という設定の、劇中書物型小説です。
※注意※
・原作設定と、オリジナル設定が渾然一体としています。
・架空の学術書という体裁の小説です。この学術書の著者は、『ハリー・ポッター』読者としての視点は有していません。魔法界に生き、彼の知り得る限りの知識を動員しています。
・「どこからどこまでがお前の創作なんだ」とお思いの方は、ご質問ください。
『イギリス魔法界における政治思想の種類』は、1958年に刊行された『政治論入門』を一部修正した上で、主に近代的政治制度と魔法族が言うところの拡張主義に関する論稿集を加えた書物として、1961年にロンドンで出版された。その目的は、魔法族の学生に対して、有史以来魔法族のコミュニティにおいて生まれた種々の政治思想の概要を簡単に伝えることであったが、出版社側で相次いだ事故と、そもそもの需要の少なさから、発行部数は限られていた。80年代に入り魔法界の社会情勢が安定し、近代科学文明に関する研究が盛んになるに連れて、後半の論稿集が一部注目を集めることとなり、以後のいわゆる「中興期」におよそ2000部が刷られたようである。1997年に政変が起こると、本書は魔法省指定有害図書第3号に認定され、イギリス国内に存在するすべてが焚書の憂き目に遭ったとされてきたが、魔法省庁舎と、魔法族の高等教育機関であったホグワーツ魔法魔術学校の蔵書に、それぞれ一部ずつ残っていたことが明らかとなった。
本書の思想は、第二次世界大戦後のヨーロッパ魔法界で成功した大陸知識人派に属し、その点で純イギリス的でも、純魔法族的でもない。魔法族血統主義(いわゆる純血主義)と、拡張主義に対する過剰とも言えるほどの厳しい目線は、ここに由来すると見て間違いないであろう。
1961年刊行の書籍より、以下に第一章を引用する。この章は、1997年に有害図書認定の最大の根拠とされた部分である。なお、本来章末に参考文献一覧が記載されていたが、そのほとんどが現存しないため、今回は割愛する。
第一章 政治思想としての純血主義
本書を最初から順序立ててお読みになられている読者諸君は、第一章の題材として私が選んだものが純血主義であることに疑問を持たれるかも知れない。私が序説において示した本書の目的、すなわち「イギリス魔法界の連綿と続く歴史の中で、浮かんでは消え、消えては浮かんできた政治的思想を、全くの初心者でも理解できるよう易しく解説してゆく」という目的に相反するとお思いになるかも知れない。
実際に、本書の構想を同僚たちに明かし率直な意見を求めたところ、以下のような二つの「反論」をいただいた。
まず一つは、高名な純血家系出身の方によるものである。その方は「純血主義とは、政治などといった俗世間に関わるものでは決してなく、ただ永久不変の真実に基づいた“正論”に他ならない」と仰った。
そしてもう一つは、半純血の方によるもので、曰く「純血主義とは、政治思想などといった高邁な代物では決してなく、ただ低俗で無意味な差別的言動に過ぎない」とのことである。
面白いことに、両者は政治という概念一つとっても、全く異なる価値基準をお持ちである。政治参画の方向性の差故であろう。もし読者諸君がこれら二つのどちらかの理由か、もしくは全く異なる理由によって、「純血主義は政治思想ではない」という意見をお持ちならば、私の最初にするべき仕事は、その考えはまるで見当違いだと否定することに尽きる。
私は断言する。純血主義とは政治思想である。さらに言えば、純血主義とは、貴族政を存続させるために編み出された政治的レトリックの一種である。
さて、まず第一に私の結論を理解していただいたわけだが、これでは議論の入り口に達しただけである。先述の通り、本書は政治思想を比較検討することを追求課題としているのだから。
一体、純血主義とはいついかなる道程を経て登場し、どのような主張を掲げ、どのような性格を有したものなのであろうか? 本章ではそのことについて詳しく紐解いてゆこうと思う。
今日純血主義は、純血家系がその他の家系──特にマグル出身者──に対して優越するという主張として理解されている。この、黴の生えたような古臭い思想の是非について、今更議論する必要はないだろう。良識ある読者諸君は既に、マグル生まれの魔法使いが七歳までに箒を乗りこなすことができるかどうかを確かめる手段が存在しないことは、重々理解されているはずである。実際、純血主義にはその根本的主張の中にも、実践的行動においても、無数の誤謬・欺瞞・意図的な議論の回避(“論理なるものはマグルかぶれの悪癖だ”云々)が含まれており、論理的精査の目には全く耐えられない根拠薄弱の主張であると言える。魔法族一般に認められる論理軽視の性格が、この傾向を強めていることは否定できない。
