〈エーテルライダー〉外伝

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夏草の揺れる丘

 甘く濃い風が、丘の上を通り抜けていった。

 

 丈の高い、褪せたみどりのレト草が、天からの白い光を浴びて揺れている。

 もう夏も盛りだ。丘のてっぺんには年老いた樹が腰を曲げていた。そのでこぼこした樹皮の上で、橙色の蝶が休んでいた。

 ヴィヴラートは草をかき分け、丘を上った。足元のしめった土の驚くほどの黒みが草原のみどりと強烈なコントラストになって目を刺す。右手に握った風読み杖(フローチューナ)の丸くなめらかな先を掲げると、それは薫風のなかでオカリナのようにあたたかく鳴った。

 丘を越えると、その先はもう崩れ落ちている。

 

「やはり、止められないか」

 さっきまでの黒い土とは違う、赤褐色の岩が骨のようにあらわになった断崖を見下ろして、ヴィヴラートは呟いた。また崩土がひどくなっている。おりしも今、拳大の石ころがひとつ丘の骨から剥がれ落ちて、はるか下の奈落へと転がっていった。いくつも突き立てられた銀の大地錨(グランドアンカー)も、まるで役に立っていやしない。

 夏空には大陸のような積乱雲がそびえていた。丘の下にも。大地の途切れた先には、目の醒めるような空の青色が広がっている。

 ここは大地の果てなのだった。空が大地と出会うところ。地平線の限界点。

 

 ヴィヴラートは丘の上に立って、それを力なく見つめていた。

 腰につけた携帯無線機(コンパクト・ボックス)がそのとき、息を吹き返した。

『――これにより、南からの高気圧の発達に伴って大気中のエーテル濃度が上昇する見込みです。第一波は早ければ今日の真夜中にもニューローズ州の南端に到達する可能性が――』

 ヴィヴラートは目を細め、踵を返そうとした。南の空で雲の山脈がゆっくり渦を巻いている。ひょっとすると、今夜は天気が崩れるかもしれない。家の窓に支えをしなければ。それに、畑の覆いを強めておく必要もある。

 しかし、雲。その真ん中でなにかがチカッと光った。

 ヴィヴラートは足を止めた。あの輝きは知っている。かつて、町にいた頃にはよく見ていたものだった。

 

 あれは滑翔機(ライダー)の光だ。

 その滑翔機は空と同じ青色だった。コバルト・ブルーの翼が大気中のエーテルに電荷をかけ、鮮やかな虹の色に変えている。吹きすさぶ風の輪郭を虹色に刻みながら急速にこちらへ近づいている。

 ヴィヴラートは身体を半身にして後ずさった。この辺境に飛んでくるものは多くない。難破船か、世捨て人ならまだいい。賊だった日には目も当てられぬ。

 だが、コバルト・ブルーの滑翔機は突然ひらめくように腹を仰向けた。

 風に乗り損なったのだ。エーテル反応光が断末魔のように燃え上がり、機体はぐんぐんと地表に向かって墜落し始めた。

 あまりのことに、少し躊躇ってからヴィヴラートは逃げ出した。幸いというべきなのだろうか、滑翔機は丘のはずれに落ちる様子だった。落下傘を開くふうがないのをヴィヴラートは少し訝しんだ。

 滑翔機はエア・ブレーキも使わず、逆噴射もしないままに地上へ激突した。虹色の光が針のように突き立って、土色の煙に飲み込まれていった。銀のワイヤーを引きちぎられた大地錨(グランドアンカー)の一基が悲鳴を上げてどこかへ吹き飛んでいった。

 

 ヴィヴラートはおっかなびっくり、老木のかげから顔を出した。

 あたりには土の匂い、そして木の葉の焼けるような滑翔機特有のにおいが立ち込めていた。電気のはぜる音がする。

 滑翔機は完全に大破していた。

 壊れたエンジンが露出している。両の翼がへし折れ、機体は川海老のように腰を曲げていた。(ストラップ)は吹っ飛んで、操縦桿(アーム)と一緒くたにもつれて転がっていた。あれでは二度と空は飛べまい。

