の自分にも好きにさせて欲しい。死なない程度に。
「……………………ぁ」
湖の中は思ったよりも綺麗だった。
湖面を覗き込んだ時は何も見えなかったのに、こうして泳いでみると驚くほど透明だった。ゴミ一つない。自分の心はこんなに澄んでいないのに、と思いながら泳いでいるとある一つの仮説に辿り着いた。
(まさか…………)
この湖がどこに繋がっているのか、祥子は考えたこともなかった。ここが祥子の心象風景なのであればこの湖は特に広がりもせず小さな世界で終わっていたはずだ。
だが実際には湖が広がり続けている。つまり、どこかに繋がっている。今も広がり続ける何処かに。それが何処かなんて一つしか思いつかなかった。
泳ぎ続ける。
下がらない体温を感じながら透明な世界を泳ぐ。きっとどこかにあるはずだ。どこかに。どこに? どこかに。必ず。
ーー光が見えた。
岩と岩に挟まれた細い空間、そこから小さな光が差し込んでくる。同時に、パラパラと何か大きなものが落ちてきた。
木屑だ。
壊れた木材が水中に漂っている。
というか、木材が一気に祥子の頭上に投げ込まれていく。
「ーーーーッ!?」
木材にぶつかって沈んでいく祥子。途端に息が出来なくなっていった。あれだけ無意識に呼吸していたのに。
息が苦しい。
思考が回らない。
ああ、死ぬのか、と思った。
ようやく解放される、とも思った。
先ほど溺死を肯定したばかりだ。ならばこの最期は自分にとって納得のいく最期かもしれない。あとは自我を持たない神様の自分がうまくやるだろう。肉体的な死を迎えるまで、上手い事ムジカを続けてくれるはずだ。
そう思って目を閉じて……。
「なんで祥子ちゃんがこんな所にいるわけ!? 馬鹿なの!?」
懐かしい声がした。
懐かしくて、今最も追い求めていた声。やっと辿り着いた。やっと彼女の元へ。であればきっとお母様も……。
そう思っていたのに、彼女は祥子の手を引っ張り上げると慌てて水上の光を目指して上昇し始めた。抱きしめられた時の感覚が懐かしくて、祥子は再び目を閉じた。
◇◆◇
どのくらい眠っていただろうか。
なんだか唇に柔らかい感触を感じて、身体中に息吹が吹き込まれる感覚で急に脳が活性化していった。
「……ごふっ、がふっ、ぉぇ、ぁぁっく、ごほっ、ごぼっ、がはっかはっ、ぁ、はぁ、はぁ……はぁ……ここ、は……」
口の中に入った水を吐き出し、朦朧とした意識で周囲を見渡す。どこか室内のような、暗い空間だった。壊れかけたシャンデリアがライトの役割を果たしてかろうじて周囲の状況だけはわかる。
「起きた?」
「ーーーーッ!!!」
振り向くと、そこには……あの子がいた。
不機嫌そうにこちらを見つめる顔は、何故か少しだけ赤くなっている。彼女もすっかり濡れてしまっていて、なんだか少し寒そうだった。
祥子は彼女が睦でないことを察している。けれど祥子にとって彼女は幼少期から祥子のことを知ってくれている"幼馴染"に代わりはなくて。
だから、思わず抱きしめた。
「ちょ、ちょっと!? 祥子ちゃん! 私違うから! 睦ちゃんじゃないから! 離してよ気持ち悪い!」
「えぇ、えぇ、わかって、ます。わかっています。けれど……また会えて嬉しいですわ、"モーティス"!」
モーティス。
幼少より明るく喋っていた方の睦の人格。最近は睦の嫌なことばかりを押し付けられていた可哀想な人格。祥子を懲らしめるために飛び出してきたのに、加減を間違えて祥子を折ってしまった結果Ave_Mujicaが解散してしまい存在意義を失った哀れな人形である。
モーティスは祥子のことが嫌いだと公言している。実際抱きついてくる祥子の背中をバシバシ叩いて引き剥がそうとしたが、祥子が自分の胸の中で泣いているのだと気づき、仕方なく諦めた。
「服、汚れるんだけど」
「ごめん、なさい……わたくしは……貴方を殺そうとした、のに……ごめんなさい」
「ほんとだよ祥子ちゃん。私も一応幼馴染なのによくもあんなこと言えたよね。ほんと信じらんない!」
「……ううっ、ぐずっ、でもわたくしは……わたくし、は……」