しかし、本章はそのような矛盾をいちいち指摘することは目指していないので、これについて詳しく知りたい方には、参考文献として挙げさせて頂いた、先人たちの偉大な研究書をご一読願いたい。
本書の目的に戻り、まず純血主義の歴史について検討してゆこう。幸い、後の章で扱うことになる色々の思想とは異なり、これの成り立ちは確認されている部分が多く、特に成立時期についてはある程度厳密に規定できる。私の調べた限りにおいて、その時期とは国際魔法機密保持法制定前後から魔法省設立まで、つまり十七世紀末期から十八世紀初頭の間である。
このように書くと、賢明なる読者諸君の次のような反論は当然予想される。純血主義は今述べた時期以前にも存在したはずだ、なにより史上最も有名な純血主義者はサラザール・スリザリンではないか、と。
これは至極もっともな指摘と言う他あるまい。事実、国際魔法機密保持法の制定以前から、マグルに対する蔑視の目というのはあったわけだし、だからこそ二十世紀も半ばを迎えてなお、いわゆる純血家系というものが──家系図にところどころ不可解な欠落があるにせよ──現存しているわけである。
ただ、繰り返しになるが、純血主義──すなわち政治的レトリックとしての純血崇拝及びマグル蔑視は、国際魔法機密保持法以前は存在していなかった。それ以前に存在したのは、あくまで単なるマグルあるいはマグル生まれ嫌いである。前者と後者は峻別されて然るべきなのだ。
なぜなら、純血主義の根幹部分に位置する最も重大な要素とは、純血魔法族の他に対する“能力的優越”だからである。純血主義以前のマグル蔑視は、この魔法族-マグル間の能力的差という概念は包含しているものの、純血魔法族-非純血魔法族間の能力的差という概念に関しては全く欠いている。
たとえば、最も高名な純血主義者であるサラザール・スリザリンについて。当時の詳しい事情を書き記した資料は十分現存しているとは言い難く、一体彼がどのような政治的思想を有していたのかは常に議論されていることなのだが、少なくともはっきりしている事実は、彼がマグル生まれを大変嫌っていたということだけである。
また現在我々が調査できる資料によれば、スリザリンが生きた時代のイギリス魔法界において血統差別はあまり普遍的な主張とは言えず、むしろマグル生まれの魔法使いは優れた能力を有していたと見做されていたようである。であるならば、スリザリンがマグル生まれをホグワーツから排除しようとした理由が、能力的不足であったとは考えにくい。
その上、どうもスリザリンは最初からマグル生まれ嫌いを公言していたわけではなさそうだ。スリザリンがある期間その他の創設者とともにホグワーツで教鞭をとっていたことは歴史が物語っている。グリフィンドールとの決別の時期から考えても、スリザリンが思想の転換を経験していたと仮定することに無理はない。
スリザリンが受け持ったマグル生まれの学生の中に、とんでもない出来損ないがうじゃうじゃいたなどということがない限り、この思想の変遷の原因はマグル生まれの能力不足ではない*1。
その後も長らく、やはりマグル生まれの能力というのはほとんど問題にならなかった。
もちろん、当時から純血家系を維持しようと多大な努力をしてきた家の者たちは、マグル生まれをある意味「穢れた血」と見做していただろう。しかしそれは、あくまで「高貴なる血」と「卑しい血」の区別であって、能力的区別ではない。分かりやすく例えるならば、どれほど有能であったとしても、屋敷しもべ妖精と自分の息子あるいは娘を結婚させようという親はいない、という類のものであった。
当時のイギリス魔法界は、マグル社会と渾然一体であった。国王の抱える側近には多かれ少なかれ魔法使いが含まれていたし、市井の人々は近所に暮らす魔法使いを親切で役にたつ隣人と考えていた。マグル生まれの魔法使いも、この複雑で曖昧なコミュニティに、全く違和感なく溶け込んでいたのだ。
状況が一変するのは、繰り返しになるが、国際魔法機密保持法の制定及び、それに伴う魔法省設立である。この歴史の流れは、読者諸君においても重々承知であると思うが、今後の議論の要点を明快なものにするため、軽く説明しよう。
国際魔法機密保持法は、1689年に成立し、1692年に施行された国際的な法律である。ここに至るまでのマグル社会──前述の通り、この表現は実のところ適切ではない──は相当な激動の中にあって、例えば悪名高き魔女狩りが隆盛を極めていた。また、マグルの体制はそれまでの緩やかな統治から、より強力な王権が確立される過渡期にあったが、この際誕生する「国境」というものは、必ずしも魔法使いの利害と一致していなかった*2。これらの要素のために徐々に拡大しつつあった魔法族とマグルとの溝は、国際魔法機密保持法により決定的となり、両者の社会は完全に分裂することになる。