 ヴィヴラートは焼け付いた装甲にも構わずに、翼の残骸に指を滑らせた。ハンバックの主翼はしっかりと風を捉えただろう。重心のバランスもいい。腕のいい翼匠(シェイパー)が磨かなくてはこうはならぬ。

「St-55w……“スターリング”をベースにした改造機か。いい機体だ。せめて、これからきみの翼に安らかな死があらんことを」

 優しげにそう言ってから、ヴィヴラートは近くのぐちゃぐちゃになった草のなかに目を向けた。

「さて、君の方はまだ生きているんだな」

 それは驚きだった。あの速度で一命をとりとめるなんて奇跡そのものだ。けれど、たしかにそこには滑翔機乗りの五体満足な姿があった。飛行脂の甘い香りがわずかに漂っていた。

「なぜこんなことを?」

 滑翔機乗りはうめき、腕をいたわりながら上体を持ち上げた。腰の強いレト草はすぐに起き上がる。

「まるで死にたがっているようなことを。墜落するにしたって、もうすこしやり方があるだろうに。なんのための滑翔機(ライダー)なんだか分からないよ。君が殺さなければ、彼もまだ飛べたんだ、どこまでだって」

 滑翔機乗りは答えなかった。

 彼は……いや、彼女は黙って自分の身体を調べながらため息をついた。

 女だ。

 滑翔機乗りにはたしかに女が少なくない。迷信深い船乗りは女を災いの種として嫌うが、こと滑翔機(ライダー)についてだけは例外だった。『女のほうが風に近いのだ』と言われている。それがいったいどういう意味なのか、ヴィヴラートは知らなかったけれど。

「君は何者だい?」

 零すようにヴィヴラートが言ったその言葉に、彼女はそこでようやく我に返ったようだった。

 滑翔機乗りは飛行帽を外し、首元に溜まる脂肪を拭った。そのべたつく指で前髪をかきあげ、荒れた唇を親指でこする。腫れぼったいまぶたに、ヴィヴラートは瞬きをした。まるでさっきまで泣いていたみたいじゃないか。 

「ブリランテ」

 女は言った。子供っぽい顔つきだが、大して歳は変わらないのかもしれない。

「ブリランテ」

 彼女は再び言った。ヴィヴラートは首を傾げた。

「私の名前。ブリランテ」

「そう」

 ヴィヴラートはブリランテの腕を躊躇いがちに掴み、どうにか助け起こした。妙に軽い身体だった。麦色の髪が短く、無造作に切り揃えられている。

「それで、君は賊? 世捨て人? それとも哀れな遭難者かい?」

 ブリランテは眠たげな目つきでヴィヴラートを見返し、ぽつりと言った。

「違う。私は……」

 だが言葉は出てこなかった。

 ヴィヴラートはそれきり先を促したりはせず、ただ黙って彼女を丘の向こうへ引っ張っていった。

 

 

 

「傷は軽いよ」

 ヴィヴラートはアトルラーゼの葉を煮出した液で傷口を洗いながら言った。

 実際、不自然なほどの軽傷だった。擦り傷がいいところだ。骨も折れていないようだったし、打ち身はすぐに治る。それでもヴィヴラートはブリランテの瞳を覗き込み、出血がないことを確かめた。頭の怪我はたとえ軽傷に見えてもあとから悪化することがあるのだ。三、四日は気を抜けない。

「正直に言って、栄養失調のほうが深刻だ。いったい今までどこにいたんだい? 紛争地帯でも回っていたのかい? ろくに食べていないだろ」

 異様なほど痩せた手首の青い静脈を睨み、ヴィヴラートは言った。

 ブリランテは答えなかった。彼女と来たら、まるで沢にいるカウリ貝みたいだった。きっちりと唇を引き結んで、答えなくないことには答えない。それでいて、人間嫌いというわけでもないようだった。他愛のない会話には応えたし、笑顔だって見せることがあった。もっとも、それはどこか仮面のように作り物くさかった。

「カボチャのスープだ」

 ヴィヴラートの差し出した椀の中身を覗き込んで、ブリランテはそう言った。

「カボチャの畑があるの?」

「裏にね」

 ヴィヴラートは自分の食器を調えながら言った。

 夜は更けていたが、風が唸るばかりで空は透き通っていた。天気が崩れるかもしれぬというのは杞憂だったようだ。ヴィヴラートは畑の覆いを外し、窓の詰め物をしなくて良かったな、と思った。