「睦ちゃんのためを思ってたんでしょ。そんなの百も承知だから。その上で私祥子ちゃんのそういうとこすっごい嫌い」
そんな感じで祥子が泣き止むまでずっと嫌い嫌いと言い続けていたモーティス。祥子もようやく落ち着いてきたのか、顔を上げてモーティスを見た。
「少し、大人びましたわね」
「祥子ちゃんは幼くなったよね。ていうか寒い! なんか持ってないの!? あ、出来ればお菓子も食べたい」
「少し待っていてください。ここがまだわたくしの夢の延長上にあるのなら………はい、お茶とクッキー、椅子とテーブル、それにタオルと暖炉も出しましょう」
祥子が指示を出すと、廃墟のような空間は一瞬でお嬢様の自室へと早替わりした。暖炉の火が水に濡れた2人を温める。祥子は特に寒くなかったが、モーティスはどうやら寒いらしかったのでこれでよいだろう。
ティーポットからカップへ紅茶を注ぐ。恐らく必要になるだろうと思ってミルクと角砂糖も一緒にモーティスの元へと出現させた。
「……なにこれ、私こんなの出来ないんだけど」
「あら、そうなんですの? わたくしのお気に入りです、貴方も好きな茶葉とクッキーですわよ」
「…………美味しい」
「よかった」
そう言って微笑む祥子を見て、モーティスは何故か顔を赤くしてプイッとそっぽをむいた。何事だろうと思案して……なんとなく理由が分かった気がした。
「そういえばモーティス」
「なに」
「わたくしに蘇生措置をしてくださいました?」
「ーーーーッ!!! 祥子ちゃんほんっっっとに嫌い! 分かってて聞くんだもん! 性格最悪! 私だって祥子ちゃんとチューなんてしたくなかったもん! でも仕方なかったんだから!」
「何を今更。幼い頃に何度かしたことがあるでしょう」
「祥子ちゃんのデリカシーは幼少期で止まっちゃってるんだね!? これからその感じでやってったらいつか刺されるよ? 刺されちゃえ!」
「これからなんて有りませんわ。貴方が刺してくださるなら別ですが」
「いーやー! ……………ていうか、祥子ちゃんは早く帰りなよ」
祥子の発言を受けて、モーティスは不機嫌そうな顔になる。
「これからが無いって何? ここから帰らないつもり?」
「……………………」
「やめてよ気持ち悪い。私に同情でもしてるの? なんかすっごい嫌」
「……貴方は何故ここに? ここで何をしているんですの?」
モーティスはドボドボと紅茶に角砂糖を入れ、大量のミルクを注ぎ込む。それをそのまま飲み干してから答えてくれた。
「睦ちゃんと一緒に消えちゃったと思ってたのに、目を覚ましたら此処にいたの。ここは舞台でも客席でもない、なんていうんだろうね、奈落の底? ゴミ箱? よくわかんないけど、行くあてもないから此処でずーっとお世話してるの」
「……………………おせ、わ」
「あ、変な期待はしないでね。睦ちゃんならそこに居るけど、もうずーっと起きてこないから」
「………………え?」
モーティスが指差す先。そこには大きな大きな棺が置かれている。椅子から立ち上がり、ふらふらとそこへ向かって歩き出す祥子。恐る恐る棺桶の蓋を開けてみると、
「むつみ!!!」
睦がそこで眠っていた。
息をせず、脈も動かず、されど腐らず。
死んでいるともいえず、されどこの状態を生きていると言うのも憚られる。だからモーティスは最初に忠告してくれたのだろう。
人形のような睦の頬をひと撫でする。冷たかった。けれど睦は確かにここに存在していて、今祥子の指先に触れている。それだけで祥子は少し救われたような気がした。
「もう………会えないものかと………」
「…………」
「睦……睦……睦ぃ……ぁっ、くぅ、ううっ、うぁ、あああぁ、あああああああああああああ!!!」
睦を抱きしめて大きな声で泣く祥子を、モーティスは何も言わずに見つめていた。
◇◆◇
それからというもの、祥子が潜る頻度は増えていった。夢に潜り、更に湖の奥深くに潜る。それが何を意味するのかは自分でも分かっていた。
ーー死に近づいている。
けれど祥子にはもう止められない。ここにいけば彼女に会える。睦に、モーティスに会える。