そこで問題になったのが、ここに初めて誕生した「魔法界」がその規模に見合うだけの統治機構を保有していなかったことである。それまでの魔法族は、前述の通りマグルとほぼ共生していた。マグルの王は同時に魔法族の王でもあり*3、政治もまた合同で行われていた。従って、通常魔法省の前身組織として扱われる魔法使い評議会は、魔法族に特有の問題や政策のみを議題としていたので、その役割は魔法に関わる諸々の出来事への対応と、魔法族間の外交に留まっていた。評議会の権力の限定性の証左としては、彼らの発したスポーツへの規制が、度々守られなかったことを挙げられるだろう。
このように職務範囲が極めて狭い組織に対して、大多数の魔法使いがあまり関心を寄せなかったのも無理はない。そのため、魔法使い評議会のメンバーは設立当初からあまり変化がなく、そのメンバーたちは小さいとはいえ権力を独占していたのである。これはいわゆる貴族政の一形態であった。古くから存在していた家系は、自然魔法使い評議会の名簿に名を連ねている。彼らはその能力ではなく、血筋によって選任されていた。そして一般の魔法使いたちにとって評議会は、日常生活の大部分となんら関係がなく、そして貴族たちによる独占も、それがほとんど不利益にならないが故に、彼らは素朴な敬意に立脚した権威を有していた。
しかし、魔法族が己の全てについて自治を行う必要が出てくれば事態は一変する。「魔法界」を維持するにたるだけの統治機構として期待された魔法省は、当然その職務範囲も魔法使い評議会とは比べものにならないほど拡大した。それまで自分たちにはほとんど関係のない些事を議論していた魔法使い評議会が、たちまち生活全体に影響を及ぼす巨大な組織に変貌してしまったのである。魔法使いたちは否応なしに政治を意識するようになり、魔法省の、特に高い役職につく人物には、相応の能力を求めた。その最たるものが魔法大臣であり、だからこそこの席には選挙によって定められた人物が座るのである。
この一大情勢変化において、それまで高い地位を占有してきた純血家系の魔法使いたちは、今や「血筋」ではその地位の高さを十分に説明できないという現実に直面した。両親も、その両親も、そのまた両親も杖を持っていたというだけでは、権威は維持できない*4と気づいたのだ。
彼らに残された道は一つだった。それまで「高貴であるがゆえに高貴である」としてきた純血という血統に、別の意味を持たせることである。すなわち、純血は「有能であるがゆえに高貴である」──ここに史上初めて、マグルの血に対する「生理的嫌悪」とは別に、純血家系がその権威を──あるいは権力を──保有し続けるための政治的レトリックとして、純血は非純血よりも能力が高いという神話、純血主義が誕生した。
このような変化の過程を裏付ける証拠に、ブルータス・マルフォイが1675年に執筆した文章がある。氏はマグルに対しての蔑視を隠そうとしない人物で、反マグル雑誌の編集長すら務めていたが、マグル好きの魔法使いについて以下のように述べた。
『これだけは確実に言える。マグル社会に愛着を持つ魔法使いは、知性に欠け、魔法力が哀れなほど貧弱であるがために、マグルという豚どもの中でしか優越感を感じることができない』
これは、マグルが好きか否かという道徳的問題を、能力の差という全く別次元の問題に接続した最初期の言説である。氏の主張は、まず「マグルは劣っていて卑しい」という見事に差別的な前提から出発する。高貴であり能力のある魔法使いならば、そのような者どもと付き合う必要はない。もしそのようなことをするのならば、それはその者が全く同様に無能で卑しいからである*5──このように議論が展開する。
つまり、「無能であるがゆえに卑賎である」という論法であり、これは裏を返せば「有能であるがゆえに高貴である」となる。氏は、伝統的に自らの家の地位を保障してきたテーゼが機能不全に陥っていることを敏感に察していた。そして、旧来のそれに代わる新たなテーゼを編み出す必要に駆られ、純血家系の優秀なることを能力主義的側面から擁護しようと試みたのである。氏の生み出したいわゆる「能力テーゼ」は、以後も純血主義者たちのイデオロギーを支える論理として重宝され続けた。
例えば、十八世紀初頭に書かれた“研究書”なるものは、自分の子供が純血か否かを判断する指標を提示した(個人的な見解としては、家系図以外に、純血であることを証明し得る客観的根拠および特徴が存在するという考え自体が甚だ疑わしい)。その中には、本章の最初の方で触れた七歳以下で箒に乗り始めることや、三歳までに魔法を使うこと、さらには傑出した身体的魅力なるものまである(私はお世辞にも美しいとは形容し難い純血魔法使いをいくらか知っている──誰とは言わないが)。これは明らかに、純血か否かを能力の差で判断しようとしている。