「君はとにかく食べたほうがいい。傷を治すのにも食べ物がいる。今は蓄えがないけど、魚を獲ってくるから。普段は僕、菜食なんだ。健康ならそれでも保つんだけど……」

「それ」

 ブリランテは首を振って、ヴィヴラートの左手を指さした。

 指先から手の甲、手首にかけて、肌の色が変わっていた。黒ずんでいながら透き通ってもいる。石化しているのだ。よく見れば右手にも同じものがあったし、首筋、鎖骨、耳たぶにも黒曜石のようなガラス質の硬さがあった。

「ああ、これは違うよ」

 ヴィヴラートは諦めたように言った。

「これは、安静にしたり薬を飲んだりしても治らない。変わらない。切り落としてみたこともあったんだけどね、結局は、大して違いがなかった。このあたりはエーテルが濃い……君も長居しない方が良い」

 男はスープを啜った。

「風の中に交じるエーテルはどんどん濃くなってる。少しだけなら無害でも、ここは大地の端だからね。身体の隅から石化していくんだ、どうしてもね。でも遅かれ早かれだよ。内陸部の低濃度地域でもエーテル濃度は上がり続けているんだから」

「知っている」

 ブリランテは冷たく呟いた。

「でも、それなら、どうして貴方はここにいるの? 他の人達はもういないんでしょう? なぜ逃げ出さないの? 貴方だけが、どうして、いったい、なぜ……」

 ブリランテは尋ねた。だが、ヴィヴラートは答えなかった。

「もう遅いね」

 夜風が窓の外でうめき声を立てた。

「洗い物は水につけておいてくれ。もう眠る時間だよ。ああ、悪いけど寝室には入らないようにね」

 ヴィヴラートは言った。

「君は居間で寝るといい。すまないが、奥の部屋には妻がいてね。安静にしておかなくてはいけないんだ。感染るような病気じゃないから、そこは安心していいよ」

 そう言って扉を締めるヴィヴラートを見送ってから、ブリランテはしばらくぼうっと佇んでいたが、やがて飛行服の襟を緩め、灯りをふうっと吹き消した。

 そして、家の中は夜になった。

 

 

 明くる朝、まだ東の空が白み始めた頃、ヴィヴラートは早々と起きて納屋を漁っていた。ごとごとと音がする。それに混じって軽い足音がした。

「奥さんがいたのね」

 背後からブリランテが声を掛ける。

「ああ。ここは静かだろ。療養にはいいところさ」

 ヴィヴラートはそう言った。ブリランテはそれについてはなにも言わずに、ただその手の中にある大荷物の端を引っ張った。

「手伝うよ。傷の手当をしてもらったもの。それで、こんな朝から貴方はなにをするつもりなの?」

「別に朝でなくてもいいんだ。でも、夜明けは風が静かだし、それになんだか早起きが身に染み付いちゃってさ」

 古びた荷車を引っ張り出しながら、ヴィヴラートはそう言った。

 納屋の中に入っていたのは、銀でできたワイヤーと、幾本ものそれを通す穴を持った縫い針のようなものだった。ただし大きい。とてつもなく大きいのだ。

 ブリランテは驚嘆して呟いた。

大地錨(グランドアンカー)

「これを打ち込むのが僕の仕事なんだ」

 荷車にそれを苦労して載せると、二人はかわりばんこに荷車を引いて丘の上へ向かった。腰の強いレト草の穂先が頬を叩く。轍のあとは、あっという間に見えなくなってしまう。

「大地がこれ以上崩れないように、空に還らないように」

 ヴィヴラートは大きな錨の切っ先を地面に突き立て、ワイヤーを引っ張ると、その鈎になった先の所を岩に引っ掛けた。

「地の骨さ。この岩が崩れたら終りだね」

 たしかに、丘の断面から覗くそれは、紅い縞模様の骨だった。丘を支える岩盤なのだ。そのうえには肉のような土が覆いかぶさり、草原が萌え、樹木が根を張っていた。

 ブリランテの手を借りながらアンカーを張り終えると、ギシギシと銀色の綱が軋んだ。船みたいだな、とブリランテは思った。船の帆を支える綱だ。あるいはもっと直接的に錨綱(グランドライン)と呼んでもよかったのかもしれないけれど、そう呼ぶ気にはなぜかなれなかった。これは流れ行くものを繋ぎ止めているというより、カタチのないものを捕まえようとしているように思えたから。