会いに行くたびモーティスは凄く嫌そうな顔をしたけれど、寂しがり屋な彼女は祥子を拒否しなかった。嫌い嫌いと言いながら祥子を迎えてくれるのだ。そんな空間が居心地良くてついつい長居してしまう。
その結果、現実の祥子はより一層完璧性を増していった。
ムジカのツアー開始で忙しくなる中、勉強・仕事・音楽活動の全てに抜かりがなく、Ave_Mujicaの人気は盤石なものとなっていく。
「アパレルのコラボ依頼が来ておりますので、撮影のスケジュールを空けておいてくださいな」
「わあぁあ! さきちゃんの衣装凄くいいよ! 可愛い!」
初音は相変わらず祥子と仲睦まじそうだが、実際のところそこにいる祥子は神祥子であり、人間の祥子が今もあの世界にいることが推察された。
あの後、海鈴と立希から初音へとその話が伝えられた。だが祥子を神聖視する初音には祥子の現状がいまいち理解できずにいる。最も手っ取り早いのはあの世界に入ってしまうことなのだが……。
「入り方がわからないんだよね?」
「えぇ。それに入れたとしても祐天寺さんのように追い出されて2度と入ることのできなくなるというリスクもあります」
「難しいね……さきちゃん自身もその記憶はないらしいし」
花女三銃士は屋上で弁当を突きながらうんうん唸っていた。最近はよくこの3人でお昼を食べることが多い。と言っても初音はムジカのツアーやsumimiで忙しく、登校自体が多くないのだが。
一方海鈴は存外時間が取れている。というのも彼女は八幡海鈴としてモデル売りをしていないのだ。30近いバンドを脱退した結果、海鈴がムジカで最も暇になっていた。
「高松さんは何か言っていましたか?」
「燈と愛音が調べてくれたけど、祥子のやつ授業中以外は全部睡眠に費やしてる。そもそも学校で話せるやつ居ないらしいからってのもあるんだろうけど」
「豊川さんってボッチなんですか?」
「海鈴ちゃん……言葉を選ぼうね……。さきちゃん、多分高校自体そこまで重要視してないんだよね。ムジカとか、豊川家の方に時間を割かなきゃだから。それに……」
「それに?」
「変に関わると人を不幸にしちゃうって言ってた。……そんなこと、ないのにね」
初音はシュンとしながら立希のお弁当箱に箸を入れる。
「ちょっと!? 何どさくさに紛れて食べてんの!?」
「あ、ごめん。野菜苦手なのかなって……」
「いやまぁ……うん。……ってああああ! そうじゃなくてさ! このままじゃ全然何も動かない! 海鈴、やっぱり祥子の世界に入ってみてから考えない?」
「しかしそれでは」
「私、海鈴、三角さん、愛音、そよ、燈、ムツミ。追い出されたとしてもチャンスは7回ある。情報を持ち帰って次に繋げる戦略が取れる。違う?」
「………………」
「少なくとも、現実にいる神祥子と話しても事態は進展しない。三角さんは何回も試したんだよね?」
「うん。さきちゃん、その世界のことも何も知らないって。最近は本当に顔色も良くて、苦しそうな顔も見せなくなってて。だから私……まだ信じられないんだ。さきちゃんの世界のこと」
これは嘘。
初音は、祥子の苦しみに心当たりがある。祥子ならそんな空想じみた世界を作ってしまえそうなことも、なんとなく分かってはいる。
ただ信じたくないのだ。
一緒に暮らして少しずつ笑顔が増えてきた祥子。その裏で本当は苦しんでいてその世界に逃げ込んだのだとしたら……。
(私じゃ、さきちゃんを救うことは出来ないの?)
祥子こそが初音の存在理由。祥子のために全てを捧げる覚悟なのに、未だに初音は祥子の助けになれていない。それが事実だとしたらどうにも歯痒くて悔しくて、苦しい。
「私も正直その世界については半信半疑。だから、一回確かめたいんだ。何かその時の状況とかってわからないの?」
「祐天寺さんが入った時ですか? 眠っている豊川さんに触れたら入れたと仰っていましたね。取り敢えず、試してみます?」
「は? え、何する気?」
「決まってるじゃないですか。事務所見学ツアーです」
海鈴は事務所のカードキーを取り出し、不敵に笑って見せた。