流石に現在では、このような指標を得意げに振り回す魔法使いは相当珍しいが、しかし多くの純血主義者が、その頭蓋骨の下に同様の発想をしまい込んでいることは確かだろう。
ちなみに、今参考にした“研究書”なるものは極めて程度の低い代物なので、わざわざ古書店や図書館に足を運び、私の記述が正確かどうかを確かめるようなことはおすすめしかねる。そんなことをするくらいなら、レタス食い虫を薬を使わずにピンセットで除去することに専念する方が、まだ有意義というものだ。実際のところ、この本は“研究書”などではなく、純血主義を広めるための悪質な宣伝本と見做すのが正しい。サラザール・スリザリンの“著書”を“引用”し“解釈”した部分などは、現存する極めて少量の文書から、よくもまあこれほど多くの勘違いができたものだと感心したほどであった。
しかし、この神話には重大な欠点が存在する。
純血主義誕生以前は、純血血統の高貴性を否定することは、事実上不可能だった。なぜなら、「高貴であるがゆえに高貴である」というのは、論理としての体裁を成しておらず、どれだけ好意的に表現するにしても循環的主張である。そのせいで、我々はそれが正しいと証明できないと同時に、間違っているとも証明できないのである。
一方で「有能であるがゆえに高貴である」という論法は、純血血統の高貴性を検証可能な次元にまで引き摺り下ろしてしまった。もし適切な調査が十分に為されれば、この神話は論理的には否定され得る。たとえば、純血家系の魔法使いとマグル生まれの魔法使いを、非常に似た条件下で生育し、ある程度の年齢に達した段階で魔法能力の試験を行えば良い。
そのため、論理的には検証可能な神話を、検証不可能なものにする純血貴族たちの努力には涙ぐましいものがある。先述の試験を実際に行うには、「同じ環境で育ち、同じ程度の教育を受けた」という前提条件が絶対に必要だが、これは達成困難だ。魔法省に属する純血魔法族たちは、ホグワーツ就学以前のマグル生まれに早期教育を施すという計画を延々と妨害し続けている。そのせいで、マグル生まれの幼い魔法使いたちが、自分の体から迸る未知の力に翻弄され、親や教師といった周囲のマグルたちにはまるで対処方法がわからないという環境で育つ中、純血の家に生まれた子供たちは恵まれた教育を受け知識を十全に身につけることができるという、受け入れ難い不公平が公然と繰り広げられている。
さらに言えば、この不公平はホグワーツに入学後も往々にして解消されない。ホグワーツの理事たちは
先に述べた“研究書”なるものが主張する指標が現在廃れ──良識ある人にとっては、過去の純血主義者の蒙昧さ加減を揶揄する笑い話に成り果てたのも、検証を不可能にする努力がその理由の一端である。かの愛すべき著者自身は良い考えだと思ったに違いないが、彼より多少は頭が回る読者たちは、自分の不出来な子供を見てこう考えたのだろう。
「絶対に家系図を失くしてはいけない、でなければ我が息子は非純血になってしまう!」
そもそも──ここから先は半分冗談だが──ホグワーツ、そして魔法界に蔓延する論理軽視の態度自体、巧妙な計画のもと仕組まれている可能性すらあり得る。実践的魔法訓練とはなるほど聞こえが良いが、ヌルメンガードからの脱獄囚がブリテン島に潜伏しているならばともかく、この平穏の時代に現場主義一辺倒の教育を容認しても良いのだろうか。魔法史に至っては──これに関しては教師の問題がやや複雑だが──ただただ知識の羅列を脳に焼き付けるのみで、一切の思考も必要としない。そして、この苦行はホグワーツ理事のお歴々にとっても共通の体験だろうに、誰一人として校長へ是正の勧告を行わない。
しかし、彼らの必死の延命工作も、未来永劫その効果を発揮するとは思えない。近年になって、マグル生まれまたは半純血の魔法使いの中に、かなりの傑物が次々生まれているからだ(実際には昔から相当数いたのだろうが、社会的制約による出世の困難や「実は彼も純血だ」との言説が、真実を覆い隠していたのだと思われる)。
純血主義者の面々は新聞をも操り必死に否定しているが、私の知る限りでは、ノビー・リーチがマグル生まれ初の魔法大臣として選出されることはほぼ確実の情勢となっている。
そして、半純血のアルバス・ダンブルドアについては、どんなに強硬な純血主義者でも「私の方が優れている」などとは口が裂けても言えないだろう。私も一度お茶の席をともにしたことがあるが、彼は史上最高の魔法使いであり、史上最高の学者であると声を大にして断言できる。
これ以外にも、非純血魔法族の活躍は華々しいものがある。全く情けないほどゆったりとした足取りで進んでいた教育上の不平等是正政策が、功を奏し始めたようだ。純血主義は近い将来にも、列をなす生きた反証の前に完全な敗北を喫することになるだろう*6。