 ヴィヴラートは新しい錨の前に立つと、黙祷するように顔を伏せた。

「さあ、“汝にこそ、平和と調停(コーディネイション)がありますように”」

 その祈祷の文言にブリランテは顔をしかめたが、やはり、なにも言わなかった。沈黙が金であると、彼女は知っていたのだから。

 

 一仕事を終えたふたりは、沢の水で汗を流すと、その軽装のまま水を追って内陸の方角へ進んでいった。時刻は正午に差し掛かるところだった。朝食に茂みのベリーを食べ、ブリランテは歩いた。ヴィヴラートは朝餉を摂らない習慣だった。出てきたのはウェルグルの葉を煮た、わずかに甘い林檎茶だけだった。

「もうちょっと行くと淵があって、魚がいるんだ」

 ヴィヴラートは竿を持っていなかったが、腰につけた魚籠(びく)を叩いてそう言った。

 白っぽい岩と、ひねこびた木々は、森や林というにはあまりにも痩せていた。木々の背丈はブリランテの頭から少し高い程度で、気をつけないと尖った枝で目を刺しただろう。

 視界が晴れたとき、ブリランテははっと思い出したように尋ねた。

「そういえば、ここはどこなのかしら」

 彼女は不時着者だ。だから知らなかった。ヴィヴラートも特に教えなかったのだ。ここが辺境のなかのどこなのか、彼女は知らなかった。

 ヴィヴラートは振り返らずに、静かな声で答えた。

「ハスロー(Hadthrow)の町だよ」

 

 そこには、捨てられた町が広がっていた。

 白い石造りの壁が立ち並び、四角いカタチが寄り集まっている。町の中央を貫くように黒い鋼鉄の軌道があり、風見鶏のような巨大な風車が中央にそびえていた。まだ動いているその3枚羽が、悲しげな唸り声を上げていた。

 誰もいない。動くものはただ、打ち捨てられた風車だけだった。人間がいない。誰ひとりいない。だが通りは整備され、町並みは立派だった。これは決して田舎の集落どころの規模ではない。

 ハスロー。

 ブリランテは頭の中で記憶の地図を広げた。南端の小さな町だ。たしかニューローズ州の州都ニューローズから、サウスヘンバーを抜け、東ベルストール市、さらに西ベルストール市を通り、はるか南へと向かう、葡萄酒街道の果て……

「風の町ハスロー。葡萄酒と狂想曲の町。どうして?」

「わかるだろう?」

 ヴィヴラートはそっぽを向いたまま言った。

「エーテルが濃くなり始めてから、いや、その前からずっと、人は内陸へと移民を繰り返してきた。今となっては、この町に住んでいる人なんか誰もいないんだよ。身体を石に変えられながら、それでもなお住み続けようだなんてありえないんだ。みんな恐ろしくて堪らないのさ」

「じゃあ、なんであなたはここにいるの?」

 ブリランテは尋ねた。

 沈黙は金、雄弁は銀。

 ヴィヴラートは答えずに、ただ、先に向かって歩き続けた。荒れた道には瓶の欠片や、鏡の破片、鋼鉄の錆びついたがらくたが転がっていた。

 川は水量を減らしていたが、まだ深みを保っていた。町の外縁に沿ってカーヴしているそれに足を突っ込み、彼は器用に魚を掬い上げた。

 竿などいらないのだった。魚たちは人間の脅威を忘れていた。淵に閃く背びれを目ざとく捕まえて、うまく手を突っ込んでやれば、ほら!

 

「――風が来る」

 それを見守っていたブリランテは突然、顔を上げて言った。ヴィヴラートも急いで川から上がって空を見上げた。

「強い風が!」

 雲が弾けた。

 低層雲が吹き飛ばされ、散り散りにちぎれ飛んだ。一瞬おくれで熱い風が吹き、大きな物が動く音がした。影がふたりのうえに落ちる。

 日差しを遮ったのは、無機質な巨体だった。

 ゴムか、樹脂か、あるいはガラスや金属のように見えた。だがそれには翼があり、萎えたような手脚があり、尖った鼻先が風を切り裂いていた。滑翔機(ライダー)のそれに似た虹色の反応光(エーテライト)が航跡を引いている。一体だけではない。何体も何体も、それらは歌うような雄叫びを上げながら旋回し、北へと向かって行った。

「竜だ」

 ヴィヴラートは呆然として呟いた。

「ばかな、竜が土の上を飛ぶなんて。大地の上に立ち入るだなんて」

中型(アール)があんなにも群れるはずがないのに」

 ブリランテはキッと南の空を睨んだ。

 エーテルに乗って飛び去った彼らの影は、もうとっくに見えなくなっていた。ブリランテはそれでも敵意を緩めなかった。その手が、懐に隠したなにかを取り出そうとするかのように動いた。

「竜。竜。竜め!」

 夏空はうつろだった。青すぎるそこには、もう何もなかった。風はいつのまにか止んでいた。雲が再び渦を巻き、復活しようと頑張っている。

「戻ろう」

 魚籠を携えたヴィヴラートが、静かにそう言った。 

 

 

 夏の長い日もいつかは暮れる。

 東の空から紫がかった夜が染み出してくるのを、窓越しにブリランテは見つめていた。ヴィヴラートは心ここにあらずといった風情で、スープをかき回していた。

「焦げてる」

 そう言われて、彼は初めて我に返ったようだった。

 ブリランテはふっくらと焼き上げた魚を皿に取りながら、ふと尋ねた。

「奥さんの分は作らないの?」

 ヴィヴラートは答えなかった。沈黙は金だからだ。

 納屋にある銀の錨はもう少ししかない。どうにかして新しいものを調達しないと。畑の種ももう僅かだ。水は足りているが、そういえば繕いものをするための糸が切れそうだったから、また町で取ってこなくては――

「――昼間の竜は」

 ヴィヴラートはスープをよそいながら口を開いた。カボチャとにんにくに、ハーブをたくさん入れた香り高いスープだった。

「ちょくちょく見ていたんだ、南の空に。こちらを伺っている様子だった。それでもまだ何百ドレスも、そう、何百ドレスも離れたところで旋回する程度だった。竜は空と風に属するものだ。大地の上を飛ぶなんてあるはずがないんだ。あるとしたら――」 

「土が弱ったんだよ」

 ブリランテは焼いた魚を齧っていた。その上身を歯で器用に外し、咀嚼して飲み込もうとしたところで、顔をしかめた。ふっと吐き出したものは、皿の上でてらてらと光る石ころだった。黒いガラスのような。

「彼らは斥候だよ。竜は群れるものだから、きっといずれ本隊が来る。小型(カウント)中型(アール)ならともかく、もし大型(マーキス)まで来るようなら、この土地はもう終りね」

 皿の上の石を見つめ、ブリランテは苦々しげに言った。

「竜は風そのもの。あいつらは吹いてくる風なんだよ。エーテルといっしょに、旧世界を押し流そうとする新しい風」

 ヴィヴラートは顔を上げ、不思議そうにブリランテを見つめた。相変わらず、彼女は同じ飛行服を来ていた。

「君は、何者なんだ?」

 初めの問を、ヴィヴラートは繰り返した。

「そうだ。君は南の空から来た。人類がいるはずのない空から来たんだ。君はどこから来て、どこへ行くつもりだったのか、教えてほしいな」

「貴方こそ、誰?」

 ブリランテはつっけんどんに返した。

「なぜこんな場所にいるの? 貴方には知識がある。教養もある。それは、都市の市民じゃなきゃ許可されてないもののなかでも、ひときわ高レベルだね。大きな街の生まれでしょう。そんな人が、こんな辺境の、危険濃度地域に暮らしているわけって、なに?」

「ああ」

 ヴィヴラートは喘ぐように息をついた。苦しげだった。

 溺れかけているみたいだ。

「僕は……かつて、僕は、嚮導師(コーディネイター)だった」

 ヴィヴラートは絞り出すように言った。

 

 ブリランテは凍りついた。

 息がうまくできない。ゆっくりとあたりを見回す。顔は動かせなかった。瞳だけで、左右を見る。

「元、だよ」

 ヴィヴラートは微笑んだ。あたりに秘密警察が潜んでいるなんて、そんな事はありえない。こんな辺境に軍人はいない。なにもない。

「そう、でも、かつては本当にそうだったんだ。いろんな事をした。軍に命令した。秘密警察を動かしていた。審問官(アスカ)たちはみな僕に従った。徒弟たち(アプレンティス)も。僕は、権力の絶頂にいたんだ」

 ヴィヴラートは昔を懐かしむように言った。その口調は次第に尊大で、厳しいものへと変わっていった。

「首都コーネリアスにいた頃、()は多くの人々を傷つけた。調停装置(オーバーライダー)でいくつもの記憶を書き換え、危険思想を統制し、洗脳し、よき市民を作り出すことが我が使命だった。それが人を救うことになると信じていた。いや、今でも信じている。たとえ自由と尊厳を奪うことになろうとも、それが必ずや平和と調停につながると、そう――」

「そのお偉い嚮導師(コーディネイター)さまが、なぜここにいる」

 ブリランテは敵意を剥き出しにして言った。だがヴィヴラートはそんなもの意に介さぬようすで、静かに言った。

「わからなくなったのだ。私が人々を救ったとして、それは本当に必要な行いなんだろうか? ()は何をしているのだろうか。救いだなんてそんなもの、人々は求めていないんじゃないだろうか、と。秘密と嘘、統制と抑圧、人間の記憶を書き換える技術。そこまでして守るべきものが、果たしてあるのだろうか、とね」

 ヴィヴラートは言った。

「今でも政治の中枢では、僕のかつての同僚がきっと尊い仕事をしているんだろう。人々を洗脳し、都合の悪いものは削除(デリート)し、そしてあの秘密を隠している。大いなる秘密を」

「私は知ってる」

 ブリランテは言った。

「私がどこから来たかって聞いたね。教えてあげる。私は、南に飛んでいったんだ。行けるところまで行ってみようと思って。ひょっとしたら、新天地が見つかるかもしれないと思って。――――そして見た。見えなくなった。知ったんだ。なにも知らないことを。あそこは、あの場所で、世界はぷっつりと――」

「ああ。そうか。君は、“事象の地平線(ワールド・エンド)”を見たんだね」

 ヴィヴラートは穏やかに言った。

「だからかい? あんな無茶な墜落をしたのは」

「そう。だって、あんな……無意味じゃない、世界の真実があんなものなのだとしたら。それを必死で隠してるんでしょ? 嚮導師(コーディネイター)たちは」

「ああ。人が絶望しないために。これは大いなる時間稼ぎなんだよ。だがいずれ滅ぶ。世界によって、人類は遠からず拒絶され尽くすだろう。それを知らないまま、人はあと何世紀かは生きられるかもしれない。避け得ない絶望なら、いっそ知らぬまま死んでいけることは、たしかに幸せなんだ」

 ヴィヴラートはそっけなく言った。

「もう寝よう。もう遅いからね。僕も、妻の世話をしなくては――」

 その言葉を聞くやいなや、ブリランテは突如として激昂したように立ち上がると、奥の寝室の扉に向かい、ヴィヴラートが止めるまもなくそれを開け放った。

 

 そこには、からっぽの寝台があった。

 二つ並べられたそれの片方には、ヴィヴラートの名が刻んであって、人が寝た形跡があった。そしてもう片方には、薄っすらとほこりが積もっていた。

 誰もいなかった。誰も、ヴィヴラートの妻なんて人間は誰もいなかったのだ。

「開けないでほしかったな」

 ヴィヴラートはそっと扉に近づき、ささやいた。

「起こしたらごめんね、フェルマータ。心配はいらないさ。ああ、何も心配はいらないんだ」

 ブリランテはなにも言わず、ヴィヴラートのほうは優しいため息をついた。

「貴方の奥さんとやらは?」

「言ったろ。病気なんだよ。でも、このあたりは空気が良い。排気ガスがない。きっとよくなるさ。そのうちよくなる」

 ヴィヴラートはからっぽの寝台を見つめながら言った。ブリランテはそれきり追求しなかった。代わりに、彼女は吐き捨てるように言った。

「……竜はどんどん押し寄せてくるよ。あいつらは、新しい生態系だから。高濃度エーテル環境では人間は生きられないよね。そこに住まえるのは、竜たちだけ」

「ああ。僕らはね、世界から捨てられた存在なんだよ」

 ヴィヴラートは熱を込めて言った。

「そうだろう? 有機生命の時代は終わろうとしているんだ。生命そのものがもう時代遅れなんだよ。生きることは罪だ。喰らわねば満たされぬ、犯さねば殖えられぬ。死と新生を繰り返す僕らには、どうしようもなく“死”が染み付いている。生きることは欲すること、欲することは変わっていくことだ。そのけがれた変転からの脱却が始まろうとしている」

 ヴィヴラートは石化の進んだ手を差し出した。

「生命は進化し、より良い方向へと変わっていくだろう。人の知恵も。だからそれこそが悪なんだよ。不完全なんだ。よりよく変わっていくってことは不完全だってことさ。不全こそが罪なんだよ。この石は変わらない。永遠に変わりはしない。完全だ。完成された善良として、終りも始まりも超えていくだろう!」

 ブリランテは悲しげにヴィヴラートを見つめた。

 

 そのとき、携帯無線機ががなりだした。

『――ということですから、市民の皆さん、落ち着いて行動して下さい。地図を確認し、必要な行動を取るときはためらわないで下さい。エーテル濃度は、南部ニューローズ州から――』

「始まりか」

 ヴィヴラートは外へ続く扉を開けた。

 

 日は沈みきろうとしていた。

 血のように紅い夕暮れが、西の空に色をにじませ、ぶち撒けている。風読み杖(フローチューナ)を掴み、よろよろと丘の上へ向かうヴィヴラートを、ブリランテは黙って追いかけていった。

 丈の高い草が揺れている。夏草が風を撫でている。

 あたりには緊張したざわめきのようなものが満ち満ちていた。ブリランテは小高い丘の稜線を睨み、その向こうの南の空から、無数の影が押し寄せてくるのを見て取った。それはきっと濃い、濃すぎるエーテルを引き連れているのに違いないのだった。

「このままここにいたら貴方は死ぬよ」

 ブリランテは言った。

「その石化はぐんぐん進む。もうすでに、昨日より進んでいるでしょう。目に見えるような速度になったら、完全に石になるまで時間はいらない。ましてや、あの高濃度エーテル――」

「違う違う。死じゃない。死は骨や肉だ。土だもの」

 ヴィヴラートは丘の上にたち、老木を撫ぜて首をふった。この大樹はいつだって彼を見守ってくれていた。古い友人に挨拶をするように、ヴィヴラートは首を振った。

「死は生命だ。そんな忌まわしいものから、僕は脱却するんだ。死を失うんだよ。土でも骨でもなく、ただエーテルの風の中の石となって、僕らは完全になるんだ。意思こそが世界を変える力なんだから、それを捨てれば僕は石になれる」

 竜たちはもうその輪郭を見て取れるところまで近づいていた。虹色にきらめく反応光がちかちかと明滅し、彼らは渾然一体の光の波となって、大地を征服しようと迫っていた。

「ほら、君も」

 差し出された石の手を、ブリランテは振り払った。

 

「私は貴方を蔑まない」

 ブリランテは言った。

「きっと、来たる滅びを直視するそれは強さだから。でも、私はあなたと一緒に行けない。私は愛しているから。生命を。悪と混沌とを」

「だが、そこには完全な平和と調停(コーディネイション)はない」

「そうだね。でも悲しいもの。生きたいと願って何が悪いの? 土を、水を、空を愛しているから。それを繋ぎ止めたいと思って何が悪いの?」

「それは錯覚だよ。肉の身体に入っている僕らの錯覚だ。僕らの心はそこにはない。僕らの本質はそこにはない」

「理性が好きなんだね。でも、あなたの肉だって、骨だって、あなたの一部だろうに!」

 ブリランテは叫んだ。

 ヴィヴラートは半分ほどまで石になった顔で、言った。

「君は美しい」

 それは陳腐な口説き文句なんかではなかった。壊れ果てた滑翔機に目をやって、ヴィヴラートは続けた。

「君には翼がある。空を飛んでいける。それは自由だ。美しい自由だ。くびきのない場所で、どこまででも行けるのだから」

 ブリランテは唇の端をつっと歪めた。

「空が自由だなんて、使い古されたレトリックだよ。翼がなくちゃ、どこへも行けやしないんだから。空は残酷なんだ。土のように人を支えず、水のように包み込むこともしない。簡単に、翻弄して墜落させるだけじゃない!」

「だが、空は公平だ。いわれなく翼をもぐことはしない。この空の真ん中で、君はたしかに自由なんだろうに」

 大地を繋ぎ止める銀の楔が、エーテルに煽られて悲鳴を上げた。

「僕は多くの人の意思を歪めた。これは救いなんだ。心に意味がないなら。

 神は死んだんだよ。僕らが殺したんだ。君はあの、事象の地平線の外側で、その骸を見つけたはずだ」

「だとしても、私は最後の瞬間まで足掻くと決めてるの。人類が滅ぶとしてもね」

 ブリランテは言った。

 その体は全くもって石化なんかしていなかった。それを興味深げに見つめるヴィヴラートは、もう動けなくなっていた。頭上では、竜の第一陣が風を通り抜けていくところだった。

 歓喜の歌を歌っている。風切り音と、虹色のひかりが絡み合っている。

「竜が大地に到達した。今は南端だけでも、いずれ彼らは大地のすべてを飲み込むだろう。旧世界の滅びは着実に始まっている。エーテルは濃く、甘くなり、人はいずれみな石になる。静謐で、完成された世界だ」

 ヴィヴラートは呟いた。震え声で。

「どうしてかな。なぜか怖いんだ。喜ばしいことのはずなのに。僕はなにがしたかったんだろう? それがわからなくなってしまっていた。わからなくなってしまったら、もうだめなんだよ。我を忘れてしまっているんだから。僕が僕じゃなくなってしまうのだから」

「そう」

 ブリランテは冷たく言った。

「そうだね。人間ってそんなに単純じゃないよね。自分に嘘だってつける。矛盾もする」

「それは不全だ。悪だ」

 そう言ったヴィヴラートに、ブリランテは笑ってみせた。

 

「いいじゃない、悪でも」

 

 ヴィヴラートは完全に石になっていたが、まだその色の薄い瞳と、唇だけはどうにか動くようだった。

「そのうち、会いに来てくれる?」

 途切れ途切れのその言葉に、ブリランテは素っ気なく答えた。

「そのうちね」

「なら、いいさ」

 ヴィヴラートは砂地に石ころを置くように、静かに呟いた。

 

「じゃあ、この、夏草の揺れる丘で」

 

 そして、その肉体は完全に石化した。

 そこには意思の揺らぎ、生命の熱はもうどこにもなかった。完成された静けさと、決して壊れない冷たさだけがヴィヴラートの形になって屹立していた。

 竜たちはどんどん増えていた。空を覆い尽くし、北方へと宛のない旅を開始している。エーテルが希薄すぎるのだろう、何頭かは力を失って墜落を始めていた。それが死ではないことを、ブリランテは知っていた。竜が死と生命を超克していることを知っていた。彼女は世界の果てを見てきた旅人なのだから。

 

 ブリランテはむせ返るようなエーテルのなかで、飛行服の襟を広げ、口いっぱいにそれを吸い込んだ。

 右手が懐から白いものを取り出した。

 それは仮面だった。骨のような材質の、純白の仮面だった。人間の顔をかたどった仮面だ。

 身を捩るように、叫びだしそうに、咽び泣いているように、どうしようもない悲嘆の表情を浮かべたそれを、そっとブリランテは自らの顔にあてがった。

 薄青色の雲が、積乱雲のように溢れ出した。

 

 それが薄れて消え去ったとき、そこにあったのは、女の、ブリランテの姿ではなく――――ただ、一頭の巨大な竜が、石になった男の前で頭を垂れていたのだった。

 コバルト・ブルーの竜は高らかに歌声を上げた。

 その翼がエーテルを捉え、虹色のひかりを放つと、次の瞬間にはもう、荒れ狂う竜たちの群れを貫いて、ブリランテだった竜の姿は見えなくなってしまっていた。

 

 

 ◆◆◆


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